2.信念の方法で思い込む過程




 1.二種類の情報

 では、わたしはどういう風に「思い込み」をしてしまったのかということから、具体的に見ていこうと思います。
 …が、その前に、「ラーメン屋で注文を選ぶ時にわたしたちはどのような思考をするか」ということを考えてみたいと思います。

○頭の中には、「しょうゆラーメンはうまい」「チャーシューは贅沢」といった人それぞれの記憶があります。このような「AはBだ」といった知識・先入観など「ビリーフ」といいます。

○周囲には、バターラーメンのおいしそうな匂いがたちこめ、うまそうにチャーシューを口に運ぶ人がいます。これらは、その場その場で五感から入ってくる情報です。

 このように、わたしが意思を決定する過程で参考にする情報には二種類あります。
 「あらかじめ持っている知識や偏見」からの情報と、「その場その場の状況」からの情報です。

 そうして、「この店のしょうゆはうまいから、今日はそうするか」「いい匂いだし、今日はバターラーメンにするか」などと考えるわけです。




 2.「思い込み」とはどういうことか

 前の話を受けて考えると、一口に「思い込み」といっても、2種類あるということが分かります。

 一つは、「その場その場の状況」からの情報による思い込みです。
 たとえば、セールスマンの口車にうまく乗せられて、「この英会話セットって素晴らしいのね」と思い込んでしまった場合がこれです。
 時間が経ち、状況が消えれば「こんなもの役に立たない」と気がつくわけで、これは一時的な思い込みだと言えます。

 もう一つは、「あらかじめ持っている知識や偏見」そのものによる思い込みです。
 英会話セットを崇拝する家庭に生まれ、寝ても覚めても英会話セットは素晴らしいという教育をされ続けた場合がこれに当たります。
 これは、ちょっとやそっとでは変わらないので、長期的な思い込みだと言えます。


 わたしは「親鸞会で教えられている道を求めぬけば、人生の目的が達成できる」と思い込んでいた、と先に述べました。
 その「思い込んでいた」というのは、長期的な思い込みのことを意味します。

 具体的には、
善因善果・悪因悪果・自因自果という因果の道理がある。
だから自分は、死ねば必ず地獄行きだ。
どうにかしてその一大事を解決して、絶対の幸福の身になりたい。
そのためには、会長の話を聞いたり、お勤めや六度万行をするのがよい。
このことを明らかにした親鸞上人や蓮如上人の教えを正確に伝えてくれる、親鸞会の会長や会員さんの言うことが正しい。

…という内容が真実だという長期的な思い込みをしました。

 『ジャンヌ』では便宜上、上に五つ箇条書きにしたような思い込みのことを「親鸞会ビリーフ」と呼ぶことにします。
 ビリーフという耳慣れない表現をあえて用いるのは、言葉に感情的な肯否がつくのを極力避けるためです。

 この思い込みは、一瞬で劇的に起こったものではありません。おおざっぱに分けると、次のような段階を踏んでいます。


 (1)親鸞会ビリーフの存在を知る
 (2)親鸞会ビリーフに魅力を感じる
 (3)親鸞会ビリーフの全容を知る
 (4)親鸞会ビリーフを受容する


 次に、この各段階について具体的に見ていきます。




 段階(1)親鸞会ビリーフの存在を知る

 親鸞会ビリーフを受け入れる前には、当然、誰かからその存在を教えてもらう段階があります。
 わたしの場合、大学の入学式が終わった後で親鸞会の人に声をかけられたのがきっかけでした。

 ところで、わたしは自分で親鸞会に興味を持って話を聞いてみたいと思ったのかというと、そうではありませんでした。
 わたしが親鸞会の話を聞くことになったなりゆきは、一時的な思い込みの積み重ねだったと言えます。


 たとえば、はじめて声をかけられた時に親鸞会の勧誘の人についていったのは、教えの内容に興味をもったというよりは、終始にこやかで親切そうな勧誘の人の熱意にうたれたのが主な原因でした。
 これは社会心理学の分野では、返報性の原理好意性の原理で説明されることです。

 また、2日目以降も話を聞きに行く気になったのは、教えの内容に興味をもったというよりは、一般的な意味での教養や礼儀作法が身についたり、ディスカッションの練習ができる文化サークルだと思っていたからです。

 「このサークルで勉強したOBが各界で活躍している」という話や、会合で出てくる徳川家康やトルストイ、利根川進などの名前に魅かれたということもあります。
 これは社会心理学で言うと、権威性の原理にあたるでしょう。


 このような「一時的な思い込み」は「長期的な思い込み」の直接の原因ではありません。
 しかし、一時的な思い込みによって「ちょっと話を聞いてみよう」と思ったことが、次の「長期的な思い込み」のステップにつながっていったとは言えます。


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一時的な思い込みの積み重ね

 一般には、「人間は自由な意志に基づいて行動を決定している」と思われています。
 しかし実は、個人の趣味や嗜好、欲求や性格といったもの以外に、「状況の力」が個人の行動に常に作用しています。

 たとえば、デパートでまだ買う意志も定まってないのに「どういったものをお探しですか」と聞かれると、何か買わなければならない気になったりします。

 ここで「一時的な思い込み」と言うのは、こういった暗黙の強制力の結果のことです。


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返報性の原理

 一般に人は、物品や愛情、名誉などを人からもらったら、お返しをしないといけないと思います。
 相手にだけ損をさせると、相手に対してずるいという感情がおこり、不満になるわけです。

 このルールをセールスの世界で応用したのが、試供品を配ったり、戸別訪問で親切に振舞ったりして承諾を誘導するテクニックだと言えます。

 セールスのほか、破壊的カルトと言われる反社会的な集団もこれを用います。


 破壊的カルトの勧誘でも、相手をほめるなどしてお世辞を多用するところがある。
 たとえば、彼らは被勧誘者に「あなたは良い人だ」「あなたは素敵な人だ」「あなたのように真面目に人生を見つめている人はめずらしい」などとほめちぎる。(「マインド・コントロールとは何か」101頁)



