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EXILE3 その2
「来たぞ」
 チェシーが低く言う。
「ええ」
 ニコルはきゅっとくちびるを吸い込み、うなずくと、《カード》を引き抜いた。
 《カード》を挟んだ指の先から四方八方へ、呪のこもった黒光がくねり放たれる。
「待てよ、ニコル。お前、その《カード》……まさか」
 異変に気付いたチェシーが不穏な声をあげた。ルーンをはめていない側の手でニコルの腕を取ろうとする。
「……っ!」
 つかんだ掌から、じりっと苦い煙が上がった。反射的に手を離す。
 チェシーは顔を引きつらせ、どろりと溶けた手袋を見下ろした。青ざめた目つきでニコルを見やり、呆然と声を失う。

 ――《カード》には、さまざまな種類がある。
 修得済みの剣技を”強化”するもの、敵の力を”制御”するもの。
 中には”暗黒”の属性を持つものもある。
 使い手の魂に宿る闇を糧とし、自らを贄として購うことでのみ得られる禁断の呪――

 ニコルを中心に、暗黒の竜巻が立ちのぼる。破れた軍服の裾が激しくはためき、髪が吸い上げられる。
「だからルーンをお渡ししたんです。僕は」
 一瞬、ためらうかのように絶句する。
「”暗黒”の《カード》しか使えないから」

 薔薇の瞳に、酷薄な闇が映り込む。
《生きとし生ける者に等しく闇と死の絶望を》
 ニコルの表情が変わった。
 断末魔の叫びにも似た突風が巻き起こる。

《……デス・トルネード!》

 疾刃と化した絶叫が、全方位からレディ・ブランウェンの存在する一点のみを狙いすまし、収斂し、襲いかかった。
 女は避ける素振りも見せず、にぃっと笑って手をかざす。その掌に、毒々しい赤紫の輝きを放つルーンが光った。
 チェシーがふいに息を呑む。
「だめだニコル、あれは――」

 レディの姿が吹き飛んだ――と見えたそのとき。
 いきなり喜悦に満ちた笑いが響き渡った。
「何っ……?」
 息をすすり込むニコルの頭上に、蒼銀の炎弾がざあっと降り注いだ。
 とっさにルーンを楯にかざす。
 青い鮮烈な光を放つルーンを頂点に、光り輝く幾何学模様がみるみる描き出され、張り巡らされていく。一瞬後、光は半球状に実体化、結晶化して防御の結界と化した。
 だがその結界を無視し、突き破ってくる《闇》があった。

 ニコルの目が恐怖にゆがむ。
 これは、敵の攻撃じゃない。
 視界いっぱいに迫り、魂まで奪ってゆこうとする、これは。
 この、邪悪な力は。

 悲鳴が聞こえる。

 それが自分のあげた悲鳴かどうかも、ニコルには分からなかった。
「……ニコル!!」
 とっさにチェシーがニコルを頭ごなしに抱きかかえ、横っ飛びに跳ね転がった。
 森が放射状に押し倒され、根こそぎ剥ぎ取られていく。
 まるで巨大な手に引きちぎられたかのようだった。
 めきめきと音をあげて枝葉がちぎれ、瞬時に灰と化し、粉々に吹き消され――

