「……怖がらなくてもいい」
チェシーのくちびるが、喉元に触れたままささやく。
――やめ……やめてって……ばかばかばかうぎゃああああっ……!
頭の中がぐちゃぐちゃだ。何が何やら分からない。かくなる上は、正体がばれようがその後どうなろうがかまやしない、そばの花瓶の口を掴んで思い切り頭からぶん殴って蹴っ飛ばしてしかるのち渾身の力を込め《デス・トルネード》と《地獄門》三連発をぶちかましけちょんけちょんのまっ黒こげにしてチェシーという存在そのものをこの世界から滅殺するしか――!
半ばやけくそで心に思い決め、ぜえぜえと大きくあえぐなり胸に息を吸い込んで、あわや怒鳴りつけようとした、そのとき。
「かつての私を、皆が何と呼んでいたかご存じですか」
チェシーの声が、ふいにぞくりと耳たぶをかすめた。
のぼせきっていた怒りが、一気に凍りつく。
はりつめた糸が切れたかのようだった。胸のなかの悲鳴が途切れ、ニコルは呆然とチェシーを見上げる。
「ぞ、存じません……」
「ゾディアックの悪魔。そう呼ばれていました」
見交わした瞳にうかんだ自嘲気味の微笑が、ふつりと途切れた。
「血塗られた名です。本来なら明日をも知れぬ身、亡命など許されるわけもなく、逆にいつ処刑されてもおかしくない。そんな私を信じ、受け入れてくれたのはほかでもない貴女の兄上だけだった」
チェシーは淡々と、まるで人ごとのように続ける。
「だから、彼のためならば喜んでこの腕を振るおう、かつての祖国に牙を剥く残忍な悪魔にもなろうと誓った。でも、それは哀れな間違い、愚かすぎる過ちだった」
腕を取られ、頬をすり寄せられ、まるで掌にのせてもてあそぶかのように身体のあちこちに触れそそられて。
「サ、サリスヴァール……さま……」
吐息がかかるほどに。
そうしながら微笑んでいる。どこかさびしげな、遠くを見つめているような、そんな眼で。
――嘘、やだ、どうして動けな……!
「貴女はまるで……そう、ちいさな春の花。凍てつく私の心をまるで春の訪れのように溶かす……ふしぎなひとだ」
もつれ、乱れた髪の束をくるくると指先にあそばせながら、チェシーはニコルの濡れた眼をのぞき込んだ。
「貴女に出会って、私は変わる。残忍な悪魔は姿を消し、代わりに――愛という名の堕天使が私の心を支配する。名も知らぬ一輪の花に恋焦がれ、忍ぶ想いを秘め隠すこともできず、苦しみの果てに手折ってしまう、哀れな牧童。それが今の私だ」
片手で頬を撫でられ、首すじをたどられ、耳朶を甘噛みされ――
身体がふるえ、息がみだれて。
声が、声が出ない。
こんなバレバレのどうしようもない三文芝居以下のわざとらしい口説き文句、分かり切った嘘に。
これこそいつものチェシーそのものだ。蛇蝎。狼。女殺しの悪魔。
嘘ばっかり言って、女を口説くことばかり頭にあって、そうかと思えば人の顔を見れば悪口ばっかり言って。なのに、どうして――女だったら誰でもいいくせに。どうしてそんな、心まで吸い込まれてしまいそうな……ちがう、そんなわけあるかきききき気のせいに決まってる……!
「い、嫌……だめ……」
「美を競い咲き乱れる大輪の薔薇より、気高く愛らしい一輪の野ばらを」
指先で軽々とあごを持ち上げられ、虜にする目で見つめられ、腰に腕を回されて。
「愛しています、レイディ。貴女だけを」
熱い欲望を込めたささやき。
チェシーの吐息が、どきどきと今にも破れそうなニコルの胸元をまさぐる。
「私の中に住む堕天使が貴女の可憐な微笑みを涙に変えてしまう前に、罪深き我がこの思いを、どうか、一言、許すと」
「……ゃっ……」
ぞくぞくとふるえ、背筋がこわばって。
涙がぽろぽろこぼれる。なのに手も足も棒のようになって動かない。
ニコルは必死で顔をそむけて、ぎゅっ、と眼を瞑り、くちびるを拒絶のかたちに噛みしめた。見たくない。聞きたくない。こんなチェシーなんて――
どうせ本気じゃない。誰に対しても同じ、そんな優しい声を掛けて、甘い顔をして、相手の気持ちなんてまるで見ていない。目の前にいない人を追いかけて、手に入れるためだけに心にもない嘘を並べて。
――いやだ……嫌……こんな、こんなの……!
