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EXILE4 その2
「ねっねっ寝過ごし……わーーーーっ今何時! ……夕方ああっ!?」
 ニコルは悲鳴に近い大声を上げて飛び起きた。額に乗っていたタオルがどこかに吹っ飛んでいくのも気が付かない。
 レース越しの窓から朱色の光が斜めに差し込んでいる。雨はどうやらすっかり上がったらしく、部屋の中までまぶしく感じるほどだ。
 当然、チェシーの姿はどこにもない。
「うわっ、もう、どどどどうしようっ」
 シーツを足でけ飛ばし、ベッドから飛び降りてスリッパも履かず頭を抱え、その場でじたばたと足を踏みならす。どうやらすっかり元気になったらしい。よかったよかった……
「全然良くないっ! いや待て、動揺してもダメだ。こういうときは」
 頭の中に数限りなくしまってある遅刻の言い訳を一つ一つ引っぱり出して実演してみる。
「馬車が脱輪転覆して……だめだそんなことあるわけない! じゃあちょうど出かける前に靴の紐が切れて……うわあっ履き替えれば済むじゃないかっ! 本日はお日柄も悪く……ってそんなの会議に何の関係もないし!」
 騒ぎを聞きつけたのか、レディ・アーテュラスがおっとりとドアを開けて顔をのぞかせる。
「あらあら、どうなさったのニコルさん、ずいぶんお慌てになって」
「母さま、ひどいじゃないですか」
 ニコルは部屋に入ってきた義母を認めるなり詰め寄った。
「あんなに起こしてくださいってお願いしたのに」
「ごめんなさいね。あんまりすやすやと気持ちよさそうにしておいでだったから、つい」
 ふくよかなくちびるをいたずらっぽく扇子で隠し、全然違う方向をわざとらしく見上げながらオホホホ、と笑っている。ニコルはやられた、と思ったものの、それ以上怒るに怒れず、むうう、と口ごもった。
「でもね。これは旦那様のお言いつけでもあるのですよ」
「うぐあ、義父上まで」
 ニコルは頭を抱えた。
「今さらノコノコ行けるわけないし。いったいぜんたいどうすればいいんだ」
「それよりお願いがあるんだけれど、聞いて下さるかしら」
 レディ・アーテュラスはニコルの悩みにはまるで耳を貸さず、逆にふわふわと甘ったるい生クリームのような微笑を浮かべて言った。
「ママとサロンに行って下さらない?」

 ……。
 …………。

「……え゛っ」

 ようやく吹っ飛んでいた意識が戻ってきて、ニコルは絶句する。サロンって、何でまたいきなりそんな突飛なものが……いや、そういう社交場に出入りするのはやぶさかでないが、知的かつ優雅な芸術の殿堂であるべきサロンへ、無骨な軍人――無骨という表現から最も縁遠い場所にいるであろうことは、おそらくニコルを知る全員が雁首揃えてカクカクうなずくと思うが――それも対外的には息子を同伴してゆくというのは、あまりにも内務卿夫人として似つかわしくない行為だ。
「ぼ、僕とですか」
「ううん、ニコルさんとではなくてね」
 レディ・アーテュラスはころころと鈴を振るような声で笑う。
「”ニコラさん”と行きたいの」
「な……」
 その致命的な一言に、ニコルは石化状態におちいった。い、いくらなんでもそれは。
「ね、ね、ママ一生のお願い」
 レディ・アーテュラスは両手をもみ合わせしなをつくりつつ、大きな水色の瞳をきらきらうるうるさせてニコルをのぞき込んだ。
「せっかくのお年頃なのに、ちやほやされる喜びを一度も味わうことなく過ごしてしまうなんてあんまりでしょ。少女といえば恋、恋といえば乙女。恋は少女を夢みる乙女に、そして愛は少女を大胆な女に――ではなくって」
 レディ・アーテュラスはごほごほと咳をしてごまかす。
「一度でいいからママと一緒にサロンに行ってくれれば。ニコルさんは可愛いから女装したらきっと綺麗だと思うのね。だからお願い」
「あ、あのっ」

