4.親鸞会の教義を科学の方法で考えると




 1.因果の道理について

 それでは、「科学の方法」で親鸞会の教義の真偽について考えていくことにします。

 まず、親鸞会の教義の根幹として教えられる「因果の道理」について見ていきます。
 親鸞会の教義ついてあまりご存知ない方は『親鸞会とは』の項も参照して頂きたいのですが、簡単に言うと「いいことをすればいいことが、悪いことをすれば悪いことが、必ず自分に返ってくる」という法則が因果の道理です(善因善果・悪因悪果・自因自果)。

 まず、科学的真実の第一の条件「現実・現象について矛盾のないうまい説明ができること」について考えると、因果の道理は第一の条件を十分に満たしていると言えます。

 しかし、第二の条件「現実・現象を予測できること」について考えると、因果の道理が第二の条件を満たしているとはいえません

 「そんなことはない、現にいいことをしていればいい結果が返ってくるし、因果の道理で現実は予測できる」と思われる方がおられるかも知れませんが、残念ながらそれは信念の方法による思い込みに過ぎません

 因果の道理は、科学の方法では立証できないわけです。
 なお、因果の道理は「阿頼耶識に業力が蓄えられて、それが来世の出自にも影響する」など少なからずとんでもないことを言っている議論ですので、その立証責任は軽くはないでしょう。


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第一の条件を十分に満たしている

 「人間の運命は何によって定まるのか」について、因果の道理によってうまく説明することができます。

 テストでいい点をとれたのは一生懸命勉強したからですし、試合で負けたのにも練習不足なり体調不良なり自分で作った原因があります。
 そのように、「いい運命は、すべて自分のよい行いの結果。悪い運命は、すべて自分の悪い行いの結果だ」と説明が可能です。

 これに反対される方もあるでしょう。
 たとえば、「試合に負けたのはチームメイトのせいだ」というように、「自分が原因ではなく、他人の悪い行いのせいで自分に悪い結果がくる」ことがあると思われる方もあるでしょう。
 また、たまたま乗っていたケーブルカーの事故や、生まれると同時にコインロッカーに捨てられて死んでしまう赤ん坊など、本人が何か悪いことをした結果だとは考えないでしょう。

 しかし、そのような事態もすべて説明できます。
 人が何か行動すると「業力」という目に見えないエネルギーが蓄えられ、それが「縁」にふれて結果を引き起こす……と考えるのです。
 たとえば、普通に歩いていたら突然飛び出してきたトラックにはねられたとします。それは偶然の不幸ではなく、何か過去に悪い行いをした時に蓄えらた業力の影響を知らず知らずのうちに受けて、トラックが飛び出してくるタイミングにちょうどそこにさしかかるようになったのだと説明できます。

 そのように考えると、出自や宝くじの当否まで、一切の運命は偶然ではなく自分の行いによって決まると矛盾なく説明できます。


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第二の条件を満たしていない

 相対性理論は、「これまで観測されたことはないが、皆既日食のとき、星の位置は違って見えるはずだ」と予言しました。
 これは、「もし星の位置が違って見えるならば相対性理論の信憑性は増す。もし同じに見えるならば相対性理論は間違っている」と言っているわけです。

 因果の道理とは、「いい行いをすれば、いい結果が自分に返ってくる。悪い行いをすれば、悪い結果が自分に返ってくる」というものです。
 だから、「いい行いをしたのにいい結果が自分に返ってこない」または「悪い行いをしたのに悪い結果が自分に返ってこない」ケースがあれば反証となるはずです。

 ところが親鸞会が教える因果の道理では、


 (1)結果がいつ返ってくるか
 (2)具体的に、どういう行いに対してどういう結果が返ってくるか

の二点がハッキリと主張されていません。

 これでは、「いい行いをしたのにいい結果が自分に返ってこない」ことがあっても、「まだ返ってきていないだけで、そのうち返ってくるのだ」と説明できます。
 たとえ「死ぬまで結果が返ってこなかった」としても、「未来世(来世)で返ってくるのだ」と説明可能です。

 普通に生活をしていれば、いいこともすれば悪いこともするし、いいことがあれば悪いこともあるでしょう。そのような出来事がどのような組み合わせで起こっても、因果の道理を当てはめてれば矛盾なく説明できます。
 しかし、因果の道理は何の事態も予測しません。つまり、先に述べたユダヤの陰謀論と同じく、反証可能性のない仮説なのです。