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好意性の原理

 人は、どのような相手に好意をもつのでしょうか。

 それは、自分と意見や嗜好が類似する人距離が近くにいる人などです。

 ザイオンスは、単なる接触頻度の多さが、相手の好感度に影響を与えることを実験で明らかにしています。


 女学生に、スライドで2秒ずつ10人の男性の写真を見せる。
 スライドの数は89枚で、10人のうちのある男性はその中に何十回と出てきて、ある男性は一度も出てこないなど、ばらつきをもたせる。

 見終わったあとに、その10人の男性がどれほど魅力的か評定させる。
 すると、スライドに出てきた回数が多かった男性ほど、魅力的だと評価された



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権威性の原理

 人は権威に弱いものです。
 たとえばセールスでも、通信販売の広告にもっともらしい米国の研究所や大学の名前を出したりします。


 破壊的カルトの勧誘でもこれを用いる。たとえば、組織のメンバーには有名な大学や大学院の出身者や関係者がいると伝える。

(略)

 あるいは、政界や経済界、学術会の大物、権威ある有名な機関や著名な人物が、自分たちの組織やその活動を高く評価していると吹聴する。
 まだ何も組織のことを理解しない被勧誘者は、それらの評価に反応してとりあえず足を向けてみようとする。(『マインド・コントロールとは何か』106頁)



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 段階(2)親鸞会ビリーフに魅力を感じる

 親鸞会ビリーフの存在を知る機会を得た次に、親鸞会ビリーフに魅力を感じる段階がありました。

 聞きはじめで何に興味を引かれるかは人それぞれですが、わたしが魅力を感じたのは相対の幸福と絶対の幸福の話でした。
 確かにその通りかも知れないと思いました

 また、この話を聞くことは、これまで相対の幸福だけを考えて生きてきた自分の否定にもつながり、それまで持っていた価値観や考え方への自信を失わせることにもつながりました。

 余談ですが、わたしが親鸞会に魅力を感じた経緯は、現代の日本人の若者が新宗教に入会する際の典型的なパターンに類似しているとも言えるようです。


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相対の幸福と絶対の幸福の話

 わたしが聞いたのは、次のような内容の話でした。


 相対の幸福とは、お金や名誉や健康など、世間一般でいう幸福のことだ。しかし、これには3つの欠点がある。

 1つは「続かない」こと。地位や名誉も永遠に続くものではないし、家や財産も火事や大水で失われる。
 2つは「きりがない」こと。どれだけお金を貯めこんでも、もっと欲しい、もっと欲しいというばかりで、これで満足ということがない。
 そして3つ目は「必ず死によって崩れる」こと。

 世の中は無常で、いつか必ず自分は死ななければならない。そして、いくら地位を得ても、財を築いても、死ぬ時にはタオル一本もっていけない。

 だから、そんなものではない「絶対の幸福」にならなければ、本当に幸せだとは言えない。



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その通りかも知れないと思った

 個人的な話になりますが、わたしが「相対の幸福」を聞いた時にどう思ったかについて少し述べさせていただきます。

 そのような話は、そこで初めて聞いたというわけでもありませんでした。
 たとえば、テレビ東京系列のアニメ『少女革命ウテナ』(ビーパパス、1997年)に、次のような台詞がありました。


生きてるのって、なんか、気持ち悪いよね。
どうせ死んじゃうのに、どうしてみんな生きてるんだろ。
なんで、今日までそのことに気づかなかったんだろ。
……永遠のものなんて、あるわけないのにね。

(『少女革命ウテナ』 第9話「永遠があるという城」より)


 死がきても崩れない「永遠のもの」はこの物語の主要な要素でした。しかしそれはあくまで抽象概念で、作品中で「永遠のもの」が具体的に示されることはありませんでした。

 文学でも同じです。たとえば三田誠広の小説『いちご同盟』(河出書房新社、1990年)では、主人公は「人間は死んでしまえばおしまいだから、生きていてもしょうがないのか。だったら死んでしまえばいいのか。それでも生きていくとはどういうことなのか。人間はなぜ生きていくのか」といった問題にぶち当たります。

 主人公がそれらのことを考えるようになったきっかけは、ある少年の自殺でした。少年は、こう書き残していました。


むりをして生きていても
どうせみんな
死んでしまうんだ
ばかやろう

(『いちご同盟』10頁)

 この小説中にも、「なぜ生きるか」の答えがハッキリと形をもって提示されているわけではありませんでした。
 中学2年のときにこれを読み、結局なぜ生きるのかと考えたものでした。

 「なぜ生きるか」という問題はすぐさま解決するようなものではなく、「途上」に耐えるということを、わたしたちは強いられます。
 しかし親鸞会の先輩は、「このサークルは、その答えを教えているのだ」と、わたしに話したのです。

 つまり、生きている間にハッキリと体験できる「絶対の幸福」があり、先輩たちはすでにそうなっているというのです。
 半信半疑ではありましたが、その言葉はとても魅力的に聞こえました。


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新宗教に入会する典型的なパターンと類似

 これについては、幾つかの書籍からの引用で説明にかえさせて頂きます。


 つぎに勧誘者は、個人のニーズに応じた明白な解決策や解答を提示する。
 そしてこれまで被勧誘者が、他から入手して試みてきた方法や手段では、いくら試みてみても今後も解決し得ないことを強調する。

 つまり勧誘者は被勧誘者の迷っている問題を理解し、右に行けばこうなる、左に行けばこうなるなどと明白に説明し、正しく歩むことのできる唯一の道が必然的にあるかのように説明するのである。