 一気にまくし立てられてニコルはたじたじとする。レディ・アーテュラスは、普段は楚々としたレディだが本当はこういう人だ。サロンではたいてい人の輪の中心に陣取り、大輪の花のように良くしゃべりかつ良く笑い転げている。最も声楽家に近い貴婦人だと評されることもあると聞く。それはいい。全然かまわないのだが。

 女装って……。

 ずーんと落ち込むニコルの様子から、レディ・アーテュラスも失言に気付いたらしい。いかにも取りつくろうかのように、よしよしと扇子でニコルの頭を撫でて言う。
「あらま、いやだわ私としたことが。ごめんなさいねニコルさんそう言えばそうだったかしらおほほほほ」
 そもそも女であることを伏せて育てられたのだからやむを得ないとはいえ、ニコルはがくりと肩を落とし、頭を抱える。いくらなんでも、こうまで見事に忘れられてはさすがに立場というものが……。
「い、いや、だめです」
 ニコルははっと我に返って拒否した。
「もしそんなことしてチェシーさんに見つかったら」
 それこそ何を言われるやら知れたものではない。これだけは安易に想像がつく。どうせ言いたい放題好き放題、毒舌をまき散らすに決まっているのだ。ザフエル作マル秘怪文書も同様だ。これでもか!とばかりにデカデカと派手な大見出しが踊ることになるだろう――ニコル司令ご乱心、公務出張先で乱痴気女装パーティ!?――とか。

 そんなの、イヤ過ぎる……!

「大丈夫」
 妙な確信と断言をもってレディ・アーテュラスは決めつける。
「念入りにお化粧してカツラ被れば案外分からないものよ。それに殿方ってね、どうしようもなくそういうことには疎いものなの。パパなんてお化粧変えても髪型変えても全然気付いても下さらないのよ。んもうくやしいったら」
「あ、あの、いや、でも、絶対ムリです」
 あたふたとしかけるニコルの様子を見て、レディ・アーテュラスはふと優しく手を取ると、柔らかな仕草でぎゅっと握りしめた。
「本当は怪我のこと、心配で心配でたまらなくて。何かで気を紛らわせていないと、とてもじっとしていられなかったの。ごめんなさいね」
「いえ……すみません。僕のほうこそいつも母さまにご心配ばかりおかけして」
「ううん」
 レディ・アーテュラスはかぶりを振る。
「ニコルさんの力になってあげられないママの無力さが悲しいだけ。でもね。たとえこれが貴女の運命だとしても、一度ぐらいは神様に逆らってみてもいいんじゃないかしら。貴女が貴女であること、今は偽っていても、いつか他の誰でもない本当の貴女でいられるようになること。それだけがママと、」
 レディ・アーテュラスは言葉を区切り、ためらって目を伏せる。ニコルは小さく頷いた。レディ・アーテュラスはゆっくりと顔を上げて、続けた。
「シスター・レイリカの――貴女の本当のお母さんの、ただ一つの望みでしたから」
「母さま」
 切ない響きを込めて告げられる言葉に、ニコルは思わずじわりと目に涙をうかべ、あわてて指の背でぬぐう。
「僕は……」 
「あらあら、うさぎさんね」
 レディ・アーテュラスはレースの花柄ハンカチをとりだしてニコルの目元を押さえた。
「いけないわ。ねえ、今からドレスを選びましょ。ニコルさんが帰ってくるって聞いてママがんばって可愛いドレスいっぱい持ってきたから。きっとどれもよくお似合いだと思うの」
「な……ななななんですと」
 ニコルは口をポカンと開けてレディ・アーテュラスを見返す。
 まさか、最初からそのつもりで……いやそんな大胆不敵なことがあるわけがない査問会と言えば任意とは言え軍事法廷に次ぐ強制力を持つ軍の処分決定委員会のようなものでそれをたとえ内務卿夫人とはいえ文民の一女性が勝手にサロン連れ出し目的で欠席させるなどあってよいはずが――
「じゃ、準備してくるわね。やだもうどれがいいかしら。今から楽しみで楽しみで、ほんとにどうしましょわたくしったらどきどきしちゃう、ウフ」
 レディ・アーテュラスはまるで新しい着せ替え人形を手に入れた少女のごとく大はしゃぎしながら去っていく。

 ……思い切りその気だ!

