親鸞会と科学【1】
死後の世界



 1.科学的な証明とは

 親鸞会会長の著書に、『こんなことが知りたい』というシリーズがあります。仏法に関する質問に会長が答えるという、Q&A形式の本です。
 その第一巻、『こんなことが知りたい(1)』の12頁から「死後の世界は本当にあるのか」という項があります。その内容で、疑問に思うことがあるのでそれを述べます。


 よく「死んだ後なんかあるものか、死後の世界など信じている者は迷信だ」と言う人がありますが、死後の世界は本当にあるのでしょうか。


 という質問からはじまり、これを受けて会長の「答」が述べられています。


 死後の世界は実在します。このことは仏教が三千年前から説き続けてきたことですが、今日幽霊が撮影されるようになって、その実在性が科学によっても証明されました。(12・13頁)

 ある特別の人のみが偶然に見たと言う幽霊ならば、錯覚や幻覚であったか、実在したものかの区別は困難ですが、人の顔や手の形、或は全身像の幽霊が撮影された写真がたくさんありますから、実在はもはや疑うことはできません。(14頁)


 これが文章の骨子です。ここから、この文章の基本的な構造は以下のようなものだと考えられます。

 文章の目的:「死後の世界は本当にあるのか?」という質問に答えること
 文章の結論:死後の世界は実在する
 結論の論拠:死後の世界の実在性は科学によっても証明された

 そして、なぜ「科学によって証明された」と言えるのかというと、「幽霊の写真がたくさん撮れたから、死後の世界の実在は間違いない」ということです。

 以上が会長の「答」の要約なのですが、これは本当に妥当な議論なのでしょうか。
 そもそも科学とは何かということから考え直してみると、科学の対象となることは公共的客観性を持たなければならないと言えます。

 公共的客観性とは、再現可能性ともいい、「所定の手続きを踏めば“誰でも”追体験可能」という意味です。こういうことが成り立つものしか科学は扱いません。
 裏を返せば、公共的客観性のないものは、科学の対象にはならないわけです。

 この観点でいうと、幽霊がでるプロセスがない、あるいは分からない限り、“誰でも”体験できないから、幽霊は科学の対象にはならないのです。
 だから、幽霊の写真によって死後の世界の実在を科学的に証明するなら、まず、「こういう手続きを踏めば“誰でも”幽霊の写真が写せますよ」という一般法則を発見しなければならないのです。

 会長は「科学によっても証明されました」と書いています。
 仮にこれが、科学的な“技術”の産物である「カメラ」に幽霊の写真が写ったことから言っているだとしたら、それは正しい議論ではありません。というのは、確かにカメラの仕組みは科学的ですが、カメラに写ったものについて判断する時、カメラの仕組みが科学的だという事実は、関係がないからです。

 「科学によって証明された」と言うためには、科学的な方法論にのっとった証明をする必要があるのです。

 また、公共的客観性の問題は、会長の言う「幽霊が撮影された写真」に写っているモノがそもそも本当に幽霊なのかという疑問にもつながります。
 仮に「人間の形をした光るもの」が写っていたとしても、その写真から「それが幽霊だ」と断定はできません。もしも「それは宇宙人だ」と主張する人がいたら、科学的に、それが幽霊であることを示せるのでしょうか。

 以上の観点から、「幽霊(らしきもの)の写真→死後の世界の実在」という説明には、多少の飛躍が感じられます。


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科学とは何かということから考え直してみる

 ここで長々と科学論を語っても仕方がないので、簡略に説明します。詳しく知りたい方は、岩波新書の『科学の方法』などを参考にしてください。

 一般には、近代科学の成立は、17世紀だと言われています。
 それ以前にも、「自然界の法則性を発見すること」という意味での科学は存在しましたが、ふつう、様々な技術を秩序立てる、科学の方法論がないと、科学とはいいません。

 また、科学と聞くと、科学的な“技術”のことを連想する方もいますが、“技術”とは「発見された法則を人間のために利用すること(発明)」で、ここでいう“科学”とは区別します。

 近代科学の基礎づけを行なったのは、帰納法のベーコンと、演繹法のデカルトです。
 しかし、帰納法や演繹法には弱点があります。長くなるので詳述は避けますが、帰納法には「枚挙の有限性」、演繹法には「前提の確かさを証明できないこと」という問題があり、論理として完璧ではありません。
 そこで、帰納法と演繹法を組み合わせた、仮説演繹法という考え方ができました。それが、今日の科学の基礎になっているのです。この方法論が抜けていては、科学的だとは言えません。