ふと気がつくと、頬をつたう涙ごとチェシーの手に包み込まれていて――
「……泣かれると、つらいな」
ゆっくりと撫でられる。くちびるに指先が触れた。それだけで体の奥底が電気に当たったみたいにびくっとふるえる。
「ゃ……っ」
ニコルは息をすすり込んだ。
「は、離して」
チェシーは微苦笑をつくり、横にかぶりを振った。眼の奥があやうい色に光っている。
「いやだと言ったら」
「あ、貴方を」
声が裏返った。思わず気持ちが口をついて出る。
「き、き、嫌いになります……」
……チェシーがにやりと笑った、ような気がした。
「う゛」
ぎょっとして青ざめる。
「ちっ、ちがーう!」
猛然と両手で頭を抱え、かつらも吹っ飛べとばかりにぶんぶん振り回す。
「か、かっ、勘違いですそんなそんなそんなことあるわけ……!」
「語るに落ちたな、レイディ」
ハンカチを差し出しながらチェシーは皮肉った。
「どちらにしろ光栄だ。嬉しいよ」
ニコルは一瞬、脳裏一面に広がる黄金の花畑で泣きぬれつつ虹色のチョウチョとたわむる幻影に逃避しかけて、はっと我に返るなりじたばたとチェシーの元から逃げだそうとした。
「なななな何のことやら」
あっちに逃げこっちに逃げようとしてできず、ひゃああ、と頭を抱える。
「隠しごとは体に良くないな」
「な、な……何も隠してなんか……」
ニコルは差し出されたハンカチをひったくり、ぐしゅぐしゅ鼻を鳴らしながら恨めしげにチェシーを睨み付けた。
「悪いようにはしないから」
チェシーは口の端をつり上げてニコルの視線を払いのけた。
「正直に言ってごらん」
そのさりげない仕草の恐ろしいこと恐ろしいこと、まさに悪鬼の如き憫笑……である。
「ち、ち、ちちちちちがっ」
あまりのことに声が裏返り、しゃっくりのようにひきつれては吸い込まれる。
「困ったな。あんまり頑なな態度を取るようだと」
チェシーの手が、首筋、肩とすべり、ついには通り越して、ふるえる背中をつつ、と下っていく。
「や……やめ……お、お願い……」
全身に鳥肌が立ち、声がうわずった。
チェシーは締め上げたローブの上衣を止める紐に指を絡め、少しずつ意地悪に引っ張りながら、狼のようにささやいた。
「……もっと嫌いにさせてしまうよ……?」
――っ★%あぶgy・#@ーーーがーーー(意味不明)!!
「ば、ば、ばかぁっ!」
もう、やけくそだった。
「さ、さ、さっきから人の気も知らないでひどいことばかり言って!」
ニコルは今まで積もりに積もった思いの丈を怒濤の如く一気に吐き出した。両手をボカスカ大車輪に回してチェシーに殴りかかり、泣きながらゲシュタルト崩壊状態で喚き散らす。
「わたくしが何も知らないとでもお思いですか。ご自分の胸に手を当てて思い返してごらんなさいな。貴方のなさることなんていったい誰が」
誰が信じるものか、と言おうとして。
「……ぁ……」
ニコルは大きく息を吸い止めてチェシーを見上げる。声が出ない。
そんなこと言える資格がどこにあるというのだろう。嘘をついているのは――女の身で男装の罪を犯し暗黒の《カード》を使い聖ローゼンクロイツの教えにまでそむいている――自分の方なのに。
そのとき、ふいに。
「んもうまったくさっきのボーイさん、どの部屋って言ったかしら、ええと、ここ?」
突然の声にぎょっとする間もなく。
ばたりといきなり予告もなくドアが開いてほんのり甘ったるいヨッパライの薫りが流れ込んだ、かと思うと、衣ずれの音も華やかにレディ・アーテュラスがほろ酔い加減のしたり顔をひょいと覗かせた。
「うふふふ見ぃつけた! こんなところで何し……て……」
とろんとご機嫌だった眼が、茫然自失、したかと思うとみるみる驚愕に見開かれていく。
「……えええええ?」
さもありなん、である。傍から見ればニコルは思い切りチェシーの腕の中。頬は涙に濡れ、今にも泣き出しそうな顔で半ば押し倒されていて、そのうえ手袋は床に脱がされ、背中のリボンも半分以上しどけなくほどかれていて――