(『マインド・コントロールとは何か』155頁)



(1)そういう問題のある自分や世界に「耐える」力の弱さと、したがって、(2)自分や世界を肯定できるためには今すぐ問題の全面的解決を見たいという衝動である。

どのカルトも、現代の若者のこの弱点に乗じている。
まず強烈に「自分もこの世界もダメだ」と思い込ませ、それから突如「究極の」解決や解決者を提示する。

 (『新宗教と日本人』176頁)



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 段階(3)親鸞会ビリーフの全容を知る

 内容の一つでも魅力を感じると、他の教えにも興味を持つようになります。

 聞き始め1ヶ月ほどの会合では、教義はトピックごとに切り離して教えられました。「無常観」、「因果の道理」、「人生の目的」、「罪悪観」、「仏法は聴聞に極まるということ」、「後生の一大事」などなど。

 ゴールデンウィークに行われる合宿あたりから、それらが一つの筋道にまとめられて話されるようになりました。


 自分は無常の身で、いつ死ぬか分からず、相対の幸福をいくら求めても幸せにはなれない。しかも、自分は罪悪が深く重く、因果の道理(善因善果・悪因悪果・自因自果)にしたがえば、死ねば地獄行き間違いない。

 だから信心決定して、その後生の一大事を解決して、大安心大満足の、絶対の幸福の身にならなければならない。そのためには、聴聞やお勤め、六度万行などの求道に励めばよい。

 これが親鸞上人やお釈迦さまの教えだが、この真実の教えを正しく伝えているのは、現在では親鸞会しかない。


 親鸞会の教えのある部分に魅力を感じ、ある部分は疑問に思っているという状態だったわたしは、ここで、教えを全部受け入れるか否か、という判断に立たされました。

 その時わたしはその判断を客観的・論理的にできたのかというと、そうではありませんでした。
 人間には、陥りやすい思考の落とし穴や先入観があります。それらの影響を、わたしは十分に自覚していませんでした。

 わたしがそれまで抱いてきた確信を揺るがし、親鸞会の教えこそが現実を正しく反映しているのだと思わせた要因として、教えの内容そのものとは別のものが考えられます。
 それは、教義の真偽自体とは関係のない「リアリティ」です。

 たとえば錯誤相関によって個人的なリアリティが構築されることがあります。
 何かいいことをして、その後にいいことがあれば、因果の道理が本当ではないかと思うようなことがこれに当たります。


 また社会的なリアリティも、教義自体の真偽と関係なく形成されます。

 たとえば親鸞会では、合宿を行って集中的に教義の説明を行うことがありますが、その間は、家族や友人から離れて、会員さんとばかり接することになるので、それだけで社会的リアリティは増します。

 他にも、会の講師の方や先輩から同じことを何度も繰り返し説明されることも、社会的リアリティを構築する原因になります。

 もっと単純な話では、ハイデッガーや利根川進など、有名な人の名前を出されるだけでも、実際の客観的真実性とは関係のない社会的リアリティを感じます。

 特に大きいと思われるのは、毎日部会に出ているというだけで、かなりの時間を親鸞会の会員さんに囲まれて過ごすことになるという、多数派の影響力です。


 親鸞会の教義を受け入れるか否かを考えるとき、このような実際の教義の真偽とは関係のないリアリティの影響を受けることになります。


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錯誤相関

 錯誤相関とは、実際には存在しない関係を認知したり、実際の関係以上に強い関係を認知することです。
 つまり、実際はランダムに起こっている現象なのに、何らかの規則性をもったデータとして認知してしまうようなことです。

 これは、二つの事柄に相関する関係があると信じている人は、その関係が誤りである証拠よりも、その関係が正しいという証拠に気がつきやすく、記憶してしまいやすいことから起こります。
 また、めったに起こらないようなことが二つ同時に起これば、気づきやすく、記憶されやすいということも原因になります。

 たとえば人為的に起こされた錯誤相関の例としては、次のようなものがあります。


 「神の光ミッション」教団では、照明を暗くし、導師が信者のあいだを歩き回り、ひとりひとりに『神の光』を授ける。視神経が圧迫されたせいで信者がきらめく光を見るまで導師が信者の眼を押して、きらめきが見えると、それが「神の光」だと説明するのだ。

 (略)

 同じ教団で、信者は指で耳を塞ぎ、ぶうんという音が聞こえるまで指に力をこめ、その音が聞こえると、それは「神の和音」だと説明される。

(『カルト』195頁)


 つまり、医学的にじゅうぶん予測される生理現象を体験させ、それを自分に都合のいいように解釈した説明をして、信者を信じさせているわけです。


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社会的リアリティ

 人は、ほとんど無意識のうちに、自分自身の意見や能力を評価しようとして、そのための基準や根拠を求めています。

 そのとき、物の長さを測るための物差しや、時間を測るための時計のような、「物理的なリアリティ」があれば問題ありません。
 しかし、そうしたものが存在しないときは、「社会的リアリティ」つまり「他者の判断」を利用することになります。

 そこで、自分の行動を決定する際にしばしば、「周囲の他者がどのようにふるまっているのか、どのような考えをもっているのか、どのようなことを感じているのか」を参考にすることになります。


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合宿で社会的リアリティは増す


 破壊的カルトは、リアリティを構築させやすくするために、集中的接触による教化をおこなうことが多い。具体的には、勧誘者は被勧誘者を合宿に参加させ、その間、外部との連絡を認めないという方法を用いる集団もある。

 つまり、勧誘者は被勧誘者をそれまでその人が信頼してきた人びとや情報源から隔離し、孤立させ、一方的に自分たちの集団のメンバーにばかり接触する機会を増やす。

(略)

