浄土真宗親鸞会とは




 1.一般的なことがら

 このホームページをご覧になる中に、親鸞会についてよくご存知ない方もあると思います。
 そこで、親鸞会という団体についてごく簡単に説明しておきます。


 『宗教総覧』などで分かるような情報は以下の通りです。

 会の名前  浄土真宗親鸞会
 団体の種類  単立宗教法人
 本部の所在地  富山県の小杉
 代表者  高森顕徹氏
 主な機関紙  顕正新聞(月二回発行)
 発足した年  1958年


 親鸞会の発足である1950年代は、いわゆる“神々のラッシュアワー”、第二次宗教ブームの時期にあたります。

 しかし注意しておきたいことは、親鸞会では宗祖はあくまでも親鸞上人だとしていることです。
 会員さんから「現代の善知識」と尊敬されている会長も「親鸞学徒」を自称し、「珍しき法」(自分で考えた新しい教え)は何一つ説かないとしています。

 このことから親鸞会は新宗教・新新宗教と呼ばれることを好みません
 親鸞上人の教えの原点に立脚し、親鸞上人の教えを正確に、迅速に、一人でも多くの人に伝えるための団体、と自己を位置づけています。あくまでも伝統仏教の中の革新運動とする立場のわけです。


 また、親鸞会の特徴として注目されるのは若者が多いことです。本願寺をはじめとする既成の仏教が若者にそっぽを向かれているのとは対照的です。

 しかし若者たちが集まるのは、オウム真理教のような超能力やオカルトを求めてのことではありません
 親鸞会自身が行った参詣した若者が「どんな教えに心ひかれたのか」というアンケート結果を見ても、「諸行無常」「因果の道理」などがトップに挙げられています(『顕正新聞』第533号 平成8年4月15日)。




 2.おおまかな教義

 親鸞会の教義を簡単に説明すると、だいたい次のようなものだと思います。
 ただし下記はあくまで管理人の受け止めなので、間違いがあるかも知れません。 掲示板等でご指摘いただけると幸いです。


I
 ○人は誰でも、いつか必ず死ぬ=「無常観」。
 ○人間はみな、悪いことばかりしている=「罪悪観」。
 ○「因果の道理(善因善果・悪因悪果・自因自果)」という宇宙の法則があり、悪事の報いは必ず自分で受けなければならない。

 上の3つを突き詰めて考えると、すべての人はいずれ死んで無間地獄に墜ち、長い間、とても苦しみ続けることになる。
 それを「後生(死後)の一大事」という。

II
 だから生きている間に「後生の一大事」の解決をしなければならない。
 それが人生の目的であり、人間が生まれてきた意味、なぜ生きるかの答えだ。


III
  「後生の一大事」の解決には、阿弥陀仏の本願に救いとられる以外に道はない。
 阿弥陀仏の本願に救いとられることを、「信心決定(しんじんけつじょう)」という。

 ○「信心決定」するのは生きている間でなければできない。
 ○「信心決定」は一念(「あっ」という間もない一瞬)で起こる。
 ○「信心決定」して救われたことは、ハッキリと自覚できる。


IV
 信心決定するには、善知識(正しい仏法を伝える先生)の教えを聞くしかない。
 だから、現代の善知識である会長の説法を「聴聞」していかねばならない。

 また、朝晩のお勤め(聖教の拝読)や法施(人に教えを伝えること)も求道としてすすめられる。


V
 オマケだが、信心決定すれば、生きている間も「絶対の幸福」になれる。
 逆に信心決定していなければ、地位を得ても財を築いても、やがては崩れる「相対の幸福」にすぎないので、生きている間も苦しい。



 このように親鸞会では「聴聞」、つまり法話を聞くことが重視されます。
 特に毎週日曜日に行われる会長の法話には、全国の会員がチャーターバスやマイカーで参詣し、子どもからお年寄りまで数千人が集まります。




 3.本願寺との関係

 真宗系の団体だとすると、本願寺との関係はどうなのかと思う方もあると思うので、説明しておきます。

 実は、同じように親鸞上人を宗祖としながら、本願寺と親鸞会では、その教義解釈にかなりの隔たりがあります。

 そこで、かなり昔から、教義に関する見解の違いなどをめぐったビラ合戦がありました。
 たとえば、1975年4月に北陸一帯に配布された親鸞会のビラには、次のようなものです。


