MUSEE vol.43 座布団一枚の上で繰り広げられる小宇宙
タワー・レコードのフリーペーパー「ミュゼ」 落語を扱ったリレー・エッセイを中村が担当。
その独特の視点が話題になりました。
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座布団一枚の上で繰り広げられる小宇宙。小道具は基本的に手拭いと扇子だけだ。しかし扇子は蕎麦をたぐる箸になり、代書屋が手紙をしたためる筆になり、あるいは武将が携える槍や刀といった武器、さらには船頭が漕ぐ船の櫂にもなる。手拭いも、間抜けな泥棒の頬かむりから、ケチで小言ばかり言っている大旦那の台帳、おかみさんが間男に渡す紙入れ、ご隠居の煙草入れと、様々なものに形を変える。背景に余計なものはなく、演目のめくりが高座の脇に置かれているだけ。渋い柄の着物をこざっぱりと着た噺家は、その簡潔な身なりからは想像もできないほど万能だ。すべての登場人物であり、物語を俯瞰する監督や脚本家であり、時にはその作者でさえあるのだから。
一枚の座布団に座ったまま、声と簡潔な仕草だけで演じられる物語に、僕は市井の人々の生活の一コマから、時には合戦や地獄風景といった大スペクタクルの光景までをまざまざと見る。そして登場人物たちの感情を経験する。視覚的に余計なものを排する事で、その物語は肌の感覚として残って行く。ハリウッドの大作映画が趣向を凝らし、ひたすら視覚と聴覚を刺激するのとはまるで裏腹な世界だ。でもどちらがより生々しい記憶として残って行くかと考えると、僕は落語の方に軍配をあげる。映画は、映画を見た、という経験として記憶に残るが、落語は噺の中の空気感を肌で覚えてしまう。
そして、笑い、だ。馬鹿馬鹿しく可笑しい話は勿論だが、涙を誘う人情噺の中にも、フッと緊張をほぐすような、笑い、が隠されている。その中に人肌の温もりを感じる。デフォルメされ面白可笑しく語られる登場人物たちなのに、ふと自分でも逢った事があるような懐かしさを感じてしまう。
噺家はほんの少し声の調子を変え老若男女を演じ分け、右を見て左を見るだけで、別の人物になってしまう。さらには人間以外の動物や、あるいはこの世のものではない幽霊や怪物にまで姿を変えることができる。多分こんな形の芸は世界中のどこにもないだろう。
噺家自身があまりに芸にでてしまうと、噺自体は浅くなってしまう。それはスタンドアップ・コメディやコントの世界に近い。かといって全く噺家自身を感じさせないものも魅力が乏しい。その辺の頃合いが面白い。落語の世界では噺自体の面白さと同時に噺家自身の個性が重要だ。同じ噺を何度聞いても飽きないのはそこに味わい深いものがあるからだ。同じ噺を別の噺家で、とか、同じ人の別の高座で、などと考え始めると、それはもう落語の魅力の蟻地獄に片足を突っ込んだ事になっているのだ。
こんな言い方はどうだろう?噺家は映写機のレンズのようなものかも知れない。その身体を通して観客に様々な物語を投影するレンズだ。ただそのレンズにはそれ自体の色や歪みを持っていて、観客は投影される物語と同時に、そのレンズの持つ風合いも楽しんでいるのだ。
子供の頃テレビの演芸番組が好きだった。どちらかと言うと色物の音曲物が僕の好みだった。なんとかトリオといったグループのチューニングのあまいギターと三味線が奏でる不協和音が僕には心地良かった。そのついで、といっては何だが落語にも興味を持つようになった。土曜日の午後などは寄席からの中継番組をやっていて、それを次々と見たりした。学生の頃僕の趣味を知っている落研の友人に頼まれて下手な発表会にも行ったものだ。僕は関西出身だが、上方落語にはよく裏から囃子方が噺に彩りを添える場面がある。大旦那が芸者を連れて遊山に行くシーンなどでそういう趣向が用意されているのだが、元々音曲物の好きな僕は、その華やかな雰囲気が好きだった。そう言った噺から入門した形で、さらに簡潔な江戸落語の世界にも興味を持つようになった。大人になって東京に出て来てからは、主にラジオで落語を楽しんだ。NHKの「真打ち競演」とTBSの「ラジオ寄席」は愛聴番組だ。そしてその内、寄席やホール落語にも時々は足を運ぶようになった。
志ん朝、馬生、の兄弟、それから文治が大人になってからの僕の好みの噺家だ。
志ん朝、馬生のふたりは兄弟でありながら、芸風はかなり違っている。弟志ん朝に比べ兄の馬生は地味だと言われているが、その味わいは甲乙つけがたいものがある。馬生の高座に上がった姿はいつも時間が止まってしまったような静謐さを漂わせていた。その中でゆっくりと滑るように少し高めの声で噺を始めると、もう場内全体が江戸の下町の空気になっていた。馬生の「笠碁」は大好きな演目だった。「二番煎じ」では途中見事な都々逸も披露してくれた。兄弟の中でより父親志ん生の雰囲気を強くもっていたのは馬生の方だと思う。
志ん朝は何よりも華やかでテンポのいい語り口が素晴らしかった。姿、声、立ち居振る舞い、すべてで粋、鯔背、という言葉を体現していた人だ。志ん朝もすべて名演ばかりだが、僕は生の高座で拝見した「品川心中」が今でもまざまざと心に蘇る。それに「火焔太鼓」のテンポの良さも。兄弟二人に共通するのは噺に気品があることだ。絶対に崩れる事のない気品が・・。
文治も独特の間合いと可笑しさが魅力だ。一時期追っかけのように彼の高座を廻った事がある。一門会を予約しようと電話をしたら師匠ご自身が出てこられて驚いた事もあった。「替り目」や「源平盛衰記」楽しませてもらっている。いつまでもお元気で活躍して頂きたい。
もう一人、僕の絶対のアイドルは三味線の弾き語りで都々逸や新内を聞かせてくれる、柳家紫朝だ。少し頼りなさそうなそれでいて強靭な演奏は、空中に見事な一本の線を描き、時間の流れを確実にゆっくりとしたものに変えてしまう。それはある意味、音で表現することの極致だと思う。
僕自身はボサ・ノヴァというブラジルの音楽を演奏している。でもお手本にしているのはこういった人たちの芸だ。唐突に聞こえるかも知れないが空気感や時間の流れを変える、その方法は驚くほど似通っているのだ。
ジョアン・ジルベルト来日記念コラム
「J-WAVEボサーン」のために書いたコラム。
中村の視点で見たジョアン・ジルベルト感です。25年前サン・パウロの街角の酒場で僕はブラジル音楽の底辺を経験した。そこでは毎晩ボヘミアン達が集まり、一本のギターを廻して弾きながら夜通し歌って過ごしていた。すべての人が音楽を熱く語り、街のギタリスト達が奏法を競い合い、そうやって幸せな時間を過ごしていた。時には新しい歌がうまれるところを目撃することもできた。そこには間違いなく音楽を楽しむ情熱があった。その中で僕はいつもノートと鉛筆を持っていて、彼等からギターと歌を教わった。
ボサ・ノヴァの生まれる経緯を書いた資料や写真を見ていると、僕が経験した酒場の雰囲気と似たものを感じる。若き日のボサ・ノヴァ・クリエーター達の姿に見えるのは音楽を楽しむ情熱だ。ボサ・ノヴァには知的でクールといったイメージが付きまとっているようだ。少し距離感を置くような表現方法がそう思わせるのだろう。でもその内側には熱いものが溢れている。独特のグルーヴ感や音の存在感を作っているのはその情熱だと僕は思っている。逆にただ表面的に軽く洒落た感じをなぞっただけのものには、どうしてもボサ・ノヴァを感じない。
もっとも強い情熱を持つアーティスト、ジョアン・ジルベルトが来日する。彼は自らの持つタイミングと音色にこだわり続け、最近ではソロのパフォーマンスに終始している。歌とギター、それだけで何一つ過不足のない音の世界を構築するジョアン、安らぎに満ちた瞑想的音の世界の裏側には、音で表現する事の極限を求め格闘し、それを楽しむ姿が見える。
※この掌編は'92『街角』 の中の「僕がサンバを作る時」という曲を作曲したとき、同時に書いたものです
ジヴィーナの事 中村善郎
...Quando passo a noite naquele bar
Divina sempre ta ao lado de mim
Ela gosta de cantar com meu violao
Depois me da sorriso e beijinho...…あのバールで夜を過ごす時は
ジヴィーナがいつも僕のそばにいる
彼女は僕の伴奏で歌うのが好きなんだ
そして僕にほほえみかけ、キスしてくれる…
(Quando faco samba / 僕がサンバを作るとき)「ねえ、たばこ持ってる?」ジヴィーナが振り返って聞いた。
「いや、僕は吸わないから…」ジーンズのポケットに手を入れたまま僕は答えた。
「そう、そう言えば、あなたがたばこを吸っているところを見たこと無いわね」
そう言いながらジヴィーナは少し微笑んだ。でもその微笑みは何となく淋しげだった。