 しかし、仮説演繹法が成り立つためには、前提としていくつかの約束事が必要になります。その約束事の一つが「科学の対象となることは公共的客観性をもたねばならない」ということです。


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 2.幽霊の写真はたくさんあるのか

 ここで、「“誰でも”幽霊の写真が撮影できるプロセスが発見できてない」という以前に、そもそも「“誰か一人でも”本当に幽霊の写真を撮影したのか?」という疑問が出てきます(「幽霊が撮影された写真」と会長が述べているのは、具体的に誰がいつ撮影した、どの写真のことか書かれていないので、その点について確実な反証を示すことはできませんが)。

 フランスのダゲールがヨウ化銀の光化学反応を利用した「銀板写真法」を開発したのは1839年。そして、1862年には早くもボストンに「幽霊写真」が登場しました。

 それ以降、幽霊の写真と称すものは数多く撮られています。
 パリの写真家ビュゲーは、1874年にロンドンで「幽霊写真」を発表して評判になりましたが、結局、詐欺容疑で逮捕され、裁判にかけられました。
 「撮影霊媒」の中でもその誠実さで高い信頼を得ていたデーン夫人も、奇術師のグループ「神秘委員会」によって、そのインチキを暴露されました。

 そういえば、親鸞会発行の『顕正新聞』第166号(昭和51年3月20日発行)に「幽霊ケティ・キングの写真」というキャプションのついた写真が掲載されています。
 これはクックという霊媒が呼び出したという幽霊の写真で、何十枚も撮影されて話題になったものです。しかし、どの写真を見てもこの幽霊は呼び出した霊媒にそっくりで、とても幽霊が独立に存在する証拠とは言えません。

 あるいはキルリアン写真(葉っぱの一部を切り取って装置にかけると、切り取られる前の葉の形の輪郭にそって、放射している光が写っている写真)のようなものもあります。
 しかしそれは、米国のドレクセル大学のグループ、スタンフォード大学のグループ、英国のキングス・カレッジのグループによって、ありきたりのコロナ放電に過ぎないことが確かめられています。

 心霊写真の九割は、二重露光レンズ・ゴースト(強い光がレンズを通過する際、その一部がレンズの中で反射して、フィルム上の別の場所に焦点を結んでしまうために起きる現象)、ネガの汚れガラスの反射レンズ前の異物シミュラクラ(偶然に意味のある形に見える自然物のこと)などで説明できると言われています。
 確かに、そういったことでは説明できない写真もありますが、それは結局原因不明にすぎず、「写っているのは幽霊」と証明されたわけではありません。

 結局、「幽霊が撮影された写真がたくさんありますから」と会長が述べるような事実はありません。




 3.幽霊の実在性の確認に成功した学者はいるのか

 ところで、「幽霊の実在性を確かめた」学者が大勢いるということを、会長は次のように述べています。


 一八四八年、米国のニューヨーク州に起きたお化け屋敷騒動を動機として、欧米各地で幽霊の研究が始まり、研究機関も多数設置され、著名な科学者も研究に加わり、英国の物理学者サー・ウイリアム・クルックス、サー・オリバー・ロッジ、クロフォド博士、フランスの生理学者リシエ教授、アメリカの医師クランドン博士、心理学者ライン博士等、数えるにいとまない状態で幽霊の実在性が確かめられました。(13頁)


 幽霊について「単に研究されていること」と、「実在性が確かめられたこと」とは、無関係です。だから、幽霊の実在性が確かめられたと言うには、会長が名前を挙げた学者が、どういう方法を用いて幽霊の実在性を確かめたのか、ということが問題になるでしょう。

 しかし英国の物理学者サー・ウイリアム・クルックスサー・オリバー・ロッジフランスの生理学者リシエ教授など、いずれの例も、幽霊の実在性が科学的に確かめられたものだとは言えません

 いま挙げた人たちに限らず、会長が名前を挙げているような、古い研究者たちが心霊研究(サイキカル・リサーチ)の分野で言うことの信頼性は、さほど高くありません。
 それについては、会長が名前を挙げている心理学者ライン博士がよい例でしょう(ライン博士の博士号は植物学のもので、彼は心理学者ではありませんが)。