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信念の方法による思い込み

 会員の頃、親鸞会の先輩に因果の道理についての疑問をぶつけたことがあります。
 そのとき、「頭でいくら考えても分からないよ。実際に悪いことをやめていいことをするように心がける生活を実践していけば、だんだんと実感できてくるよ」と教えられました。
 確かに、そのやり方で「因果の道理は正しい」と思い込むことはあるかも知れません。しかしそれは、科学の方法ではありません。

 因果の道理に関して、次の4つのパターンが考えられます。
 「(A)いいことをしていいことが返ってきた」「(B)いいことをしたのに悪いことが返ってきた」「(C)悪いことをしたがいいことが返ってきた」「(D)悪いことをしたら悪いことが返ってきた」がそれです。

いい結果がきた 悪い結果がきた
いいことをした (A) (B)
悪いことをした (C) (D)

 前述の通り、因果の道理は反証可能性のない仮説ですので、「因果の道理で説明できない事態」が起こることはありません。(B)や(C)が起こることはないわけです。
 一方で、もしも「人にバッグをプレゼントした後で、自分が別の人からバックをいただいた」といったことが起これば、強く印象に残るでしょう。(A)や(D)は単なる偶然でも起こることがあるわけです。

 ここで、期待や先入観による錯誤相関が起こり得ると考えられます。
 また、親鸞会での活動が長く、費やしたお金や体力が多いほど、期待や先入観を持ちやすくなる可能性があるといえます。

 これは、先に選択的情報接触・歪んだ情報処理などと述べたことと同じです。


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錯誤相関

 錯誤相関とは、実際には存在しない関係を認知したり、実際の関係以上に強い関係を認知することです。
 つまり、本当はランダムに起こっている現象なのに、何か法則があると思い込んでしまうということです。

 たとえば、バスケット・ボールの選手やファンの間では「波に乗る」という現象が広く信じられています。「波に乗っている」ときは連続してシュートが入り、「乗っていない」ときはシュートが決まらなくなるというのです。

 しかし、心理学者ギロビッチらが、統計的に厳密に調査した結果、「波に乗る」という現象の存在はハッキリと否定されました。
 過去のシュートの成功率は、その後のシュートの成否にまったく影響しないのです。

 では、そのような思い込みはどうして生じるのでしょうか。

 第一に、期待や先入観をもって物事をみると、その信念が間違いだという証拠よりも、その信念が正しいという証拠に気がつきやすく、記憶してしまいやすいということが挙げられます。


 (人々は)試合を見る前から、ショットの成否が連続すると期待することになる。
 こうした先入観は、さらに、試合中のできごとについての解釈や記憶にも影響を与えるだろう。

 ショットが連続して決まったことや連続して外れたことは、目につきやすく記憶にも残りやすい。
 反対に、ショットが決まったり外れたりが交互に起こったことは気づかれにくく、記憶にも残らない。

 さらには、入ったと思えたショットがゴールの縁で数回はずんだ後、結局は外れてしまうようなことはよくあるが、こうしたショットに対する解釈も先入観に影響される。
 連続してショットを決めている選手のこうしたショットは、「入ったも同然」と見なされるのに対し、連続して外している選手のこうしたショットは、ついてないことの証拠と見なされることになる。

(『人間 この信じやすきもの』23頁)



 第二に、ハッキリとした先入観を持っていないような場合でさえ、データを間違って解釈される可能性があることが挙げられます。
 というのも、偶然に起こるできごとがどのようなものかについて、人間は間違った直感を持っていることが心理学で明らかになっているからです。

 たとえば、10円玉を20回投げたとき、表が4回連続して出る確率は50%で、5回連続する確率も25%あります。
 表が4回も5回も連続して出ると、裏表がランダムに出ていないように感じられます。しかし、本当にランダムな配列は、わたしたちが真っ先に思いつくような「表と裏が交互に出る」ものよりも表や裏が連続しやすいのです。


 バスケットボール・ファンにショットの成否に見立てた○と×の並びを示して、次のような質問をしてみた。

 たとえば、

 ×○○○×○○○×○○×××○××○○××

 のようにして○と×がまったくランダムに並んだものを示して、これはショットが連続して決まりがちなことの一例と言えるかどうかを尋ねたわけである。

 その結果、被験者の62%が、これをショットの成否が連続している例と考えることがわかった。

(『人間 この信じやすきもの』24頁)