ジヴィーナの瞳。それはいつも僕に子鹿を連想させる。大きな黒い瞳は驚きをもって世界を眺めまわすように見ひらかれ、つんっと澄まして上を向いた小さな鼻や薄く口紅を塗った唇も、やはり小鹿のように華奢なのだ。
汐の香りのする風が吹き、彼女の長い髪が顔を覆った。髪を片手で押さえながら、ジヴィーナは又海の方を向いた。その姿はいつも“アバランダ”で見慣れた、勝ち気で男達の少々卑猥な冗談を平気でやり返す彼女とは違っていた。
季節はずれの海岸。閑散とした道路を時々ワーゲンが物憂い音を立てて通り過ぎて行った。失われた記憶のように白々と太陽に照らされた道路に埃が舞い上がった。
僕はジヴィーナと同じテーブルに座っていながら、遥か遠くにいる気がした。例えば僕と彼女は同じ場所に座っているのだが、彼女が座っているのは遥か昔、あるいは遥かに未来の事のようにずれているといった感じだろうか。どうしようもない隔たりが二人の間にあったことは確かだ。僕はただのエトランゼで、彼女の寂しさに触れることすら出来なかった。それはもう十年以上昔の話だ。“アバランダ”の事を思い出す時、最初に石畳の坂道が蘇って来る。その坂は結構急で雨の降る夜などは危うく滑りそうだった。入口はいつも開けっ放しで、そこから店の明かりが漏れ、ざわめきが坂の下からでも聞こえた。毎晩僕が入って行くとカウンターの中で主人のアゴストが大袈裟に両手を上げて迎えてくれた。そして仲間たちが僕にギターを渡し酒を奢ってくれた。百年前からそうしていたように僕らは歌い、飲み語り合って夜明けまで過ごすのだ。
毎晩のように顔を合わせた人々。ショーロを弾かせると一番うまかったトゥニコン、マカロニ・ウエスタンの悪役のような容貌をしているのに、とてもセンチメンタルな唄が好きなカピタン、女性の中では一番ギターのうまかったマリーア、そして“アバランダ”の王様ジェトゥーリオ…。年令も職業も様々な人々がそこではただ歌うのが好きな、そして皆と飲むのが好きなだけの仲間だった。
ある程度僕は言葉が分かるようになっていたけど、その国に生まれた人のようにすべてが自由になるわけではなかった。というより半分以上の言葉は頭を通り過ぎ、自分に分かる幾つかの言葉に僕は反応していただけだろう。今考えてみると自分が機嫌のいい犬みたいだったと思う。自分の名前が誰かの口から漏れたりすると、急に耳が反応し、それ以外の言葉は音楽のように通り過ぎて行く。僕がいつも上機嫌だったのは皆が奢ってくれるただ酒のせいばかりではなかった。僕は自分にとって心地よい情報だけを聞いて、後は自然に聞き流していたのだろう。でもディティールがはっきりしない分、より僕は人の感情の動きに敏感だったかもしれない。
僕はいつもノートを持っていて、気に入った曲は必ず歌詞やコードを書いて貰って覚えた。皆面倒がらずに、かえって面白がって色んな唄を教えてくれた。そして何日かあと僕がその曲を歌ってみせると大袈裟に褒めてくれた。それも考えてみれば芸をする犬を可愛がるようなことだったのかも知れない。
そしてジヴィーナとミシェル。僕は二人の事が好きだった。二人はいつも肩を並べて座り、それほどはしゃぎまわったりはしなかったけれど、楽しそうに飲んでいた。ミシェルは僕の好きな詩人ヴィニシウスの唄が得意でボサノヴァの名曲の数々を教えてくれた。ギターは余り上手ではなく、指盤をじっと見つめながらたどたどしいリズムで歌うのだが、それが中々味があった。僕に『サンバ・サラヴァ』を教えてくれたのは彼だ。何日かあと、練習の成果を見せるべく僕はミシェルや皆の前で『サンバ・サラヴァ』の初演をやってみせた。語りの部分が長くて覚えられないのでノートを見ながらの演奏だった。ブラジル人達にとって僕のような片言しか話せない日本人が、偉大な詩人の詩を読み上げたりするのが可笑しいらしく大受けした。でもミシェルだけは両手でしっかり僕の手を握り神妙な顔で、「とてもよかった。僕は嬉しい…」と言ってくれた。
小柄で少しあさ黒い肌をしたジヴィーナ。彼女は少しハスキーな素敵な声をしていた。何曲か得意の曲があり、誰かがリクエストすると気軽に歌った。リズム感がとても良く大抵の歌い手が伴奏のリズムに乗って歌うのと違い、彼女は自分の歌でリズムをぐいぐいと引っ張って行く事ができた。時々はミシェルが伴奏して二人でデュエットをやったりしていた。二人の得意レパートリーの一曲は、バーデン・パウエルとやはりヴィニシウスの『プレリュードのサンバ』だった。ヴィニシウスを好きなミシェルらしい選曲。それはバロック音楽的な対位法を取り入れた曲で別々の二つのメロディーを男と女が歌い、最後にそれが絡み合って盛り上がるという、中々素敵な曲だ。この曲に関してはミシェルはギターを弾きたがらなくて、いつも僕が伴奏を受け持たされた。最初、ミシェルが低いパートのアルペジオのようなメロディーを歌い、その後流れるような高音部のメロディーを情感たっぷりにジヴィーナが歌う。そしてミシェルの合図で僕がワン・コーラス間奏を弾いた後、二人の絡みあいがあるわけだ。お互いにみつめあい、大げさに両手を広げて歌う二人の姿は日本人の僕には少し気恥ずかしかったが、皆は大まじめで結構盛り上がったものだ。
何があってそうなったのか、僕にはまったく知る由もなかった。さっきも言った通り、大抵の会話は僕の頭上遥か高いところを過ぎていたのだから。僕には目の前に展開された事しか分からなかった。
ある晩そんな二人が激しく喧嘩をした。珍しいくらい声を上げて罵りあう二人をアゴストやまわりの友人達が心配気に取りまきなだめていた。僕はその外側からおろおろしながら見守るだけだった。僕には早口に言い合う二人の言葉は一言も理解出来なかった。でも好きな二人が喧嘩をしている姿は僕には悲しかった。
そしてその晩二人は別々に帰っていった。二人が帰った後店の雰囲気が一瞬落ち込んだけど、それもすぐに元通りになった。そんな風な事は“アバランダ”の中でそういつも起こる事ではなかったけれど、まったくないわけでもなかった。
それからミシェルとジヴィーナは別々に現れるようになった。二人は会うと普通に挨拶を交わしていたが、以前のように仲良く一緒に座る事はなかったし、いつも別のグループの所で飲んでいた。まわりの皆は、そのうちまたよりが戻るよ、いった風で、別に二人に干渉したりはしなかった。でも二人がお互いにこっそりと様子を窺いあっていたのを僕は知っている。ただミシェルもジヴィーナも以前のように歌ったりしなくなり、ミシェルはもう僕にギターを教えてくれなかった。それが少し寂しかったけど、それでもそんな風なまま時間は過ぎて行った。時々二人の事を心配そうに見ている僕に気づいたアゴストは、
「時は過ぎて行くもんさ……」
と僕の肩をたたいた。
そう、時は過ぎていく。そしてどんな事でも大抵は自分の考えた予想を裏切るものだ。
僕はミシェルとジヴィーナがそのうちまた元のように仲良くデュエットをやったりするようになる日が来るものだと、何となく勝手に決めつけていた。そしてミシェルが僕にヴィニシウスの歌を教えてくれる日が遠からず戻って来ると思っていた。取り合えず二人は店に来ると別々のグループにいたけど、挨拶を交わしたりするとき、以前のような冷たさは消えていたし、短い間だけど二人だけで楽しそうに話し合っていたりした事があったからだ。
しかしある夜、ミシェルはジョアーナという女の娘と出会った。二人は意気投合し大声で笑い合い、乾杯を重ねた。あの夜以降殆ど弾かなかったギターを取り、ミシェルはジョアーナの為にたどたどしいラブ・ソングを何曲も歌った。二人が肩を組んで仲良く帰って行った時、店の奥ではジヴィーナが肩を落として目に涙をうかべていた。僕自身もミシェルには物凄く腹が立ったし、ジヴィーナが可哀相でオロオロしたけど、僕には何も出来なかったし、何も言えなかった。それからミシェルは二度と“アバランダ”に姿を見せなかった。彼がどうしているのかはそれ以後知る事はなかった。でもそれも“アバランダ”では普通の事だった。毎日来ていた奴が突然来なくなったり、本当に久し振りに顔を出す奴がいたり…。誰もそんな事を気にはしない。来ればいつでも仲間だから…。
ジヴィーナはそれでもよく“アバランダ”に来ていた。しばらくするとミシェルの事はふっ切れたらしく以前の快活さを取り戻し、また僕や他の誰かの伴奏でサンバを歌った。だけど急に黙ったりした時、肩の力が抜けとても寂しそうに見えた。そんな姿を見た時僕は自分でも気が付かない内に彼女を「明日海に行こう」と誘っていたのだ。
ジヴィーナは僕の方を振り向いて寂しそうな笑みを浮かべた。僕はなんとなく落ち着かなくて、
「いやならいいよ。僕一人でいくから…」
と言って誤魔化した。急にジヴィーナが大きな声を上げて笑った。そして
「真冬に海に行っても何にもないわよ…。
でもいいわ、行きましょう…」
