5.補足




 1.他の新興宗教の引用について

 『ジャンヌ』の一部に、オウム真理教(アレフに改称)や統一教会などの新興宗教を引き合いに出していることがあります。
 しかし、何らかの類似点を指摘しているからといって、カルト性や反社会性まで同じだと言いたいのではありません。
 それについて少し説明させて頂きます。


 多くの親鸞会の会員さんは「他の新興宗教と親鸞会とは全然ちがう」と思われていると思います。
 たとえばわたしが会員のころ、ある専任講師から合宿で聞かせていただいたのは次のような話でした。

(1)
 オウム真理教や統一教会のような新興宗教が「わるいもの」と見られるのは、学業放棄、家出、サリンによる殺人、政治運動、就職できない、結婚できない等、反社会性・非常識性があるからだ。
 親鸞会では、そのような大学中退や出家などは一切ない。


(2)
 教義面で見ても、他の新興宗教はみな「ゴリヤク宗教」にすぎない。祈ったり、拝んだり、踊ったり、イニシエーションをしたりして、効果が出るというが、そんなものに効き目があるはずがない。
 百歩ゆずって何らかの効果があるとしても、その目的は病気治しや金儲けにすぎず、親鸞会とは目的が違う。
 富も健康も、一時的な幸福にすぎない。親鸞会では、われわれがなぜ生きるかの答え、人生の目的を教える。それは永遠に崩れない、絶対の幸福の身になることだ。


 (1)については、わたしもおおむね賛同します。親鸞会に反社会性、非常識性はほとんどないと思います

 しかし、(2)には同意できません。

 親鸞会が病気治しや金儲けを問題にしているのではないことは当然として、問題は本当に他の新興宗教が病気治しや金儲け中心のゴリヤク宗教なのかということです。
 確かに一昔前の宗教のオーソドックスな入信動機はいわゆる「貧・病・争」でしたが、最近はそうでないのは、わりと一般にも知られていることです。

 たとえば『幸福の科学』の会員さんの体験発表インタビューを見ても、それは明らかです。彼らの信仰の目的も、少なくとも病気治しやお金もうけではありません。

 『幸福の科学』に限らず、「人生の目的」を示すのが最近の新興宗教の多くに共通の特徴であることは、識者が述べている通りです。


 『ジャンヌ』で他の新興宗教を引き合いに出す時は、たとえば(2)のようになんらかの共通の特質をもっていて、その引用に説明上の利便性があるという場合です。
 また、類似した特長をもつ他の団体を紹介する方が、親鸞会に限定して考えるよりも相対化して捉えられるだろう、という意図もあります。

 決して、(1)のような意味で反社会性・非常識性が同じだという意味でのことではありません。
 その点はお間違いのないようにお願いします。


次にすすむ


注:新興宗教

 最近では「新興宗教」という用語はあまり使わないのですが、『ジャンヌ』では分かりやすさを優先して、いわゆる「新宗教」「新新宗教」をまとめて「新興宗教」と呼ぶことにしています。


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反社会性、非常識性はほとんどない

 たとえば1996年に発表されたフランス国民議会の報告書『フランスにおけるセクト』によると、次のようなものの一つでも抵触すればカルトだとみなされています。

 ○生まれ育った環境との断絶の教唆
 ○健全な肉体の損傷
 ○児童のかり集め(児童虐待)
 ○行政当局への浸透
 ○多くの裁判沙汰

 親鸞会では出家を求めませんし、過酷な修行で常に肉体疲労・睡眠不足というようなこともありません。まして児童虐待などするはずもありませんし、行政に関わることもありません。
 アニメの販売で裁判沙汰になったこともありますが、一件だけです。裁判の回数を比べるならば、本願寺の方がよほど頻繁に問題を起こしていると言えます。

 親鸞会でもかつては、大学を中退して専任講師になる人がありました。しかし現在では、そのような行為は原則として禁止され、学業のために学業を放棄するような人の数は少なくなっています。
 このように親鸞会は自浄能力をもつ団体であり、根拠もなく反社会的だと決め付けられるものではありません。


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引用:一般にも知られていること


 病気を治したり商売が繁盛したりといった奇跡を売り物にする新興宗教もあるが、あくまで試供品的扱いに過ぎない。(『トンデモ本の世界』92頁)


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引用:『幸福の科学』会員の体験発表

 僕は高校生の頃から疑問があったのです。
 それは、高校時代、クラブの先輩が交通事故で死んだり、親友が受験ノイローゼで自殺したり・・・。僕のまわりには自殺者が多くて、“暗かった”のですよ。

 “なぜ、自殺はいけないのか”