 また、勧誘を開始すると、できる限り、多くの時間を彼らとの接触につなぎ止めておこうとする。場合によっては、勧誘者は、「まだあなたは理解していないから」などの適当な理由をつけて、被勧誘者に口外させないように言いくるめることもある。

 (『マインド・コントロールとは何か』163・164頁)


 ただし、一部の破壊的カルトが行うと言われている、「睡眠不足・栄養不足」になるような合宿は、親鸞会ではありません。
 ここで考えられるのは、接触頻度によるリアリティの構築だけです。

 なお、聞き始めのころ、「よく理解できていないのに人に話そうとすると、失敗して『変な宗教にハマった』と思われることがあるから、やめた方がいいよ」と教えられたことはあります。
 その通りに外部の人に相談をしなければ、実際の教義の真偽とは別にリアリティが増す原因の一つになると考えられます。


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引用:同じことを何度も繰り返し説明される

 モスコビッシは、個人の行動スタイルに一貫性をもたせることによって社会的なインパクトを引き起こすことができると述べている。つまり、いつでも、どこでも、どのような状況にあろうとも、同じことを繰り返すのである。

 (略)

 勧誘者は、被勧誘者がいくら虚偽であろうと主張しても、少しも怯まず、何度でも繰り返して同じ主張を述べてくる。
 そして何度でも同じ主張を繰り返されるうちに、被勧誘者のこころの中に「ここまで主張するのは、やはり本当なのかもしれない、私が間違っていたのかもしれない」といった疑問が生じてくる。

(『マインド・コントロールとは何か』164・165頁)


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有名な人の名前を出される

 人は、権威のある情報源には自動的に追従してしまうことがあります。

 程度の差はあるでしょうが、特に自分がよく知らない分野の内容などでは、権威者からの情報という手がかりを見出すことができると、リアリティを感じてしまうわけです。

 ここでいう権威とは、たとえば有名大学や有名人、マス・メディア、あるいは「科学」「科学者」などです。


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引用:多数派の影響力

 人は、ある意見に対して多数の人が妥当、あるいは正しいと信じていることに強く影響されてしまう。
 特に、全員一致の状況、それから集団凝集性、つまり、集団としての結びつきの強さが強い状況のときに、その力を発揮する。

(略)

 破壊的カルトの勧誘でも、被勧誘者は、出くわす人のすべてから、まったく同じことを聞かされる。あるいはまた、確信のもてない被勧誘者には、複数で囲んで熱心に講義する。

 (『マインド・コントロールとは何か』166〜168頁)


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 段階(4)親鸞会ビリーフの受容

 リアリティの構築以外にも、親鸞会ビリーフを受け入れるかどうかの判断に関わってくる心理作用があります。

 たとえば「やっていけば分かる」奥の深さを強調されたり、実践を優先されます。

 また、コミットメントと一貫性により、些細な承諾が次の承諾を生み、合宿への参加、会への入会といったところにつながります。
 そして、それは単にそのときだけの承諾に留まりません。その行動が、認知や感情といった内面を変化させることにつながるからです。これは、認知的不協和理論自己知覚理論などで説明されます。

 つまり、親鸞会の教えに合うような情報に多く注目するようになったり、「これだけ苦労して求道しているのだから、この教えが嘘では困る」といった正当化が起こるようになったりするわけです。
 そのようにして起こった内面の変化が、長期的な思い込みなのです。


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「やっていけば分かる」


 破壊的カルトは、「やっているうちに、わかる」というセリフを多用しながら、勧誘する場合が多い。
 「わかってから、やろう」という理由で拒絶しようとしても、「いまやらないと、危機には間に合わないかもしれない」「いつもそうやってチャンスを無にしてきたのではないか」と強調してくる。
 被勧誘者が要請に応じて思い切ってやってみると、ほめるなどの報酬を与えてさらなるステップの行動をとらせようとする。

 (『マインド・コントロールとは何か』172頁)


 これと同様のことは、親鸞会にもあります。

 因果の道理が分からないと言うと、こう返されました。
 「仏教は行学だから、頭で考えただけじゃ本当には分からないよ。実際に廃悪修善をしようと努力していくうちに、いいことをしたらいいことが返ってくる、悪いことをしたら悪いことが返ってくる、というのが実感できるよ」

 なお、親鸞会ではハルマゲドンのような世界の危機については述べませんが、自分の死後の一大事と絡めて、「いまやらないと、後生に間に合わないかもしれない」という言い方はされます。


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引用:奥の深さの強調

 宗教的な破壊的カルトの場合には、教義の奥の深さ、高度性を強調される。

 (略)

 私の調査でも、ほとんどの被勧誘者は、常に「疑問は勉強していくうちにわかる」などといわれ、疑問を保留にされていることを確認している。

 これによって、破壊的カルトは常に教義の矛盾をかわすことができるようになるし、被勧誘者の教義への興味を常に引きつけておくことができるようになる。
 つまり、何かしら被勧誘者が腑に落ちない点にでくわしても、「これはまだ自分が未熟であるから」という解釈を自らおこない、集団へのさらなるコミットメントが高まることになる。

 (『マインド・コントロールとは何か』170・171頁)


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実践の優先

 私の事例研究では、十代の終わり頃から二十歳台で破壊的カルトのメンバーとなった人間の多くが、最初に勧誘話を聞くことになったきっかけは、一般的な意味での教養が身につくといった期待性が高く、いつでも止められるつもりで、勧誘者の「些細な要求」に応じたことを示している。

 (『マインド・コントロールとは何か』171頁)


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コミットメントと一貫性

 「コミットメント」とは、「自分の立場を明白にする」という意味の概念です。

 心理学者チャルディーニらの実験結果があります。


 ある仕事を頼む時に、最初から「朝七時」に集まってほしいと頼むよりも、まず「参加すること」だけ承諾させてから、その後で集合時間を告げるほうが、たくさんの人が引き受ける。