と応えた。そうブラジルだってそれなりに寒い時は寒いのだ。僕とジヴィーナは歩き疲れてカフェ・テラスに座っていた。風はまだ肌寒いくらいだったけど、海の見えるテラスは気持ちがよかった。何だか一日中二人とも黙っていた気がした。僕はジヴィーナを誘った事を少し後悔していた。僕のようなエトランゼには彼女慰める事すら出来ない。第一、気のきいた言葉さえ口にする事が出来ないのだから。ジヴィーナはコーヒー・カップを手にしたまま遠くを見つめていた。僕はそんな彼女をなすすべもなく見つめていた。今ここにギターがあれば、ほんの少しくらい彼女を楽しくさせられるかな、と思いながら…。
ジェトゥーリオの話
セン・ノーメ(名無し)という名のバールはサン・パウロの街の片隅にあった。偶然その店に入り込んだ僕は、そこを中心にしてブラジルの音楽のある意味では底辺の部分を彷徨い、学んだ。夜毎集まるボヘミアン達は飽きもせず、一本のギターを廻していろんな曲を弾いていた。そして訳の分からない日本人の僕にもギターの手ほどきをしてくれた。ジェトゥーリオという大男はその中でも僕を一番可愛がってくれ、いろんな曲を教えてくれた。もう20年以上前の話だ。
「ナカジーニョ…!」
よく響く胴間声が僕のあだ名を呼んだ。
「よう、元気だったか?」
そして、ジェトゥーリオは大きな犬のように太い毛むくじゃらの腕で僕を羽交い締めにし、背中をどんどんとどやしつけた。危うく僕のショッピ(生ビール)がこぼれそうになった。
元気だったか?だって、昨日の夜一緒に飲んだばっかりじゃないか。そう思いながらも僕は大袈裟な挨拶に笑顔で応えた。まだ宵の口だと言うのにジェトゥーリオはもう酔っぱらっていて、栗色の目の焦点が怪しかった。
「アー、ハッハッハッ…」彼独特のダイナミックな笑い声を上げた後、次に来る言葉は決まっている。
「お前は本当にブラジル人みたいな日本人だ!」
ジェトゥーリオが耳元で胴間声を上げるのに合わせて、僕もうんざりとした気分で一緒に呟いた。
「アゴースト!」
ジェトゥーリオは僕の肩を丸太のような腕で抱えながら、この小さなバール(酒場)の主人の名を呼んだ。
「何だい?」アゴストは下を向いて仕事を続けながら面倒臭そうに返事した。彼にもジェトゥーリオが次に何を言うか分かっているのだ。
「こいつは日本人のくせに、サンバを弾くんだぜ」
アゴストも多分一緒になって呟いているのだろう、片方の眉を一寸上げて肩をすくめて見せた。
「おい、ギターだ!」
ジェトゥーリオはアルバイトのジョアンを呼びつけた。ジョアンは壁に掛かっている疵だらけのギターをとってジェトゥーリオに渡した。ジェトゥーリオはそれを僕の胸に押しつけた。
「ほら、なんかやってみろ!」
僕はギターを膝に乗せて、とにかくチューニングを始めた。弦巻きが錆ついていて、廻すのに殆ど渾身の力が必要だった。おんぼろな楽器はどうやったって合わないのだが、とにかく納得出来る程度まで合わせたところで、僕はジョビンの曲を弾き始めた。
実を言うとその夜はジェトゥーリオに会うのが楽しみだった。僕は新しい曲を覚えたばかりで、ちょっと自慢したかったのだ。
『ESTE SEU OLHAR QUANDO ENCONTRA O MEU・・・』 (君の視線が僕の視線と重なるとき・・・)
時々、覚えたての歌詞がどこかに行ってしまいそうになるのを、なんとか間違えないで僕は最後まで歌った。
「お前! 本当に・・・・・・!
へ、た、く、そーーーだな!」
そうだ、いつもこの一言がぐさっと僕の胸を抉るのだ。今夜こそはとにかく褒め言葉が聞けるかとおもっていたのに・・・。
「貸してみろ!」ジェトゥーリオは乱暴にギターをひったくり、また今夜も僕がやったばかりの曲を弾き始めた。
一本一本がたらこのような指をしているのに、それを器用に操ってイントロを弾きジェトゥーリオは歌い始めた。
反対側のすみっこでだれかと話していたルシアーナがこっちに寄って来た。アゴストもジョアンも仕事の手を止めてジェトゥーリオの唄に耳を傾けた。ジェトゥーリオの唄は確かにとても魅力的だった。酔っぱらっていて音程もかなり怪しいのに、しゃべる時はただやかましい胴間声が歌いだすと嘘のように優しくなる。そして柔らかなサンバのリズムに乗って、直接心に染み込ませるように歌う。
決してうまい唄という訳ではないのに・・・。
えいっ、くそっ・・・。
そうやって僕はまた一晩中ジェトゥーリオと飲み明かす事になってしまうのだ・・・。中村が担当したCDの解説です。「広さ」「距離感」をキーワードにした一つのブラジル音楽論。
サラ・ヴォーン/ブラジリアン・ロマンス(ソニーSME SRCS-9555)
ブラジルの文化を理解する上で重要なキー・ワードの一つに、「広さ」「広がり」といった事があると思う。実際ブラジルは日本の23倍もの面積を持つ広大な国だし、現実的な意味での「広がり」があらゆる表現に大きな影響を与えている事は確かだ。でも僕が言いたいのは現実的な空間の事だけでなく、「孤独感」や「切なさ」と言った意味での心的な距離感を意味する「広さ」を含む感性の事だ。
最近話題になったブラジルの映画に「セントラル・ステーション」(99年春公開)がある。日本ではブラジルの映画が公開される事は少ないが、「セントラル・ステーション」はベルリン映画祭のグランプリや、アカデミー賞の外国映画賞にノミネートされたことが注目されたのだろう。代書屋をしている初老の女と、母親を失って孤児になってしまった少年が、ふとしたきっかけで知り合い、少年の父親を求めて旅をするロード・ムービーだ。旅をするうちに最初はいがみ合い、喧嘩をしながら、やがてはお互いを認め合うようになる・・・、といった物語が淡々としたタッチで描かれている。
映画の詳しい説明はここでは省くが、少し残念に思うのは、日本での公開タイトルが「セントラル・ステーション」と付けられた事だ。たぶん物語の冒頭がリオの中央駅から始まるのでそうなったのだろうが、原題は「セントラル・ド・ブラジル」すなわち「ブラジル中央」という意味で、これはロード・ムービーの常とも言えるが、二人の孤独な主人公と同等のファクターとしてブラジルの中央部の荒涼とした風景が重要な役目を果たしているからだ。
余りに広い空は主人公たちの孤独感を強調する。その果てしなさはかえって閉塞感をも感じさせる。でも「セントラル・ステーション」の中の風景は荒涼としていても不思議と無機質で乾いたものでなく、独特の湿り気と、どこか懐かしく主人公たちの孤独を包み込むやさしさのようななものを感じさせる。その中でお互いに歩み寄ろうとする孤独な魂と魂。偶発的で希薄な出会いで始まった二人の心の距離は荒涼とした風景と同様に遠い、しかしその距離が遠いほど、それを越えようとする時、熱い思いがこもる。それを声高に叫ぶのではなく、淡々と語ることによって、より切なさが浮かび上がる。たとえばハリウッドの映画のように盛り上がるクライマックスに、何とかの愛のテーマ、といった歌い上げる曲が被さるような分かりやすい過剰さはここではまったくない。ただお互いに離ればなれになった主人公が、一人はリオに戻るバスの中で、一人は遥かに去っていった人を想いながら、同じ記念写真を取り出して見るシーンが静かなクライマックスになる。ハリウッド映画のように過剰さによってかえって魂の距離感を壊してしまうことはない。二人の距離感の切なさは静かに肌の感触として残る。
同じような荒涼とした大地を映し出していても監督やスタッフの感性でその印象は変わる。これまでロード・ムービー的な映画はたくさん見て来たし、勿論その中で映し出される風景はそれぞれ微妙に違っていたが、その多くは無機質な感情のない風景だった。それはそれで映画的な興味や興奮を感じるが、「セントラル・ステーション」で描き出される風景の湿り気のある「広大さ」は新鮮だった。そしてその静かさにとてもブラジルを感じた。
音楽の世界でも僕は同じような風景を感じる。ブラジルは様々なリズム、音楽形態の宝庫だ。ボサ・ノヴァのように都会的なもの、エスニックな部分を強調したMPBや様々な音楽があり、外見としてはそれぞれが著しく違っている。でもどこか共通に感じるのは、その懐かしさを含んだ「広大さ」だ。音の裏に見えてくるその「広大さ」に僕は安らぎを覚える。
こんな風に感じる事がある。
よく人生というもの自体が一つの旅にたとえられる。誰もが人生という時間と空間を旅する旅人だ、という言い方だ。東京のような狭く人の密集した所にいると、その言い方は何となく気障で陳腐な言い方に聞こえるが、ブラジルにいると、たとえそれがリオのような都会の中でも、すんなりと受け入れる事が出来る現実味を帯びる。ヨーロッパやアフリカといったそれぞれ別々の土地から来た人達が集まってブラジルという国が出来ている、という歴史がそうさせるのかもしれない。それと広大な大地だ。それが個人と個人の魂の距離を自然な形で感じさせ、文化にも反映するのだろう。でもその魂の距離感というものは、何処にいても同じ事なのではないだろうか?たとえ満員電車のすし詰め状態の所にいても魂の距離感と言うものは変わりようがないでのはないだろうか?