「こっ、これはどうもレディ・アーテュラス」
さすがのチェシーも顔を引きつらせるなりニコルを押しやって襟を正し、汗をぬぐって後ずさった。
「まだ、その、何も」
「何もって」
レディ・アーテュラスはまだ驚きの冷めやらぬ棒読み口調でゆっくりと繰り返す。
「何が、何も――なのかしら」
「いや、こ、こ、これはあの違うんです母さま」
ニコルもようやく我に返り、硬直した真っ青な顔で弁明しはじめた。
「つ、つまりそのわたくしがそのええとちょっと熱がまたじゃなくってその、出、出そうになりましたものでそれで休んでいけばいいってチェシーさんが仰有るものですからそれでだからつまりっ」
「ニコラさん」
レディ・アーテュラスはすばやく扇子を振ってニコルのたわごとを遮った。花の香に似た笑みをふわりとうかべる。
しかし、その後チェシーに投げかけられた言葉はあまりにも意表を衝くものだった。
「じゃ、申し訳ないけれどもうすこしお願いしちゃってもよろしいかしら」
「何っ、いや、それは」
汗だくのチェシーがぎょっとして目を剥く。レディ・アーテュラスは意味深に眼を細めた。
「いいのよ。気になさらないで出来るだけごゆっくりあそばせ、出来るだけね。それにしてもニコラさん。素敵ね、本当に――初恋がかなって」
「えっ……ええーーーっ!」
「あははん、お・じゃ・ま・さ・ま」
仰天するニコルへうっとりと酔った眼差しをからませ、濃密なウィンクをばちんとかますと、レディ・アーテュラスは指先を蝶のようにひらめかせながら婉然とドアの向こうへ消えていく。
「ちょ、ちょっと母さま何言ってるんです違います誤解です待って、だから待ってって……うぎゃあ!」
ニコルは気が動転したまま突進し、目の前で無情に閉じられていくドアに思い切りおでこをぶつけ、星を散らしてぐーるぐる回るなりその場でうぐぐぐと昏倒した。
「い、痛たたた……」
「大丈夫か」
チェシーがあわてて屈み込んでくる。
「大丈夫じゃありませんよ!」
「そのようだな」
チェシーはまた冷や汗を拭った。
「心胆寒からしめられるとはまさにこのことだ」
「ぜ、全部貴方のせいですからね」
ニコルは涙ぐみながらぶうっと頬を膨らませ、じろりとチェシーを睨んだ。チェシーは声を立てて笑い、ニコルの前髪をかるく持ち上げた。
「まあ、そう怒るな」
じんじん熱く痛む額をそろりと撫でられる。ニコルはあわてて頭を振った。
「さ、触らないで」
「いいから少し頭を冷やせ」
チェシーはニコルが握りしめてくしゃくしゃにしたハンカチを指先でひょいと奪い返すと、素早くテーブルに戻って、ペールに残った氷をつつんで戻ってきた。そうしててのひらごとたんこぶに押し当てる。
「うひゃあ冷たっ! ……じゃ、じゃなくて、えっと……」
「もういい。おとなしく騒いでろ」
ニコルは眼を瞠ってチェシーを見上げる。チェシーはにやりと肩をすくめる。
「そのほうがずっと君らしい」
濡れたハンカチがしっとりと冷たい。火照る肌にひんやりとした感触が不思議なほど心地よくて、ニコルはつい、疲れ切ったため息をもらした。
「……はい」
そのまま、じっと動かずにチェシーの触れるに任せる。何だかぽうっとして、まるで夢ごこちのような――
どこか遠い廊下の向こう側で、時を告げる鐘が鳴っている。
一つ、二つ――息苦しいほどの思いにさいなまれて、ニコルは柱時計が打つ重々しい時報を指折り数えた。
全部で十一回。あとは、おそろしいほどの静寂に呑み込まれていく。
「……帰らなくちゃ」
ニコルはぼんやりと逃げるようにつぶやいた。
「本気で帰したくないんだが」
チェシーが腫れの具合を確かめながら言う。
「あ、あのねえ……」
ニコルはげんなりと脱力し、引きつった笑いをうかべた。いったいどういう神経をしているのだろう。そもそも懲りるということを知らないのかあるいは単にずうずうしいのか――どうせ両方には違いないが。