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費やしたお金や体力が多いほど期待は強くなる

 心理学者アロンソンは、次のような実験をしています。

 まず、性心理学について討論するサークルがあるといい、参加を希望する女子大学生を集めます。
 そして、性について自由に隠すことなく討論できることを確認するため、最初に適正検査を受けなければならないと告げます。

 そして、集まった女性をバラバラに3つのグループに分け、それぞれ異なる「適性検査」を受けさせました。


(A)男性の前で、卑猥な言葉の一覧表を朗読する
(B)性的だが卑猥ではない言葉の一覧表を朗読する
(C)何もしない


 いずれかの手続きを経験させた後で、彼女たちが参加したばかりのサークルの討論のようすを見せます。
 そして、その討論がどのくらい好きか、どのくらい面白く思うか、などを評価させました。

 すると、(B)や(C)の人たちはその討論をあまり楽しんでいませんでした。
 しかし、(A)の人たちは、同じ討論を面白くて価値のあるものだと答えました。

 このように、困難や苦痛を乗り越えてある目標や対象に向かっていく経験をすると、その目標や対象がより魅力的に見えます。
 ここから、求道のために時間やお金や体力をかければかけるほど、親鸞会の教義が真実だという期待や先入観が高まる可能性があると考えられます。


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 2.後生の一大事について

 親鸞会では、生きている間に信心決定しなければ、死ねば必ず地獄行きだと教えられます。その「後生の一大事」を解決することが、親鸞会で求道する目的です。
 逆にいうと、もしも後生の一大事が存在しないのならば、親鸞会で求道する必要はないということになります。

 では、親鸞会の教義では、なぜ死後は地獄行きだと考えられているのでしょうか。

 それは、人間は生きている間にとてつもなく悪いことをし続けているからです。因果の道理によって、いつかはその報いを受けなければなりません。
 それでも生きている間は比較的「縁」に恵まれているので、あまり悪い結果が返ってきません。悪行の報いの多くは、死後に返ってくることになります。
 つまり、「自己の罪悪 & 因果の道理 → 後生の一大事」というわけです。。


 しかし、先ほど述べた通り、因果の道理には反証可能性がなく、科学の方法の対象外です。
 だから、わたしたちが悪を犯しどおしの大悪党だとしても、その結果が死後に必ず返ってくると考える合理的な理由はありません。
 つまり、科学の方法で考える立場からは、後生の一大事の存在もまた認められないということになります。

 蛇足ですが、この後生の一大事の教え自体に信念の方法による思い込みを助長する要素があると考えられることも付け加えておきます。


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信念の方法による思い込みを助長する要素がある

 「世界の終末やハルマゲドンがもうすぐ迫っている」という教えは、オウム真理教など多くのカルト教団の教義に見られる一つの特徴だと言われます。
 たとえばエホバの証人は、かつて1975年にハルマゲドンがくると予言し、その後、時期を修正しつつ幾度も同様の予言をし続けています。

 これら教団が「今すぐというほどすぐではなく、しかしそう遠くはない未来に、破滅か救いの分かれ目がある」と信者に教え込むことによって、緊張感を与えて冷静な思考力を鈍らせるなどの心理的影響があると指摘されています。


 多くのグループは、終末までの時刻表を持っている。それは二年から五年先のことが多い。つまりその終末は、すぐ信用を失わない程度に遠く、情緒的迫力を持つには十分なくらい近く、設定されている。(『マインド・コントロールの恐怖』157頁)



 破壊的カルトのメンバーは、このような切迫感によって常に活発に活動することを余儀なくされるのである。切迫感は、メンバーにとって緊急事態ともいえる。緊急時における人間の意思決定では、外界の情報を幅広く取り入れる能力が低下することが分かっている(『マインド・コントロールとは何か』196頁)


 もちろん、親鸞会では終末論は説きませんが、人はいつ死ぬか分からないという無常観は強調されます。そして、死ねば地獄に堕ちてとんでもない苦しみを受け続けることになります。
 また、信心決定に関しても、聴聞中か、おつとめ中か、日常生活の中で突然か、いつ起こるか分からないと言われます。
 つまり、地獄に行くのも救われるのも、「いますぐ」かも知れないし「80年先」かも知れないわけです。