気心の知れた友人といる時、或いは肉親、夫婦といった最も近い間柄の人達と一緒にいても、ふっ、と孤独感に襲われる事がある。目の前にいる友人、恋人、肉親がとても遠い存在のような錯覚を覚える一瞬・・・。その刹那的な孤独感の中には不思議な安らぎも含んでいる。それはたぶん自分という存在をもっとも確かに感じる瞬間でもあるからだろう。相手が遠く感じる、或いは自分自身が遠くに感じる瞬間、自分が広大な空間に一人で取り残されているような感覚を、多くの芸術は表現しようとして来ていると思う。そしてブラジルの音楽や映画「セントラル・ステーション」はそれを自然な形で表現している例だ。
そしてサラ・ヴォーンの声だ。
エラ、サラ、カーメンと並び賞されるジャズ・ヴォーカルの女王達の中で、僕自身はあまりサラ・ヴォーンを買っていなかった。何となくエラ・フィッツジェラルドの小粋さや、カーメン・マクレーのジャジーなアンニュイさに比べると、サラの歌はダイナミックな声とテクニックばかりが勝っているように聞こえたからだ。素晴らしくダイナミックでテクニカルでゴージャスだけど、それだけ・・・、申し訳ないけど心の中に滲みてくるようなものは感じなかった。
しかしサラ・ヴォーンがブラジルのものを取り上げ始めた時、その思いは変わった。何故か彼女の声がより生き生きと聞こえたのだ。そしてそこには「セントラル・ステーション」にあるような優しさを含んだ、雄大な空間が感じられた。
サラ・ヴォーンは自分のスタイルを確立した歌手だ。どんな曲でもすべて自分のものにしてしまうテクニック、説得力を持っている。ブラジルのものを歌う時もスタイルを変えている訳ではない。それでも歌の印象が変わって聞こえるのは、たぶん彼女の中にあるものとブラジルの曲の中にある感性のマッチングがいいのだろう。
1977年サラは初めてブラジルでレコーディングしている。「O Som Brasileiro de Sarah Vaughan」、後に「アイ・ラヴ・ブラジル」というタイトルで日本でも発売されたアルバムだ。ミルトン・ナシメント、トム・ジョビン、ドリヴァル・カイミといった豪華なブラジルのアーティストとの共演を楽しんでいるサラの姿がある。オリジナルのアルバム・ジャケットでは共演しているミュージシャン達だけでなく、様々なブラジルのアーティスト達がサラのレコーディングを覗きに来ている姿が数多くの写真に納められている。サラ自身もリラックスした姿で写っている。豪華で瑞々しい出会いを感じさせるアルバムだ。
そして2枚目の「コパカバーナ」(1979リオ録音)は「アイ・ラヴ・ブラジル」のサポートを務めていたブラジル人ギタリスト、エリオ・デルミーロをフィーチャーして作られたボサ・ノヴァを中心にしたアルバムだった。1枚目ほどの豪華さはないが、彼女がボサ・ノヴァにじっくりと取り組んだアルバムだ。 ジャズ・ヴォーカリストが英語で歌うボサ・ノヴァは、本家のポルトガル語で歌われるボサ・ノヴァとは違う、ノリのはまらない居心地悪さを感じるものが多い。それは言葉自体の持つリズムの差が大きな原因になっている、と思うが、それだけではなく、ボサ・ノヴァをアーティスティックなものではなく、おしゃれなイージー・リスニング的なものと軽視する傾向があるからだと思う。でもサラはどんな曲でも自分が歌うと決めた曲は正面から取り上げる。彼女の歌った力強いボサ・ノヴァはブラジルのものとはニュアンスは違うが、きっちりと自分のものにして、言語のリズムの違いなど一切感じさせないものだった。
そして本作「ブラジリアン・ロマンス」はサラのブラジル音楽集としては3作目になる。セルジオ・メンデスがプロデュースをつとめ今回はブラジルでなくアメリカで録音されている。パーソネルをご覧になればお分かり頂ける通り、ジョージ・デュークやヒューバート・ローズなどお馴染みの堅実なメンバーに囲まれてサラは楽々と歌っている。
このアルバムの特徴として挙げられるのは、先ずMPBの代表的アーティスト、ミルトン・ナシメントの参加だろう。1作目でもミルトンは参加していたが、その時はまだ、お互いにゲスト同士といった遠慮が感じられた。今回はミルトンの曲自体がアルバムのカラーを決めるほど影響を与えている。ミルトンの曲は1.3.6の三曲。3の「ラヴ・アンド・パッション」ではミルトン自身が歌でも参加している。
ボサ・ノヴァ以降の代表的な音楽ムーヴメントとしてMPBは始まった。先程か何度か登場しているMPBという言葉(エム・ぺー・べーと発音)はMusica Popular Brasileira、の略であり、ブラジル・ポピュラー音楽といった意味だが、単にポピュラーといった時に感じる軽さはなく、かなり高度でアーティスティックなものである。
ボサ・ノヴァがどちらかと言うと、普遍的な世界、スタンダードな志向だったのじ比べて、MPBはブラジル回帰といった志向が見られる。元はボサ・ノヴァの時代から活躍してきた人気歌手エリス・レジーナが若い作家達の作品を次々と取り上げヒットさせた事から始まった、とされているが、その多くはブラジルの土着のリズムやメロディーとロックなどの現代的な音楽とが結合したものだった。
ミルトン・ナシメントもMPBの流れの中で確固とした地位を作り上げてきたアーティストだが、中でも最も早くから世界に進出してきた一人だ。特にウエイン・ショーターの「ネイティヴ・ダンサー」(74)への参加は世界中に大きなインパクトを与えた。彼の雄大な作品は出身地であるブラジル内陸部の州、ミナス・ジェライスの豊かな自然、風を体現している。またその神秘的な声は世界中から「ブラジルの声」と賞賛されている。サラが彼女と同様「広大な」音楽世界を持つミルトンとの共演を希望したのは必然的な流れだったのだろう。
そしてこのアルバムで、2.5.7.8.10の5曲を提供し、アレンジとギターで参加している、ドリ・カイミもまたミルトンと同様にミナス派(僕は勝手に空間派と呼んでいる)のアーティストだ、彼はバイア出身の国民的アーティスト、ドリヴァル・カイミの長男であり、姉ナナ、弟ダニーロもブラジル音楽界の重鎮、といった音楽一家の生まれだ。父ドリヴァルがバイアの海をモチーフにして来たのに比べて、彼は内陸的な世界をモチーフにしているが、それは少年時代をミナスで過ごした事が影響しているのだろう。ブラジル以外での活動も多い彼だが、その音楽的風景はいささかも変わらない。ここでは聞けないが彼も広大で神秘的な声を持っている。
そしてプロデュースを担当したセルジオ・メンデスに関しては説明の必要もないだろう、「セルジオ・メンデス&ブラジル66」等で数々のボサ・ノヴァ曲を世界中にヒットさせ、広めた功績は大きい。一時ポップになりすぎた嫌いがあったが、その後またブラジルに回帰する姿勢を見せている。このアルバムもそういった流れの結果だろう。彼が提供している「ソー・メニー・スターズ」はサンバ・カンソンの秀曲だ。
このアルバムを聞いていると以前放浪した南米の大地の風景が浮かんでくる。そしてまた旅に出たいような気分が湧いてくる。
中村が担当したCDの解説。ボサ・ノヴァとジャズの違いを中村なりの論理で。ドナート・デオダート/ジョアン・ドナート(ソニーSME SRCS-9550)
ボサ・ノヴァは、ブラジルのサンバがジャズの影響を受けて生まれてきたもの、という言われ方をする。それがボサ・ノヴァの一般的な捉えられ方、と言ってもいいだろう。でもそこには何となくボサ・ノヴァがジャズの妾腹の子ども、といったような、ジャズより一段低くみる傾向が感じられる。それと同じようなことで、軽くおしゃれ、というのがボサ・ノヴァを形容するのに最もよく使われる言葉であるが、その言葉の裏には真剣に取り組むものではない、というようなニュアンスも感じる。僕自身の経験でも、あるジャズ評論家に「ボサ・ノヴァは、ジャズ・メンが息抜きに演奏する軽い音楽」という風に言われたことがある。その時は内心あまり穏やかな気持ちではいられなかったが、その言い方はある面一般的なボサ・ノヴァの印象を代弁しているかもしれない。しかし果たして本当にそうだろうか?