 一応、自殺ってしてはいけないこととされているでしょう。僕がなぜなのかって教師に聞いても、教師は答えられない。
 それからですね。
 “生きる意味は何んだろう”って、高校から浪人時代、深く考えました。
 そして、人生論といわれる本を手当たりしだいに読みあさりました。小林秀雄、亀井勝一郎、三浦綾子なんかの本も読みましたね。

 でも、どの本にも”どう生きるか”は書いてあるけれど、“何んのために生きるのか”は書いていない。
 高校時代は科学的心理か宗教的心理が知りたいのだけれど、自分は生物学者になりたい、等と揺れましたね。

 大学に入ると、ツルゲーネフやドストエフスキー、そして、キリスト教の中に何かがあるのではないかと聖書を読んだり。読んでみても、わかるようなわからないような気分でしたね。そして、クリスチャンにもなれない気分。

(略)

 八十九年秋の『幸福の科学』の講演会のときでした。
 一目見て、ああ、これは本物だ!と思いました。お釈迦様の生まれ変わりだって。
 卒業して東京に帰り、父と母と弟を説得して『幸福の科学』に入れました。姉は結婚している相手が唯物論者なので、入っていませんが。
 そして、僕は東京の支部の職員になったのです。

(『新興宗教ブームと女性』143〜145頁より)


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引用:『幸福の科学』会員のインタビュー

 その頃の生活といえば、朝起きて電車に揺られて会社に生き、仕事が終わるとつきあい酒。飲み始めたら、次から次へとハシゴ酒、最後はカラオケといった生活が続いていました。

 こんなことを繰り返していて、オレは本当にこれでいいんだろうか、という感じですね。やがて定年を迎える。定年直前ぐらいに家建てて、退職金もらって会社辞めたら、あとは盆栽いじりなんかして……と先のことが見えてくるんですね。そんなことで一生終わるのか、などと考えていると、やるせなくなることがありました。
 なんのために人間は生きているのか、ということが始終頭のすみにひっかかっていたと思います。

 最初に出会ったのは、大川先生の書かれた『高橋信次霊言集』でした。その本の中には、自分が思い悩んでいた問題に対して、これだ! という感じで答えが示されていたんですよ。

 大川先生が出された本はすべて読みましたね。読むほどに、これは本物だ!という感じが強まりました。非常に納得できるのです。

 入会後は、おかげでそれまでのいろいろな悩みが氷解しました。
 本当にわれわれは、神から永遠の命を与えられて転生輪廻しているんだと、そして私達の最終目標はこの地上のユートピア化なんだということがわかりましたから、毎日人生が楽しくてしょうがないですね。

(略)

 今生限り、肉体だけの人生ではない、と気づいたとき、人生は変わるんです。本当の姿というのは心なのであり、死んでからあの世に持って行けるのは心しかないんだということを、多くの人に早く気づいてほしいですね  大切なのは、生きている間に、その心をいかに磨き上げてきれいなものとしてあの世に持って帰るか、ということなんです。

 命は今生限り、肉体あるいは物だけだ、というのも一つの信仰ではあると思います。唯物信仰という信仰ですね。そうなりますと、その価値基準はお金であるとか、名誉とか地位ですね。お金がすべてと考えたら、どうなるでしょうか。一億円二億円集めても満足ということはないでしょう。さらに欲しいということで、アリ地獄のような世界に入っていくしかなくなる。欲望というのは、どんどん追及していったら、もっと欲しいもっと欲しいとなって、きりがなくなる。それでは、本当にその人にとって心の安らぎというのは訪れないと思うんです。

(『「幸福の科学」現象を追う』89〜92頁)


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最近の新興宗教の多くに共通の特徴である

 たとえば『邪教集団・創価学会』等の著者、室生忠氏は新興宗教について、次のように述べています。


 重要なことは、そのそれぞれの教団が、“セールス・ポイント”ともいえる独自の特徴を持ちながら、全体として、人間を救いに導く、ある共通の宗教的メカニズムを持っていることだ。(『新人類と宗教』219頁)


 これはどういう意味か、説明します。

 経済・医学が発達した平和な現代日本では、昔のように「貧・病・争」が悩み・苦しみの原因となることはあまりありません。現代人がもつ苦しみの多くは、精神苦です。

 室生忠氏の言葉を借りるならば、悩みの根本は、「自分はなにものなのか。どういう存在で、なにを求めて生きているのか。こうした実感を得ることができない」ということです。

 そうした人が、神や仏などの絶対者の実在と、そのかぎりにおいては柔盾に満ちたすべての現象を説明しつくす絶対的な「真理」や「宇宙観」を提示する新興宗教に惹かれていく、というわけです。

 このときの「真理」や「宇宙観」の中身、絶対者の存在を実感するに至る過程などの味付けは教団によってさまざまですが、この構造そのものは新興宗教に共通しているということです。


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