 いままで親鸞聖人の教えをネジまげて大衆をだまし、仏法を食いものにしてきた人たちは、本当の親鸞聖人の教えが、大衆に知れわたることを極度に怖れます。

 それはちょうど、牛肉だと喰わされていた大衆が、ネズミの肉であることを知れば、どんなにか憤激し、離反することは必至だからです。

 だから、その人たちはほんとうの親鸞聖人の教えをハッキリさせる親鸞会を蛇蝎のように嫌い、なんの根拠も示さず、対決を避けて非難攻撃します

 しかし、親鸞会は公約しています。この親鸞会の主張に対して、異論、反論のある方は遠慮なく申し出て下さい。
 相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、ほんとうの親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。

(『若者はなぜ新・新宗教に走るのか』106頁からの孫引きになります )



 特に西本願寺とは、全面対決に入ったことがあります。以下にその経過を簡略にまとめてみました。

 1979年  紅楳英顕氏の論文「現代における異議の研究 高森親鸞会の主張と問題点」が、本願寺発行の『伝道院紀要』に掲載。
 1980年  親鸞会はこれを故意の中傷だとして「四つの質問状」を出す。
 1981年  紅楳氏が質問状に誠実に答えていないとして、親鸞会は抗議集会を行ったり、本願寺への反論などを掲載した『本願寺の体質を問う』を刊行。
 1982年  本願寺は、勧学寮などの宗門学者をメンバーとする宗義問題研究会の名で冊子『現代の教学問題 派外からの論議について』を発刊。
 1983年  親鸞会はこれにもまた、新たに「七つの質問状」を出したが、本願寺からの明確な回答はなかった。
 1984年  本願寺側に回答を求め、親鸞会の会員が西本願寺へ大挙して押しかけ、御影堂を占拠して座り込む。


 近年ではこのような直接行動は見られなくなり、親鸞会は独自の団体として発展し続けています。
 一方、本願寺側は「親鸞会は教義解釈がまったく別の宗教団体である」ということで、教義論争の相手はしない、という方針のようです。


 とは言え、両者の対立は、今日まで続いています。

 1996年広島地裁の裁判で西本願寺の証人として出廷した広報部長中山知見氏は、次のように証言しています。


 浄土真宗親鸞会は一念覚知であり、明らかに、浄土真宗本願寺派の教えとは違う。

 親鸞会では高森顕徹氏から信心をいただく。だから親鸞会は善知識だのみだ。


 この発言についても親鸞会は「誹謗」だとして、西本願寺門主、勧学寮頭、広報部長あてに質問状を送付しましたが、回答はなかったようです。

 また、同じ年には、西本願寺の広報部長中山知見氏の『高森親鸞会系ビデオの販売活動に関する対応への留意事項について』(1996年9月20日発行)と題する文書が全国の寺院に配布されました。

 これを悪質なカルト教団だという印象を与えるような文書だと判断した親鸞会は、中山知見氏に文書の回収・謝罪文の配布を求める警告書を送付しましたが返答はありませんでした。
 そこで親鸞会は、名誉毀損罪と業務妨害罪で中山知見氏を告訴しました。


 これ以上、偽計をもって公然と真実開顕を妨げる本願寺の卑劣な行為を見逃すことはできないので、今回、法的措置を取らざるを得なかった。(『顕正新聞』第553号 平成9年2月15日)


 要するに、過去から現在まで教義解釈が異なったまま、対立が続いているのが親鸞会と本願寺の関係だということです。


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広島地裁の裁判

 親鸞会の会員が虚偽の発言をしてアニメ『世界の光 親鸞聖人』を販売したとして訴えられた裁判です。

 「西本願寺などから販売委託や推薦を受けている、と誤信させる文言があった」などとして一部有罪判決が出ましたが、広島高裁の控訴審で「各顧客は、うその説明を受けてだまされた、というものではない。被告が、顧客の判断に重要な影響を及ぼす不実を告げたとの認定はできない」と逆転無罪になりました。


