疾駆する馬の感覚だけが頼りだった。深い森の道を一直線に駆け抜けてゆく。乱れる蹄鉄の音、踏み折る小枝の甲高い軋み。
「ハッ!」
ふいに馬が飛んだ。倒木があったのか。それさえも乗り手には見えていない。
甲高く鳴り渡る笛が聞こえた。追っ手の火が後方に広がる。思いの外、近い。
乗り手は顔を上げ、振り返った。
秀麗な面もちだった。今はするどく、けわしく、鋭利な刃物そのものの表情を浮かべてはいるが。
一目見れば分かるゾディアック帝国の軍服をまとっている。深紅に黒の詰め襟、袖には三本の線。上級大将の証だ。
だが、その誇り高くあるべき軍服はところどころ裂け、汚れていた。斬り結んだ痕がありありと見える。追われているのだった。
背後の松明が数を増やし、じりじりと迫ってくる。
「逃がすな。回り込め」
降りかかった声に、逃亡者が顔色を変える。
「……ブランか。やはりな」
押し殺した声を漏らす。逃亡者は手綱を強くつかみ、殺ぎ落としたような野性味ある笑みをうかべた。
「奴め、本気だな」
眼がぎらりと光る。国境はもうすぐだ。川を越えれば脱出がかなう――敵国ティセニアへの亡命が。
後ろから射掛けられた矢が、びゅっと風切り音をあげて前方へ突き抜けていった。逃亡者はいっそう激しく馬を駆り立てた。
「悪いがブラン……手加減する余裕は、今の俺にはちょっとなさそうだぜ」
▼
「敵襲っ」
聖ティセニア公国における最前線砦のひとつであるノーラス城塞に甲高い声が響き渡る。
「敵襲っ」
護りの重歩兵が、金属の重なりあう鎧の音を立てて城壁に駆け上がる。次々と篝火が焚かれ、城塞の周辺を一斉に照らし出した。
城門の格子戸が下ろされ、跳ね橋が上げられ、銃眼から巨大な青銅砲が眼下を睥睨する。
「閣下」
ノーラス城塞の責任者であり、ティセニア聖騎士団第五師団の団長の部屋に、純白の軍服を身につけた長身の士官が足早に訪れる。
「閣下。ゾディアック軍の夜襲です」
ドアをノックしても、声を高めにしても、返事どころか起きた気配すらない。
黒髪黒瞳、長身に映える黒長剣を腰に帯びた、どこか機械的な表情の美青年は、ドアを叩く手をはたと止めると、しばし考え込む様子を見せた。
「ふむ」
「お、お待ち下さいホーラダイン中将」
なぜか焦った様子で側に付いていた副官が止める。士官は無表情のまま、振り返った。
「なぜ止める」
「いえっ」
今までそんな様子を見せたあとは必ず爆発が起きたではないか、などとは、とても当の本人を目の前にして言えるものではない。副官は、とにかく早く師団長が起きてきて、この緊張をおさめてはくれまいかと、ただそれだけを願った。
「では君に起こせるのか、彼を」
「いや、でも、それはしかし……!」
副官は汗をたらたら流しながら右往左往した。叩いてもつねっても起きない師団長と、毎回起こすのにドアを爆破する中将と、どちらの言い分が正しいのかなんて判断できるはずがないではないか。
「う、うーん」
珍しいことに、部屋の中から、奇妙な声がした。
「誰? ザフエルさん?」
「はい閣下」
ザフエル・フォン・ホーラダインは、伏せた目をすっと上げて答えた。
「ゾディアック軍の敵襲です」
「ん……ホントにそうなの?」
「ホントにそうです」
いつ聞いても緊迫感のない会話だ。副官はもう恐慌寸前である。
「ふうん。ドア、開いてるよ。入って」
ふにゃふにゃとあくびする声と一緒に、ドアがぱたりと開いた。
月の見える窓際に、ぶかぶかパジャマにスリッパ姿の人影が立っていた。
「おはよう」
「おはようじゃありません」
「じゃあ、こんばんは、かなあ」
「それどころでもありません」
青みを帯びた珍しい色の髪。薔薇色の瞳。
……額には、ぐるぐる眼鏡。
聖ティセニア公国騎士団第五師団長、ニコル・ディス・アーテュラス。
