3.科学の方法とはどのようなものか




 1.科学の方法で考える意味

 前項では、わたしが親鸞会の教義が真実だと思い込むに至った「親鸞会の教義の真偽そのものとは関係なく働くメカニズム」について述べました。
 つまり、親鸞会の教義が真実かどうかにかかわらず、「信念の方法」で親鸞会の教義が真実だと思い込んでしまうような要素は十分にあるわけです。

 もちろん「信念の方法」の考えに従って行動することが必ずしも悪いわけではありません。どのように生きるかは個人の自由ですし、特に宗教の選択に関して理攻めで考えなければならない理由はないでしょう。

 ただ、わたし自身は、基本的に「科学の方法」を基盤として行動するようにしています。その理由についても、ここで少し説明させて頂こうと思います。

 たとえば、出かけるときに「傘を持っていくかどうか」迷ったとします。


 (1)天気予報によると、今日は雨
 (2)ゲタ占いによると、今日は晴れ


 「傘を持っていく」という行動を決定する際、”天気予報”と”ゲタ占い”のどちらを信じるかというわけです。このとき、根拠に乏しい”ゲタ占い”よりは、長年多くの学者たちによってテストされてきて一定の成果をあげている”天気予報”を信じる方が妥当でしょう。

 このように、自分がどのように行動するか決定するために、いくつかの主張の中から一つを優先的に選択しなければならないとき、最も「合理的」なのは「科学の方法」で考えることです。

 ただし、ここで「合理的」というのは、「科学の方法」に絶対的な信頼性があるという意味ではありません
 天気予報を信じて傘を持って行ったのに雨が降らなかった、という経験をお持ちの方もおられると思います。
 科学の方法で行動の基礎とする理論を選択することの「合理性」にもかかわらず、その選択が実際に成功的だろうと期待するもっともな理由はないのです。

 わたしは「科学の方法」で考えた結論を基盤に、親鸞会を退会するという行動をとりました。
 その選択の正しさが絶対的に信頼できるわけではありませんが、少なくともそれは「合理的」な選択だったと考えています。
 「科学の方法」とは純粋な理論家の視点ですが、それはわたしたちが実際の行動を選択する際の参考としても無価値ではないでしょう。


 それでは、どうして「科学の方法」で考えると”自分の行動を決める基準として、親鸞会の教義を選択すべき合理的な理由はない”という結論になるのか、説明していきたいと思います。




 2.科学の方法とは

 具体的に親鸞会について「科学の方法」で考えていく前に、一般的に「科学の方法」とはどういうものであるか、説明させていただきたいと思います。
 先ほど曖昧に流してしまった、行動の基盤とする理論を選択する際に「科学の方法」で考えるのが合理的なのはなぜかということも、ここであわせて考えます。

 と言っても基本的には、「信念の方法と科学の方法」という一番最初の項で、「愛は勝つ」の例を用いて述べた通りです。
 つまり、「愛」「勝つ」とは何かハッキリ定義し、「こういうケースが起きたら仮説は間違い」と最初に提示し、大勢でチェックするのが科学の方法で、そのようにして確かめられれば立証されたと言えるわけです。

 おおよそのイメージは以上でよいのですが、ここでは「何が科学的で、何が科学的でないのか」、もう少し詳しく考えてみます。

 科学的に妥当だと言えるためには、まず第一の条件として「現実・現象を説明できること」が満たされなければなりません。
 しかし、その条件さえ満たしていれば、科学的に妥当だと言えるわけではありません。
 なぜなら、矛盾のないうまい説明をするというだけならば、“世の中の色々なこと”を説明する説明体系は無数に存在するからです。

 そこで、科学的に妥当といえるための、第二の条件を考えなければなりません。
 それは「現実・現象を予測できること」です。

 この二つの条件を兼ねそろえなければ、科学に妥当だとはみなされません。もちろん、その説明や予測はすべて言語によって表現されていなければなりません。
 親鸞会の教義の真偽について科学の方法から考える場合も、この二つを考える必要があります。