ボサ・ノヴァ最高のクリエーターであったアントニオ・カルロス・ジョビンが、晩年カーネギー・ホールでのコンサートの際の記者会見で、ボサ・ノヴァに対するジャズの影響、という質問を受けて、ボサ・ノヴァがジャズに影響を与えた事はあってもジャズがボサ・ノヴァに影響を与えた事はない、という風に答えた事があった。質問した記者はジョビンがジャズにインスパイアーされ、或いはジャズから学んだものから数多くのヒット曲を生み出した、という答えを引きだしくて、執拗に同じような質問を繰り返したのだが、ジョビンは最後まで自分の意見を変えず、会場がちょっと鼻白む雰囲気に包まれた、という事だ。
ボサ・ノヴァとジャズは、ちょっとタイプは違うがスウィンギーなリズムやテンション・ノートを使うコード・ワーク等の点で似ているところが多く、そのことからジャズの影響を受けたサンバというような定説が導き出されて来たのだろう。しかしジャズはボサ・ノヴァを生み出すきっかけに影響を与えたかもしれないが、ボサ・ノヴァが単純にその方法論をなぞる、というような事はなかった。その二つは根本的なところでかなり違ったコンセプトを持っている。
例えばアドリブに関する考え方だ。ジャズはかなりな部分アドリブを前提にして作られていて、コード・ワーク等もアドリブ・プレーヤーの都合の良いように構成されている。コード進行に対して適したスケールを当てはめていけば、それなりのメロディ・ラインを作る事ができるのだが、ボサ・ノヴァは必ずしもそうはいかない。例えばジョビンのコード・ワークの中にはシンプルに見えるのにどこか簡単には割り切れない、隠し味的な要素をもった音が含まれている。それがアドリブ・プレーヤーには邪魔なものに思えるらしい。セッションでジョビンの曲を取り上げたりすると、アドリブ・プレーヤーの方から「このコードはやりにくいし、体制に影響がないので外そう」というような事を言われたりする。確かにそのコードは理論的な流れの上では無駄なものに見えるし、外すとよりすっきりした進行にはなるのだが、だからと言って、それを外してしまうと曲の中にあった独特の膨らみのようなものが失われてしまって、平板な印象になってしまう。言い換えれば似て非なるもの、と言った印象を持ってしまうのだ。その他にも歌詞を重視して作られた曲は、歌詞の赴くまま半端な小節数で構成されていたりして、それもアドリブ・プレーヤーにはネックになるらしい。勿論ジョビンの曲だけでなくボサ・ノヴァの曲は多かれ少なかれそういった要素を持っているのだが、それをアドリブを前提にしたものに作り変えようとすると、どこか薄っぺらな感じのするものになってしまうのだ。ジャズ系のミュージシャンたちの間でもボサ・ノヴァは数多く演奏されてきているが、間違ったコード進行のものだったり、陳腐なエキゾチシズムをなぞる事だけで終わっている例が多いのは、そういった違いを理解した上で演奏しようとする姿勢がないからだと思う。数多くのボサ・ノヴァ・クリエーター達がインタビューでその事を嘆いている。
どちらが影響した、というような事はともかく、ボサ・ノヴァが世界に羽ばたくのにジャズのミュージシャン達が大きく貢献したことは事実だ。スタン・ゲッツやポール・ウインターの成功がなければ、ボサ・ノヴァがこんなに世界に広まることはなかった、或いはもっと時間が掛かったかも知れない。ボサ・ノヴァが世界の音楽シーンに定着することで、同時にブラジルのサウンドが常に新しい波として、世界の音楽に影響を与えるようになった。そしてボサ・ノヴァ自体も様々な試みを経て多彩な側面を見せることになる。
一口にボサ・ノヴァといっても元来その形態は様々だった。メイン・ストリームにある都会的なサウンドとは裏腹にバーデン・パウエルやエドゥ・ロボなどが好んで取り上げた土着的な民俗音楽的なもの、表現に関してもジョアン・ジルベルトのように東洋哲学を感じさせるものから、セルジオ・メンデスのようにロック、ポップ的なアプローチまで様々である。またボサ・ノヴァにはアメーバのように、周囲にあるものを取り込んで形を変えて行くところがあり、そういった事から、少し形を変えたものが逆にジャズに影響を与えるという事が起こり始める。このCDにも参加しているアイルト・モレイラをフューチャーした、チック・コリアの「リターン・トゥ・フォー・エヴァー」などは、ジャズの世界に大きな変革をもたらしたアルバムと言われているが、捉え方によっては、アイルトが持ち込んだボサ・ノヴァな部分がジャズに与えた影響の結果という風にも見える。前述のジョビンがインタビューで言おうとしていたのは、そんな事を指していたのかも知れない。
「ツァラトストラはかく語りき」(73)の大ヒットを記録したデオダート。コンテンポラリーなアレンジを特徴とする彼も、そのルーツはボサ・ノヴァである。12才でアコーディオン、その後ピアノを弾き始めた彼は、ギタリスト、ロベルト・メネスカルやドゥルヴァル・フェレイラといったボサ・ノヴァの中心人物達との共演からキャリアをスタートさせている。いわばボサ・ノヴァの第二世代といったところだ。独学でアレンジを学んだ彼は、自分の名前でジョビンの曲集や自分がリーダーを務めるカテドラチコスというバンドで数枚のアルバムをリリースする。そしてこれもボサ・ノヴァの最高のギタリスト、既にアメリカを拠点に活動していたルイス・ボンファの招きでアメリカに渡り、その後はフランク・シナトラ、トニー・ベネット、ロバータ・フラックなどの大物歌手や、ブラジルから渡米したジョビン、ミルトン・ナシメントなどのレコーディングでアレンジを務めて華々しい活躍を見せる。アレンジャーとしての活動が目立つ彼だがコンポーザーとしても、Razao de Viverといったボサ・ノヴァの名曲を作っている。
ジョアン・ドナートはボサ・ノヴァ最高のクリエーターの一人だ。ボサ・ノヴァの重要なレパートリーを数え上げれば、その中に彼の曲が多数含まれることになるだろう。しかし彼の場合、ボサ・ノヴァが台頭する60年代にはブラジルにいなかった。余りに斬新なプレイ・スタイル、そして天才と紙一重的な奇行が災いして、ブラジルでは受け入れられず、国民的歌手エリゼッチ・カルドーゾとのメキシコ公演をきっかけに既にアメリカに拠点を移していたのだ。彼の奇行は有名で、数年前小野リサのレコーディングとツアーで来日していた際の周りのスタッフは大変だったらしい。その時期僕はリオにレコーディングに行ったのだが、会うミュージシャン全員がドナートの動向を尋ね、「日本は大変で、リオは静かだ」と言って笑っていた。しかし彼独特のセンチメンタリズムと斬新なリズム(少しキューバ・ラテン的な香りもする)を持った曲は数多くのアーティストに取り上げられ愛されている。ドナートもスタン・ゲッツやネルソン・リドルといったアメリカのアーティスト達と共演すると共に、ジョビンやジョアン・ジルベルト、ドリヴァル・カイミといったブラジル人アーティストが来米した際にはそのアレンジャー、ピアニストとしてサポートを務めている。
ボサ・ノヴァをルーツに持ちその才能を別天地アメリカで主に開花させた二人のこのアルバムは、ジョビンが言った、ボサ・ノヴァがジャズに与えた影響の一つの形である。当時新進気鋭のランディ・ブレッカーやラテン・バンドのリーダー、レイ・バレットそしてアイルト・モレイラなど、まさにフュージョンという言葉通りのメンバーでインター・プレイを展開している。主にドナートが曲を提供しデオダートがアレンジを担当ているが、デオダートが「ツァラトストラ」を大ヒットさせた直後の録音で、そのラテン・ファンク的なアレンジは快調だ。そしてどこか人恋しいような気分にさせるドナートのメロディは彼の騒がしくて憎めないパーソナリティーを体現している。5.のYOU CAN GOはドナート自身が自分の作品の中で最も気に入っている曲だ。そして全体として表面的な印象はかなり変わっているが、内面のどこかでボサ・ノヴァの最も重要なセンチメンタリズム「サウダージ」を感じさせるアルバムだ。
ドリス・モンテイロ/サマー・サンバ(フィリップス PHCA-4244)
ボサ・ノヴァのムーヴメントは1950年代の終わり頃から始まった。それはそれまでの古い体質の音楽に対する反発とアメリカのジャズへの憧れから若者達の中で生まれた、というのが定説になっている。1950年代の同時期、リオでは同じようなベクトルを持ったたくさんの若い音楽家達がそれぞれ個々に新しい試みに挑戦していた。それがジョアン・ジルベルトやトム・ジョビンの成功をきっかけに一気に結びつきボサ・ノヴァという大きな波になり、やがてブラジルだけでなく世界中にその波が及んでいくわけだ。その時代のブラジルを知らないけれど、その後20年ほどたった1970年代の終わりに僕はブラジルを放浪し、サン・パウロの片隅のバールでブラジルの音楽の底辺の部分に触れたことがあった。その頃はボサ・ノヴァはやや沈滞気味で、もっと社会性を持った詞にロックがかったメロディーが流行りだった。でもそのバールでは様々な地域、年代のブラジルの音楽がごく自然な形で演奏されていた。もちろんボサ・ノヴァやサンバも彼らの主要なレパートリーとして毎晩演奏されていた。このドリス・モンテイロのアルバムを聞いていて浮かんで来たのはその時の光景だった。