 あとにはただぽつねんと、真っ白に石化したニコルが立ちつくすのみ、であった……。



 ニコルは呆然と鏡の前に突っ立っている。おそらくレディ・アーテュラスが連れてきたのであろう見知らぬ侍女たちが、目にもとまらぬ手際良さで文字通りニコルを別人に塗り替えてしまったのだ。
 鏡に映る自分の姿に、先ほどからひきつった笑いが止まらない。
「あ、あははは……」

 だ、誰だこいつは。

 思わず自分でツッコミを入れたくなるような姿だった。まるでデピュタントを思わせる楚々とした純白のドレス、結い上げた髪に挿した淡い花綱、なよやかな月の青を思わせる透き通ったスカーフに大粒の真珠と銀のリング。
 うっすらと化粧したおもてはほのかに色づいて、紅をさしたくちびるはまるでみずみずしく光る果物のよう。
 それはさておき。
「か、か、母さま」
 ニコルは泣きそうな目でレディ・アーテュラスを見つめる。
「こ、こんな踵の高い靴履いたら一歩も動けません」
 とりあえず着てみたローブの裾をたくし上げて、情けなくへこへこ震える膝を露呈させる。履いているのはまるでつま先立ちのようなピンヒールだ。
 ほっそりと若竹のごとく伸びた膝下を半透明なタイツがつつんで、はりつめた中性的ななめらかさを醸し出している。スカートの下はすでにフリルペチコートでうずめつくされているが、それだけは絶対嫌だと拒否した、腰をちょんぎれそうに締め付けるコルセットはない。だいたいニコルの体形にコルセットをつけたところで何か少しでも女性らしさが増すかと言えばそんなものまったく期待できな(以下自主規制)。
 それでもレディ・アーテュラスはニコルの頭のてっぺんから爪先までを一通り眺めてから、完璧な出来映えに満足してほほえんだ。
「本当に素敵だわ。良くお似合いよ、”ニコラ”さん。さ、参りましょ」
「と、とてもそうは思えないんですけど」
 足に根が生えたかのような、これっぽちも動けない状態で、ニコルはぎごちなく硬直した声を返す。
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃないですって……」
 というわけで。
 ニコルはなぜか初めての女装で、ロクに歩けもしないままいきなりサロンデビュー、と相成ったのであった。



 さて。
 ところでサロンとはいったいどういう場所なのであろうか。
 本来は、貴族や裕福な階級の夫人が日を定めて自宅の居間を開放し、同好の友人、あるいは芸術家を招いて、文学や芸術、学問その他洗練された文化全般について、自由に談話を楽しむ社交界の風習――であるらしい。
 しかしそんな解説はニコルにとってどうでもよかった。メガネを持ってこなかったせいもあって、ここが誰の、そして何のサロンなのかもさっぱり分からない。
 何もかもが信じられないほどきらびやかで気取っていて、まるで鏡の向こう側に広がる異世界のようだ。
 仮面舞踏会でしか見たことのないような奇抜なヘアスタイルの――ソフトクリーム状だったり、頭のてっぺんに宮殿の模型が乗っていたり、あるいはきらきらピカピカふわふわした金魚、クラゲ、グンカン鳥、はてはヤシの木の群生みたいなのを生やした――貴婦人や令嬢たちがオホホホウフフフアハハハ……とまるで水の底から聞こえてくるようなあやしい笑いを混声合唱のようにかさね広げては、右に左にうようよと群れて泳いでいる。
 貴婦人たちの波にときどき浮かび上がる正装の男性陣は、さながら獲物を狙うシャチといったところだろうか。
「め、眩暈がします」
「大丈夫。黙って笑ってるだけでいいの。ほら」
 レディ・アーテュラスは楽しそうに笑いさざめいて、すれ違う貴婦人に会釈などしている。
「レディ・バラルデス、ご機嫌うるわしゅう。お招き下さって光栄ですわ」
「ご機嫌麗しゅう、レディ・アーテュラス。とても素敵なお嬢様とご一緒ね」
 ニコルは言われたとおり黙ってニコニコ笑ってみた。
「レイディ・キーリアのお美しさには叶いませんわ」
 ……あっち向いてニコニコ。
「んまあ、それほどでもありませんでしょう」
 ……こっち向いてニコニコ。
「いえいえティセニア一の才女と誉れ高いキーリアさまのこと、さぞやお鼻も高うございましょう」
 ……どっち向いてもニコニコ。
「おほほほそうかしらやっぱりそうお思いになりますわよねおほほほホホホ」
 そして延々と続くオホホホとウフフフの波状攻撃。

