ひくひく、頬の皮をひきつらせながらチェシーが繰り返す。
「男だって? 君が? 悪いがどこから見たって女……」
「……ザフエルさん!」
ニコルは、執務室のドアの向こう側で聞き耳を立てているはずのザフエルを大声で呼びつけた。
「はっ」
立ち聞きがばれようがばれまいがもはや関係ないと見たか、ザフエルが踵を鳴らして歩み入ってきた。緊迫した雰囲気がたちこめる。
「お呼びでしょうか」
「呼んだから入ってきたんでしょう」
ニコルは怒り心頭の様子で吐き捨てた。
「ごもっともです」
さすがに反論しない。
ザフエルは左手を愛用の黒剣に置いたまま、機械のような眼でチェシーを見つめた。仮面の表情には一片のひびも見あたらないが、おそらくニコルの命令如何では神速の抜刀で両断する気だろう。
「ご処断を」
ひくく言い放つ。
「覚悟は出来ているだろうな、サリスヴァール」
切迫する空気に耐えきれなくなったか、廊下から部屋の中へ、どばどばと黒山の人だかりが倒れ込んできた。
「お、おま、お待ち下さいっ!」
それは師団の兵士たちだった。
ニコルはむっとして振り返った。
「何です」
人間塚の一番下、なだれに押しつぶされ半分ぺちゃんこになった兵士が、空気の抜けたぷぅぴぃ笛のごとくひょろひょろと手をのばした。
「じ、実は」
「待て」
兵士の顔を認めたチェシーは苦々しく遮った。
「言う必要はない」
「いえ、言わせて下さい」
「ザフエルさん」
ニコルが合図すると、ザフエルは人間塚から一人ずつひっぺがし、廊下にぽいぽい放り投げた。最後によれよれの兵士を立ち上がらせる。それは、地下牢の看守だった。
「実は……」
兵士は顔を真っ赤にして口ごもった。
「……その……」
「はっきり言いなさい、ユート軍曹」
ニコルはさして怖ろしくもない口調で凄む。いきなり名指しで呼ばれ、看守はいっそう萎縮して立ちすくんだ。
「あのっ……」
「わかった。分かったよ」
兵士の様子に、チェシーは匙を投げた様子で舌打ちしてみせた。襟元をゆるめ、胸の内ポケットから四つに折った姿絵の写しを取り出す。
「これだ。これ」
肩をすくめて絵をニコルに投げやる。ニコルはそれを受け取り、開いて――
そのまま顔をユデダコにして固まってしまった。
「私が彼に、この城塞の指揮官の名とどんな人物かを聞いたんだ。そうしたら彼がそれをくれた」
「も、も、申し訳ございませんっ……!」
看守は平伏し、額を床にすりつけた。
「馬鹿。勘違いするな。君に責任はない」
チェシーは堂々と言い訳した。
「彼は誠実な人間だ。それは私が保証しよう。誤解したのは私だ。まあ、絵と比べたら少々肉付きが薄すぎるとは思ったが」
「あ、あ……あの……」
絵を持ったニコルの手がぶるぶると震えている。
「そ、そ、それはいいんですけれどどどももも」
「どうした」
「こっ」
「こ?」
「これ、これっ」
「ニワトリかお前は」
男に対してはおそらく完膚無きまでに容赦ない性分なのだろう。あれほど気障ったらしく口説いておきながら、恐るべき豹変ぶりをみせてチェシーは冷ややかに言った。
「それぐらいどうした」
「ど、どどどうしたって言ったって……これっ……」
ひょい、とザフエルがニコルの手から絵をつまみ取った。
「ふむ」
じいっと見つめている。
……穴が開きそうなほど見つめている。
……まだ見てるし。
「えっちぃですな」
「誰がですかあっ!!!」
ニコルは爆発して絵を奪い取った。一気に破り捨てようと手を掛ける。
「こ、こ、こんなもの誰がっ!」
「何ともったいないことを」
ザフエルが再び奪い取った。
「ただでさえ色気がないのですから。これぐらいの余興は許されてしかるべきです」
よく見るとザフエルのくちびるの端が微妙にぴくぴくしている。
兵士たち全員が一斉に青ざめた。
――ザフエルが笑うとき、世界は破滅する――
などという伝説は当然ないのだが、それぐらいザフエルという男は笑わない人物として名を馳せているのだ。
ニコルは怒鳴りつけた。
「色気がどうしたというんですか! 神の前にそのようなふしだらなっ……!」
「何を仰有いますかこの絵の何処がふしだらだというのです」
ザフエルは妙に開き直って、絵をニコルの鼻先に突きつけた。
首から上だけがニコルにすげ替えられた、「だいなまいとばでぃーなせくしーぐらびあ」――誰が落書きしたものか、「ぁぁん、嫌だよボク……見ないで。恥ずかしいから……」とか横に書いてある――それを。
「馬鹿っ、み、み、見せるなっ!」
何が腹が立つと言って。
ザフエルはじめ、この城塞の兵士全員、ニコルが本当は女の子だと知らないのである。知らないから、こんなことができるのだ。実際は男なのに、まるで女の子のような可愛い顔をしているという色物扱いで。
これがもし、女だと知られればとてもじゃないが笑い話では済まされない。
……と、分かっているけれど、これではあまりにも……。
ニコルは泣きそうになった。
……胸が、実物と違いすぎる!!!