そのとき突然、神の啓示のごとくすばらしい考えが燦然とニコルの脳裏に閃いた。
「そんなことだから男でも女でも手当たり次第みたいに思われるんですよ」
「ふん。そんなこと誰が」
チェシーは悪辣に肩をそびやかせかけて、ふいにじろりとニコルを見下ろした。
「……誰がだ」
みるみるチェシーの表情がけわしくなっていく。ニコルはにやりとし、あわてて悟られないよう手で口をおさえた。
「兄上から聞きましたわ。その……貴方とはじめてお逢いしたとき、いきなり、その」
「待て」
チェシーは憤然と遮った。顔がひきつっている。
「それは違う。つまり、その、こういうことだ。君たちほど似ていたら誰だって見間違うだろう」
ニコルはじろりとチェシーを睨み付けた
「つまり、わたくしにお声を掛けて下さったのは、わたくしが兄上に似ていたからだと」
「何でそうなる……」
「や、やはりそうなのですね!」
衝撃のあまりよろよろよろめく振りをしつつ、わざとらしさ炸裂でニコルは叫んだ。
「だからわたくしの気持ちなど気にもとめてくださらないまま、あんなひどいことを次から次へと手を変え品を変え!」
「ちょっと待て。いきなり何を言い出すんだレイディ」
慌てるチェシーを後目に、ニコルはよよよとばかりに顔を両手にうずめ、滂沱の嘘泣きでその場を涙の洪水にしながら、わあっと泣き伏した。
「ああ、何てひどい不道徳なお話でしょう。もう二度と殿方を信じたりはいたしません。貴方のせいですわサリスヴァールさまのうそつき! えっち! おたんこなす!」
「いや、何やら大変な齟齬をきたしてるとしか思えない。というかおたんこなすって……」
「二枚舌、色目づかい、八方美人、二股かけ!」
「ば、馬鹿、違う、あれは我が人生最大の汚点だ。不幸きわまりない事故、思い出したくもない悪夢の限りだ。勘弁してくれ、頼む」
ニコルは珍しくチェシーがうろたえた様子を見せるのが可笑しくて、悪口をえんえん並べ連ねながら、ついこらえきれず噴き出した。
「サリスヴァールさまなんて、大っっっ嫌い……」
可笑しくて、楽しくて。
泣き出してしまいそうだった。
屋敷まで送ると言ったチェシーの好意を断り、ニコルはレディ・アーテュラスとともに屋敷へもどる馬車に揺られていた。
馬車に乗るまでずっとしゃべり続けだったレディ・アーテュラスも、さすがに疲れたのかこっくりこっくりと船を漕いでいる。
ニコルは眉を寄せて眠るレディ・アーテュラスの顔をのぞき込んだ。手を伸ばして、ずり落ちかけた白狐のショールをそっと肩に掛けなおしてやる。
何度目のためいきだろう。
ニコルはぼんやりと車窓の景色をながめる。
チェシーと一緒に見た月は、薄青い雲にまぎれながらもいまだ中空にかかっていた。ときおり行き過ぎる街灯が、ふいによみがえる後悔のように視界をかすめては溶け流れ、残像を描きながら後方へ飛び去って行く。
大嫌い。
別れ際の言葉が涙の向こうにかすむ。
チェシーの手は温かく、剣を使うもの特有のどこか武骨な感触があって。それでいて包み込むように優しかった。
その優しさが偽りでさえなかったら。
信じたいのに信じきれない苦しさが押しつぶされ寄り集まり、後ろ暗い影となって、記憶に残るザフエルの言葉へとかさなっていく。
――チェシー・サリスヴァール一人と、第五師団四万五千人。どちらの命を――
シュゼルム公子に無理やり連れてこられたなんて、嘘に決まっている。
たとえどんなに軽々しく見えても、チェシー・エルドレイ・サリスヴァールは戦場で出会っていれば死を覚悟するしかなかった相手、何千何万という同胞を容赦なく撫で斬ってきた敵だ。
陰でこそこそするばかりのシュゼルムに、私的な集いとはいえ政敵バラルデスの夫人が主催するサロンへ、当のチェシーを連れて堂々と乗り込む度胸などあるはずがない。となればチェシーが強引に現れた理由はただひとつ。