 要するに、一度「参加する」とコミットメント(立場の明白化)をした手前、今更「やっぱり朝早いからいやだ」とは言えないわけです。

 セールスへの応用例もあります。
 新車のディーラーは、最初はとにかく破格の好条件で客に対してアピールします。客はそれで、その極端に良い値段で買うことを決定し、契約書にサインします。その後、ディーラーは客がついていると思っていたオプション(エアコンやステレオなど)を追加請求するのです。

 認知的不協和の理論で考えると、こう説明できます。
 人は、「自分は正しい」という強い思いを持っています。
 だから、「正しいはずの自分が、いいかげんで一貫性のない態度をとる」というような矛盾が、自分の内部で起こらないようにするのです。

 あるいは、人は「ちゃんとした一人前」に思われたいという欲求がありますから、時と状況を超えて一貫したスタイルで行動していることを他者に示すことで、「自分は信頼のおけるひとかどの人物だ」とアッピールしようとしているとも言えます。


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認知的不協和の理論

 フェスティンガーが唱えた認知的不協和理論とは、「人間は矛盾した認知を持ちたがらない」ということです。

 「矛盾した認知」というのは、たとえば
 ○タバコを吸うとガンになる
 ○俺は毎日タバコを吸っている

というような2つの認知のことです。2つの「認知」が「不協和」を起こしているのがお分かりでしょうか?

 これが、
 ○タバコを吸うとガンになる
 ○トルコ人は毎日タバコを吸っている

だったら、何の問題もありません。

 しかし、前述のような場合、「自分は正しい」はずなのに何か不協和があるということになり、ストレスを生みます。

 そこで、ストレスは嫌なので、その原因になる認知的な「不協和」を減らしたい(なくしたい)と思うわけです。

 この時、「不協和」を減らすには、いくつかの方法があります。

(1)現実を変える
 タバコを吸うことに問題があるのだから、禁煙して「俺は毎日タバコを吸っている」という事実を変えることができればいいわけです。
 もっとも合理的な方法なのですが、あまり採用されません。基本的に怠け者である人間は、もっと楽な方法へ流れてしまうのです。

(2)現実の認知を歪める 
 「やろうと思えば、どんな強引な屁理屈でもつけられる」という能力が、人間にはあります。
 わざわざタバコをやめなくても、「確かに俺はタバコを吸っている。しかし、ガンになるほど吸っていないだろう」と思い込んでしまえば、認知的な不協和からくるストレスは解消できます。

(3)新しい認知をつくる 
 自分が毎日100本はタバコを吸うヘビースモーカーだったりすると、(2)の方法は使えません。
 しかし、「道を歩いていて、交通事故で死ぬ人もいる。だからと言って外に出ない奴はいないだろう。それと同じで、ガンを恐れてタバコをやめる必要はない」と思い込めばオッケーです。

(4)忘れる
 (3)がダメでも、そもそもの問題の存在を忘れてしまえばそれで大丈夫です。
 現実離れして聞こえるかもしれませんが、実は(1)〜(4)でもっとも頻繁に起こるのがこれだと言われています。

 以上のように、認知的な不協和を減らすためには、矛盾している認知のどれかを変えてしまうわけです。

 その際、変えやすい認知と、変えにくい認知があります。
 たとえば変わりにくい認知は、次のようなものです。

(イ)変化することが苦痛や損失を伴う認知
 ヘビースモーカーならば、禁煙には相当な苦痛が伴います。そこで、(1)のように「自分がタバコをすう」現実を変えようとはせずに、(2)や(3)を選びます。

(ロ)ある点を除けば、満足のいく行動
 自分の子どもを暴力的に扱うことがいけないと知っていても、それで子どもが自分の言うことをきくとしたら、そうした充足感によって、暴力的な親であることをやめられないかもしれません。

(ハ)変化することが単純に難しい認知
 悲しみや怒りといった感情は、コントロールできにくいものです。

(ニ)変えるとほかの要素と不協和になる認知
 一つの認知的不協和を解消しようとするときに、ある認知要素を変えたら、その変えた要素とほかの多くの要素とが認知的な不協和関係になってしまう場合です。


 この「認知的不協和の理論」から、選択的情報接触強制的承諾不十分な正当化などが言えます。


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選択的情報接触

 トヨタの車とホンダの車の、どちらを買うかで迷っている人がいるとします。燃費やスピード、傷つきやすさなど、それぞれがいい面と悪い面を持っています。

 迷っている人は、かなり客観的に両者の利点・欠点をみることができます。

 ところが購入後は、「自分の選択は間違っていなかったと思いたい」という強烈な欲求が出てきて、買った方のいいところ、買わなかった方の悪いところばかりが見えるようになります。

 ところで、買った後で「やっぱりあっちの方がよかった」と思うことがある、と疑問に思われる方もあるでしょう。
 これがもしも「車」ではなく、「シャンプー」など安くて取り返しがつくものならばこのメカニズムは発動しません
 先の疑問を抱く人は、「車くらいすぐ買い換えられる」と思っているリッチな人なわけです。


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強制的承諾

 フェスティンガーらが行った、有名な実験があります。

(1) 大学生を集めて「つまらない作業」をさせ、その作業が面白かったかどうか評価を聞く

(2) 次に、「係の人が急に来られなくなったので、代わりに『これは面白い作業だった』と言って、他の学生に作業のやり方を説明してくれないか」と頼む

(3) その手伝いの報酬は、ある学生には「1ドル(ジュース1本程度)」だけ、ある学生には「20ドル(けっこういい額)」払う

(4) その後学生に、作業が面白かったかどうか、もう一度聞く

 これは、(1)と(4)とで、作業に対する評価がどう変化するかを見るための実験でした。

 結果、20ドルもらった学生は(1)と(4)で評価はほとんど変わりませんでした。そして、1ドルだけもらった学生は(4)の方が作業に対する評価が上がっていました。
 これは、「認知的不協和の理論」にもとづく予測どおりでした。