「《デス・トルネード》が、はね返され……」
 ニコルは呆然と喘ぎ、うめいた。チェシーに庇われたことも気付いていない。おそろしいほど、全身の感覚がなかった。
「しばらく、動くな。……ひどい傷だ」
 チェシーはニコルを抱きしめたまま、総毛立つ声をこわばらせた。
「あれは《逆襲のエイフワズ》だ」
 ニコルは息をすすり込んだ。
 《逆襲のエイフワズ》。
 受けたダメージを術者へ確実に跳ね返す報復のルーン、だ。
「もう《デス・トルネード》は撃てない。奴も相当なダメージを負っただろうが、次にまたカウンターを食らったら、良くて相打ち。ブランの仕掛けが早ければ――犬死だ」
「そんな」
 ニコルは見えない目に悔し涙をため、身をよじった。
「いったい、じゃあ、どうしたら」
「少し休んでろ」
 チェシーはゆっくりとニコルの身体を木の根本にもたせかけた。ニコルはよわよわしくかぶりを振った。
「だめですよ……戦わなきゃ、チェシーさんまでやられちゃう」
「よく言う。つくづく、変わった奴だな、君は」
 不思議に落ち着いたチェシーの声に、ニコルはなぜかぞっとして口をつぐんだ。
「ひとつだけ方法がある」
 笑っている。
 この状況で、チェシーは冷ややかに笑っていたのだった。
「《エフワズ》は返す。そうすればブランの攻撃は全て遮れる。少なくとも君は何のダメージも受けずに済むだろう。その代わり、《デス・トルネード》を貸せ」
「……馬鹿な」
 ニコルは喘ぎ、絶句した。
「この期に及んで、まだ私がそんなに信じられないか」
 チェシーの声が低くなっていく。
 今までに聞いたこともないような声色だった。
「そうじゃなくて」
 ニコルは《カード》をぎゅっと握りしめて、背後に隠した。
「見たでしょ。《デス・トルネード》は暗黒系です。ルーンが中和してくれないと使えない。ただじゃすまないんです。その上、カウンター攻撃までくらったら」
「かまわない」
 チェシーは半ば強引にニコルの手から《カード》をむしり取ろうとした。ニコルはかたくなに手を引っ込める。
「無理です」
「そんなこと言ってる場合か」
「だめですって」
 ニコルは声をふるわせた。チェシーがかがみ込んでくる。
「他に方法がないから言ってるんだが」
「いくらチェシーさんでも無茶です」
 ニコルは必死で《カード》を背中に隠し、渡すまいと拒む。チェシーの目が苛立たしくぎらりと光った。
「……寄越せと言っている」
「イヤです!」
「いいかげんにしろ。騎士たるもの、友ひとり護れないでどうする」
 ついにチェシーはもがくニコルの手首を無理やりねじりあげ、力任せに押さえ込んだ。
「……っ!」
 懸命に握り込んでいたはずの《カード》が、無情に奪われる。
「嫌……ぁっ……!」
 ニコルは涙に濡れ、ふるえる眼でチェシーを睨み上げた。
 完全に組み敷かれ、押さえつけられて。

 ……動けない……!

「さてと。これは君に返す」
 ルーンをはずす、かちりという音がニコルの耳に届いた。
「時間がない。頼む。言うことを聞いてくれ」
 チェシーはニコルを半分押さえ込んだまま、手のひらにルーンを乗せ、包み込むようにぎゅっと握らせた。
 ニコルはくちびるを噛み、顔をそむけて、せめてもの抵抗に手首をそらす。ルーンはむなしく指の間をこぼれ、転々と弧を描いて転がった。
「……見かけに寄らず強情だな」
 その様子に、ふと、険しかったチェシーの表情がゆるむ。
「心配してくれるのは有り難いが、それには及ばない」
 ニコルは胸を突かれ、まじまじとチェシーを見上げた。
 伏せたままの顔は暗く、ぼんやりとしか見えない。それでも、口元が楽しげな形につり上がっているのだけは何となく分かった。
 あの冷たい笑い方じゃなくて、意地悪で皮肉、でも気さくで憎めない、いかにもチェシーらしい笑顔。

 張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れるような、そんな表情だった。どっと力が抜け落ちていく。
 と思いきや。
「いや、遠慮している場合ではなかった」
 チェシーはまったく遠慮のえの字も見せず、いきなりニコルの襟首をひっ掴むと、子猫もかくやとばかりにひょいとつまみあげた。
「さっさと前に出ろ」