 これらの教えが緊張感や切迫感を与えて、冷静な判断力を鈍らせる可能性があると考えられます。


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 3.罪悪について

 ところで、もしも因果の道理が真実ならば、後生の一大事はあるのでしょうか。

 親鸞会では、後生の一大事の苦しみについて、「一日に三百本の槍で突かれる苦しみを豆粒ほどの石ころだとすると、地獄の苦しみは雪山のようなものだ」と例えられます。
 それほどの報いが返ってくるというのですから、その原因となる悪も、スリや万引きといったレベルではないはずです。

 そこで、親鸞会では、一生悪しか造ることができず、微塵ほどの善も認められないのが人間だと教えられます。
 しかし、科学の方法で考えると、それも反証可能性のない仮説です。

 「一生造悪」の教えならば、一つでも「善」をすれば反証になるように思われます。ところが親鸞会の教えでは、それは雑毒の善に過ぎないと言われます。
 何か善をしても、他人が認めてくれないと腹が立つ。少しでも親切なことをすれば、いつまでも記憶している。「与えた」意識から、何か見返りを期待している。それらは、真実の善ではないというのです。
 つまり、いいことをしても、悪いことをしても、悪いことをしたと解釈され得るわけです。

 また、親鸞会で薦められているアニメ『世界の光 親鸞聖人』に描かれている住蓮房と安楽房の説法の様子などを見ても分かるように、身体でする行動よりも、心で思うことの悪が地獄行きの原因になると強調されています。

 心のことを判定しようとすると、どうしてもあいまいで主観的になってしまいます。
 「悪いことをしたら悪いことが返ってくる」といった出来事の法則でさえ、錯誤相関を起こします。まして心のことは客観的に捉えるのは難しく、期待や先入観が入る余地も大きいでしょう。


 わたしはここで性善説と性悪説のどちらが正しいのかを議論したいわけではありません。
 ただ言いたいのは、「人間は罪悪深重」という教えには反証可能性がないので、科学の方法の対象外であり、信念の方法によるものに過ぎないということだけです。


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引用:安楽房と住蓮房の説法

 皆さん! 私たちは、欲や怒り、妬み、嫉(そね)みの心で恐ろしいことを思い続けています。百八の煩悩の塊です。

 嫌いな人が苦しんでいると、いい気味だと思う心はありませんか。もっとひどい目にあったらいいと、思う心はありませんか。
 反対に、幸せな人を見ると、苦々しく思う心はありませんか。

 皆さん。我が身ながら、いやーになってくる妬み、嫉みの心がありませんか。心で思っていること、すべてを言えましょうか。
 親、兄弟にも、夫婦の間でも言えないことを、思ってはいないでしょうか。皆さん。

 人の不幸を喜び、気に入らぬ相手は呪い殺している。どれだけ醜い恐ろしいことを思い続けているでしょう。
 しかも皆さん。まいた種は必ず生える。心で殺したその種も、必ずまいたものは刈り取らねばなりません。一生、悪を造り続ける。
 私たちの後生は必ず、地獄です。後生は一大事なのです。

 (ビデオアニメ『世界の光 親鸞聖人』第3部より)


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 4.結論

 わたしが親鸞会で最初に勧誘され、はじめて話を聞かせていただいたとき、講師の方は力強く断言されました。


 「話を聞いていけば、論理的に明快に納得できる」
 「真実の話なので、精神と神経がまともな人ならば必ず分かる」


 しかし、それは間違いでした。
 科学の方法で理性的に考える限り、親鸞会の教義の真実性を少しでも高めるような根拠はありませんし、今後それが出てくる見込みもありません。親鸞会の教義には反証可能性がないからです。

 理論家の立場から合理的に優先順位をつけられる領域の外にあるという意味で、親鸞会の教義と、その他の宗教の教義との間に知的な差異はまったくありません
 言い換えると信念の方法で「信じるか信じないか」の問題に過ぎないという点で、他の宗教と同列だとも言えます。

 わたしは行動基準として合理性を重視したいと思っています。だから、もしも理性的に優先して選択すべき理由があるのでしたら、親鸞会での求道を続けることを選んだでしょう。
 しかし、理性的に差異がないのでしたら、あとは感情や信念といった非理性の領域で選択すればよいことになります。
 わたし個人としましては、非理性的な「信じるか信じないか」の問題として考えた結果、自分の時間と体力とお金を親鸞会での求道に費やすことをやめる選択に至りました。