それが役職および姓名である。言葉にすれば簡単だが、ティセニア全土といえど二十人といない師団長の一人であり、最年少着任、および騎士叙任より最短記録での就任を為した人物なのである。
……まったくそれらしく見えないという事実はおいといてだが。
「レゾンドさん、敵襲と言ったけど」
ニコルはホーラダイン中将ではなく、彼の副官であるレゾンドに向かって尋ねた。
「は、はいっ」
副官は直立不動で答える。
「そのようであります」
「ようであります、ということは、そうであります、でもないんですよね」
「……は?」
副官は、ぽかんと口を開けた。ますますもって訳が分からない。なぜこんなに緊張感がないんだ。今にも頭を掻きむしって叫びだしたい気分で一杯である。
「うーん、《エフワズ》に反応がないんですけど」
この世界には、いくつかの稀少な宝石が存在する。
ルーン一文字を刻んだそれらの宝石は、古代より神々の知恵と力を体現するものとして伝えられ、それを行使する者に絶大な力を与えるとされていた。
だが実際にルーンを手に出来る者は限られていた。ルーンを刻んだ宝石そのものが、ルーンの持つ魔力を封じきれないためだ。
ルーンを制御できるのは、選ばれた者だけ。そして、この第五師団に存在するルーンは、師団長であるニコルの所持する《先制のエフワズ》、《封殺のナウシズ》、そして参謀であるザフエルの《破壊のハガラズ》。この三つだけだった。
「反応がないと言うことは」
ザフエルが繰り返してつぶやく。
「そうです」
ニコルは脳天気なあくびをした。
「敵襲は受けないってことじゃないでしょうか」
「しかし近づくルーンの気配を感じます」
ザフエルは辛抱強く重ねて言った。
「何者かが……」
「ほら、あれ。火じゃないですか」
ニコルは窓の敷居に手をつき、やや身を乗り出し加減にして、遠い北の空を指さした。暗黒に塗りつぶされた森の彼方に、ぼんやりと朱に染まった雲が見える。
「空が赤いでしょ」
ザフエルは目をほそめ、状況を確認してうなずいた。
「確かに」
ニコルは側の台に置いてあった双眼鏡を取ってのぞいた。
「うーん」
「何か見えますか」
「いや何も見えないです」
「焦点が合ってないのでは」
「僕だって双眼鏡ぐらい使えます」
「ではメガネをおかけください」
「いちいちうるさいです」
ニコルはついに頭に来て文句を言った。だがザフエルは相変わらずの無表情である。ぴくりとも頬を動かしたりしない。
「誰かがゾディアック軍の陣に火を放ったとか、だと思うんですけど」
「誰がそのような真似を」
ザフエルは咎めるような眼をニコルへ向けた。
「貴方ですか」
「えっ僕? まさか」
ニコルはうろたえ、ぶるぶるとかぶりを振った。
「僕がそんな難しいことするわけないでしょう。むしろザフエルさんじゃないですか、そういう戦法。補給線分断とか兵糧奪還とかセコい手よく使ってるじゃないですか」
「誰がセコいんですか、誰が」
「僕のほかにはザフエルさんしかいません」
「レゾンドがいます」
「レゾンドさんは参謀士官じゃないでしょう」
「じゃあ閣下」
「僕も参謀士官じゃないです」
「あ、あの」
おそるおそる副官が口を挟む。おそらく放っておいたらこの指揮官たちは延々子供じみた言い合いをし続けるに違いないとみたのだろう。そしてその予感は当たっていた。
「よろしい、その点はいずれ考慮することとして」
やや不興じみた口振りでザフエルは話を打ち切った。何をどう考慮する気なのかさっぱりわからない。だが、セコい手と言われたのにはどうやら少々傷ついたらしい。あるいは図星だったのかもしれない。
「とにかく防衛体制を整えなければなりません」
「分かってます」
ニコルは壁に掛けてあった自分の軍服をするりとハンガーから下ろしながら、もの言いたげに振り返った。
「着替えますから、出てって下さい」
ザフエルの眼が砂のように光る。
「外で見張ってましょうか」
「見張らなくて良いです」
ニコルはやんわりと皮肉を言った。