 そもそも、1970年代までの心霊現象や超能力についての研究では「確率論的、統計学的な裏付けをとる」という基本事項が無視されがちだったと言われています。つまり、科学的ではなかったのです。

 少なくとも、数理統計学的な手法を本格的に導入した超心理学が登場する1920年代末までの研究(「古典的研究」などと呼ばれる)は、科学的に信用できるものではありません。
 もっとも、現在の超心理学が主に取り扱っているのは超能力であり、ふつう、幽霊などの心霊現象は超心理学の対象外とされています。幽霊の実在性を科学的に確かめようとしている人は、現在ではほとんどいないはずです。

 結局、科学的に幽霊の実在性を確かめられた科学者は、まだ一人もいません。


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英国の物理学者 サー・ウイリアム・クルックス

 クルックスは、ハイズビル事件を調査したことで有名です。

 ハイズビル事件とは、上の文章で会長が「一八四八年、米国のニューヨーク州に起きたお化け屋敷騒動」と紹介しているものです。
 ポルターガイスト現象の古典例として有名で、フォックス姉妹という少女たちが、ラップ音を起こす霊との交信に成功したとして、当時世間を騒がせました。

 クルックスはこれを調査した結果、「完全に客観的な出来事であり、トリックや機械によって作り出されているものではない」と太鼓判を押しました。

 しかし、『ニューヨーク・イクセルシアー』紙は、フォックス姉妹が足の関節でラップ音を鳴らしているという記事を書いています。バッファロー大学の三人組の医師の調査でも、膝の関節を鳴らしているのだろうと結論されています。
 さらに、事件からちょうど四十年経った一八八八年、『ニューヨーク・ワールド』紙で、「とても人がよくて、簡単に驚く母親を驚かそうと思っただけなのです」とフォクス姉妹自身がインチキだったことを告白しています。
 糸で吊るしたリンゴを床に落としたり、足の関節を鳴らしたりしてラップ音を出していたという単純なトリックだったそうです。

 巷の「心霊科学」の本などには今でも、この事件が「死後の世界の存在を証明した」などと書いてあるものがありますが、それは誤りです。
 なお、クルックスは前述の「自分で幽霊に扮装して写真を撮っていた霊媒」クックにも騙されています
 もしも会長が、クルックスの発言を「数えるにいとまない状態で幽霊の実在性が確かめられ」た例の一つだと思っているのなら、それは正しくないでしょう。

 補足ですが、この事件について『顕正新聞』第166号(昭和51年3月20日発行)には「1904年11月23日、事件発生以来56年目にして、ハイズビルの屋敷の地下室で遊んでいた子供たちが、崩れた壁の奥に人骨らしいものを見つけた」という話も載っています。
 それについても米心霊協会のJ.H.ヒスロップが調査をしており、その結果「トリックとして置かれたものだ」という報告を1909年に発表しています。

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イギリスの物理学者 サー・オリバー・ロッジ

 ロッジは、19世紀のイタリアの女霊媒師エウサピア・パラディノが起こす心霊現象の真実性について、強い確信を表明していました。

 しかし1909年、ニューヨークのコロンビア大学の教授陣が実験会を催し、手品師たちと協力して、エウサピアの詐術の解明にあたりました。
 その結果、念力でテーブルを動かす技は、エウサピアがひそかにテーブルの脚に爪先を挿入して動かしているに過ぎないことなどが暴露されました。

 これも、幽霊の実在性を確かめた例とは言えないでしょう。

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フランスの生理学者 リシエ教授

 リシエは、ノエル将軍の家で、同家の娘が幽霊を出現させるのを目撃しました。幽霊はビアン・ボアと名乗り、リシエ自ら調べたところによると、呼吸に伴って二酸化炭素を出していたそうです。

 「ビアン・ボアの幽霊は、生命のあらゆる属性を備えていた。生命の属性を備えた幽霊の存在を仮定するか、または、幽霊に扮装した生きた人間の存在を仮定するか、どちらかしかない
 これがリシエの見解でしたが、彼自身は「幽霊説」に傾いていきました。