 ……え゛。
 ニコルは耳を疑う。

「今、何と」
 唐突すぎる言いぐさに口がポカンと開いたまま、閉まらない。
 するとチェシーは、作り物めくあやしい微笑をすっとぼけた口振りでごまかしつつ言い足した。
「聞こえなかったのか。誰がルーン持ちの君を守ってやると言った。君が、私の代わりに、ブランの攻撃すべてを受けるんだ」
「はあっ!?」
 呆然とするニコルに、チェシーは悪辣きわまりないしたり顔で畳みかける。
「何を今さらとぼけてるんだ。ルーンが二つあれば、あいつの攻撃を結界で全部受け止められるだろ。ダメージ一つくらわずにな。その隙に私が《デス・トルネード》を撃つ。もし反動をくらうのが君ならそのまま細切れのミンチ間違いなしだが、私なら何とか。そうだな、死にはしない」
「ちょっ……ちょっとチェシーさん!」
 我に返ったニコルはようやくチェシーの意図した方略に気付き、声をつまらせた。
「分かったな」
 チェシーは聞かぬ振りでニコルの頭をぎゅう、と押さえつけた。
 素っ気なく立ち上がる。
「だめ、やっぱ駄目っ……!」
 ニコルは両手をじたばたと泳がせた。しかし思い切り頭を支えにされては近づくこともできない。
 チェシーはざわつく上空を見上げ、《カード》で風を切った。
 黒い疾陣がうなりをあげ、走り抜ける。とたん、足下の草がじゅっと音をたててひからびた。
 いつもならルーンに中和され、表に現れることのない《カード》の悪意が、今は葬送の煙のように黒く、苦く、うっすらと身の回りにたなびいて、いつまでも消えない。
「私の命を君に預ける。代わりに君の命を私にくれ。いいな」
 チェシーの言葉にニコルはぞくりとして声をなくす。
 無駄な時間を取らせることはできない。こうしている間にも、刻一刻と《デス・トルネード》はチェシーの命を削ぎ落としていく。
 ニコルは《エフワズ》を掴み取った。赤い火がまるでニコルを力づけるかのように、ぐんと光を増してゆく。
 ルーンの拍動が腕に熱く伝わった。
 近い。《カード》とルーン、それぞれの入り交じった波動を感じる。敵も身構えている。時機を計っているのか。
「よし、いい顔だ」
 振り返るチェシーの口元にぎらりと、不敵な笑みがのぼった。
「この一撃で終わらせてやる」
 微細な振動が、びりっと突き抜ける電撃にすり替わった。
 ……来る!
 息を吸い込んで、両掌を一気に前へ突き出す。
 《エフワズ》と《ナウシズ》の描き出す結界が、赤と青、さまざまに色の塗り代わる無数の結晶板をかがやかせ、ニコルとその背後に立ちはだかるチェシーを包み込んだ。
 結界の外で銀の尾を引く火矢が次々に炸裂する。そのたびに蒼白の炎が跳ね飛んだ。
「……っ!」
 反動に押しつぶされかける。膝がくだけそうだった。
 降りしきる火が、表面を水銀のように流れ落ちていく。爆風がごうっと吹き込んだ。
 こらえきれずニコルはよろめく。その肩をチェシーが確かに支えた。
「大丈夫か」
「あ、ありがと」
 めくるめく業火の中、チェシーは何も言わず笑っていく。ニコルもまたつられて笑った。
 きっと大丈夫だ。たったそれだけの短いやり取りにも関わらず、ニコルは確信にも似た暖かい思いがこみ上げてくるのを感じていた。チェシーが側にいてくれる限り、その手で支えてくれる限り、きっと――
 と、下手な吟遊詩人もどきのセリフを頭に思い浮かべたとたん、結界に真っ白いひびが走り抜けた。
「え゛っ」
 一瞬、結界の形がゆがむ。夢見るオトメモードから一気に現実へ引き戻されて、ニコルは真っ青になった。
「あっ、わっ、っと……限界!?」
 まるで巨人に踏まれたかのようだった。言ってる端から、荷重に耐えきれなくなった結界が、無惨にもめきめきとひしゃげ折れてゆく。
 どこかで致命的な音がした。
「待て待てちょっと待っ……わああっ!」
 ニコルの切なる願いも空しく、結界全体が甲高い音を放ち、大きく揺すぶられてばらばらの面と線に空中分解した、かと思うと何十枚ものガラスを同時に叩き割るような大音響をあげて、木っ端微塵に砕け散った。
「きゃああっ!」
 吸い上げられるような爆発に巻き込まれ、ニコルは背中からチェシーにぶつかった。光り輝く結界の残骸が、青や赤の星くずのように流れ散り、ざあっとばかりに降りかかってくる。
 気が付けば周囲は再び、西も東も分からない闇の辺に落ちていた。おそろしいほど静まり返っている。
 ニコルは肩で息をはずませた。ごくりとのどを鳴らす。
「何とか、しのいだ……?」
「上出来だ」
 声がして見上げると、チェシーの青ざめた顔が笑っていた。強い力でぐっと引き寄せられる。
「なっ!?」
「いいから動くな。首がすっ飛ぶぞ」
 ニコルは息を呑んだ。
 肩越しに回されてようやく間近に見えたチェシーの手――
 《カード》に触れた手袋が泡だって溶け落ちている。露出した掌は闇に浸食されて青黒く鬱血し、ぶくぶくと瘤状に変形していた。
 真空の刃がうなりをたてて回転しはじめる。
「くらえ、《デス・トルネード》!」
 チェシーの手から凄まじい轟音が放たれる。それは行く手を遮る全てのものを巻き込みながら、跡形もなく、瞬時に挽きつぶしていった。