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 科学的に妥当だと言える条件(1)現実・現象の説明

 科学的に妥当だと言えるための第一の条件として、「現実・現象を説明できること」が挙げられます。

 ここでいう「説明」とは、何でもかんでもただ説明すればよいのではなく、矛盾のないうまい説明をすることです。
 「矛盾のないうまい説明」とはどういうことか、具体的な例で考えてみます。


 ある人が、A社の赤い車ではなく、B社の青い車を買ったのはなぜか



(1)この答えを科学的に説明するには、その説明自体に矛盾が含まれていてはいけません(説明の中に矛盾が含まれていないことを内的妥当性があると言います)。


 たとえば、「その人は赤色が好きだ」と言っておきながら、「買ったのは車が青色だったからだ」と説明したのでは内的妥当性があるとは言えません。



(2)その説明と現実とが食い違ってもいけません(説明と現実が食い違っていないことを外的妥当性があると言います)。


 「アフターサービスがよいと判断されたA社の車が購入された」と説明したのに、その人が本当はA社のアフターサービスはよくないと思っていたとすれば、その説明は外的妥当性がないことになります。



(3)説明の根拠となる現実は、測定するたびに同じ結果が得られる安定的なものでなければなりません(このことを信頼性といいます)。


 その人は確かに午前中は赤色が好きだったのに、午後には青色が好きになったというのでは、色が決め手となって購入が決定されたという説明は信頼性がないことになります。



 (1)(2)(3)のように、矛盾のないうまい説明とは内的妥当性・外的妥当性・信頼性がある説明のことです。


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世の中の色々なことを説明する説明体系は無数に存在する

 たとえば、「わたし、“ゆう”はまさに神そのものである。わたしは全宇宙を30秒前に創造した」という仮説を考えてみます。
 明らかにばかげた仮説ですが、実はこれでも矛盾のないうまい説明だと言えてしまいます。

 まず、説明の中に矛盾は含まれていません(内的妥当性がある)。
 次に、説明と現実の食い違いは発見できません(外的妥当性がある)。

 外的妥当性があるということに関して、納得できない方があるかも知れません。
 その人は、「あなたは30秒前にこの宇宙を創造したとおっしゃるが、私は何年も前の記憶を持っている。だからあなたは神ではない」と反論するでしょう。
 しかし、わたしは次のように答えることができます。「わたしがこの宇宙を創造したとき、すべての人間を記憶をもった状態で創造したのである」。結局、説明と現実が食い違っているという証拠は、発見できないのです。

 もちろんこの仮説は科学に妥当とは言えませんが、確かに現実・現象を矛盾なくうまく説明していることには違いありません
 よって、信念の方法で考えたときでも「矛盾なくうまく説明できる」という条件を満たすときはあると分かります。


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科学的に妥当だと言える条件(2)現実・現象の予測

 この第二の条件につきましては、「どのようにして相対性理論が“科学的真実”だと認められるようになったか」という具体的な例を示して説明させて頂きたいと思います。

 1905年、アインシュタインは相対性理論を発表しました。
 ところでその相対性理論は、実験の結果から生み出されたものではありません。アインシュタインの頭の中から生み出され、卓越した数学の技術でまとめられたものでした。

 相対性理論は最初、さまざまな物理現象を「説明」する仮説として導入されました。
 たとえば当時、ニュートン力学によって水星の軌道を計算すると、実際の水星の軌道と約43秒のズレが生じることが知られていました。ニュートン力学では、水星の軌道を「説明」できなかったわけです。相対性理論を導入すれば、この謎を「説明」することができました。

 相対性理論は、科学的に妥当だと言えるための第一の条件「現実・現象を矛盾なくうまく説明できること」を満たしていたわけです。

 しかし相対性理論の内容の多くは、おいそれと実験で確認できないような突拍子もない内容でした。それが正しいと信じられるに至るには、多くの実験や観測を重ねることが必要だったわけです。
 だから、世界中の科学者が即座に相対性理論を真実と受け入れたわけではないのです。そうして長い間、相対性理論は「科学的真実」ではなく「仮説」のままでした。