バラルデスが持つ影響力の内偵。それ以外には考えられない。
ザフエルの言ったとおりだ。そんな男、無条件に信用するほうがおかしい。おそらくノーラス城砦にはすでに密使が走っているだろう。
もし、ニコルの知る陽気でしたたかなチェシーが偽りの微笑をまといつけた仮面でしかないとしたら、下に隠れている顔はきっと――
それだけがただ空恐ろしく、不安だった。
ニコルは胸に手を押しあて、ぎゅっと握りしめた。
身を起こして窓を開け放つ。風が吹き込んだ。
指輪をはずし、イヤリングをもぎ取り、一つに結いまとめたカツラのピンを抜いて、大きく頭を振る。
短い髪が風にかき乱され、くしゃくしゃに逆巻いた。
「チェシーさんの馬鹿」
太陽の下にあるときは自ずから輝きを放って見えた純白の街並みが、今はまるでほの暗い深海の泥にしずむ遺跡のように見える。
「……気付いてもくれないで」
言ってから、つまらなそうにニコルは笑った。あきらめきった仕草でふいと手の中の輝きを投げ捨てる。
一瞬、かちりと白く跳ねる光跡をひいて。
それらは闇へ吸い込まれ、あっけなく消え失せた。
▼
「チェシー・エルドレイ・サリスヴァールが戻ってきたそうにございます」
執事のオルブラントが、後ろに手を組みしかつめらしく報告したのは次の日の午後、それも太陽が半分以上も傾きかけたころだった。
厩の馬を一頭ずつ引き出してはざぶざぶ水を掛けて洗い、乾いた布で拭き上げてブラッシング、蹄鉄の中の泥まで掻きだしてぴかぴかに磨き上げたあげく「うんうん綺麗になりましたよ」とか言って馬の鼻先を撫でてやり、満足そうにふう、と額の汗を拭う――という作業を朝から今の今までずっと、どこか執拗なまでに繰り返していたニコルは、報せを聞くなり顔をはね上げて、一瞬まぶしいくらいの笑顔を作った。
「ニコル、どこだ」
すぐにチェシーの気配がずかずかと近づいてくる。ニコルはあわてて汚れた両手をはたき、作業ズボンで手を拭いて飛び上がった。
「は、はいっ」
「帰るぞ。とっとと準備しろ」
出迎えたニコルは、慇懃に下がっていく執事と入れ違いに馬場の門から入ってきたチェシーのあまりの泥酔ぶりに眼を疑った。強烈な酒の臭いがただよってくる。
「う、うわっ」
思わず鼻をつまんで顔をしかめ後ずさる。
「お酒飲んでるんですか」
「ああ、久々に酔った」
チェシーは胸元をぐいとゆるめ、馬房の柵にもたれてにやにやと笑った。面倒くさそうに手を振って唸る。
「いいからさっさと荷物をまとめてこい」
「ちょ、ちょっと」
ぐらぐらとするチェシーを支えながらニコルはあわてて答えた。
「いくらなんでも飲みすぎでしょう。オレンジジュース持ってきますからちょっと待っててください」
「要らん。もう行くぞ」
言いながらもう、馬房の中でも一番の駿馬を勝手に引き出しに向かっている。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」
ニコルは手に持った馬用のブラシを放り投げ、代わりに何を血迷ったか飼い葉桶の取っ手をひっつかんで走り出したかと思うと中身を盛大にぶちまけながら駆け戻ってきてあれがないこれがないと周辺を引っ掻き回し、さすがにあわてたオルブラントが飛ぶように戻ってきてリュックを差し出すや、得たりとばかりに顔を輝かせた。
「あったあった僕のリュック。さすがセバスチャンさん気が利くね」
猛然と駆け抜けざまリュックをかっさらって、後ろ向きに飛び跳ねつつ笑いかける。