 かぼそい笛のような、落ち着かない空気のふるえが、まだ続いている。
 チェシーは荒々しい息をついて腕を降ろした。だらりと垂れ下がった手の先から《カード》がこぼれおちる。
 落ちた《カード》が地面の草に触れた。青白い月影の落ちる草生えに、みるみる黒い滲みがひろがっていく。
 ニコルは慄然としてためいきをもらし、空を見上げた。
 そこだけ丸く、森がない。
 ニコルはぎょっとして眼を押し開く。空も見えないほどにぎっしりと覆い被さっていたはずの森が、今はまるで刃物で切り取りでもしたかのように、ぽかりと寒々しく、くり抜かれている。
 その不自然に丸い、星だけがのぞく夜空から。
 はらり、ふわり――何か黒い影が舞い落ちてくる。
「……」
 チェシーは闇に浸食された手を伸ばして、落ちてくるものをつかまえた。
 それは半ばちぎれた黒いスカーフだった。半ば燃え、半ば引き裂かれて、焼けちぢれている。
 持ち主の運命を思ってニコルは喉に息をつまらせた。何をどう言えばいいのか分からないまま、声をなくしてチェシーを見上げる。
 だがチェシーは興味なさそうに肩をすくめ、振り払った。
「それは……さっきの」
「見たか」
 不安にかられて口を開くニコルを、チェシーは傲然と遮る。
「”暗黒系”が何だ。ざまあみろ。持ちこたえてやったぞ」
 言うなりチェシーはがくりと膝を折った。
「チェシーさん」
 ニコルはあわててチェシーを支え、顔をのぞき込んだ。
「大丈夫ですか」
「自分の身を先に案じろ。私なら大事ない」
 チェシーは冷や汗に濡れた額をかすかに光らせながらニコルを見返し、それからようやく、いつもの憎々しい笑みを頬にかすらせた。
「君が身を挺して庇ってくれたおかげだ」
「無理やり突き出されたとも言いますけどね」
 ニコルは安堵のあまり思わず泣きそうになって、あわてて両目を丸めた手の甲でこすった。
 チェシーもどうやら同じ気持ちらしかった。
 かすれた声で力なく笑う。
「何を言う。友を護るのは騎士として当然の行為だ。違うのか」
「人を楯にしておいてよくもまあぬけぬけと」
「男が細かいことを気にするな。さて」
 チェシーはひとつ深い息をつくとおもむろに立ち上がった。
「とりあえず休む場所を探そう。ここに残るのは危険だ。歩けるか」
「ええ、何とか」
 うなずいて歩き出そうとしたとき、ニコルは押さえた額の奥がくらりとめまいを起こすのを感じた。気付かれないよう頭を振ってごまかし、眼を閉じる。少し熱があるのかもしれない。頭の芯がずいぶんとひどく重苦しい。
「どうした」
 チェシーが立ち止まった。いぶかしげな視線を注ぐ。
「ん? あ、いえいえ」
 ニコルは表情を押し隠し、からりと明るく笑って目をそらした。
 そのとき前方に、リュックらしき見慣れた色の物体が見えた。半分逆さまになって木の枝に引っかかっている。
「あ、あれ、たぶん僕のですよね。取ってきます」
「お、おい」
 チェシーが制止する間もなく走り出す。近づいてよくよくのぞき込んでみると、確かにニコルのリュックだった。どうしてこんなところにぽんと置かれてあるのかはともかく、革タグに第五師団の隊章を捺してあるからまず間違いない。
「よかった、替えのメガネもたぶん中に……」
 言いながらひょいとリュックを取りあげる。
 ぷつん、と、何か細い糸のようなものがちぎれる感触が手に伝わった。鋭い痛みが頬をかすめ抜ける。
 驚いて無意識に一歩後ずさった、その頭上へ。
 闇の死角を食い破って現れた禍々しい斧の刃が、枝を砕き折る凄まじい破壊の尾を引きながら、みるみる巨大に降り迫ってきた。