 もちろん、宗教が科学の方法によって支持されなければならない理由はありませんし、信じる信じないは個人の自由です。
 信心決定できるかできないか、求道して確かめてみればいいと思う方もおられるでしょう。「無常は真実だし、相対の幸福は求めても求めきれない。一番幸せになれる可能性が高いのがこの道ではないか」と思う方もおられるでしょう。そう信じることは、否定しません。
 ただし、「親鸞会の教義の真実性は論理的にも明らかだし、合理的方法で確かめることができる」と思われる方がおられましたら、その意見には賛成しかねます。

 わたしの結論は、次のことです。


 自分のお金や時間や体力を費やす対象を決める際に、合理的観点からして、ほかの宗教や信条よりも、親鸞会の教義を優先的に選択すべき理由はない。



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他の宗教と同列

 これについて、疑問に思われる方もおられるでしょう。

 たとえば、次のように考えられる方があるかも知れません。


 キリスト教では神による天地創造を説くが、それは科学の方法によって否定されるだろう。
 親鸞会の教義は、科学の方法で反証されているわけではない。

 理性的に優先順位をつけるならば、キリスト教よりは親鸞会の教義を高く評価するべきではないか。


 それも一理あるようですが、少なくとも「理性の溶炉を通過していない」という点では親鸞会の教義もキリスト教の教えも同じです。
 最初から判定不能であるものと、芳しくない判定結果が出ているものと、どちらを優先的に選択すべきか比べることは理性の範疇ではないでしょう。

 また、創世記の「一日」を「一つの地質時代」と解釈するならば、進化の歴史のおおざっぱな記述として読むことができる、という人もいます。再解釈や合理化を行えば、キリスト教が科学の方法で反証されたとも言えないわけです。
 その場合、反証可能性がない仮説の中から「どれを信じるか」という問題になってしまい、やはり理性の観点からは同列だと言えるでしょう。


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 5.最後に

(1)親鸞会の会員さんへ

 宗教が科学の方法によって支持されなければならない理由はありませんし、信じる信じないは個人の自由です。ご自身の宗教的信念に沿って活動を続けられるのは、素晴らしいことだと思います。

 ただ、内心で教義は絶対の真理だと受け止められることは自由ですが、それが信念であることも頭の片隅に入れておいて頂きたいと思います。
 たとえば、人をお誘いするときに、「聞けば必ず論理的に納得のいく教えだよ」などと諭すのはどうかと思います。会員さんが信じている理由はすべて信念の方法であって、科学の方法によるものではないのですから。
 親鸞会の学生部で現在されているような方法で新勧には、教義の真偽に関わりなく、信念の方法で思い込みを生じさせる側面があるということもご留意ください。

 また、もしも活動が苦しいと思われるならば、やめても構わないのですよ、とお薦めさせて頂きます。少なくとも論理的・客観的な見地から、親鸞会の教義の信憑性を高める要因は何一つないのですから。


(2)親鸞会の元会員さんへ

 『ジャンヌ』では、会員さんに信念の方法による思い込みがあるという話を書いています。しかし、退会してからの合理化や再解釈、記憶の歪みなど、元会員さんにも偏った思い込みが生じている可能性があるのだということも、ここで付け加えさせて頂きます。


(3)親鸞会に勧誘を受け、入会しようか迷っているという方へ

 「経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、究極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の複合体系」(三省堂『辞林21』より)が宗教だと定義するならば、親鸞会は宗教です
 「話を聞いていけば、論理的に明快に納得できるよ」と講師の方が仰られても、それは信念の方法でそのように思い込まれているだけです。
 また、勧誘を受けている過程でも『ジャンヌ』で述べたような信念の方法による影響を受けるのだということにもご注意ください。

 もちろん、そのことを念頭に置かれて、なお親鸞会に魅力を感じる、その教義を信じたいというのでしたら、わたしがそれに反対する理由はありません。


(4)家族・友人に親鸞会の関係者がいるという方へ

 まず忘れないで欲しいのは、民主主義や自由・平等の思想にのっとり、日本では内心や信教の自由が保証されていることです。
 また、会員さんはけっして短絡的に騙されているわけではありません。少なくとも彼らの主観の上では合理的な判断をされていますし、多くは一人前の大人の選択だろうと思います。


(5)直接は知らないが、親鸞会に興味がある方へ

 『ジャンヌ』の管理人は単なる一人の元会員で、会員としての活動期間は一年にもならなかった者です。
 わたしの考えを一つの情報提供としてここに公開させて頂きましたが、断じてこれが親鸞会のすべてではありません。もちろん、わたしの考えが正しいとは限りません
 どうか、ほかの資料や会員さん・元会員さんのお考えにも触れてください。


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