「着替えぐらい一人でできますから。幼年学校生じゃないんですから」
「……」
ザフエルは奇妙に長い無言の間をおき、ニコルを言いしれぬ不安に陥れてから神妙にうなずいた。
「三分以内に指揮室へおいでください。さもないと」
「……分かってる、分かってますって!」
ニコルは大慌てで言い返した。今までにその遅刻関係で何度ドアを《黒炎》で爆破されたことか。遅刻するのが悪いと言われればそれまでだが、かといって爆破することもないではないか。
……と言いたいところだが。
ザフエル相手にそんなことを愚痴ってみたところで聞き入れて貰えるはずもない。鉄面皮。馬耳東風。冷血漢。頑固。我が儘。自分勝手。本当はもっと毒舌を山のように言いまくってやりたいのだが、持って生まれた語彙がどうやら絶対的に足りないようだ。どうしてみんなあんなに口がまわるのだろう。不思議だ。
「分かったから早く閉めて」
ニコルは二人を追い出すと、ひとまずホッとため息をついた。
「ったくザフエルさんときたら」
自分も同レベルの言い争いをしていることには気付いていない。ニコルはもう一度周囲の気配を確かめてから、軍服をベッドに放り出し、パジャマの胸のボタンに手を掛けた。
「あ、そうだ急がないと。また爆破されちゃたまんないよ」
着ているものをはらりと脱ぎ落とす。床に、月の落とすくっきりとした影が伸びた。しなやかに女性的な身体の線が、ふるふると小ぶりにまるくなった胸から腰にかけて描き出される。
それは、ザフエルさえも知らない、ニコルだけの秘密だった。
誰も見ていないのに、ニコルは妙に顔を赤らめた。恥ずかしげに胸にパジャマを押し当てて隠しながら、ぱたぱたとスリッパの音をさせて駆け回り、下着を探して身につける。
時計を横目で見る。
「あと二分……急がなきゃ」
寝癖でくしゃくしゃの髪に手櫛をいれ、速攻無理だとあきらめの境地にいたるや、ベッドに投げ出した軍服に袖を通す。ごそごそと不器用にカフスボタンを留めようとするが、これがまたさっぱり止まらない。大きなボタンがぽろりと穴からはみ出しては、むなしくくるくると指先に滑る。
「あ、あと一分!」
どうにかこうにか最後のボタンを止め終えたニコルは、両手の甲につけたそれぞれのルーンを見下ろし、純白の手袋をはめて、指先で軽く触れた。
告げる声に変わりがないか確かめる。《先制のエフワズ》は先ほどから沈黙を保ったままだ。《エフワズ》を手にする者は、何者にも奇襲を受けることがない。透き通った貴石の内部に散る火のきらめきには、一点の濁りもなかった。
「よし、間に合った!」
きりりと凛々しい軍装の仕上げに、とんでもなくぐるぐると渦を巻いたメガネをかけて、ニコルはドアを開けた。
「これでザフエルさんにネチネチ怒られずにす……」
独りごちながら、ニコルは急いで部屋を飛び出した……ところでいきなり駆け込んでこようとした大柄の伝令と正面衝突した。
「ふぎゃっ」
体格的にまったく叶わないニコルは、思い切り吹き飛ばされて廊下にゴロゴロころがった。メガネがどこかに飛んでいく。
「痛っー!」
「ああっニコル司令、申し訳ございません。お怪我は、お怪我はありませんか」
「メガネメガネメガネっ」
「メガネでしたらこちらに」
メガネを拾って差し出そうとした伝令が、その瓶底ぶりにくらくらしているのを後目に、ニコルはあわてて顔を半分隠しながらメガネをかっぱらった。
「ごめん。急いでたものだから、ありがと。じゃあねっ」
「あ、お待ち下さいっ」
泡を食った伝令が追いかけてくる。
「何です? 僕急いでるんで、早くしないとまた部屋を爆破されちゃうんだよ」
見事な前傾姿勢で廊下を走りぬけながら器用に振り返って尋ねる。
「あのっ」
伝令は必死でニコルに追いすがった。戦場でも逃げ足だけは早いという噂はどうやら本当らしい。
「そのことです。先ほどの敵襲は誤報でしたとザフエル副司令官から」