 ……それがもし、首だったら。

 一発であの世の彼岸まで転がり落ちただろう。代わりに、ニコルの手の中にあったはずのリュックが真っ二つに弾け散った。
 中身が明後日の方向へ吹っ飛んでいく。
 ニコルは電撃を受けたかのように固まり――

「出たあああああ!」
 幽霊でも見たような悲鳴をあげて、リュックを放り投げる。
 その直後、巨大な振り子のごとく揺り戻されてきたギロチンまがいの斧が、ふたたびごうっと鼻先をかすめた。
「ぎゃああああまた来たああーー!」
「何やってる」
 チェシーが駆け寄ってきた。硬直するニコルの襟首をむんずとつかんで引き戻す。
 ニコルは我に返り、へなへなと腰を落とした。
「し、死ぬかと思いました……」
 未だにブラブラ揺れている斧を恐怖の眼で振り返る。
「まったく、こんな見え透いた置き土産に引っかかる奴があるか」
「だって……」
「だってじゃない。自分の立場ってやつを少しは考えろ。これがもし爆弾だったらどうする。命がないんだぞ。まったく」
 チェシーは珍しく感情を表にあらわして、一気に言い募った。
 言われてみればまったくその通りだ。がみがみと叱られて、さすがのニコルもしょげかえる。
「……すみません」
「いや、分かればいい。怒鳴って悪かったな」
 チェシーは声を落とした。声を荒げたことにチェシー自身が当惑しているようだった。ニコルはかぶりを振る。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
 チェシーは苦笑いし、ニコルのリュックを眼で探した。
「それじゃまるで……やれやれ」
 歩き出しながらため息をつく。
「本当に世話が焼けるな。ホーラダインの性格がゆがむのも宜なるかなだ」
 ニコルはきっと顔を上げ、それからほっと表情をゆるませた。
「あれだけは断じて僕のせいじゃありませんから」

 ――遠いノーラス城砦で、「ニコル司令マル秘メモ」を読み返しては不気味に肩をふるわせていたザフエルが、へっくしょ、と大きなくしゃみをする。
「ふむ、先ほどから何やら妙な悪寒が」
 こまごまと書き物中のペンをやすめ、ちーんと鼻をかんできょろきょろ――

「いや、どう考えてもあの性格の九割は君のせいだと……」
 言いながらチェシーは真っ二つに割れたニコルのリュックを拾い上げた。その拍子に、かろうじて引っかかっていた中身がどさどさとあふれ出す。
 ……もう少し具体的に言うと、どさどさどさどさどさどさ……(まだ続く)。
 曰く。
 青いタイツ、白い靴下、ピンクのしましまぱんつ、その他下着、着替え、パジャマ、救急セット、予備の鼻眼鏡、歯ぶらしに石鹸、タオル、愛用のコップ、赤い水玉のナイトキャップ、チョコチップクッキーとキャンディと揚げたパン耳の詰め合わせバスケット、ハンカチできゅっと包んだこんがりハムとサラダ菜のクラブサンド、りんご、水筒、果物ナイフ、泥つきにんじん、さらには靴洗い用のたわし、鍵束、望遠鏡、紐で繋がったにぎやかしの旗。

 ……何なんだ!