 ダメだ……ついていけない……。

 ニコルはぐったりと幽体離脱しかけた意識のまま口をポカン、目をうつろに泳がせてしまって、いやいや、それではあまりにも不審きわまりないと気づき、とりあえず気持ちだけ頭をぶんぶんと振って周囲をみやった。
 どうやら音楽家を呼んであるらしく、部屋の中程には真っ白なピアノ。すでに華奢な背格好のピアニストが腰を下ろして、繊細な指使いでゆったりとした夜想曲を弾いている。ピアノのまわりにはいくつかの椅子、譜面台などが置かれてあって、さては弦楽四重奏でも聴きながら恋愛詩を詠ませ、うっとりしたところをあわよくばムフフ――いやいや何でもございません――などという趣向への期待を否が応でもかき立ててやまない。
 だが、それらが目に付いたのは音楽のせいではなかった。
 ピアノの回りに、ひときわ大きな貴婦人たちの取り巻きができている。女性たちが向ける熱い視線の先、勢い込んで弾むおしゃべり、それらからするとどうやらピアニストを囲んでいるわけではなさそうだ。
 輪の中心にいるのは――
 残念ながら、さっぱり見えない。
 なるべく目立たないよう、壁の花に徹しつつ目を凝らす。メガネを持ってくればよかったのだが、それだけはダメよ、とレディ・アーテュラスに釘を差されていたのでしかたなくうーんとばかりにしかつめらしく手にした扇に隠れて様子を探ってみる。
 よく見えないが、どうやら取り巻かれているのは男性二人のようだった。一人は茶色の巻き毛、もう一人はずいぶん背の高い軍人のようだ。両方とも背中しか見えない。
 もっとも、たとえ顔が見えたとしてもどうせ目と鼻の区別もつかないのだが。
「あらま、シュゼルム殿下がお見えのようね。どういう風の吹き回しかしら」
 レディ・アーテュラスが戻ってきて、グラスに入ったシェルピンクの飲み物を差し出した。
「えっ」
 ニコルはつい驚きの声をあげ、しまったとばかりに白い手袋をはめた手で口を押さえる。声が届いたのか、取り巻きの数人がきょとんとしたようすで周りを見回すのが見えた。
 あわてて目をそらし、レディ・アーテュラスにひそひそとささやき返す。
「ま、まずいですそれは。僕、殿下には何度かお逢いしたことが」
「大丈夫よ大丈夫。ま、一杯くわーーっといきなさい」
 レディ・アーテュラスの目尻はすでにほのあかく染まって、官能的なブランディの香りを漂わせている。ついでにろれつも少々あやしい。
「そ、そうじゃなくって母さま、あのっ」
 ニコルがあたふたと呼びかけると、レディ・アーテュラスは袖にするかのようにくなくなと微笑んで、それからいきなりくいっとグラスを空けた。
「はふん」
 甘い吐息が洩れる。
「ああんニコラさん、おねえさまと呼んでくださらなくちゃ、イ・ヤ」

 ……完璧できあがっちゃってるではないか!

