「第9」のゲン(縁起)を一番気にしていた作曲家は、マーラーでした。盛大な8番「千人の交響曲」を書き上げ、番号無しの交響曲「大地の歌」を挟んで、さて9番というときに−以下、ショーンバーグ著、亀井旭・玉木裕共訳「大作曲家の生涯」(共同通信社)から引用−妻に向かって「もちろん、これは、実際には10番目なんだ。『大地の歌』が9番めなのだからね」と語った。この曲が完成に近づいたとき、彼は「もう危険は過ぎ去った」と言った。ところが実際は、危険は過ぎ去っていなかったのだ。−
引用を終えて、私の語りに戻ると、結局、マーラーはこのあと第10交響曲に取り組み、第1楽章を完成させたものの、他はスケッチを残したのみで、亡くなりました。第9交響曲を書き上げて、わずか数ヶ月後のことでした。1911年。前著のなかには、シェーンベルクの「第9というのは限界のように思われる。これを越えたいと願う者は(この世を)去らねばならない。・・・・第9交響曲を書いた者は、かなたの世界に接近しすぎたのだ」と、マーラーに対する弔辞であるかのことばが記されています。
実際、マーラーのこれまでの交響曲群のほとんどが、生きる苦悶のなかに明確な解決を見出せないまま、狂乱と歓喜の綯い交ぜになった爆発に終結するのに比べて、この「第9」交響曲の終楽章のアダージョには、ようやくその混沌から解き放たれ、平安にたどりついた趣があります。ユダヤ教からカトリックへの改宗も畏れることなく、しかもそれをもっても自らの生に光明を見出せなかったマーラーも、ただ「第9」をのみ畏れ、これにより初めて「かなたの世界」に救済されたということでしょうか。
この曲で愛聴するCDは、たくさんあります。これまでにも、ノイマン、アンチェル、レヴァインなどを、「ゆらこめ」でも取り上げましたが、今回は、ジュリーニ指揮するシカゴ響の盤を。むかし私は、この指揮者の演奏するものを、マーラーに限らずその重いテンポ感ゆえに好まず、しかも厚みある風格という意味ではクレンペラーの域に到底及ばない、というネガティヴな評価を付けていました。しかし、このところはその豊かな歌謡性と、情緒に耽溺しない沈着な棒さばきに、感動しながら聴いています。
●参考CD
○マーラー:交響曲第9番ニ長調、シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調「未完成」
・ジュリーニ指揮、シカゴ響(独Deutche Grammophon 463-609-2 2枚組) →♪amazon.co.jp
○マーラー:交響曲第9番ニ長調、R.シュトラウス:「メタモルフォーゼン」、ワーグナー:「ジークフリート牧歌」
・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管(欧EMI 7243 5 67036 2 9 2枚組) →♪amazon.co.jp