「ん?」
ニコルが階段の手前で急に立ち止まったので、伝令は止まりきれず、「うわあああ」とか叫びながら階段をごろごろと転がり落ちていった。ニコルは青くなって手すりから身を乗り出した。心配そうに声を掛ける。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫です」
案外丈夫な伝令である。さすがはティセニアの聖騎士だ。よろよろと起きあがりながら、伝令は上着の裾を引っ張り、皺を伸ばして、どうにかこうにか居住まいを正した。
「それで、捕虜を一名捕らえたとのことです」
「……一名だけ? それっぽっち?」
ニコルは思わず笑った。
「それなのにあんな大騒ぎしてたんですか?」
「ええ、あの」
どうやら伝令は実際にその場に居合わせていたらしかった。
「その一名を、我が軍の兵士が取り押さえようとしたところ、まるで歯が立ちませんでしたので」
それを聞いて、ニコルは興味深そうにきらりとメガネを光らせた。
「ふぅん……」
▼
男は――捕虜でありながら、不遜だった。
全身血まみれ、ゾディアックの軍服を酷い有り様にしていながら、危険な魅力はまるで失われていない。
「だから先ほどから何度も言ってる。亡命だ。亡命。君らのような下っ端には用がない。司令官に直接話をしたいとチェシー・エルドレイ・サリスヴァールが言っている。そう伝えろ」
男を捕らえたティセニアの国境警備兵たちはとまどうばかりだった。
サリスヴァールといえば、ゾディアック十二師団の中でも、『天空の悪魔』と噂される精鋭部隊を率いていることで有名な士官の名だ。
「ちょっと、ごめん」
男を捕らえた独房の前に、ティセニア士官が現れる。壁に燃える蝋燭の火を、顔半分を覆う巨大なぐりぐりメガネがぴかりと反射した。そのせいで表情は定かにならない。
「ザフエルさん呼んできて」
「はっ、ただいま」
看守が槍の石突きを鳴らし、直立不動の姿勢をとった。
牢の中の男が、ようやくといった様子で薄目を開ける。
「あんた、ここの司令官か」
ニコルは小首を傾げた。
「ありゃ、そう見えます? だとしたら僕もけっこう威厳があるんだな」
「そんなものはない」
男は怫然として言った。ニコルはしょんぼりした。
「ぅっ……断言されてしまいました」
「だがルーンの波動を感じる」
男は身じろぎして、ニコルを上から下までじろじろと検分した。これではどちらが捕虜か分からない。
「ルーンに選ばれるような人間には見えないな」
「僕が尋問してるんです。なんで僕が捕虜である貴方にそんなこと問いただされなくちゃならないんですか」
ニコルは苦笑いしながら男の能弁を遮った。
「それより貴方のお名前を伺いましょうか。ゾディアックでの所属と階級をどうぞ」
男はいかにも尊大に名乗った。
「チェシー・エルドレイ・サリスヴァール。第四師団指揮、上級大将だ。……かつては」
「サリスヴァール」
ニコルは男の名乗った名を注意深く繰り返した。敵に回せば、間違いなくぞっとする名前の一つだ。
「……はて、聞いたことがあるような無いような」
「無いのか」
サリスヴァールを名乗った男はがくりと肩を落として笑った。
「さんざん君らの軍を撃ち破ってきたはずだがな」
「さあ、僕はあんまり前線に出して貰えないので」
「何だそれ。とにかく亡命を許可してもらいたい」
ニコルはうなずいた。
「そうですね。ちょっと上層部に尋ねてみましょうか」
「……」
サリスヴァールは奇妙な顔つきをした。
「疑わないのか」
「あっ」
ニコルは眼をぱちくりとさせた。
「それもそうですね……」
「普通はもうちょっと疑うだろう。諜報員じゃないのか、とか。いったいどんな頭してるんだお前」
「どんな頭はないでしょう!」
むきになって言い返す。
「ティセニアには『来る者は拒まず去る者は追わず』という教えがあるんです」