開け放した入り口からは片隅の壁に掛けられたギターが見える。カウンターとテーブル席が三つしかない小さなバール。カウンターの中には白い上っ張りを着たジョアンが、一人手持ちぶさたに頬杖をついて午後の明るい街角をぼんやり眺めている。昼間は客の姿もまばらで薄ぼぼんやりとした印象しか与えないバールが、夕暮れからはその様相を一変させる。
仕事を終えシャワーを浴びこざっぱりしたシャツに着替えた人達が、三々五々そのバールに姿を見せ始めるのは、大体夜の8時くらいからだ。「調子はどうだい?」握手してお互いの肩を叩きあう。女性には両頬に軽いキス。「もちろん絶好調さ、君の方は?」毎日の事なのに大げさな挨拶。それは一種の儀式のようなものだ。そしてまずはショッピ(生ビール)。
いつの間にかバールには人が溢れかえっている。下らない冗談を言い合い馬鹿みたいな大声で笑う男達。少々卑猥な冗談を女性達も際どい冗談でやり返す。カウンターの中ではジョアンが、昼間の姿とは打って変わってきびきびと忙しそうに注文をこなしている。そしていつの間にかオーナーのアゴストが、男達には手を振り、女達にはウインクをして挨拶を交わしている。
ジェトゥーリオ、トゥニコン、カピタン、ミシェル、セーザル、マリーア、ジヴィーナ、ジョアーナ・・・。昼間は会社員、学生、消防所員、中にはサン・パウロの州会議員といった人達が、そこでは肩書きのないただの陽気な仲間として、そしてただの音楽が好きな友達として集まっていた。誰かが壁のギターを取り、軽いサンバを弾き始めると、グラスを持った人達がその周りに集まって来る。ビールの空き缶で作ったガンザを振る、テーブルやグラスを叩く、マッチ箱を軽く指先で叩く…。ギターとパーカッションのアンサンブル。もうそれだけで完璧だ。そしてみんなが歌い始める。軽くダンスの真似をする女の子・・・。
ギターの巧い仲間が姿をみせると、彼は最初のショッピを飲むことも許されない。「こっちへ来いよ・・・」先に酔っぱらい始めた仲間の大声に誘い込まれ、無理矢理ギターを持たされてしまう。まわりからは口々にリクエストの曲名が上がる。ギターを抱いた本人は苦笑いしているが、少しは得意な気分らしい。「OK・・・」みんなを制して彼はサンバ・カンソンのイントロを弾き始める。そしてまた合唱が始まる。
「私の伴奏してくれる?」女の子がギタリストにウィンクして立ち上がる。彼女のレパートリーは小粋なサンビーニャ(短いサンバ)だ。素晴らしいリズム感に誰もが魅了される・・・。
僕がサン・パウロにいる時、毎晩のように入り浸っていた「セン・ノーメ(名無し)」というバールの夜はいつもそんな風だった。僕はそこでギターと歌を教わった。セン・ノーメではブラジルのあらゆる音楽が演奏されていた。流行のMPB、サンバやボサ・ノヴァはもちろんバイヨンやセルタネージャ、ムジカ・カイピーラといったフォーク・ソング的なもの、そしてボレロやサンバ・カンソンといった甘く叙情的な曲・・・。すべてがギター一本と適当なパーカッションだけで演奏された。彼らの素晴らしい所は、一人一人が違ったスタイルを持っている、と言うことだった。同じ曲を演奏しても全く違うアプローチの演奏をする、例えばジェトゥーリオはボサ・ノヴァ風にアレンジし、トゥニコンはショーロ風に、という具合だ。さらにそれぞれのスタイルの中でも個人個人が様々な工夫を凝らし、その事をお互い同士で競い合っていたりもしていた。それは彼らにとって知的な遊びだった。時には誰かが自作の歌を披露し、周りのみんながその曲を肴に議論をし始める、という事もあった。議論は夜通し続いた。彼らの中では音楽が自然に生活にとけ込んでいた。そういった町の作曲家、詩人達がそれなりの敬意を持って遇されていた。実生活ではともかくボヘミアン達のバールの中では彼らは一種の英雄だった。かつてセン・ノーメからも大スターになったシコ・ブァルキやトッキーニョといった人達を輩出していたが、同じように、市井の街角やサロン的な場所から様々な芸術が生まれていたのだろう。その自然さがブラジル音楽の底力であり、奥深い所でもあると思った。
ドリス・モンテイロのこのアルバムを聞いた時、最初に感じたのはなつかしさだった。20年も前のセン・ノーメでの夜がまざまざと蘇ってきた。もちろんここにはセン・ノーメのようにボロボロのギター一本でなく、素晴らしいバック・ミュージシャンのサポートがあるし、彼女の歌もはるかに巧いプロのものだ。しかし、フェイクなどはあまりしないで歌詞を大切に正確に歌っていく、斜に構えるのではなくまともに歌い込んでいく雰囲気には、あのセン・ノーメの仲間達に通じるものを感じた。
ドリス・モンテイロは1950年代の初め頃から活躍してきた女性シンガーだ。ほぼ同時代に活躍したシルヴィア・テリスやマイーザといった人達と同様、彼女もサンバ・カンソンや小粋でジャジーなサンバを得意とし、派手ではないが、確実なファンと地位を持っている。彼女達はボサ・ノヴァの時代の以前から既にジャズ的なアプローチの曲を歌っていた。そういう意味ではボサ・ノヴァの先駆的な存在の一人とも言える。多くのブラジルのヴォーカリストがそうであるように、彼女もハスキーな低音域の声に独特の魅力がある。アメリカなどのポップス系で聞かれる、高音域を中心にした歌い上げる声とは対照的だ。そしてブラジル人独特のバランソ(スゥイング)感。よくヴォーカルものの表現で、バックのリズムにのる、というような事を言われるが、優れたヴォーカリストはバックのリズムに乗るのではなく、自分自身で逆にバックを引っ張ていく事ができる。もちろん彼女も例外ではない。特に言葉数が多くリズミカルなナンバーなどでは、ゾクッとするようなスリリングな面をみせたりする。
そして彼女のバックを務めているのが、ハモンド・オルガンの巨匠、ワルター・ワンダレイのトリオ(サン・パウロで録音)と、数多くのアルバムでアレンジを担当してきたリンドルフ・ガヤの楽団(リオでの録音)だ。特にワルター・ワンダレーはこのアルバムでも取り上げられ、彼自身がバックを務めている「サマー・サンバ」の世界的ヒットでお馴染みだ。晩年彼は日本に長期滞在し、演奏を聞かせてくれた。僕も何度か一緒に演奏させて貰った事があるが、ハモンドから出てくる音の波にはまるで手で触れられそうな圧倒的な存在感を感じた。
このアルバムではマルコス・ヴァレのものを中心に大御所ジョアン・ドナート、ドゥルヴァル・フェレイラ、エウミール・デオダート、ゼ・ケッティなどのナンバーが取り上げられている。いずれもボサ・ノヴァの時代に様々なジャジーな試みを重ねて来た人達の作品である。
斬新さと同時に何処となく懐かしいような温かさを感じさせるアルバムだ。
SAMPA(サンパ) 中村善郎
家のマンションの庭には白樺の木が植わっている。東京のど真ん中に白樺、というのはちょっと珍しい。大体高原とか北国と言った空気の良い場所にしか育たないというイメージがあって、たまに訪れる友人達も珍しがる。管理人氏の話によるといろんな樹木を試したが、不思議な事に白樺しか育たなかった、という事だ。でも北海道に行った時、土建屋をやっている友人が白樺の林を指しながら教えてくれたのは、白樺は土地が良くない所に生える、という事だった。あまり喜べないことかも知れない。
その白樺の一本は窓から手を出せば易々と届く所にある。家は二階の部屋でその枝が窓を開けると入り込んで来るぐらいだ。枝が一番延びて来ている側はいつも網戸が立っているので、それに触るぐらいで本当に入ってくる事はないのだが、そこに様々な小鳥が訪れる。彼らは部屋の中にいる僕にすぐには気が付かないらしい。チッチと鳴きながら窓の近くまでやって来て、そしてすぐ側にいる僕と目が合った途端、やばいっ、と言う感じで飛び去っていく。常連はシジュウカラ、雀、鳩と言った連中だが、その顔ぶれは季節によって変わる。僕のお気に入りはカワラヒワというモスグリーンの小鳥だ。彼らは夏前ぐらいから姿を見せ始める。白樺に付く小さな穂のような種を食べにくるのだ。彼らが食べ散らかす穂のかすが風に流され若葉に当たると雨のような音を立てる。初夏の頃、天気が良いのに降りだしたのかな、と窓の外を見上げるとその姿が見える。カワラヒワの来初めは天辺あたりの柔らかい穂から食べるのだ。大勢のカワラヒワが穂をついばみながら上げるキリキリ、と言った鳴き声は僕の一番好きな音楽の一つだ。その他にも鴬、ヒヨドリや名前を知らない赤い色をしたふっくらとした雀ぐらいの大きさの鳥などが来る。ここに越してきてから二回しか見てないがキツツキの仲間が来た事もある。一番最近キツツキを見たのは去年の秋だ。目の前の幹にとりすがり、コンコンと乾いた音を立てて遊ぶ姿はしばらく見とれてしまった。
しかしそう言った小鳥達の姿も最近めっきりと少なくなって来た。一番当たり前に来ていたシジュウカラも今や珍しい客になりつつある。そして変わりにカラスの姿が目立つようになった。