 この小さなリュックのどこに、こんな大量の、かつ非効率な荷物がどうやって混入していたのか、さっぱり分からない。
 チェシーは空っぽになったリュックへ目をやり、それから足下に積み上がった山へと冷ややかな視線を移した。明らかに機嫌が悪化している。
「何だ、これは」
 何だこれはと言われても、さすがに答えられない。ニコルはくらくらとめまいを起こしてよろめいた。
「分かんないです……」
「ピクニックでも行くつもりだったのか」
「ち、違いますって」
「まあいい。無駄なものばかりとも言えないしな」
 うろたえるニコルを、チェシーは奇妙に優しい笑みで遮った。身をかがめてりんごを拾い上げ、ぽんと軽く投げて寄越す。なぜかへたの小枝に万国旗がひっかかっていて、投げるに従いしゅるしゅると伸びた。
「うわっとっと」
 糸に巻き付いていた旗がぱらぱらと順にほどけ、じゃーん、見事な飾り付けが完成する。
 小さなくす玉がぽんと割れて、『第五師団祝勝会!本日も大勝利!』という垂れ幕が下がり、ひよひよと風に揺れた。紙吹雪が舞う。

「……」

 チェシーは無視を決め込むことにしたのか、ごほん、と咳払いし、続けた。
「他のも早く拾え。準備が終わったら行くぞ」
「あ、はい。……って、どこへ?」
「一番近い村だ」
 チェシーは何を今さら、と言った様子で首を振る。
「そこで馬を借りるんだよ」
「なるほど、名案です」
 言いながらニコルは予備のメガネをまず、ちょんと鼻に乗せた。それからやおら、他の荷物を拾いにかかる。
 手伝いもせず待っている間、チェシーは気安げに話し続けた。
「しかし何だ、初めての経験だったが、誰かに守られるというのも案外悪くないものだな。君も意外に頼れる奴だと分かったし」
 思いがけず誉めそやされ、ニコルはつい嬉しくなって手を休め、でれでれと頭をかいた。
「え、そうでしょうか。あははは何だか照れるなあ」
 しかし、さりげに言ったその舌の根も乾かぬうちに、チェシーの驕りに満ちた眼がまたにやりと残酷に光った。
「というわけで、これからもせいぜい君を踏み台にのし上がらせてもらうからよろしくな」
「うっ……やっぱりこうだよこの人は」
 ニコルはやさぐれて、道ばたの花に慰めを求めた。白く咲く花を手折り、いじいじと花びらをむしる。
「くそ、チェシーさんの本性を占ってやる……鬼、悪魔、鬼、悪魔、鬼……」
「そんな花占いがあるか。失敬な」
 チェシーはニコルの手からちょうど悪魔のところで丸坊主になった花をむしり取ると、ぴんと横にはじき飛ばした。
「しかし、あながち冗談でもないか」
 ふいと優しげな表情に戻って、何気なく言う。
「途中《エフワズ》を貸してもらってなかったら、いくら私でも無事ではすまなかっただろうな。この程度ですんだのは君のおかげだ。礼を言うよ」
 思いのほか真摯な横顔に、ニコルはわけもなく声を詰まらせた。むすんだ手をくちびるにおしあてる。
「さ、行くぞ」
 言葉だけを置き去りにして、チェシーは一人でさっさと先に行ってしまう。
「あ……」
 後を追うように手を伸ばしかけて。