「あら」
 しかし、ふと空を見上げて虹を見つけたかのような、そんなうららかな仕草でレディ・アーテュラスは振り返った。
 取り巻きの輪が崩れている。先ほどまで中心にいた礼装の軍人が、きゃあっと群がる貴婦人たちに微笑みを配りながら歩み出てくるのが見えた。
 まるで色とりどりのキャンディが入った瓶を倒してしまったかのようだった。あるいは無数のビー玉を床に落としたかのよう。軍人が輪を離れるに従ってさんざめきとためいき、嬌声がない交ぜになって波紋のように広がっていく。
「まあ」
 少し酔いが醒めたのかもしれない。レディ・アーテュラスの声が変わった。
「どうしましょ」
「……え?」
 ニコルはきょとんとして、近づいてくる軍人を見つめる。
 不思議な感じがした。こんな背格好の将校がティセニアにいただろうか。
 びっくりするほど背が高くて、髪の色は淡い金色。金刺繍の縁取りも眩しい純白の聖騎士礼装に身を包んでいて、襟に入れたスカーフと腰にしめたサッシュは輝きを帯びた青。
 軍服の形からするとティセニアの上級士官であることは間違いなさそうだが――相変わらず顔だけはボンヤリとしてさっぱり分からない。
「あ、あの、何か」
 ニコルは後ずさろうとして、壁にこつん、と踵を当ててしまい、思わずおびえて手をかきあわせ、立ちつくした。
 将校が気遣ったようすで立ち止まる。それでもまだ、誰なのか分からない。
 ニコルはどうしたらいいのかすっかり弱り果ててしまって、おろおろとレディ・アーテュラスへ救いを求める目を向けた。
「先程は有り難うございました、レディ・アーテュラス」
 目の前の将校が場の雰囲気に合わせた軽やかな敬礼を行う。思わずいつもの癖で返礼しそうになり、ニコルはあわててくちびるをちいさく吸い込んだ。
 どうやら知り合いらしい。ここはひとまず知らんぷりを決め込むのがよさそうだ。
「サロンの雰囲気を楽しまれていらっしゃるようですわね」
 親しげにレディ・アーテュラスは挨拶を返す。
「ええ。とても楽しませていただいております」
「それにしてもずいぶんと女性の扱いに手慣れていらっしゃるのね」
「まさか。とんでもない。それはきっと南国の開放的な雰囲気が見せる蜃気楼でございましょう」
 将校が爽やかに笑う。
「私は生来の無調法者ですので」

 ――ちょ、ちょっと待て。

 突然だらだらと滝のように脂汗を流し始めるニコルの頭上で、とりとめのない会話だけがすり抜けていく。
「ところで査問会はいかがでしたの」
「おかげさまでつつがなく終えることができました。本日付けで、第五師団騎兵連隊に配属、階級は准将に任官と相成りました。内務卿閣下、師団長閣下には多分なるご配慮お力添えをいただき、心より感謝する次第であります」
 しかしニコルの頭の中はそれどころではない。こ、こ、この声は。まさか。いや、違う、違わない、どどどどどうしたらいいのか。いやいやそれより、いったいぜんたい何でまたこんな大変なことに。ちょっと、まずいやばいこれはあのっ――
 そんなことなど露とも知らず、レディ・アーテュラスは鈴を振るような微笑とともに、着任の祝辞を述べた。
「それは何よりでしたわね。おめでとうございます、サリスヴァール准将」

 ――え……そ、そんな……えええええーーーーっ!?

「な……」
 ――な、なんでチェシーさんが。

 ずざざざ。
 音を立てて血の気が引いていく。対処法を模索したくても脳が完全に現状を拒否しきっていて、何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
 とりあえず風化寸前の化石にも似た微笑を浮かべてはみたものの、その仮面の下は汗だらだらの片頬ひくひく、頭の中はがちゃこんがちゃこん回転上下する蒸気クランクから洩れ出す噴気のごとく真っ白。
 息が詰まって、涙がでそうだった。
「な?」
 チェシーが小首を傾げてのぞき込む。思わず取り込まれそうになるほど、人なつこい笑顔だ。
 ニコルは悲鳴を上げかけ、ひゃああ、とばかりに身をちぢめる。頬を真っ赤にして、とにかく顔を伏せ必死にうつむいて。
 こんな状態でまともな受け答えなどできるわけが――
「もしかすると、私の名前を聞いて下さったのかな、可愛いレイディ」
 鼻持ちならない微笑を含んだ声でチェシーがたずねる。ニコルは泣きそうな状態でさらにいっそうぶるぶるとかぶりを振って、正視し難く目をつむった。

 ――な、名前なんて聞いてない!