 20ドルももらったのならば、つまらない作業を面白いとウソをついたことは「お金のためだった」と自分で納得できます。

 しかし、たかが1ドルのためにウソをついたというのでは、納得がいきません。なにせ「自分は正しい」はずなのですから。そこで、「この作業はもともと楽しいものだったのだ」と思い込むようになったのです。


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不十分な正当化

 フリードマンが行った実験があります。

(1) 被験者は、89人の小学2年生と4年生の男子。学校で授業中に、一人ずつ呼び出して実験をした。

(2) まず、スタンフォードの学生と紹介された実験者の男性が、「おもちゃの好みを調べている」と言い、5つのおもちゃを100点満点で評価させる。
5つのうち4つは安物で、1つだけ高価で魅力的なロボットにしておいた。こどもの評価も、ロボットは全員95点以上で、あとは70点台になった。

(3) ここで実験者は、「あとで聞くことがあるから、ちょっと待っててくれ。ロボット以外のおもちゃで遊んでいていいよ」言う。
この際、ある子どもには「ロボットでは絶対に遊ぶな」と強く脅し、ある子どもには「ロボットはダメだよ」と軽く言うだけにする。
また、ある子どもでは実験者は外に出てしまい、ある子どもでは、実験者は同じ部屋の中で仕事を始める。

(4) その後、もう一度おもちゃの評価をさせる。

 すると、実験者が部屋を出て、脅しも弱かった子どもは、面白いおもちゃがあって、遊ぼうと思えば遊べたのに遊ばなかったということになります。
 彼らは、「あのロボットは別に面白いおもちゃじゃなかったんだ」と評価が変わりました。

 一方、実験者が部屋で仕事をしていた子どもは、「先生がいたのだから、面白いおもちゃで遊べなかったんだ」というだけで、ロボットの評価は変わりませんでした。

 実験者が部屋を出ても、強く脅された子も、「こっぴどく叱られるから遊ばなかったんだ」と正当化できるので同様でした。

(5) さらに1ヵ月後、5つのおもちゃを用意して来て、好きに遊んでいいと言う。

 すると、ほとんどの子どもたちはロボットのおもちゃで遊びました。
 しかし、1月前に遊べたのに遊ばなかった子どもだけは、あまりロボットのおもちゃで遊びませんでした。

 ここから、この効果は「長期的」に続くもので、「一時的」なことではないと言えます。


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自己知覚理論

 わたしの叔母に、このような話を聞きました。
 何か胸のあたりが苦しくって、「これはやばいかも知れない」と思っていたら、どんどん悪くなっていった。
 医者に行って本格的な検査を受けたら、「体中何一つ悪いところはない」と太鼓判を押された。そしたら、胸の痛みもコロッと感じなくなってしまった、というのです。

 このような、いわゆる「病は気から」は、実験によっても確かめられています。

 たとえば、バリンズの実験があります。

(1) 男性にヘッドホンをかけ、「これはあなたの心臓の音です」と鼓動を聞かせる。
実際には、その人の鼓動ではなく、音のテンポは自由に操作できる。

(2) 男性に女性の写真を10枚見せ、それぞれの写真の女性がどのくらい魅力的かを評価させる。
そのとき、男性に聞かせる鼓動のピッチを、写真ごとに変える。

 この結果、写真の魅力度が操作された鼓動の速さと関連することが分かりました。
 つまり、「自分はこれだけドキドキしている」という知覚が、無意識のうちに「この女性は魅力的なんだ」という評価につながっていたのです。

 さらにジンバルドーが行った実験があります。


 健全な学生を20数名集めて、看守役と囚人役に分けて、二週間、大学の地下に造った模擬刑務所でそれぞれの役割を演じさせる。

 囚人役は番号で呼ばれ、常に見張られ、トイレに行くにも看守の許可が必要になった。
 一方、看守役は制服や警棒、手錠や監房の鍵を持ち、サングラスで匿名性を保持され、8時間交代で勤務した。


 すると、実験開始からわずか2日目で学生たちに変化があらわれました。


 看守役の役割は囚人役を管理することだけだったはずなのに、いつのまにか交代のときには必ず囚人役を全員並ばせ、反抗的な囚人役をからかったりするようになっていた。

 囚人役は自発的に行動せず、指示に反応するだけになっていった。

 囚人役の学生は、その役割を1週間足らずの間演じるだけで、それまで築いてきたその人のアイデンティティを崩壊させ、服従的で卑屈になった。
 看守役の学生は、権威的で支配的になっていった。


 このように、身をおいている社会的役割によって、人間の行動・考えが変わってしまうわけです。


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 3.思い込みの強化・維持

 上記の四段階を経て、わたしは長期的な思い込みを持つに至りました。
 そして、会員としての活動を続けていくうち、思い込みはさらに強固なものになっていきました。

 その第一の理由として、会員として本格的な活動を始めると、親鸞会ビリーフを誤りと証明するような情報の獲得機会は減少し、逆に正しいことを証明する情報の獲得機会は増大することが挙げられます。
 なぜそうなるかというと、会の持つある種の閉鎖性によるところもありますし、活動によって自由を拘束されることも原因です。また、プライミング効果による影響も考えられます。あるいは、先入観による歪んだ情報処理を行ってしまうことあるでしょう。

 第二に、感情の問題が思い込みを強化するという面があります。具体的には、活動を離れることへの恐怖や、親鸞会会員としてのアイデンティティを持つことによる充足感から、思い込みが強くなる可能性が考えられます。

