はじめにお読み下さい
| 1.『ジャンヌ』の主旨 | |
このページの主な目的は、以下の2点です。
また、このページが想定している読者は、主に次のような方になります。 (1)親鸞会の会員さん (2)親鸞会の元会員さん (3)親鸞会に勧誘を受け、入会しようか迷っているという方 (4)家族・友人に親鸞会の関係者がいるという方 (5)直接は知らないが、親鸞会に興味がある方 いちおう、(1)(2)の方とは「話し合い」を、(3)〜(5)の方には「情報の提供」をというふうに考えています。 |
| 2.なぜ「情報の提供」か |
わたしが「情報の提供」をしたいと思った動機は、「そういう情報を求めておられる方がおられるだろう」と思ったからです。 たとえば、家族に「自分は親鸞会という会で教えを聞いている」と打ち明けられて、「それがどのような団体かよく分からない」という方があるかも知れません。 しかしそう言うと、「元会員が何をでしゃばるか」と思われる方があるかも知れません。 「たとえば親鸞会に入会しようか迷っているような人には、親鸞会の先輩や講師がきちんと案内しているから大丈夫だ」と思われる気持ちも分かります。 ですが、こういう形で元会員が情報を発信することにもそれなりの意義はある、とわたしは思います。なぜそう思うのか、少しばかり説明させてください。 人が何かの情報を欲しがる時、その人が欲しているのは事実を事実として認識することだと思います。つまり、なるだけ間違っていない、歪んでいない情報を入手したいと願われるはずだということです。 しかし、わたしたちはカメラに映したかのような“あるがままの世界”を認知できるわけではありません。 わたしたちの周囲には、客観的な現実の世界が広がっているはずなのですが、わたしたちはそれを「見たり聞いたり」といった観察・体験を通してしか捉えることができません。つまり、人間が事実を判断するには観察・体験などの学習が必要なのです。 ところが、そこで問題が生じます。というのは、人間は学習の過程で、自分の体験・信念・利益といったものに引きずられる可能性があるからです。 人間は自分の関心を元にして認識しているのだから、関心のあるものについては認識体験を繰り返して細かく理解します。しかし関心のないことは、たとえ目の前で起こったことでも、頭に入りません。 このことを社会学者マンハインは難しい言葉で、「人間の認識は社会的存在被拘束性をもつ」と述べています。要するに、社会の中のどういう場で生きているかということが、人間のものごとに対する認識に影響を与えるという意味です。 具体的には、社長の立場から見えること、平社員から見えることはそれぞれ異なり、両者の考える世界像もそれぞれ違うということになります。 しかし、わたしたちはそれでも、できる限り事実を事実として認識したいと思います。そのためにはどうしたらよいのでしょうか。 やはり、さまざまな立場の人が現実をどのように見ているかをつき合わせて、なるべく公正な観察者としてこれを判断することが必要でしょう。 その際、とりわけ自分と立場の違う人が現実をどのように考えているのかを知る必要があることは言うまでもありません(もちろんそれは、単純に「足して2で割る」ためではなく、どれが妥当な事実像なのか考えるためにです)。 ならば、さまざまな立場からの情報が、広く社会において認識されることが不可欠です。 現在の法律で見ても、コミュニケーションの自由が重要視されている理由の一つはここにあります。 以上を踏まえて、わたしはこのホームページから「情報の提供」をおこなうことに意義があると考えます。 現在、親鸞会の会員さんが発信する以外の親鸞会に関する情報は、あまり流れていません。そのため、外部の人間が親鸞会について知ろうと思っても、判断材料が不足していると言えるのではないでしょうか。 そこで一つの材料として、親鸞会の内部からの情報とはややスタンスの異なる元会員の1人であるわたしの立場から見た親鸞会に関する情報を発信するのも、何がしか有意義なことではないだろうかと考えているわけです。 |
| 3.何についての「話し合い」か |
前述のように、親鸞会について色々な立場の人の意見が述べられている状態が『ジャンヌ』の目指しているものなのですから、 ○わたし自身がまた別の人の考えを聞きたいため ○『ジャンヌ』の訪問者が気軽にわたし以外の人の意見に触れられるため ○単に一方的に考えを述べるのではなく、種々の立場の人が活発な意見の交換を行うため 以上の理由で、掲示板の存在は不可欠でしょう。 これによって、まずわたしの意見を発信する場として、それから更に多くの人を巻き込んで考えを建設的に拡張していく場として、当初の目的にかなった2つの働きをもつことができれば嬉しいと思っています。 ところで、「情報の提供」「話し合い」と一口に言っても、親鸞会についての話題には色々なものがあります。 たとえばインターネット上のあるホームページでは、親鸞会が製作したアニメの訪問販売のやり方の是非について疑問を呈しています。 