「あの……いえっ……」
 おろおろ、もごもごと口ごもる。
「そんなに恥ずかしがらなくても」
 チェシーが苦笑しつつ言うと、レディ・アーテュラスは扇子を口元に当てて艶めかしく笑った。
「驚かれたでしょう」
「ええ」
 チェシーは微笑をくずさないまま、まだ、じいっとニコルを見つめている。というか見つめ過ぎだ。よほど疑われているのか、それとも――
「ニコルさんにそっくりと思われますでしょ?」
 ――うああああ。
 ぼん、と意識が吹っ飛ぶ。できることなら針で刺した風船のように、そのまま爆風に乗ってぴぅ〜っとばかりにすっ飛んで消えてしまいたい……。
「ええ。本当に驚きました。まさかニコルが」
 チェシーはほんのわずか、いつもの皮肉っぽい片鱗を眼に宿らせて言い直した。
「師団長の悪戯かと思うところでした」
「あ、あのっ」
 ニコルはようやく我に返る。
 泡を食ってレディ・アーテュラスを見つめ、半ば涙目でじたばたと訴える。ヒールを履いてさえいなければその場でドレスを引っからげて、ずだだだとばかりに地団駄を踏んでいるところだ――踏めさえすればの話だが。
(だめ、だめです、母上それ以上言っちゃだめっっっっっ!)
 心からの悲痛な叫びもまるで馬耳東風、そよとも届いていない。レディ・アーテュラスは澄ましたようすで典雅に答えた。
「姉の娘の義理の兄の姪の従姉妹に当たるレイディ・ニコラと申しますの。ニコラさん、こちらはサリスヴァール准将。ニコルさんと同じ第五師団に所属していらっしゃるそうですの。どうぞご挨拶なさって」
「はっ、はい……あの……」
 動揺のあまり声がかすれて、まともに出ない。ニコルは小さく縮こまり、半分震えながら、ようやく蚊の泣くような一言を絞り出した。
「は、はじめまして……ニコラ、と申します」
 たったそれだけを言うのに、どきどき高鳴る心臓が今にも口から転げ出しそうだった。あんまり苦しすぎて涙がにじむ。もし気付かれたらと思うと礼儀作法も何もできなくなって、顔も上げられない。蛇に睨まれたカエルとはまさにこのことか。
「……」
 言い終えたあとの一瞬が、さながら永遠のように長く思える。どうしてすぐに返事してくれないのだろう。まさか――とか思いながら、おそるおそる上目遣いでそうっとチェシーを見上げると。
 微笑む眼と、ばっちり視線がぶつかった。
 思わず息をすすり込んでうつむく。本当に、悲鳴を上げられるものなら上げてしまいたかった。

 ――ああっ今のでバレた! 絶対ばれちゃった!

 堅く目をつぶって、頭の中でうんうんと泣きそうに唸る。こんな状況に陥るぐらいなら、あのまま百二十度でも百三十度でも熱があったほうがずっとましだ。
 顔全体が真っ赤に火照って。
 息はできないわ目はうるむわ、頭の中にいたってはぴーぴー沸騰しているかのようだ。
 まるで生き地獄だ。精神的に耐えきれない……!

「実はニコルさんの双子の妹にあたりますの」
 レディ・アーテュラスは素知らぬ顔でとぼけ続けている。
「二人に並ばれると私たちにも分からないときがあるほどですのよ」
「なるほど。しかし本当によく似て――レイディ」

 チェシーにそっと手を取られて、ニコルはふんぎゃああああ!、と心の中で悲鳴を上げた。一瞬、かるく握られる。手袋越しに、あたたかい体温が伝わった。
「チェシー・エルドレイ・サリスヴァールと申します。以後お見知り置きを、レイディ・ニコラ」
 低く優しい声色に、ついくらくらと引き込まれそうになる。思わず気がゆるんで、ぼうっとなりかけたそのとき。
 申し分のない騎士の作法に則って、チェシーはニコルの前に軽くひざまずいた。手を押しいだたくように包み込む。

 ――やっ……ちょ、ちょっと……っ。

 凍り付きかけたニコルの手の甲に。
 チェシーは気障ったらしいほどさりげなく柔らかなくちづけをおとした。

 ――き、きっ、キスっ…され……ああああ!

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