 しかしある学者は、ノエル将軍家の幽霊ビアン・ボアは、実は同家の馭者が扮したものであることを指摘しています。

 また、日本超心理学会の小熊虎之助氏の発言は、リシエの主張の危うさをよく表現しています。


  リシエ自身の学者としての幽霊説には、大きな弱点が一つある。それは彼自身が提出した仮説の後のもの、すなわち人間が果たしてそれに扮装したのではないかという疑問を十分否定すべき積極的な証拠を彼が全く提供していないことである。
 具体的にいうと、リシエが世界の学術界のために大決心をもって、その奇怪な幽霊を突然捕縛し、それを別室に連れだしてきて、十分身体検査をしてみて、それでもなお普通の人間がその幽霊に扮したものでなかった、というほどの積極的な証拠を彼が提供していないことである。(『心霊現象の科学』318頁)


 要するに、リシエの例が科学の方法で幽霊の実在性を確かめたと言うには、証拠が足りな過ぎるということです。

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心理学者?ライン博士

 ライン博士はたいへんまじめな科学者であり、その仕事は軽視できないほど注意深く巧妙に企画されていて、本来このようにかけ足で終わらせられるようなものでないことは、最初に断っておきます。

 ライン博士は、幽霊に関する研究よりも超能力の研究が特に有名なので、そちらを紹介します。
 ESPカードの図柄を当てさせる実験により、ライン博士は「超能力は実在する」との結論を出しました。

 しかし、彼の実験管理は厳密さを欠き、インチキの入り込む余地が十分にあったことや、汚れなどの微妙な違いからカードを見分けられたことなどが指摘され、彼の主張は疑問視されました。
 その後、厳密な方法で幾度も繰り返された追試では、超能力が実在する証拠は発見できませんでした。

 さらに、一部の実験例に関しては、後からデータが改ざんされていたことが明らかになり、結局、妥当な実験だったとは言えませんでした。

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 4.別の解釈はどうか

 以上のように書くと、反論があるかもしれません。
 会長の文章は、先の引用の後、「科学の大きな誤りは科学で説明できないものを否定するにある」というシーモノフの言葉をひき、こう続けます。  


 科学で説明出来ないものを直に迷信だと否定することはおおいに慎まなければならない非科学的態度だといわなければなりません。(15頁)


 これは、しごくもっともな論です。
 先に述べたとおり、現時点では幽霊がでるプロセスが分からず、“誰でも”体験できません。したがって、幽霊は科学の対象の外にあります。だから、科学はこれについて肯定も否定もしておらず、「幽霊が実在するという考えは、科学と矛盾する」と考えるのは誤りです。

 「本当に書きたかったのはこの後半だった」と解釈するのはどうでしょうか。

 一番はじめに述べたことに戻りましょう。
 この文章の本旨は「死後の世界は本当にあるのか?」という質問に答えることで、結論は「死後の世界は実在します」で、理由は「その実在性は科学によっても証明されました」だと読むのがもっとも無難な解釈に思えます。この場合、文章の構成上、後半の正論は、あってもなくてもいい補足部分のはずです。
 もしも「本当に書きたいのは後半の内容だった」ならば、もっと違った文章構成をとるはずだと考えられます。
 したがって、別の解釈は成り立ちません。

 科学で説明できないものを科学と矛盾すると言うのは迷信ですが、それ以前に、科学で説明できないものを科学で証明できたと主張するのも誤りだということを忘れてはいけません。




 蛇足.素朴な疑問


 科学で説明出来ないものを直に迷信だと否定することはおおいに慎まなければならない非科学的態度だといわなければなりません。(15頁)


 という趣旨の後半部分なのですが、そもそも


 死後の世界は実在します。このことは仏教が三千年前から説き続けてきたことですが、今日幽霊が撮影されるようになって、その実在性が科学によっても証明されました。(12・13頁)


と「幽霊の実在は科学的に証明された」という主張をする文章中に存在することそのものに違和感を覚えます。

 会長の文章は最後に「虎を見たことのない人には虎の実在は信じられない」という話が持っこられて、こう締められています。


 幽霊もそのように実在はするのだけれども見たことのない者には信じられないだけのことです。
 『大法輪』という雑誌には田月以知野氏が確かに幽霊を見たといって、そのスケッチまで出しております。(15頁)


 これは、


 ある特別の人のみが偶然に見たと言う幽霊ならば、錯覚や幻覚であったか、実在したものかの区別は困難です。(14頁)


という記述と調和していないように感じます。

 揚げ足取りのようですが、全体にしっくりこない調子の文章構成だという印象があることにも、最後に触れておこうと思いました。




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