 チェシーの後ろ姿はいつの間にか闇に紛れて遠くなっている。ざわざわと森が揺れ、騒いで。どうしてだろう、よく見えない。
 急にチェシーがいなくなってしまったような気がして、ニコルは立ちすくんだ。
 何度も助けられた。礼を言わなくちゃならないのはむしろ自分のほうだ。
 ……そう言いたかったのに。
 声が出ない。
 ニコルは胸の奥に残った息苦しい気持ちをごまかしきれず、ぎゅっと荷物を抱きしめる。

 確かに助けられはした。でも。
 どうしても分からないことが一つだけある。
 《エフワズ》は敵襲を完全に予知する。予期せぬ先制攻撃や奇襲を受けることは絶対にない。それゆえ、ニコルの第五師団は防衛の要として最も重要な最前線ノーラス城砦に配置されているのだ。
 ニコルが所属してからというもの、ノーラスの第五師団は一度たりともその防衛線を破られていなかった。以前は山越えされ背後を突かれたこともあったが、今はそれも皆無だ。

 その《エフワズ》が、反応しなかった。働かなかった。
 と言うことは、つまり――

 チェシーが立ち止まって、振り向く。
 たったそれだけの他愛ない仕草であるはずが、戦闘中ちらりと垣間見た冷たい微笑のせいか、なぜか妙に空怖ろしく感じられて、ニコルは小さく身をふるわせた。
「信じてないな」
 ゆっくりと歩み戻ってきながら言う。
「えっ」
 ニコルは近づいてくるチェシーにぎくりとして眼をそらした。
「べべべべ別にそういうわけでは」
「そんなに私が感謝したらおかしいか」
 チェシーは口さがなく嘆息する。
「まったくもって心外だよ。私ほど誠意ある人間はいないというのに」
「……」
 ニコルの無言をチェシーは別の意味に解釈したようだった。しれっと陽気に続ける。
「信じてくれなくても別にかまわないがね」
 言うなりチェシーはニコルの手からひょいとりんごを奪った。
「あっ!」
「もらうぞ」
 チェシーは軍服の裾でごしごしとりんごを磨くなり、しゃり、とかぶりついた。
「あああ、後で食べようと思ってたのに」
 恨めしそうな眼でニコルはチェシーの手の中のりんごを睨みつける。とたんにお腹がぐうう、と鳴った。
 そう言えば夕飯も食べずにノーラス城砦を飛び出してきたんだった……。

「いいですサンドイッチ食べるし」
 ぶうっと拗ねて言い捨てると、荷物の中からハンカチ包みを選りだして掌上に開く。中身を見て、ニコルはうっとりとしあわせな気分を取り戻し、笑みをこぼした。何て美味そうなクラブサンドだ……。
「くれ」
 神速の手がサンドイッチをかすめとった。
 まさに忽然。
 一瞬のうちに、ワインたっぷりジャムたっぷりのてりやきソースで甘ったるく焼き焦がしたハムステーキサンドが、あんぐりと開けたチェシーの口に吸い込まれる。
「あ゛ーーーーっ!!?」
 この世の終わりが来たような声でニコルは喚きちらした。
「美味いなこれ。誰が作ったんだ。あのメイドのお嬢ちゃんか」
 ほっぺたをりすのようにふくらませてもぐもぐしながら、チェシーはご機嫌にほくそ笑んでいる。
「僕が、自分で、自分のために作ったんです!」
「ほほう」
 ごくん、と呑み込む。
「なかなか美味かったぞ。君は将来きっといい嫁さんになるだろうな」
「誰が嫁ですか。盗人猛々しい!」
 ニコルはがくりとその場にうずくまった。涙が後から後からあふれて止まらない。
「……ううう、僕の晩ご飯……!」
「そんなに泣くな。ほら、このりんごやるから」
 さすがに哀れを催したのか、チェシーはかじりかけのりんごをややためらいがちにニコルの手に握らせた。
 ニコルはめそめそ泣きながらりんごを受け取った。
「やるったって、これも元は僕のじゃないですか」
 赤いりんごに、そっと口をつける。かじったりんごは涙の味がした。
「うう、しゅっぱい」
 ぐすん、と鼻をすすりあげる。この際、かじりかけのりんごでも無いよりはまし……

 かじりかけ?
「……え?」
 ニコルは呆然とする。
 もう一度頭の中で反復。
 ……かじりかけ?
 繰り返してから、手の中のりんごをもじもじと見つめる。
 食べちゃったけど。
 これって……も、も、もももしかして……ええっ!?