 第三に、会員として行動することで、前述の自己知覚理論認知的不協和理論から予想される影響を受け、教義を正当化していくことになります。また、単純な行動修正の理論から考えても、普段から会員さんに囲まれ、熱心に活動すると褒められ、不真面目だと怒られたり軽視されたりする状態にあるだけで、活動に励むように動機付けられるでしょう。

 このように、実際の教義の真偽とは関係なく、活動をするだけで種々の影響を受け、思い込みは強化されていきます。


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ある種の閉鎖性

 統一教会やエホバの証人のような「反対文書」を読んではならないという指導を、わたしは親鸞会で受けたことはありません。
 むしろ、世間に遅れないために一般の新聞を読むことは奨励されました。

 しかし、普通の仏教の本を読んでいる時に、同級生の会員さんから「そういうのはあまり読まない方がいいよ」と言われたことはあります。

 人に言われなくても、「教えに疎く、真実の仏法のいろはも分かっていない」と聞いている本願寺の本などを読もうとは、あまり思わないでしょう。
 わたしも、そんな時間があるのなら、会長の著書を拝読する方がよほど光に向かって進めると思っていました。

 結果的に、わたしは親鸞会に反対するような情報に接する機会を持つことが少なくなりました。
 ここで閉鎖性というのは、このような集団全体の風潮のようなものを指しています。


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自由の拘束

 「拘束」と言っても、出家するとか、霊感商法で忙しいということではありません。
 会員として活動を続けると、時間的・金銭的な自由がある程度制限されることになるという意味です。

◇わたしの会員時代のスケジュール(平日)◇
8:00 部室の掃除、朝のお勤めなど
9:00 大学の授業
12:00 昼の会合
13:00 大学の授業
16:40 夕方の部会
18:40 部会後の話し合い、夜のお勤めなど
21:00 帰宅


 平日の基本的な生活は、上記のようなものでした(朝の掃除などは、1年の冬頃から)。
 上記以外に、周辺の大学がすべて集まる朝会合も週に1度ほどありました。これはかなり早く始まるので、人によっては朝の4時とか5時に家をでなければならず大変です。

 そして、毎週日曜日は会長の法話に参詣します。


◇わたしが参詣した会長法話◇
5月 石川、愛媛
6月 岐阜、大阪、富山
7月 横浜、広島、福井
8月 石川、静岡、富山、滋賀、和歌山
9月 愛知、富山
10月 東京、富山、富山、富山
11月 富山、広島、石川、富山、岐阜
12月 神戸、福井、富山、富山
1月 富山、三重、富山、富山
2月 富山、富山、岐阜、福井、東京
3月 和歌山、富山


 多くの場合、土曜日の夜に夜行バスに乗りこんで、日曜日の夜に帰ってくることになります。
 大導師試験に合格した後は、月に一度、祝日に教学講義を受けるようになり、休みの日はさらに少なくなります。


 金銭についても、会員としての活動をつづけるうち、余裕がなくなっていきました。活動のための出費は、わたしの場合次のような感じでした。

交通
宿泊
合宿
会費
建立
報謝
法礼
聖教
アニメ
合計
4月 30300 2000 0 0 32300
5月 14500 2000 0 3500 20000
6月 24630 0 200 0 24830
7月 53010 26000 125 0 79135
8月 19350 3000 400 6995 29745
9月 24665 6000 3850 0 34515
10月 34140 0 23760 2500 60400
11月 40880 6000 12500 5000 64380
12月 29180 2000 4050 15000 50230
1月 35820 2000 7300 28000 73120
2月 36720 2500 4400 6500 50120
3月 11560 2500 2750 5000 21810
その後 2720 9000 0 61800 73520
合計 357475 63000 59335 134295 614105


 1年間で約60万円ですから、平均すると月々5万円ほどかかったということになります。倹約やバイトでどうにかやりくりしていましたが、趣味にまわしたり、食事を贅沢したりといったことはできませんでした。

 このように、活動に打ち込むと必然的に、自由なお金・自由な時間は少なくなりました。


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プライミング効果

 プライミングとは、「火をつける」という意味です。

スラルとワイヤーの実験

 まず被験者に「4つの単語を与えて文を作らせる」課題を50問与えます。
 その際、ある人の課題には「彼」「折った」「足」「腕」などの敵意を暗示するような表現を多く入れるようにして、ある人にはあまり入れませんでした。

 その後、ある人物の行動に関する記述を読ませ、その人物への評価を求めました。
 すると、課題に敵意を暗示する表現が含まれていた人は、そうでない人よりも、その人物を非友好的で、敵意がある人物だとみなしました。


 このように、ある特定の信念を呼び起こすための情報が提供されていると、その方向で思考が行われやすくなります。


 毎日の部会や法話の内容は、基本的に繰り返し同じ内容を話します。
 これは、教えられた内容に従った発想・思考をしやすくなるように「火をつける」効果があると考えられます。

 教学問題を反復して暗記・学習することによっても、この効果が生じるでしょう。
 また、「相対の幸福」「なぜ生きるか」といった、親鸞会の外では理解されない特殊な用語についても同様のことがあると考えられます。
 つまり、これらの言葉を聞くことが「火をつける」刺激となり、半ば条件反射的に判断してしまうというわけです。

 これらの影響が、親鸞会ビリーフへの接近可能性をさらに高めることになるわけです。


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歪んだ情報処理

 先入観や期待は、人の記憶や判断などの思考過程をかなり支配します。
 私たちの目には、あるものがそのまま見えるのではなく、見たいもの、あるいは、見えるのではないかと期待しているものが見えるのです。