「そんな脳天気な宗教、俺は信じたくない」
「信じて戴かなくて結構です」
「ところが信じてもらわなくちゃならない理由がある」
「……だから別に信じてないわけじゃないって最初から言ってるじゃないです……あれっ?」
「分かったから落ち着け、な?」
事も有ろうに亡命者チェシー・サリスヴァールに諭されて、ニコルは悲しげなため息をついた。
「……分かりましたから、さっさと理由を述べて下さい」
「ここじゃ言えないな」
チェシーは含みありげにニヤリと笑う。
だんだん話がこんがらがってくる。ニコルは思考停止状態でげっそりと相手を見やった。
「じゃあ、どこで話せばいいんですか」
「君の部屋だ」
「どうしてそうなるんです」
「君がこの城塞を把握し完全な指揮下に置いていると仮定すれば」
どこにそんな白刃にも似た表情を隠し持っていたものか、チェシーは浮かべていた薄笑いをごそりと殺ぎ落として、別人の顔を作った。
「君の執務室が最も安全で、かつ、最も機密を保持するに最適な場所だと思われる」
ニコルは気付かない。あるいは変化に気付かない素振りをし続けている。
「そんな大層な機密を貴方が持っているという証拠は」
チェシー・サリスヴァールは、額に乱れかかる長い金髪をふわりと振り払った。顔を上げ、鋭く、そしてあやうい眼差しで、真正面からニコルをのぞき込む。
「君ならば分かるはずだ。《封殺のナウシズ》を持つ君なら、私がこの場で全くの無力であることが」
ニコルは声を呑んだ。わずかにあとずさって、壁に手をつく。
取り繕っていた道化の仮面が剥がれ落ちる。あらわれたのはニコルらしからぬ不穏な顔だった。
「《ナウシズ》が無力化するもの……」
左手にはめた美しいルーンの腕輪をかばい気味に押さえる。動悸が乱れ打った。
「まさか」
「そのまさかさ」
チェシー・サリスヴァールは自嘲気味な笑い声を放った。その声はなぜか墓場の枯れ木を吹きすぎる木枯らしの響きにも似ていた。
「私は《紋章》の使い手だ」
「責任は僕が持つ。鍵を開けて」
狼狽える看守たちにむかって、ニコルは珍しくきっぱりと言い放った。
「話の分かる指揮官で何よりだよ」
チェシーは再び皮肉な口調にもどっている。何ごともなかったかのように軽口を叩く神経は、ニコルには到底信じられない。
「相手がバラルデス卿とかでなくて良かった。彼を説得するには悪魔の弁舌が必要だろうからな。うむ、諸君、ご苦労だった」
牢が開け放たれ、チェシー・サリスヴァールは手錠を掛けられたまま連れ出される。
「閣下、護衛は」
おどおどと訊く看守たちにニコルは手を振って断った。
「いらない。ザフエルさんがもし来ても、僕の部屋には来ないようにと言っておいて。爆破もダメ。あとで必ず連絡するから」
「世話になったな君たち」
チェシー・サリスヴァールは看守たちに向けて陽気にウインクした。
「君らの配慮に心より感謝する」
通路を二人並んで歩きながら、ニコルはほんの少し、ザフエルの来訪が遅かったことをいぶかしんだ。
「ザフエルさんにしては珍しく反応が鈍かったなあ。こういうことには鋭い人なのに」
「ザフエル」
チェシーは記憶の糸を手繰っているようだった。
「ザフエル・フォン・ホーラダイン准将か」
「中将です」
「おや」
チェシーは苦笑いして自発言を撤回した。
「それは失礼。ずいぶん早い昇進だな」
「ザフエルさんはデュエルの腕が凄いですから」
そうと訊いてチェシーの眉がぴくりとつり上がる。
「ほう。それはぜひとも一度、お手合わせ願いたいものだ」
手錠のかかった手をひらひらとひるがえし、《カード》を抜く仕草をしてみせる。
「ずいぶん自信がおありのようですね。鼻っ柱を折られますよ」
ニコルは意地悪っぽく笑った。
「馬鹿な」
チェシーは肩をすくめた。並んで歩くと、チェシーはニコルより遙かに長身だ。ザフエルも相当な身長があるはずだが、もしかしたらそれより高いかも知れない。