同じ町内に一区画丸ごと、と言った広大な土地を専有している通称D氏の森という屋敷があった。もとは公園だったその区画には、昔からの原生の木々が鬱蒼と茂っていた。そしてD氏はその森のような庭をわざと手を入れず残して来たのだ。小鳥達はそこをねぐら或いは中継地にしていた。しかしバブル経済が崩壊し、外国人のD氏は屋敷を売り、国に帰って行った。買ったのは区だった。そして開発と言う破壊が始まった。老人用の介護施設と介護人を養成する学校を作るというのが目的だった。周辺住民に対する説明もないままその開発は始まり、気がつくと塀越しにも鬱蒼としていた空が明るく見えるようになっていた。結局その後その計画自体は頓挫した。都心の真ん中にそんな施設が必要か、という疑問と貴重な自然の保護を求める強力な住民の反対にあったからだ。今は別の場所に建設中だ。そしてD氏の森はそのままになっている。伐採された木々は戻らない。そしてそこをねぐらにしていた小鳥達も・・。壊す事は簡単だが、失ったものを取り戻すのは大変だ。
ブラジルのアーティスト、カエターノ・ヴェローゾの「SAMPA(サンパ)」という曲がある。ごみごみとした大都会、サンパウロを少し皮肉な目で描いた歌だ。カエターノ自身のものとジョアン・ジルベルトのカヴァーが印象的だ。とてもセンチメンタルなメロディを持っているので、ちょっと聞く分にはそんな重い内容の曲には聞こえないが、その一節に「金の力が美しいものを破壊してく」という言葉がある。サンパを歌う時僕は、いつも変わってしまったD氏の森の事を思い浮かべてしまう。
このエッセイは雑誌OUT THEREの1/2月合併号に連載第一弾として掲載されたものです。雨上がる 中村善郎
最近僕は不思議な事にあまり雨に濡れるという事がない。雨が降らない訳ではなく、降ってもその時は室内にいたり乗り物に乗っていたりしていて、傘をささないといけないような場面では雨が上がっているか、ひと休みしているのだ。
今年の7月ほぼ半月の間、関西と九州をツアーしてまわった。勿論梅雨の季節で僕も折り畳みの傘を用意していたのだが、結局一回も出す事がなかった。長崎に行った時も歌の文句通り雨が降っていたが、不思議と外を散歩している時だけ止んでいて、ホテルに帰った瞬間から大降りになったりした。
最高だったのは熊本から宮崎に向かう時だ。高速バスでの移動。バスターミナルに送って貰った頃はまだ晴れ間が見えていた空がバスを待つ僅かの間にかき曇ってきた。待合い室のテレビでは、宮崎あたりで時間何十ミリという大雨が降っていて、その雨雲がだんだん北上している、という天気予報をアナウンサーが読んでいた。それはツアーの最終日で、宮崎でラジオの番組の収録をした後東京に戻る事になっていた。僕の折り畳み傘は三段に折れ曲がるやつで、一回濡らしてしまうと乾かしてから畳まないといけないし、それが面倒だからなるべく出さないですましていたのだが、さすがに今回はダメだと思った。でもツアーの最終日だし、後は東京に帰るだけなので、まあ仕方がないか、とも思った。
発車ギリギリの時間になってバスが来た。荷物の多い僕は一番前の席にすぐに座った。乗客は少なく隣の座席に荷物を置けた。
バスはターミナルを出てゆっくりと巨体を揺すりながら一般道に出た。緩慢なテンポでシフト・アップを繰り返し、スピードを上げて行った。
最初の信号にさしかかる時、バシッと大粒の雨があたった。それはまるで透明な甲虫が潰れたようだった。すこし粘り着くように線を描いて運転手の前の大きなフロント・ガラスに雨水が流れた、そしてそれが合図だったかのように、正に襲いかかる、という感じで雨が落ちてきた。街の中では歩いていた人達があわてて軒先に逃げ込んでいたが、その姿さえも何か薄いカーテン越しのようにおぼろだった。アスファルトにあたった雨が跳ね返るのが絨毯のように見える程雨足は強く密度も濃かった。
市街地から国道、高速と雨の中をバスは進んだ。宮崎まで大体3時間の行程だったが、その間少しは雨足が弱まる事はあったが、殆どの時間強い雨が降り続いていた。
ワイパーを忙しく動かしながらバスは宮崎の市街に入って行った。自慢のフェニックスの並木も雨に煙っていた。丁度一週間前にも宮崎に来ていたのだが、その時は南国特有の明るい太陽が輝いていた。それに比べると雨に煙る街は少し寂しそうに見えた。そして大きな交差点を右折すると、宮崎駅の姿が視界に入って来た。その時まではまだそれほど雨足は衰えてなかった。ゆっくりとバスが駅に近づくに従って、急に視界が明るくなってきた。雨足が急に弱まってきたのだ。駅のロータリーに入る手前の信号待ちをしている時には、それが霧雨のようなものに変わり、雲の切れ目から強い日差しが覗き始めた。
エアー・ブレーキの溜息のような音と共もにバスが駅の真ん前の停車場に着いた。運転手の、お疲れさまでした、という声に送り出され外に降り立ったとき、丁度雨が止んだ。見上げると強い風に流される雲が見えた。それは雨の最後の一滴を降らし終わり去っていく姿のようだった。
昨年フランスに行った時、君が春の日差しを連れて来た、と言われた。5月のパリは例年なら明るい日差しに溢れる心地良い季節のはずなのに、昨年は僕が着く前日まで毎日のように雨が降り肌寒い日が続いていたのだ。出発前の情報でも寒くて天気が悪いからセーターと少し厚手の上着が必要だ、と言われていた。君はきっと幸運を持ってるんだろう、だからレコーディングは旨くいくさ、シルヴァーノは初対面の僕にそう言って緊張を解きほぐしてくれた。レコーディングはパリから遠く離れたヴァンデのピエール・バルーの別荘を改造したスタジオで行われた。素晴らしい景観の中仕事は順調に進んだ。仕事の後はいつまでも暮れない空の下、エンジニア兼スタジオのオーナーのジャックやシルヴァーノ達、そしてラブラドール犬のギンカと一緒にベランダでいつまでもワインを片手に語り合った。パリでリシャール・ガリアーノ氏に参加してもらったテイクを含めて、二週間足らずでItsuka Kimi Niは完成した。そして暮れにはピエールのサラヴァーを通じてフランスでリリース。しかしその後のこのアルバムの行方は順調だった訳ではなかった。様々な事情で日本での発売は一年半近く待たないといけなかった。その間、僕の心の中では重い雲がたれ込め、雨が降り続いているような気分だった。楽しんで参加してくれたフランスのミュージシャン達に顔向けが出来ない気がしていた。
いつか君には99年の10月に発売された。僕の心の中に降っていた雨がやっと上がったような気分がした。
シルヴァーノとモイーラ・Studio Bocage
二人の間にあるのが「いつか君に」のイントロで使われたマリンバウです
対談 馬場康夫+中村善郎
●これは僕のデビューCD「リテラリオ」('90)発売時に作られた小冊子のために出来た対談です。ホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫さんは映画監督としても活躍されてますが、アマチュア時代の最初の監督作品のタイトルが「イパネマの娘」というボサ・ノヴァ・ファンでもあります。対談は西麻布のEVERYDAY SOMEBODY HAPPY BIRTHDAYというバーで行われました。
馬場康夫:六本木とか吉祥寺でお邪魔させていただきましたけど、ライヴは相変わらずコンスタントにやっておられるんですか?
中村善郎:えー、ここ半月ぐらいレコーディングで…
馬:ああ、ここ半月がレコーディングだったんだ。
中:ええ、しばらくライヴはやってなかったんですけど…
馬:また、再開…?
中:ええ、昨日久し振りにやったら全然ふつうの曲を覚えてないんです(笑)いきなり何もできない、焦りましたね。
馬:(笑)(テープを聞きながら)一曲目はピエール・バルーだと思うんですけど、あとは全部ご自身の…?
中:そうですね。
馬:作詞作曲全部ご自身ですよね?ポルトガル語で書かれるわけでしょ?
中:そうです。
馬:訳詞を見せて頂いたけど、あれも中村さんの…?
中:ええ、誰もやってくれませんからね。
馬:(笑)あれなんかも、こなれてるな、と思って…。ポルトガル語、て不自由しないのですか?
中:いや、結構不自由しますよ。しゃべる方は特に…
馬:聞く方は?
中:聞く方が楽ですね。
馬:でも、やっぱり辞書を引き引きですか?そうでもない…?
中:いや、やっぱり引きまくりますよ。
馬:なるほどね。まあ、一番シロウト的に感心しちゃうのは、日本人じゃないみたいに聞こえるのね。(笑)日本人としたらすごいよなという…
テープ聞かせて頂いたら一番最初に、僕タイトルを知らなかったんですけど、『祝福のサンバ』て、『男と女』の中でピエール・バルーがギター一本で歌ってたやつですよね。あれ全部聞きたいと思ったんだけど、途中からストリングスかなんか盛り上がってきちゃって、かき消されましたけどね(笑)。
中:全部やろうか、という話もあったんですけどね。
馬:これだけ他人の曲で、後は全部オリジナルなわけでしょ?