ロフタスとパルマ―の実験

 交通事故の写真を見せます。
 その際、ある人には「車が当たったところ」だと言い、ある人には「車が激突したところ」だと言います。

 その後で、写真について思い出してもらい、どのくらいの速度で当たったと思うかを聞くと、「激突した」と言われた人の方が速いスピードだと見積もりました。


ロードらの実験

 死刑に対して賛成派と反対派の大学生をそれぞれ集めます。 次に彼らに、死刑が及ぼす効果について自分の信念を正しいと確認させる情報と、否定させる情報を与えます。両方の情報の量や説得力は、ちょうど同じくらいにしてありました。

 結果、両方の側の大学生とも、自分の信念を確認する証拠を受け入れ、否定的証拠を受け入れようとしない傾向が見られました。
 その結果、両者ともに信念はより強固なものになりました。


 社会的判断であっても、与えられた情報は平等には扱われず、個人の先入観や期待によって採用されたりされなかったりするわけです。

 このことから、ひとたび親鸞会ビリーフを受け入れると、その立場を守る方向で、情報を自動的に処理してしまいがちになると考えられます。
 このことは、「認知的不協和理論」の項で説明している選択的情報接触でも説明されます。


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活動を離れることへの恐怖


 破壊的カルトは、集団の外部にいると何か不幸や危険なことが生じるといった恐怖感、いましか機会がないという切迫感、自分の力ではどうすることもできないという無力感を与えることがある。
 これによって、メンバーは情緒的な混乱状態に置かれる。

 そして同時にメンバーは、その自己破滅的状況から唯一の救い主である教祖への依存新や忠誠心を高めるメッセージを提供される。
 事実上、行動の選択肢をなくしてしまうのである。

 (『マインド・コントロールとは何か』186頁)


 親鸞会では決して、「退会すると不幸になる」とは言われません。
 しかし、いつ死んで地獄に堕ちるのか分からないのだから、いま聞かなければならない、という切迫感はありました。
 また、トルストイが「人生の目的」を何とか自分で考えようとしたが悲劇に終わった話なども聞かされていて、自分でどうにかできるものではないと思っていました。

 わたしの場合は何より、「この世には相対の幸福しかないので、親鸞会の教えを求め切らなければ、結局不幸になってしまう」という思いがありました。


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親鸞会会員としてのアイデンティティーを持つ

 会員どうしで一緒に求道を続ける中で、「あたたかさ」「思いやり」「純粋な人」といった対人魅力や、「わたしたち親鸞学徒」という仲間意識をもった集団の雰囲気が形成されます。
 こうした集団のまとまりを支えるのは、自分たちが真実をしっている唯一の集団だという誇り、いまだ真実知らない人に伝えねばならないという使命感です。これが、他の集団との区別を先鋭化させます。

 このように、活動を続けるうちに、親鸞会の会員、親鸞学徒として自己を同一化し、親鸞会と外部との区別が明確化し、親鸞会だけが社会的比較の源泉になります。

 この自己カテゴリー化によって、わたしが処理する情報は、他の親鸞学徒にも共有される信念に整合するものばかりになったり、会の偏向に影響されるようになりました。
 これが、親鸞会ビリーフの強化・維持につながります。


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行動修正の理論

 古典的な行動主義心理学の応用として言われることですが、人間は嫌悪する状況から回避し、快をもたらす状況へと接近しようとする傾向にあります。

 オペラント条件づけの原理というのがあります。
 望ましい行動をとった者には報酬を与え、望ましくない行動には罰を与えることを繰り返します。すると学習がおこって、自発的に望ましい反応が生じるようになるという原理です。

 要するに、アメとムチで人間の行動がかなり決まってくるという理論です。
 なお、ここでいう「報酬」とは、お金や名声、他者からの承認ということを含みます。


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 補足.思い込みに気がつきにくい理由

 先ほどからわたしは「思い込み」「思い込み」と述べていますが、そんな思い込みをしているならすぐに分かりそうなものじゃないか、と思われるかも知れません。

 しかし、人は他者から受ける影響を過小評価したり、コントロール感の錯覚を起こすことが社会心理学等の実験でも確かめられています。
 思い込みをしていて、それに気がついていないという可能性は、充分に考えられます。


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他者からの影響の過小評価

 人は自分の以前の意見や感情をも簡単に忘れることがあります。
 そのことは、たとえば次のような実験で確かめられています。


(1)学生たちに、ある計画にどの程度賛成するかを聞く。
(2)その計画に反対するレポートを1週間後に書くことを約束させる。
(3)1週間後、レポートを書く前に(1)と同じ質問をもう一度する。


 すると学生たちは、以前よりも計画に反対する立場や意見に変わっていました。
 レポートを書くために1週間反対意見を考えさせられた学生は、そのことで自身の意見が変わっていたのでした。

 しかし、彼ら自身は自分の意見の変化に気づいておらず、その実験の効果さえも否定し、「もともと自分はこの考えだった」と主張したのです。

 ここから、人は一般に人に説得されたとは思いたがらない傾向があると考えられます。


 つまり、被勧誘者は、「考える」という行為そのものさえあれば、集中的にある特定の組織のメンバーとの接触を繰り返していても、自分の意志だけで判断したと思いがちなのである。

(『マインド・コントロールとは何か』107・108頁)



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コントロール感の錯覚

 人は、「自分で宝くじの番号を選べるとき」と「他人によって選ばれるとき」では、前者の方がたくさんのお金を投じるという実験結果があります。
 もちろん、両者の当選確率は同じなのですが、これは実際のギャンブルの行動でもあることです。

 人は実際には統制できないことを、統制できると思い込んで行動することがあると言えます。


 だから、多くの人は「やってみなきゃあ、わからない。とりあえず、経験してもいてからでも遅くはない」と軽い気持ちで(破壊的カルトに)接触してゆくが、それは非常に要注意なのである。

(『マインド・コントロールとは何か』110頁)



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