「ありがと、じゃあ僕ノーラスに帰るから義父さま義母さまによろしく言っといてそれからお留守番またよろしくお願いしますっていうのとアンシュベルは相変わらず元気だから心配しないでってディミトリス卿にお伝えするのと、それとえっと、あの馬車ツァゼルホーヘンまで返さなきゃなんないんだけどあとで直接言ってはおくけどくれぐれも車軸ぶっ壊したのごめんなさいって言うの忘れないで欲しいのと最後に馬丁のヨナに気を悪くしないでくれると嬉しいって伝えて仕事の邪魔しちゃって悪かったねって、うーんそれぐらいかなセバスチャンさんじゃあまたあとよろしく元気で体壊さないでねってことで待ってよチェシーさあん!」
「……オルブラントでございます、ニコルさま」
執事が言い終わって頭を上げた頃にはもう、ニコルの姿など影も形もない。
ただ、わびしい風が遠い眼をする執事のひげ先をそよと揺らすのみ、であった。
「待って下さいよチェシーさん、そんなに急がなくっても帰りは大丈夫でしょうに」
芦毛を軽快に駆ってチェシーの背中に追いつく。
チェシーはむっつりしたまま返事をしない。というか、どうやら返事できる状態ではなさそうだった。オレンジ色の夕日に照らし出され、濡れたように輝く青鹿毛の馬上で、ほとんど突っ伏しながら手綱にぶらさがっている。
「チェシーさん」
心配になって呼びかけると、チェシーはふらふらと頭を振りながら額を押さえた。顔色が悪い。青ざめているようにも見える。
「君のほうこそ具合はどうだ。熱は下がったのか」
「僕はもう全然。チェシーさんのほうがずっと具合悪そうですよ。休んでからのほうが良くないですか」
ニコルは少しおろおろしながら馬を寄せてチェシーの顔をじっとのぞき込んだ。
「いい」
チェシーはなぜかふいと顔をそむけた。やたらと不機嫌そうに言い捨てる。
「単なる頭痛だ。酔ってなどいない」
意地を張りだしたところを見ると、少しはましになったのだろうか。それにしても、本当に気付いていないらしい。
何やら複雑な気分とはいえ、ニコルはとりあえず安堵にあたるためいきをもらした。昨夜のことなど忘れてくれたほうがいいに決まっている。
”ニコラ”がチェシーの前に現れることは、二度とないのだから。
「……それよりよかったですね、査問会無事に済んで」
「そうだな」
気のない返事だけが帰ってくる。ニコルはあわてて続けた。
「ノーラスに戻ったら軍編成をし直さないとですね。どちらかというと第五師団て守勢がちであまり野戦向きじゃないですから。ほらチェシーさん竜騎兵隊の指揮慣れてるでしょ。僕は砲科出身だしザフエルさんは騎兵あんまり扱ったことないっていうし、だからチェシーさんにいろいろ教えて貰えたらなって」
ぺらぺらと白々しい言葉だけが気持ちを上滑っていく。口を衝いて出るのはどうでもいいことばかりだ。しかしそうと分かってはいても喋らずにはいられなかった。
「チェシーさんのルーン、預かってたのもお返ししなくちゃ。それにしても珍しいですよね同じルーンふたつだなんて……ええとどこに置いたんだっけ……」
チェシーはまったく興味なさそうに「ああ」と言ったきり黙り込む。
ニコルはひどくいたたまれない気持ちになって、ちらりと横目でチェシーを見やった。
「それで、昨日は、その」
言いかけたとたん、恐ろしい目でぎろりと睨まれる。ニコルはまたぶん殴られるかと思って思わずひぃっと首をすくめた。
「な、何なんですか」
チェシーはわざとらしい嘆息とともに頭を振る。大きな背中が妙にしょんぼりとして見えた。
「妹がいるなら最初からそう言ってください義兄さん」
ニコルは目をひんむいた。
「だっ誰が義兄さんですか」
「今度、正式なご挨拶にお伺いしてやるから覚悟しろ」
「こっこっ、来なくていいです! っていうかなななな何言ってるんですかチェシーさん」
「式はいつにするかな。いや、ここはやはり」
……まるで聞いていない。
すっかり元気になったのか、それとも単なる見せかけか、やに下がった顔で無精髭のうっすら光るあごをざらざらと撫でている。あまりに不審きわまりなく、ニコルは恐怖さえおぼえて青ざめた。
何か非常にやばいことを言い出しそうだ。いや、この男なら絶対言う……