 そこで注目されたのが、1919年5月29日の皆既日食です。

 相対性理論によると「重力は光を曲げる」ことになっています。
 もしその仮説が正しいとするならば、太陽が近くにあると、太陽の重力によって星の発する光が曲げられて、星は本来あるはずの位置と違ったところに見える、ということになります。
 つまり、アインシュタインの理論が間違っていれば、太陽がある・なしに関わらず星は同じ位置に見えます。しかし、相対性理論が正しければ、太陽が近くにある時とない時では星の見える位置が違うのです。

 太陽が普通に出ているときは、太陽がまぶしくてその周囲の星は観測できません。このアインシュタインの仮説を確かめるには、皆既日食を待つしかありませんでした。
 そこで1919年の皆既日食の観測がアインシュタインの予測通りになるかどうか、ということが注目を浴びたわけです。
 そしてその結果、同じ星でありながら「アインシュタインの予測通り」にその位置が違って見えることが確認されました。

 アインシュタインの理論以前に、日食の時と、そうでない時の星の見え方が違うことを観測した人はいませんでした。だから彼は、すでにある観測結果に合致するように調節した理論を立てたのではありません。
 アインシュタインは、自分の理論から導き出される「予測」をしたのです。

 他にも、相対性理論による「光速に近づくと時間の流れが遅くなる」という驚くべき予言も、時間の遅れの直接の証拠である横ドップラー効果の観測により、正しさが証明されています。

 アインシュタインの相対性理論は、数々の「自分の仮説が正しければ、こういうことが起きる。自分の仮説が間違っていれば、こういうことが起きる」という「予測」をして、実験や観測によってそれが確かめられていき、ようやく科学的に妥当だとみなされたのです。
 また、予測ができるということは、その理論に従って原子爆弾を爆発させるなど、現実・現象をコントロールできることにもつながるでしょう。


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 3.反証可能性のない仮説

 ところで、第二の条件「現実・現象を予測できない」に当てはまっているかどうかは、次の2ステップで考えます。


 (1)仮説が何を予測しているか
 (2)仮説の予測と、現実・現象が食い違うかどうか


 (2)で予測と現実が食い違うならば、科学の方法によって仮説の誤りが証明されたと言えます。もしもアインシュタインの予言と現実が食い違うならば、相対性理論は誤りだと言えるわけです。
 そのように、間違いだと証明されることを反証と言います。

 たとえば創造論を唱えるJ・M・プライスの主張などは、これに当てはまります。
 プライスの予測が現実と食い違うことが反証となり、科学の方法によって彼の説は誤りだと言えます。

 ところが、その(2)の段階に進むことさえできずに、(1)の段階で止まってしまう仮説があります。それは、そもそも何も予測をしていない仮説です。予測がなければ、予測が現実・現象と食い違うかどうかも確かめようがないわけです。

 創造論者で例を挙げるならば、フィリップ・ゴスの主張がこれにあたります。神は過去の化石遺物すべてを伴って地球全体を創造した、という説です。
 彼の説明ならば、どのような事態が起こっても矛盾なく説明できます。それは一見して凄いことのようですが、融通が効きすぎるために「こういうことが起これば間違い」だという事例が存在しないのです。

 このように、何の予測もしておらず、何が起こっても反証されることがない説明のことを、反証可能性のない仮説といいます。
 反証可能性のない仮説の真偽は、科学の方法で確かめることができません。つまり、反証可能性のない仮説は科学の方法の対象外で、信念の方法によるものに過ぎないわけです。

 反証可能性のない仮説の例として有名なものとしては他に、ユダヤの陰謀論バチェルダー理論フロイトの精神分析などが挙げられます。


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創造論

 進化論では、生物は長い地質時代を通じてゆっくりと進化してきたと考えます。
 それに対して、聖書の創世記を文面どおり信じて、地球は紀元前4000年ごろに6日間で創造されたと考えるのが創造論です。


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J・M・プライス

 進化論が正しいならば、古い化石ほど下の地層に埋まっているはずです。
 ところが実際には、原始的な化石が地表近くに、進んだ生物の化石が地下深くに埋まっている地域があります。

 伝統的な地質学者は、化石が正しい順序で堆積した後に地震などが起こって、地面がひっくり返ったのだと説明します。
 プライスが言うには、そういった説明は、進化論を事実に合致させるために後から考えられた工夫に過ぎません。