「うええええ!?」
 いきなり一人でじたばたし始めたニコルに、チェシーがのほほんと声を掛ける。
「嫌なら食わなくていいんだぞ」
「べっ別にっ! 誰が嫌だって言いましたか!」
 ニコルは思わず、大事そうにりんごを抱え込んで口走った。口走っておいてからはっと我に返る。言うに事欠いて何というたわごとを。
 みるみる頬が真っ赤になっていく。
「赤くなったり青くなったり忙しいな、君は」
「だっ、誰のせいだと思って……!」
 とたん、りんごが手からすっぽ抜け、ごろんごろんと地面に転がった。あっという間に泥んこのまっくろけになる。
「あーーーーーーーッ!!」
「ちなみに、それは私のせいではないからな」
 チェシーは気にも留めていない。
「三秒以内に拾えば食えるはずだ」
「食えるかあッ!」

 じだんだ踏めるものなら、入り込める穴が空くまで踏み続けたい気分だった。髪の毛をぐしゃぐしゃとかきまわし、みじめな顔で怒鳴る。
「いちいちちょっかい出さないで下さい。もう、貴方ってひとは! 何でそんなにいぢわるなんですか」
 チェシーはわざとらしくうんざりと肩をすくめ、天を仰いでみせた。
「そのセリフもいい加減、聞き飽きたな」
「あ、あ、あんたのせいじゃないですかあれもこれもそれも全部、全部、全部!!」

 わざとやっているのか、それとも人の気持ちなどどうでもいいのか。
 もうチェシーのやることなすこと全部が、気に障って障って仕方がない。
 思わずどきりとするような顔をしたかと思うと、掌を返して憎々しく振る舞い、どこで何をしているのかとはらはら気を揉めば、次の瞬間、悪行の数々を露呈させる。
 もし本当にゾディアックのスパイなら、少しは気を持たせる素振りでもすればいいものを、いきなり心の内側にまで踏み込んできて、かきみだして。
 腹立たしくて、苛立たしくて……本当にどうしたらいいのか分からない。
 だいたい、こんなにも面の皮が厚くてたちの悪い傲岸な悪党、女の敵、口ばかり達者なペテン師、その他もろもろ全部チェシーのためにあるような罵詈雑言をきっちりまとめて訴状に書き上げ、正面切って突きつけ「訴えてやる!」とやりたいような奴ごときに。

 言いようのない挫折感に、ニコルはよろよろと打ちひしがれる。
 どうして自分が、あんな奴のために、こんな――やるせない気持ちにさせられなければならないのだろう……。

 ニコルはがくりと両手をついて、両手を胸にむすびあわせ、長い長いため息をついた。
「ああ、神さま聖女さまお星さま、罪深き我が身をどうかお許し下さい」
 もう、残るは神頼みしかない。それすらも、この神をも恐れぬ悪党に有効だとは思えないが……。
「こともあろうに僕は、ゾディアックの悪魔を仲間に引き入れてしまいました。性悪で、皮肉で、残酷な悪人を……!」
「まだまだ精進が足りないな」
 チェシーは明らかに嘘と分かる微笑みをたたえて遮った。
「この上もない僥倖を引き当てたことにまだ気付いていないとは」
「へっ……?」
「そう、僥倖だ。君は運がいい」
 声をひそめ、悠然と笑いかける。
 きょとん、と眼をぱちくりさせたニコルに、このゾディアックから来た悪魔は自信たっぷり、いけしゃあしゃあとばかりにとんでもないことを言ってのけたのだった。

「こんな優しい悪魔、どこを探しても他にはいないぞ」

【第3話 終】
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