「俺から自信を取ったら何も残らんぞ」
「そうみたいですね」
「誉めるな」
「誉めてません」
「けなすな」
「どっちなんです」
「どっちでもいいだろ」
「……わけわかんない人だ……」
「まさにそれこそ俺という人間を評するに相応しい言葉だな」
ニコルは絶句した。
うらさびしい風が吹きすぎる。まったく勝ち目がないとはまさにこのことだ。
「ぅぅぅぅ」
ニコルは絶望のどん底でどよどよとたそがれた。廊下のど真ん中で、どんより線をたっぷりしょい込んで座り込み、指先でいじいじを描いている。
「これじゃザフエルさん以上だ……もうヤだ……こんな屁理屈言う人ばっかり僕の周りに集まって」
そういう態度こそが先天的サディストを呼び寄せているのだとは本人は思ってもいないのだろう。
最後にチェシーはきっぱりと言った。
「俺のは屁理屈じゃない。詭弁だ」
とどめの一発。ここまで黒を灰色と言いくるめることができるなら、この際、白にまで昇華させればいいのにと思うが、それをしないのはチェシー・サリスヴァールの持つ優しさであろうか。いや、それはない。むしろ残酷さというべきだった……蛇の生殺しである。
「同じです!」
もう笑うしかない。というかニコルは言い負かされて逆らえる状態ではなく、すでに半泣き状態なのであった。
「……ここです、僕の部屋……どうぞ」
この上もなく弱々しく、ニコルはチェシーを執務室に招き入れた。
「お茶とかは出ませんからね」
「結構」
全体的に白と淡い紺で統一された色合いは、ティセニア聖騎士団の象徴色と同系統だ。まるでここだけは戦時中ではないかのように穏やかな、そよそよと静かに揺れるカーテンが窓にかかって、涼しすぎる森の風をたっぷりと含んでは高貴なドレスのようにふわりとひるがえる。
窓際にはデスクが置かれ、書類がいくつかと乱雑に積み上げた本がうずたかくあり、その脇には青い房のついた軍旗が掲げられている。薔薇と剣を意匠した旗――ローゼンクロイツだ。
チェシー・サリスヴァールはそこまでを見て取り、油断無く眼を細めた。
「この旗には、信じる者にとって不思議な引力があるのだろうな」
詩を読むような口調で語りかける。かつて敵軍のものだった旗に手向ける言葉ではなかった。
「神は信じないんじゃなかったんですか」
ニコルは軍服のきつい襟をわずかにゆるめ、ほっとした様子で気安く応じた。
「神は信じないが、この旗を掲げて戦う君たちの存在は大きかった。我々にとっては、崩しても崩しても決して崩しきれない巨大な壁だった」
「その理由を探りにでもきたのですか」
ニコルはデスクにもどり、ちょっと待っててくださいね、と言った。書盆に投げ込まれたいくつかの書類に目を通してはすらすらとサインし、そのうち中の数枚は何ごとか唸ったあとペンで朱を入れ、それにはサインをせず未処理の棚へと差し戻す作業を淡々と続ける。
「雑務です雑務」
ふと顔を上げてニコルは笑った。
「師団の指揮統帥はザフエルさんにまかせきりですから」
チェシーは白いソファですっかりくつろいだ様子だったが、訊かれもしないことをニコルが先に答えたので怪訝な顔をした。
「なぜそんなことを私に言う」
「別に」
ぐるぐるメガネを取って、軍服のお腹でごしごしと拭く。
「いずれ訊かれるだろうと思ったから」
「なるほど」
チェシーはふと笑った。屈託のない表情だった。奇妙に和らいだ眼差しでニコルを見つめている。
「君は目が悪いのか」
「ええ、まあ」
ニコルは見つめられていたと気付いて少しばかりどぎまぎとし、あわててメガネをかけ直した。
「珍しい眼の色だな。薔薇の瞳とは」
「……」
ニコルは答える代わりにうつむいて、書類を読んだ。眼が滑って内容が頭に入ってこない。
「そうらしいですね」
「君の瞳に魅せられる貴族たちもさぞかし多いのだろうな」
「ま……まさか、そんなことは」
