1.導入




 1.信念と科学

 何かものごとを考えるとき、大きく分けて2つの思考方法があると言えます。

 1つは信念の方法です。これは、人間が陥りやすい心理の落とし穴や、先入観による影響などを十分に考慮せずに考えてしまうことです。
 もう1つは科学の方法です。こちらは、適切な規準や根拠に基づく、論理的で偏りの少ない思考方法のことです。

 信念の方法とはどういうものか、もう少し詳しく説明します。

 たとえば、「必ず愛は勝つ」という仮説があるとします。この仮説の真偽をチェックするとき、どうするでしょうか。
 愛し合っているAさんとBさんがいたが、親の反対で別れてしまったとします。
 信念の方法で「必ず愛は勝つ」と信じている人は、その話を聞いてこう思います。

 「2人の愛は、本当の愛ではなかったのだ」
 または、
 「一見負けたように見えるが、実はそれは勝利だったのだ」。

 信念の方法で「必ず愛は勝つ」と思っている人は、はじめから自分の仮説が間違っているとは思っていません。彼らは、矛盾や不審な点があっても、その都度その都度、再解釈して合理化してしまうのです。そのため、彼らの信念が変化することは、そうそうありません。

 では、科学の方法ではどう考えるのでしょうか。

 まず「愛」と「勝つこと」の定義をはっきりします。「愛がある」とはこの条件を満たした状態のことであり、「勝つ」とはこの条件を満たした状態のことである……というようにです。
 それから、愛がある場合とない場合を指標で出し、勝った場合と勝たない場合を調べます。そこで、愛があって負けた場合(反例)はないか調べます。もし反例が1つでもあれば、“必ず愛は勝つ”という仮説は間違っていたことになります。

 つまり、


(1)“愛”“勝ち”の測定方法をはっきり定義して
(2)「こういうケースが起きたら仮説は誤り」とはじめに提示して
(3)大勢の人でチェックする



 これが科学の方法なのです。

 このとき、「愛のあるなし」は「勝ち負け」から独立して定義しなければなりません。「負けるようなのは本当の愛ではない」などと定義してしまうと、問題の仮説をはじめから認めていることになってしまい、本末転倒です。

 蛇足ですが、信念の方法は簡便ですが誤りやすく、科学の方法は時間がかかりますが誤りは少ない方法だと言えます。


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信念の方法は簡便だが誤りやすい

 信念の方法は全く役に立たないというわけではない、ということも付け加えておきます。

 人は多くのことを信じて生きています。「この新幹線に乗れば、東京まで行ける」「今日は大地震は起きないだろう」。
 これらの仮説は、科学的に検証したわけではなく、信念の方法によるものだと言えます。しかしこれらをいちいち科学的に検証していては身がもちません。
 そこで、わたしたちはヒューリスティクスを用いてものを判断したりするわけです。

 信念の方法は、確かに致命的な思い込みを引き起こす原因になることもあります。けれども概ね、「短時間、省労力で効率よく判断」できる、大変優れたものの考え方なのです。


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ヒューリスティクス

 基本的に人間は「ひまがあったら怠けたい」という性質を持っていると思います。これは、物事を考える時にも言えることです。だから、なんらかの判断をくだす時でも、人間はなるべく思考を節約します。

 完全で合理的な考え方をしなくても、もう少し簡単な方法で物事を考えることができます。そのような「簡便な考え方」を、ヒューリスティクスといいます。

 たとえば、わたしたちは「おじさんとはこういう人だ」ということを大まかに知っています。
 だから、初めて出会った人がどういう人なのか判断するとき、細かいことを考えずに「この人はおじさんだ」と思うだけですましてしまいます(これを代表性ヒューリスティクスといいます)。

 また、「日本の離婚率はどのくらいか?」と聞かれたときに、正確な数を知らなければ、自分の親戚や知人で離婚した人を思い出し、その情報を使います
 「叔母さんと、お隣さん、あと友だちの親も離婚したんだっけ。離婚率って高そう」などと、自分がたまたま持っていたデータからだけで判断するのです(これを利用可能性ヒューリスティクスといいます)。

 人間の脳は進化の過程で、膨大な量の情報をできるだけすばやく正確に処理できるように発達しました。
 ヒューリスティクスという考え方はその賜物であり、多くの場合、それなりに正しい答えを導き出せるものなわけです。


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 2.この文章の概略

 さて。親鸞会の教義の真偽に関するわたしの考えについて、これから述べたいと思います。

 わたしは会員のころ、会合で何度も教えを聞いてよく吟味して考えた結果、「親鸞会で教えられている道を求めぬけば、人生の目的が達成できる」と納得したと思っていました。
 しかし改めて客観的・論理的に考え直してみると、それは「思い込み」に過ぎなかったことに気がつきました。

 つまり、「信念の方法」で思い込んでいただけだったのに、当時は「科学の方法」で合点がいったと思っていたわけです。


 1)わたしはどのようにして信念の方法で思い込んだのか
 2)親鸞会の教義を科学の方法で考えるとどうなるのか


 「自分の行動を決める基準として、親鸞会の教義を選択すべき合理的な理由はない」というのがわたしの結論です。
 上の2点を明らかにしながら、わたしがその結論に至った理由を示したいと思います。


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