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 参考:マスコミの紹介

 ジャーナリストや学者が親鸞会をどのように見ているのか、ということにも少し触れたいと思います。

○『宗教を現代に問う』

 横山真佳氏ら毎日新聞社特別報道部宗教取材班が編集した『宗教を現代に問う 1』(毎日新聞社、1976年)では、「反乱……異端か、改革か」という項を設け、新宗教団体として親鸞会を紹介しています。


 本願寺がどんなに呼びかけても振り向いてくれない若ものを親鸞会はつかまえているのだ。(168頁)

と述べ、本願寺の三木照国氏のレポートの引用で文章を締めくくっています。


○『新宗教の風土』

 富山大学教授小沢浩氏は『新宗教の風土』(岩波新書、1997年)の「真宗原理主義の台頭」という章で親鸞会を紹介し、最後をこう結んでいます。


 ここで問われているのは、むしろ、わたしたちひとりひとりが、「死」というものについてどれだけつきつめて考えているのか、ということなのではないだろうか。(158頁)


 このように、親鸞会が生きている人間の救いを説くこと、死というものを真剣に見つめることは、識者の注目の的になるようです。


『若者はなぜ新・新宗教に走るのか』

 フリージャーナリストの室生忠氏は『若者はなぜ新・新宗教に走るのか』(時の経済社、1984年)で親鸞会を紹介しています。
 新・新宗教の本に親鸞会をとりあげているのですが、これは


 「会そのものの歴史が浅いうえ、特殊なエネルギーで、青年層に急速に教勢をのばしている」からであって、親鸞会は教祖を持つ新宗教や新・新宗教ではない。
 あくまで親鸞の教えを伝えようとする浄土真宗の一派であり、分類的には既成の伝統仏教教団に入る。(105頁)


としています。


○『浄土の本』

 『浄土の本』(学研、1993年)では「異流念仏の章」で親鸞会を「過激な布教活動を展開する原理主義的教団」と紹介しています。


 親鸞会の活動部隊は主として若い男女である。寸暇を惜しんで、布教活動に励む強烈な使命感をもっていることから、ある種のマインド・コントロールをされているのではないかと見る向きもある。(182頁)


 しかし、「熱心そうだから洗脳されてるのでは」というのは、かなり乱暴な決めつけです。
 そのようなことを判断するには相当な裏付けが必要な筈ですが、この本にそれはありません。


○『「救い」の正体。』

 比較的最近のものとしては、『別冊宝島461 「救い」の正体。』(宝島社、1999年)があります。
 「『世界の終末』と『人類救済』を希求する人々」という章の中に、「親鸞会はカルトか、伝統仏教か?」という項を立て、親鸞会を紹介しています。

 体験談から、親鸞会の学生がどういう活動をしているか、などが分かりやすく説明されています。
 しかし、元会員の話が中心で、視点が偏っているきらいがあります。


 有名大学の学生たちはなぜ親鸞会にハマったか?(表紙)

 その究極の教義である『この世で得られる絶対の幸福』とは? 謎のベールに包まれた親鸞会を徹底検証する!(42頁)


 このような扇動的なコピーも、気持ちのよいものではありません。


○その他

 他に、宮台真司氏のベストセラー『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房、1995年)のコラムに、親鸞会の元会員のインタビューが少しだけ載っています。

 また、前述の横山真佳氏は『新宗教時代1』(大蔵出版、1997年)で、小沢浩氏は『岩波講座 日本通史 第21巻 現代2』(岩波書房、1995年)で、それぞれ親鸞会のことを紹介しています。

 雑誌では『月刊現代』99年12月号に米本和弘氏のレビュー『若者を魅きつけるラディカル仏教「終末論」』、新聞では『北國新聞』『富山新聞』の連載記事『蓮如さん』などがあります。


三木照国氏のレポート

 本願寺伝道院の研究員、三木照国氏が親鸞会を分析した研究レポート。
 引用されたのは次の箇所。


 教団(注:本願寺)の本質が“死者”のみを媒介としている点をあらためて熟慮せしめられた。
 教団、全僧侶が“生きた人間”を対象にすると言う“改造”をすみやかに遂げない限り、高森“親鸞会”をも、さらに批判するような第二、第三のセクトが出現してくる可能性が十分にある。



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