「強引に既成事実を――」
「ば、バカ言わないでくださいっ」
ニコルは顔を真っ赤に茹で上げ、びしぃっとばかりにチェシーを指さし怒鳴りつけた。
「だ、だ、誰が貴方なんかと。許しませんよそんなふしだらなこと絶対っ……」
チェシーは反論もせず、かといって笑いもせずに、ただニコルを見つめている。奥底まですきとおるかのような目の色に、ニコルは思わずひやりとして口をつぐんだ。
気まずいような落ち着かないような、胸のざわざわする雰囲気が重くのしかかる。
しかしチェシーは、やれやれとためいきをつき、肩の力を抜いて、放り出すように言った。
「ちっ、君をからかっても今日はまるでつまらない。胸にぽっかりと穴が開いたようだよ」
心のこもらない声だった。
ぎぃ、ぎぃ、と今にも壊れそうな音を立てて回る粉ひき水車を横目に、小さな石造りの眼鏡橋を渡り抜ける。
優しく流れる水音を右手に聞きながら、黄色や紫の野花が咲く川べりの土手を早足でゆく。果樹の世話をしていた農婦たちが道往く二騎に気付いて手を振り、被っていた頭巾を取って次々に会釈した。
暮れなずむ残照を背負う彼女たちの足下や、ところどころ草原をつきやぶって白い肌をのぞかせる石灰の岩さざれ、植えられたブドウの木、それらから黒々と影がのび、たなびいて、まるで風景そのものが一枚の絵になったかのように見える。
懐かしく、どこかうらさびしい望郷の影絵。
ニコルはわずかに声をかたくした。
「どっちにしろニコラはだめです」
「だろうな」
チェシーはげんなりと諦めたふうにつぶやく。
「昨日ほど己の馬鹿さ加減を呪ったことはないさ」
ニコルは馬上でぴくりと固まった。
「どういうこと……」
「説明したくない」
「大袈裟な。チェシーさんらしくもない」
それ以上何かを聞くのが怖くなって、ニコルはつとめて明るい声を上げ、ちゃかすように笑い飛ばした。
「元気出して下さいよ。騎士のたしなみはどうしたんですか。どうせまたノーラスに帰ったらあっちこっち口説いてまわるくせにフェリシア上等兵とか」
「彼女か」
チェシーは遠い視線を北の空へ向ける。
「ホーラダインから聞いてないのか」
「え」
ニコルは虚を突かれ聞き返した。
「何のことです」
道ばたの木が落とす影と夕日とがゆがんだ縞模様となって、入れ替わり立ち替わり、めまぐるしくチェシーの後ろ姿を染め変えていく。チェシーはなかなか答えなかった。それどころかいきなり鞭を入れて走る速度をあげ、故意にニコルを引き離していく。
「チェシーさん」
いやな予兆はしていた。ニコルはくちびるを噛むと覚悟を決めてチェシーの後を追った。
「では今、報告してください。サリスヴァール准将」
夕暮れになびく炎のような金の髪。するどい眼差しがニコルを射る。
「フェリシア上等兵は粛清された」
チェシーはつぶやくように吐き捨てる。
「ゾディアック軍と内通し君の出立を敵に報せたかどで。私に近づいたのもそのためだ。ブランの狙いは当初から私だったし。おそらく利害が一致したんだろう」
「利害……」
言いかけてニコルはぞくりとした。
ずっと心の隅に引っかかって取れずにいた疑念――レディ・ブランウェンの攻撃を受けるまで《先制のエフワズ》が反応しなかったこと――にようやく思い当たる。
あの攻撃が最初から最後までチェシーだけを狙ったものだとすれば話は通じる。裁判目的とはいえ一度でも受け入れの前例を作ってしまえば、いずれ第二第三の亡命者が現れる。だから見せしめに釘を差す――
右の手にはめた《先制のエフワズ》が、熔け落ちる血の色にくるめいている。
声が出ない。
まさか最初から気付いていて、その上でわざと。
チェシーは穏やかに言った。
「誤解するな。ホーラダインも諒承済みだ。彼は悪意の矛先が君に変わるのを恐れていた。君を心配して」