 すべての地層は天地創造の6日の間に、大洪水でまとめて堆積したと考える方が理にかなっている、とプライスは言います。
 それならば、地質学者が言うような余計な解釈を付け加えずとも、化石が進化の順序どおりに堆積していないことを説明できるというわけです。


 この主張に対しては、数多くの反証を挙げることができます。

 たとえば、もし大洪水によって化石が進化の順序と関係なくランダムに堆積したのならば、正しい順序の場合と逆の順序の場合はほぼ同じ割合で存在するはずです。
 しかし実際には、正しい順序で並んでいる地域の方が圧倒的に多く見つかっているのです。

 あるいは、プライスの主張が正しいならば、放射能による岩石の年代測定を行えば、すべての岩石がほぼ同じ紀元前4000年前のものだという結果が出るはずです。
 しかし実際には、古い化石が埋まっている地層ほど古く、新しい化石が埋まっていた地層は新しいという結果がでました。そして、古い地層は進化論で予想された通りに何千万年も昔のものだったという結果が出ています。

 化石の順序が逆転した地層からは、足あとなどの化石もさかさまになって見つかります。
 これは「進化の順序とは逆に埋まっている地層は、堆積後にひっくり返ったのだ」という地質学者の予測どおりですが、プライスの主張では説明できません。

 プライスの主張と進化論とを比較した場合、進化論の方が現実をうまく説明でき、なおかつ現実を予測しています。少なくとも、科学の方法で考える限りは、進化論の方を優先して選択すべきだという結論になります。


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フィリップ・ゴス

 神は過去の化石遺物すべてを伴った状態で地球全体を創造した、という説をゴスは唱えました。

 これは、生物が長い歴史の中でゆっくりと進化してきた数々の地質学的証拠を全て認めた上で、なお神による6日間の天地創造が真実だったと、論理的破綻を一切起こさずにうまく説明します。

 「現実・現象を矛盾なくうまく説明する」という点におけるゴスの理論の完全さは、M.ガードナーが次のように述べている通りです。

 

 それが提案している理論は全く完全で、また地質学上の事実にもよく合っており、したがってどんなに大量の科学的証拠をもってきてもどうしてもこれを論破できないだろう(『奇妙な論理 I』95頁)



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ユダヤの陰謀論

 ユダヤの陰謀論とは、「世界のすべてはユダヤ人に牛耳られている」という仮説です。
 それによると、阪神大震災や『ET』の大ヒット、アメリカでの離婚の急増までユダヤ人の陰謀として説明されます。

 これに反論すると、「あなたが反論の元にしている資料は、ユダヤが偽造したニセモノだ」とか「あなたの考え方そのものが、すでにユダヤによってコントロールされている」と説明されてしまいます。

 陰謀論者の世界観は完璧で、こちらが思いつくような疑問に対してはたいてい反論が用意されているのです。


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バチェルダー理論

 実験によって超能力の実在を証明しようと試みられることがあります。
 そうしてトリックが使えないような厳しい状況を設定すると、カードの透視や念動力に関して普段は高い能力を発揮している人物が、急に常人並みの成績しか出せなくなることが多々あります。

 K・J・バチェルダーはそのことを、「人間にはすべて超常現象を認めたくないという心理があるからだ」と説明します。
 つまり、科学の方法で超能力の実在が証明されるのはイヤだという無意識の思いが「反超能力」となって、超能力者は実験の場では超能力を発揮できなくなるというのです。

 だから、超能力の実在をハッキリと証明してしまうような説明は成功しないけれども、トリックを使う余地のある実験ならば超能力は発揮できるというのがバチェルダーの主張です。
 これも説明としては完璧な理屈ですが、この説明の真偽を科学の方法で確かめることはできません。


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フロイトの精神分析

 フロイトは、人間の行為をすべて性欲で説明します。
 彼によると、子どもを溺れ死なせようとして川に投げ込む男の行為は、エディプス・コンプレクスの抑圧に苦しんだ結果です。また、その子どもを助けようとして川に飛び込む男の行為は、その抑圧の昇華に成功したからだと説明されます。

 「何が起ころうとも、自分の理論で説明できる」のは理論の強みのようですが、実はそれは科学の方法では確かめられない、信念の方法による仮説に過ぎないことの証明でもあるのです。