しかし『ジャンヌ』では、そのような「社会性」の問題についてはあまり触れたくないと思っています。 わたしが主に取り上げたいのは、「親鸞会の教義は真実だと考えるべきかどうか」という問題についてです。 宗教活動の社会性について考えるとなると、法律をはじめとする多くの複雑な問題が絡んできます。 正直なところ、それらすべての問題をひっくるめて「社会性」について意見を述べ、話し合っていく場を提供することは、わたしの力では無理なのではないかと思います。 だから『ジャンヌ』では、「親鸞会の教義は真実なのかどうか」に焦点を絞って考えたいと思います。 実は教義について、わたしには意見があります。 それは「自分の行動を決める基準として、親鸞会の教義を選択すべき合理的な理由はない」ということです。 ただし、信仰や行動は必ずしも合理性に従ってなされるべきものではないとわたしは考えています。だから、わたしが主張したいのは「合理的ではない」ということのみで、「親鸞会での活動をやめるべきだ」と主張したいのではありません。 ただ、もしも会員さんで、「活動に疲れてしんどいけれど、この道求めきらなかったら死後は一大事だしなあ」と思われてやめられない方があるなら、「死んだら地獄だと考える論理的な証拠はないのだから、ゆっくり休んで考え直すという選択肢もあるのですよ」とお伝えできるとうれしいです。 |
| 4.お願い |
先に述べた通り、このホームページの2つの主旨「情報の提供」「話し合い」の根底には「色々な立場からの意見が耳に入るのが、より妥当な判断のためには望ましい」という考えがあります。 そこで、『ジャンヌ』を読まれる方で、特に親鸞会について直接ご存知ない方に、一つお願いしたいことがあります。 それはこのページだけを見て「親鸞会とはこういう団体なのだ」と思われるのは避けてほしいということです。 管理人は一人の元会員に過ぎません。 それに、これまで述べてきた理由から、わたしはどちらかと言うと親鸞会の「悪い面」を中心にとりあげることになります。 実は親鸞会には、ここでは言及されていない「いい面」が山ほどあります。それを忘れないで下さい。 また『ジャンヌ』では、たとえば親鸞会の勧誘方法などについて書かれていますが、それらは親鸞会の中でも「数年前の関西の学生部」のことに限られます。他の地域や昔のこと、あるいは婦人部や青年部について、わたしはまったく知りません。 そのごく一部分の体験談をもって、親鸞会という団体全体について判断を下すのは大変危険を伴うものだということに留意された上でお読みください。 |
| 5.苦情・疑問について |
これまで述べてきたように、特定団体への「マイナスイメージ」を植えつけることは、わたしの本意ではありません。 しかし、細心の注意を払っているつもりでも、わたしの力不足から過ちを犯している可能性は十二分に考えられます。 また、ことが宗教や人生の価値観といった問題に深く関わってくるだけに、このホームページの内容は人によってさまざまに捉えられると思います。 当然、快く思われない方もあろうかと思います。 ただ、このことだけはご理解いただきたいと思います。 管理人には、できる限り話し合いに応じ、問題があれば適切な処理を行ないたいという意思があります。 ですから、苦情や疑問をお持ちの方は、掲示板やメールを利用して、どんなことでも遠慮せずに仰って頂けると嬉しいです。 |
| 6.いくつかの表現についての注釈 |
蛇足ですが言い訳させていただきますと、わたしは敬語が苦手です。 尊敬語と謙譲語の間違え、「ら」抜け言葉、逆に余計なところに「ら」が入っている言葉など、文法的な誤りは、笑って見逃すか掲示板・メール等でご指摘いただければ幸いです。 また、「親鸞聖人」の敬称についてですが、『ジャンヌ』では「親鸞上人」と表記させていただくことにしました。わたし自身は現在元会員であり、「親鸞聖人」の教えを尊んでいるとは言いがたい状態だからです。 「聖人」とつけないことにご不満の方もあるかと思いますが、どうかご理解ください。 最後に、親鸞会の会長や講師の方が教えられているような内容を「親鸞会の教義」と書くことも、ご了解いただけると嬉しいです。 親鸞会の会員さんからすれば、親鸞会で教えている内容は真実の仏法であり、釈尊や親鸞聖人の直説なので、この書き方には違和感があるだろうことは理解しています。 しかし、世間では仏教について様々な見解がありますし、親鸞上人の教えに関しても色々な解釈をしている人がいます。単に「仏法」「親鸞上人の教え」と表記すると誤解を招くかも知れません。 かといって、毎回「親鸞会で伝えているところの親鸞上人の教え」等の表現をすると煩雑になるということもあり、シンプルに「親鸞会の教義」と書くことにしました。「親鸞会で伝えている内容は親鸞聖人の仰ったことそのままなのだ」という主張も含めて親鸞会の教えなので、特に誤った表現ではないと思っています。 |