ニコルはペン先にインクを付けなおそうとしてつい手元をくるわせ、インク壺を思い切りひっくり返した。デスクから書類へ、べったりと黒い墨が走る。
「あっ、と! うわぁ……真っ黒!」
とっさに救出したつもりの書類から、ぽたぽたと無惨に黒いしずくがたれ落ちた。みるみる書面を汚していく。
「ちょっと貸せ」
チェシーはこぼしたインクでニコルが汚れないよう、軽く肘で追いやった。そのまま軍服の襟にかかっていた赤いスカーフをするりと抜いて書類についたインク滲みをおさえる。
スカーフの紅が黒く染まっていく。
ニコルが思わず声を上げて止めようとすると、チェシーは気にするな、といったふうに肩をすくめてにやりと笑った。
「かまわんさ。どうせ棄てる色だ」
「……でもっ」
ニコルが慌てるのを見て、チェシーは同じくインクのついた革の黒手袋を脱ぎ捨て、ニコルに向き直った。
眼が笑っている。
「ちょっと墨が飛んだようだ……鼻の頭が黒い」
「えっ」
「じっとしてろ」
チェシーの眼が近づいてくる。ニコルはとんでもなく慌て、心臓をばくばくさせながらチェシーを押しのけようとした。
「い、いいです。自分で……鏡が……」
「元帥が鼻のてっぺんに墨を塗ったまま部下に笑われてもいいのか?」
「そっ……それはっ……でも」
「だったら動くな。拭いてやるから」
「あっ……ちょ、ちょ、ちょっ」
チェシーは高すぎる背をゆったりとかがめ、まるで子供をあやすときのように親指で頬を撫で、そっと人差し指を髪に差し入れた。
手錠の枷がかちりと二つに割れ、床に落ちる。甲高く突き抜けるような音が響いた。
「あっ」
ニコルはぞくりと青ざめ、チェシーの腕の中で身をよじらせた。
「どうしてはずれ……!」
「こんなちゃちな玩具で私を捕らえたつもりになってたの?」
含み笑いが耳元にほそく吹き入れられる。
(やだ、身体が言うことをきかない……!)
「人、ひと、人を呼びます……!」
ニコルは必死で喘ぎながら手を突っぱね、ようやくそれだけを言った。
「呼ぶがいいさ」
チェシーは投げやりに笑った。
「私は君を欲しいままにした罪で永遠に地下牢へ閉じこめられることになるのだろうね」
まるでしびれ薬をかがされたかのようだった。ニコルは耳まで真っ赤に染めて、ちいさくぶるぶると震えながら、必死でチェシーの腕から逃れ出ようとした。
「っ……イヤ……」
自由になったチェシーの手が、ニコルのメガネを奪った。ことり、とデスクの上に置き去られる。
視界がうるんで、ぼやけた。涙かも知れなかった。
吸い込まれそうな瞳に、ニコルは貫かれてゆく。欲望に揺れる眼差しが、ニコルを見下ろしていた。
「……っ!」
唇を、奪われる。ニコルは涙があふれてくるのを感じた。
「や……やだ……」
怖い。なのに、身体が動かない。
「……君という人間が知りたくてたまらない。女の身でこんな最前線にいる――ルーンの力を使う――君の真実が知りたい」
ニコルは、はっと息を吸い込んだ。びくりと身体が震える。
まじまじとチェシーを見上げる。
眼があった。
「……ば、ばっ……バカな妄想はやめてくださいっ!」
チェシーの顔から、ニコルを手に入れたと確信していたらしい憎々しい笑みが瞬時に飛び去った。
チェシーは呆然と口ごもる。
「な、なに?」
ニコルは大きく息を吸い込んだ。涙をこぶしでぬぐって振り払う。
今の今ほど自分の在り方に感謝したことはない。全身にみなぎる怒りが行き渡った。ぎらりと燃える瞳でチェシーを睨み付ける。チェシーは顔を引きつらせ、あとずさった。
「……ニコル?」
「ニコルってなれなれしく、呼ぶなあーーーーッ!」
城塞じゅうに響き渡ってびりびりと窓ガラスを振動させるほどの大音声だった。ニコルは喚き続けた。
「僕は、男だーーーーッ! この、馬ッ鹿野郎ーーーッ!!」
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