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 補足.立証責任の重み

 ところでハインズ博士が詳しく述べているように、科学の方法では、立証責任(主張を証明する責任)の重みは法外なことを主張している側の方が大きくなります。

 親鸞会の教義は「死ねば間違いなく地獄に堕ちる」「それを免れるためには、阿弥陀仏の本願力に救いとられるしかない」といったものです。
 これは世間一般からみると「とてつもないこと」なので、認められるためには「よほどの証拠」が必要になると考えられます。

 「立証責任の重み」という考え方は少々分かりにくいかも知れないので、例を一つ挙げておきます


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引用:ハインズ博士が詳しく述べている

 疑似科学の支持者はよくこんな不満をもらす。
 “正統な”科学者たちに要求する場合と比べて、自分たちに説明しろと要求する場合、その仕方が厳しすぎるのではないか、と。

 実はこれはもっともなことなのだ。何しろ、とてつもないことをいいだすには、それなりの証拠が必要となるからである。

 たとえば、超越瞑想に関する次の二つの主張を考えてみよう。


 (1)超越瞑想は人の気分をよくしてくれる。
 (2)超越瞑想を学べば重力に抗して思うままに空中浮遊する術を体得できる。


 第一の主張については、瞑想体験をした大勢の者が気分がよくなったといっているのを聞いて、大抵の人間は確かなものとして受け入れるだろう。

 明らかなことだが、第二の主張を認めるには、もっと証拠が必要となってくる
 つまり、自由に浮遊する術を心得たと称している人間がいくら多くいたとしても、彼らの言葉を信じる者はまずいないからだ。むしろ証拠をさらに要求するだろう。

 しかし、写真ではだめだ。超越瞑想運動の促進者たちは、人間が宙に浮かんでいる写真を偽造した前科があるからである。誰かが実際にあなたの目の前で浮かびあがりでもしなければ、到底あなたは納得しないだろうし、手練の奇術師でも連れてきて、仕掛けがないかどうか確かめてもらいたいと考えるだろう。

 つまり、第一の主張よりも第二の主張のほうが、厳しい確認条件が必要となるのである。
 そのため、単に立証責任が疑似科学の側に置かれるだけではなく、その責任の重みは、すでに知られている事実に矛盾しない主張をする者に対して要求されるよりも、はるかに大きいのだ。

 (『ハインズ博士「超科学」をきる』(11・12頁)


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「立証責任の重み」に関する例

 次に挙げる「博士」の主張のどこがおかしいか、分かられるでしょうか。


博士「サンタクロースは実在すると、知っておるかな」

妻 「何バカなこと言ってるの、あなた、気は確かなの?」

博士「毎年のように何百人もの子供がサンタを見たと言っておるのだよ。子供たちが全員ウソをついているなどと、考えられるかね。アポロ八号に乗船した宇宙飛行士だって、地球と月との間でサンタを見たと報告しているのだよ」

妻 「ただのクリスマスジョークじゃないのかしら」

博士「ちがう! 騙されているのが分からないのかね。本当は、NASAが真実を隠しているのだよ。それに“サンタより太郎くんへ”などと書かれたカードが添えられた贈り物が、クリスマスの朝にツリーの下にあるのはどう説明するのかね? そのカードは、いったいどこから来たというのか」

妻 「子供にサンタの夢をみせてあげたいと願う、親が仕組んだのでしょう?」

博士「親が関与してないことが明らかに分かっている事例も、少しだがちゃんと存在するのだ。それをどのように説明できるのかね? ほら、説明できないだろう。やっぱり、サンタクロースは実在するのだ」


 この場合、「立証責任の重み」から、博士が「よほどの証拠」を積極的に提示しない限り、サンタクロースが実在するという「とてつもないこと」を信じる理由はありません。

 また、反証(間違っているという証明)ができないことを理由に、その主張が正しい証拠だと見なすのは、適当な議論ではありません。

 余談ですが、サンタが存在「しない」ことの証明を批判者に押しつけるような議論の進め方は、立証責任の転嫁論法と呼ばれ、相手をごまかして納得させるのによく使われます。


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