ニコルは空虚な気持ちのまま頭を振った。以前チェシーがバラルデスを評してタカ派と言ったのは、つまりこういうことだったのだろう。ザフエルも同じだ。素振りすら見せず、意に反するものを闇から闇へ葬り去ってしまう。
しかしチェシーは気持ちを切り替えるかのように軽く笑うと、いきなり馬を寄せてニコルの肩をばしんと叩いた。
「ま、そう落ち込んだ顔をするな」
勢いで体が前のめりに倒れ込む。
「うわあ落ちる落ちる落ちる!」
あぶみから足が離れ、あやうく宙づりになりかけたところをニコルはあわてて馬にしがみついた。ぜえぜえ言いながらようやく這い上がってチェシーを睨み付ける。
「な、何するんですか!」
「君のせいじゃない。私のせいでもない」
チェシーは臆せずにやりと笑ってニコルの心配をかわした。
「逆にそのおかげで今回の査問ではバラルデスはじめ軍のうるさ方連中まとめてぐうの音も出ないほど言いくるめてやったからな。しばらくはちょっかい出してこないだろうさ」
「だといいですけど」
とてもそんな単純な気持ちにはなれない。ニコルは不安に語尾を濁す。チェシーは淡々と続けた。
「あとは私自身の問題だ。アーテュラス卿にも申し上げたように、戦場で証を立ててみせるだけのこと。君に迷惑はかけない」
ニコルは先を行くチェシーの背中を見つめた。
サロンで聴いた弦楽のメロディがふと記憶によみがえる。光と影。女と男。微笑みと嘘と社交辞令。虚々実々いりみだれる中にのぞく、計り知れない孤独と不安。
あのときも、きっと今みたいに――
「チェシーさん」
我しらず、微笑が口元にのぼった。
「またそんなこと言って。だめですよ」
当惑したチェシーが何か言いかけるのを、肩をすくめてさえぎる。
「チェシーさんの悪い癖だ。何でも独りでどうにかしようとして」
前方、斜めに橋渡された反対側の土手に、かがり火の入った小砦のシルエットが浮かび上がった。
水面にゆらゆらと火の影が揺れて映る。まるで河岸の草や木の枝に引っかかってでもいるかのようだった。
ニコルは馬を駆り立てながらまっすぐ前を見つめた。
「査問会だってまあ僕がいないほうが結果的にうまくいったような気もしないでもないし、何かにつけ足手まといなのは事実かもしれないけど」
チェシーの置かれた立場、決意、ゾディアックに残してきたであろう様々な懸念。真意はどうあれ、チェシー自身がその運命と戦うことを選んだのならば、共にゆく道は必ずある。
「少しぐらいは信じて、頼りにしてくれたっていいんじゃないですか。僕にだってできることはあります。いろいろ言われることもあるだろうけど……それでも僕は貴方を信じたいし力になりたいと思うし、それに」
いつか、きっと本当のことを――
とんでもないことを口走りかける。ニコルはしまったとばかりに口を押さえた。
「それに、何だ」
「べべべべべ別に! とにかくそ、そ、そういうことですから」
「なぜどもる」
「い、い、いや深い意味合いは特になく」
ニコルは真っ赤になったり真っ青になったりしながらぶんぶんと頭を振る。チェシーは、危険なまなざしをすうっと細くした。
「信じてくれるのは有り難いが、どうせならその言葉、もう一人の君から聞きたかったな」
「うえっ!?」
「まあ、いいか」
ニコルが答えられずにいる間に、チェシーはそれ以上深く追求することもなくあっさりと話を切り上げて、暗み増す北の空へ視線を戻した。
「ここは、ガラスより脆く蜘蛛の糸より細く君の面の皮よりは厚い我々の友情と信頼と義兄弟の絆に免じて許してやることにしよう」
怒るに怒れず、ニコルはひくひく引きつる頬を押さえた。
「なんて嫌な絆だ……」
「男が細かいことを気にするな」
チェシーは肩をすくめ、ようやく心迷いをふっ切ったかのように明るく笑った。
「いつか君の信頼に応えられる日がくるといいな。心から――そう願うよ」
【第4話 終】
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