中:ええ。
馬:これはなにかすごく思い入れがあるだろうな、と思って、僕なんかはもうガクガクッときちゃうんですけど…。
中:ハー…、あんまり無いですけどね。
最初にアルバムの企画が出た時、これの作詞者のヴィニシウス・ジ・モラエスという人に、僕がオリジナルでオマージュを捧げては、という話があったんですよ。その名残というか…。
馬:『イパネマの娘』の作詞者ですよね。
中:ええ、彼はボサノヴァ創世期のパトロン的な存在だったんですよ。フランスで外交官をやっている時にブラジルからミュージシャンを呼んでボサノヴァを広めたりして。
馬:ああ、じゃあピエール・バルーは直接ヴィニシウスと関わりがあったりしたかもね。 僕たちの世代って、ボサノヴァというと、まず『男と女』から入ってるんですよ。 ダバダバダ…、世界でしょ。ダバダバダはまあどうでもいいんだけど、あの中でスタントマンだったピエール・バルーの回想シーンでバルー本人がこの曲を歌ってますよね。あれが物凄く耳についてたんですよ。で、これが最初に来ると、その意図された意味とは別にね、僕なんかボサノヴァのように凄く心地よくしてくれる曲に最初出会ったのがこれ、みたいな感じだから、こうヨヨヨッときちゃうんですよね。
中:(笑)
馬:そう言えば、前に中村さんと、ボサノヴァはアクセルとブレーキを使う音楽だという話をしましたね。あれ非常に面白かったんだけど、僕らの世代って、クリード・テーラーがプロデュースしたジョビンの『ウェーヴ』とか『タイド』とかを聞いて、「おお、いいな、オシャレな音があるんだな」なんて思ってたんですよ。高校三年か大学に入ったころかな。でその頃、周りはやっぱりロックが流行っていて、心地音聞きながら「お前ら子供だな…」みたいなそんな思いがあったりしたんですけど、言ってみればロックはアクセル踏みっ放しの音楽じゃないですか。もう最初から最後まで踏んでないと評価されないような。それに比べてボサノヴァはどんな形であれ聞こえて来るといい気持ちになれる。押しつけがましくないというか、イージー・リスニングっていうと安きに流れてしまうけど、それは言ってみれば中村さんのいうブレーキの部分だけしか聞いてないんですね。きっと
中:そうですね。アクセルの部分を聞いていないのかも…。ボサノヴァも結構アクセルを踏んでいるんですけど同時にブレーキも踏んでいるから緊張感があるんです。普通ボサノヴァは力を抜いてだらっとやっていると思われがちなんですけど、そういう風にやっても絶対にボサノヴァの緊張感は出ない。例えばジョアン・ジルベルトがやっていることなんか神業のように思えちゃうんだけど、腹に力をためて出ていこうとする音を丹田で引き止める。そこに緊張感が生まれるし、その集中力は凄いと思います。
そして自分の表現する世界をある点で綺麗に揃えてしまうわけです。それは例えば絵を描くというか、スクリーンに映画を写すような作業です。で、集中力がないとその絵やスクリーンが揺れてしまうわけです。
馬:なるほどね、それはすごく面白い言い方だなあ。
でもアクセルを踏んでいる感じというのは見えないですね。
中:見せないんです。それを見せると感じが変わってしまうから…。
馬:そう言えば以前都々逸とボサノヴァが似ているというような話をされましたよね。
中:ええ、優れた芸というものは、芸が見えない…、どうやってそうなっているのか分からない、ミステリーだと思うんです。そういった世界を都々逸やボサノヴァは持っていると思うんです。映画なんかでもあるけど、どうやって撮ったか分からないショットとかありますよね、写真なんかでも、どうしてこんなに離れた所にピントが合ってたりするんだろうみたいな…。色々不思議な事ってあるんだけど、それを何となくやってしまう…。
馬:なんとなくやってしまう、ていうのは以前中村さんが仰ってたけど、目的じゃなくて手段になっていると考えれば、何となくみえますね。
そのー、映画でも新しいテクニックを見せることが目的じゃなくて、それを使って何かを見せる手段になっていれば、その芸はあざとくないから、非常にすんなりと入って行くというのと同じですね。
中:なんか、テクニックが見えるというか、あんたはうまいですねーっ、みたいのは引っ掛かる…。よく勉強しましたとか練習しましたとかいうのは芸術とか芸、という世界とは違うと思うんですよ。一見誰にでもできそうに見えて絶対に出来ない、みたいなもの方が芸の奥が深い…。
馬:ああ、誰にでも出来そう、みたいのはありますよね。都々逸なんかでも…。
中:そうですね。
馬:それに落語とかでも…。
落語なんかちょっと気のきいた素人で普段しゃべらせるととても面白い奴がいたりして、落語勉強してるから、ていうんでやらせたら、無茶苦茶つまんなかったりする。凄く練習して熱演していても、熱演が前にでてきたら疲れちゃいますからね。そうじゃなくてサラッとやられると嬉しくなっちゃう…。
中:落語聞いていて噺がそのままに聞こえてくるようじゃ駄目ですよね。その映像が見えたり、登場人物の感情になったりさせないとね。それと同じことですよ、音楽も写真も…。写真見ててその絵しか見えなかったりしたらしようがない。その後ろにある空気感とか音とかが聞こえてこないとね。音楽も逆にある心象風景のようなものとか感情とかを感じさせないといけないと思うんです。
馬:ところで今度のCDでそのアクセルとブレーキの使い分けが出来てる、ていうのは…?
中:自分でいってながら中々出来なかったりするんですね、これが…(笑)
馬:(笑)女性の声が何曲か入ってますね。これは…?
中:ポルトガル語の歌はソニア・ローザさんで、英語の方は橋本一子さんです。 馬:へえー、ソニア・ローザさんが入ってるんですか。
橋本一子さんてピアニストですよね?
中:ええ、ピアノも弾いてもらいましたけど、主にヴォーカルとして…。
馬:これ、例えば『君の写真を送ってくれ』、て中村さんがお書きになった日本語の詞を見る限りすごく皮肉で面白い人だと思ったんだけど、ポルトガル語の詞で男の歌があって英語の詞で女の歌がある。これなんかアメリカとかに恋人を置いてきちゃったブラジルの若い奴の悲劇みたいな…(笑)
中:悲劇でも無いですけどね…。
馬:『さよなら、ボン・ヴォワヤージュ』もそうですよね。ちょっとポルトガル語なまり風の英語だったりして…。
中:わりとエトランゼの世界を…。
馬:それはすごく分かる気がする。
中:僕の場合、別にボサノヴァ、ブラジルというものにこだわっているわけじゃなくて、無国籍なものを作りたいんです。その二曲なんかフランス映画みたいな雰囲気が出ればなんて思ってやったんだけど、フランス語は出来ないんで英語にして…。
馬:(『さよなら、ボン・ヴォワヤージュ』を聞きながら)これ歌詞が無かったんであれだけど、飛行機が星みたいに見えるみたいな事を英語で言ってますよね。
中:ポルトガル語の方は飛行機の窓から下を見下ろすっていう…。同じシーンを思い返しながら…。よく映画なんかであるでしょ…。
馬:ああ、なるほどね。訳詞を全部読みたいな…。
これからの音楽ってね、コンサートで聴きに行っていうか、それだけを集中して聴くのと身の周りにあって欲しい、ていうのと別れるというか、違って来ると思うんですよ。で、ローリング・ストーンズを聴きにいったりするのは決して嫌じゃないというか、それはそれなりに熱くしてくれてね、ネジを開けっぱなしたみたいになれるますよね…。でも、それは皆が沸騰しようとしている所だからいいんであって、浴衣で涼んでいる時に煮え湯なんかこうまかれたりしたら、やっぱり暑苦しいみたいの、てあるじゃないですか。そういう意味ではこういうのとかボサノヴァとかはどんな場所でもフィットするような気がしますね。以前ユーミンのインタビューを読んだら、スキーに行った時合うのはどんな曲でしょうね?と聞かれて、ボサノヴァなんか意外と合うんですよ、なんて答えてたけど、意外とかは余計じゃないかなんてね…。(笑)
で、ボサノヴァとか都々逸て金持ちというか、余裕のある人の音楽っていうか…。中:そんな事ないですよ…。(笑)
音楽の世界と実際の生活とは関係ない…。それは要するに芸というか、大人にならないと、という音楽だと思うんです。パーソナリティーやその人の状況とは関係ない。
馬:大人に…?
中:ええ、それは人間の魂と魂の距離を知るというか、自分がどれだけ自分自身になれるかという事だと思うんです。ブラジルに居た時思ったけど、ブラジル人というのは凄く子供な所もあるんだけど、そういった意味では非常に大人なんです。まあ、人種のるつぼみたいなところがあってのそこからそういった生き方が生まれたのかも知れなけど、例えば自分のすぐ側にいる人間の肌の色や顔つきが全然違ったりして本当の気持ちは理解しあえない、アメリカではそういった事が人種差別みたいな恰好で否定的に出るんだけど、ブラジルでは一見そういった事がないように見える。おたがいに理解出来ない同士でもそれなりに仲良くしようとするんです。個人と個人の距離が遠いとか、自分がいかに孤独であるかという事を知った上で付き合うんです。でもそれは人種がどうのこうのというだけの問題じゃなくて、人間同士の関係自体がそういった距離で出来ているんです。日本人なんかはその距離を誤解しているところがあるような気がするんですけどね…。 ボサノヴァとか都々逸とかはそういう誰にも寄り掛からないというか、しっかりとした自分を確立した人達の音楽だし、僕もそういった方向を目指してるんです。