『管理人の意見』要約




 1.科学の方法と信念の方法

 何かものごとを考えるとき、大きく分けて2つの思考方法があると言えます。
 それは、信念の方法科学の方法です。

 たとえば、信念の方法で「必ず愛は勝つ」と信じている人がいるとします。愛し合っていたAさんとBさんが親の反対で別れてしまったと聞いて、その人はこう思います。

 「2人の愛は、本当の愛ではなかったのだ」
 「一見負けたように見えるが、実はそれは勝利だったのだ」

 信念の方法で思い込んでいる人は、矛盾や不審な点があっても、その都度その都度、再解釈して合理化してしまいます


 一方、科学の方法ではどう考えるのでしょうか。

 まず「愛」と「勝つこと」の定義をはっきりします。「愛がある」とはこの条件を満たした状態のことであり、「勝つ」とはこの条件を満たした状態のことである……というようにです。
 それから、愛がある場合とない場合を指標で出し、勝った場合と勝たない場合を調べます。そこで、愛があって負けた場合(反例)はないか調べます。もし反例が1つでもあれば、“必ず愛は勝つ”という仮説は間違っていたことになります。

 まとめると、科学の方法とは次のようなものだと言えます。


(1)“愛”“勝ち”の測定方法をはっきり定義して
(2)「こういうケースが起きたら仮説は誤り」とはじめに提示して
(3)大勢の人でチェックする




 「考えが間違っていた」と示されることを、反証されると言います。
 科学の方法では反証される可能性がありますが、信念の方法では反証される可能性がありません。2つの決定的な違いは、そこにあります。
 反証される可能性がある状態で行われるテストに耐えてはじめて、「愛は勝つ」という説が事実によって裏付けられたと言えるのです。




 2.親鸞会の教義は科学の方法で裏付けられない

 親鸞会の教えの根幹だと言われている因果の道理を例にとって考えてみます。

 因果の道理とは、「いいことをすればいいことが、悪いことをすれば悪いことが、必ず自分に返ってくる」という法則のことです。
 この法則が存在することを前提にして、人間は悪いことばかりしているので、死ねば必ず地獄行きだと親鸞会では教えられます。

 因果の道理については、「いい行いをしたのにいい結果が自分に返ってこない」または「悪い行いをしたのに悪い結果が自分に返ってこない」ケースがあれば反証となるはずです。

 ところが因果の道理では、次の2つのことがハッキリと示されていません。


 (1)結果がいつ返ってくるか
 (2)具体的に、どういう行いに対してどういう結果が返ってくるか

 だから、「いい行いをしたのにいい結果が自分に返ってこない」ことがあっても、「まだ返ってきていないだけで、そのうち返ってくるのだ」と説明できます。
 たとえ「死ぬまで結果が返ってこなかった」としても、「未来世(来世)で返ってくるのだ」と説明可能です。
 つまり、どんな事態が起こっても説明できるわけです。

 しかし、起こり得るあらゆる事例をうまく説明できることは、つじつま合わせの解釈に過ぎません。それは単にテストが不可能なことの証拠に過ぎず、あらゆるテストに耐えられるだろうことを意味するものではありません。
 理論はテストに耐えたときにはじめて事実によって裏付けられたことになります。だから、テスト不能とは科学の方法によって裏付けられる見込みが全くないことの証拠でもあります。




 3.親鸞会の教義は信念の方法によって信じられる

 親鸞会の教義は、合理的・理性的な科学の方法をもって確かめられるものではないわけです。しかし、わたしは会員のころ、客観的・論理的に教えの正しさに納得したと思っていました。
 それは、信念の方法による思い込みだったと説明できます。


 たとえば、教えられた通りに笑顔で人に接するように心がけると、みんなも自分に対して笑顔で接してくれるようになります。すると、因果の道理が本当だと知らされたように感じます。
 教えが正しいという先入観や期待を持っている人は、教えが誤りである証拠よりも、教えが正しいという証拠に気がつきやすく、記憶してしまいやすくなります。そして、そうして見つけた小さな証拠の積み重ねが、教えの真実性を高めることになります。

 また、親鸞会でまじめに活動を続けていると、親鸞会の教義を深く信じている人と接触する機会が多くなります。
 人間は同じ情報を繰り返し示されるだけで、その真偽にかかわらず、それを正しいと信じるようになることは、心理学の実験によっても確かめられています。
 人間は他者のふるまいや考えを参考にしますので、周囲の多くの人が正しいと信じていることに強く影響されてしまいます。

 そして、ある程度のお金や時間や体力を費やすと、教えが価値のあるものに見えてきます。使ったものが無駄だったら困るという無意識の作用が働くからです。
 人を誘ったりしても、自分が薦めたものが間違っていたら困るという無意識の影響から、教えが正しいという思うが強まります。


 上に挙げたのは一例ですが、親鸞会の教義が正しいという思い込みは、そのように信念の方法で形成されるわけです。




 4.結論

 わたしは会員のころ、何度も教えを聞いてよく吟味して考えた結果、「親鸞会で教えられている道を求めぬけば、人生の目的が達成できる」と客観的・論理的な方法で納得したと思っていました。
 しかし改めて冷静に考え直してみると、それは単なる思い込みに過ぎなかったことに気がつきました。

 「自分の行動を決める基準として、親鸞会の教義を選択すべき合理的な理由はない」というのがわたしの結論です。
 もっと詳しく言うならば、「自分の人生に限られたお金や時間や体力を何に費やして生きていくか決めるとき、合理的観点から考えると、ほかの宗教や信条よりも親鸞会の教義を優先的に選択すべき理由はない」ということです。

 もちろん、信じる信じないは個人の自由ですし、この結論をもって、すべての人が親鸞会での求道をやめるべきだと主張したいのではありません




トップにもどる