「我々は芸術を愛しているのです」
ザフエルは言い切った。ニコルははっと我に返った。だめだ、また丸め込まれる。今回こそは絶対に言い負かしてやらなければならない。
鉄の意志を持って、ニコルはザフエルに向き直った。
「な、何を言ってるんですかザフエルさん率先して軍規を正すべき貴方が逆にこのような風紀を乱す下劣な……」
「まったくげんなりだ、ホーラダイン中将」
尻馬に乗ってチェシーがヤジを入れる。
「君の絵にはすっかり騙されたよ。あやうく男なんかに口づけてしまうところだったじゃないか」
”なんか”という所を異様に強調しつつ冷や汗を拭っている。
「私はそちらの趣味だけは全然ないんだ」
「それはそれでまたネタになりますので、どうぞまたやってください」
ザフエルはぼそっと答えた。
「……なんですと」
「そっち方面は女性士官が喜びます」
「……誰が喜ぶって?」
「ええ、ですから腐女子士官が。いるんですよ看護兵とか補給部隊とか、そっちにはそっち用の」
……。
何かが、ぷちっと切れた。
……かもしれない。
ニコルはゆっくりと顔を上げる。
「ザフエル・フォン・ホーラダイン中将」
「何でしょう閣下」
「……ひとつ、尋ねてもいいですか」
「はっ」
「むろん、出回っているのは、これ一枚……」
「んなわけないでしょう」
「今すぐ回収・破棄してください」
「……せっかく描いたのに」
「やっぱりあんたが首謀者ですか……そうですか」
ザフエルはふいに増大し始めたニコルの闇にあとずさった。
黒い前髪の下、額に光るわずかな光は、汗か、それとも。
「まあまあ、これは軽い冗談として。いいじゃないか、この辺で。けっこう可愛かったぞ」
チェシーが苦笑いして間に入ろうとした。
だが当のザフエルは既に人差し指と中指の間に不思議な紋様の浮かび上がるカードをはさみ、ぼそりとつぶやいていた。
《神の御名においてこの一撃を無力化せよ》
《カード》に刻まれた古代文字の呪言が、命ある光の帯に変わったかのようにくねりながらほどけ、飛び出した。空に一文字ずつ光る言霊を撃ち込んでいく。
「……ん?」
きょとんと振り返るチェシーに、ザフエルはカードを手にした指先でそのままアンクの印を切ってみせた。肩をすくめる。
「来ますよ」
「何が」
ザフエルはやれやれとため息を付き、わざとらしく目線をそらした。
「……ご愁傷様です。ま、私はちゃっかり安全ですが」
「って、何がだっ! 途中で止めるな! 気になるだろう……」
焦ってザフエルの胸ぐらを掴み、ぐらぐら揺すぶろうとしたチェシーの耳に、ぞっとするニコルの声が飛び込んできた。
「今度という今度は勘弁なりません……ザフエルさん……あんたって人は……!」
「ふむ、今回は少々悪ノリしすぎたようです」
ザフエルは妙に冷静なまま、どこからか取り出した「ニコル司令マル秘メモ」ノートにすらすらと何かを書き止めた。
「これでよし」
「どこがそれでヨシなんですかあっ……っていうかそのマル秘メモって何なんですかちくしょうどこまで僕を馬鹿にしたら気が済むんだどうせどうせどうせ僕なんか!」
ニコルは完全に理性崩壊状態で《カード》を抜き払った。
「……おい……それは……」
ニコルの手にした《カード》を見て顔面蒼白になったのはチェシーだけではない。
ザフエルも、実はほんのちょっとばかり顔を引きつらせていた。
《攻撃無力化》の効かない全体魔法。場に居合わせた者すべてに等しく地獄を垣間見せる暗黒の呪――まさか、そんなものを、こんな屋内で。
《死と暗黒を司りし闇の門番に命ず……!》
チェシーが喚いた。
「待て、聖騎士たるものそのような黒魔法をこのような場所で……ちょっと……」
ニコルは聞いていない。頭上にかざされた《カード》が、稲妻を表面に走らせた巨大な暗黒の光を凄まじく膨らませていく。
《開け、地獄門……!》
「待て待て待てまてまてぎゃああああああ……!」
「……ふむっ」
そして、執務室から城塞内部にかけての一帯は、見る間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化していった、のであった。
▼
しかしてその数分後。
「この状況をどう思われますか司令官」
「……」
「貴方がやったんですよ。分かってます?」
「……」
「あの壁も、あの窓も、あのドアも、全部、全部、全部貴方がぶち抜いたんですからね」
「……すいません」
蚊の泣くような声。
冷酷な一言を残して、ザフエルはきびすを返した。
「いいですか、ちゃんと後かたづけしといてくださいね閣下。床に落ちてるガラスも見落とさないように。だれか怪我すると危ないですから」
「……はい……すみません」
その夜、ザフエルに命じられ一人ぼっちで掃除させられるニコルのすすり泣きが、兵士たちの耳にいつまでも、いつまでも痛々しく聞こえ続けていたとかいなかったとか……。
聖ティセニア公国とゾディアック帝国。
敵対し、憎み合ってきた二つの国に、今ようやく、新しい時代の波が押し寄せてこようとしていた。
――たった一人の亡命者によってもたらされた、めくるめく冒険。
甘く、せつなく、危険な運命の罠が待ち受けているとも知らず――
【第1話 終】
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