読売新聞日曜版コラム「酒ひと話 vol.3」
目覚めると頭の上に犬
読売新聞日曜版2009年7月19日掲載
飲み会の席で、酒の上での失敗が話題になった事があった。大抵はどこか外で眠ってしまった話。自分の家の玄関の前や公園。ずっと友人と話しているつもりが、気づくと商店街の真ん中一人で喋っていたというのもあった。昔なら狐に化かされた、とでも言うのだろう。
照れくさそうに、目が覚めたら知らない女性の部屋に居たと言う奴がいた。半分困ったような顔をしていたけど、ちょっと自慢にしている様子は隠せない。案外コイツが話題を誘導したのかも知れないと思った。
酒の上での失敗は深刻なものでなければユーモラスで楽しい。酒に寛容な国民性。でも何事も度が過ぎてはいけない。
僕もいろいろ思い巡らしてみる。強い方ではないけどそういう失敗はしない。でも一つ思い当たる事。ただ一度飲み過ぎて半ば記憶をなくした事があった。学生の時。古い話だ。
その時期、変に犬に好かれた。与論島に旅したときの事だ。春休みを利用して沖縄に行くつもりが、なんだか居心地が良すぎて一ヶ月近くSという民宿に滞在した。真っ白な砂浜とコバルトブルーの海。一日ぶらぶらと過ごしているだけなのだから、居心地が悪いわけがない。
僕が散歩に出かけると何故か近所の犬がゾロゾロ後ろについてきた。犬は放し飼い。別に愛想するわけでもなく、少し離れて一緒に歩いている。気がつくと5~6匹を従えていた。ハメルーンの笛吹き状態。なんか不思議な日々だった。
民宿の夜は毎晩のように宴会。名物は与論大杯。特別なことがあると「有泉」という焼酎を丼になみなみ注いで一気飲みする。いろんな場所から集まった若者。旅先だからこそ生まれる親密さの中で盛り上がる。
その時は僕も訳が分からなくなるまで飲んだ。グルグル廻る頭。気がつくと部屋の中だったり、いつの間にか海岸で星を見ていたり、風景が連続していない。後で聞いたら、交番の前を通って海岸に行く時、やはり犬の行列をつれていたそうだ。
そしてそのまま海岸で眠ってしまった。周りを犬が取り囲んで寝そべっていた。なんだか頭が重い。酒のせいではなくて物理的に。やっとの事で目覚めたら、なんと僕の頭に一匹の犬が座り込んでいた。さすがに「失礼な!」と怒鳴りながら起きた。
酒イヌ話、になってしまった。
読売新聞日曜版コラム「酒ひと話 vol.2」
南仏録音、ワインと夕暮れ
読売新聞日曜版2009年7月12日掲載

ミュージシャンにとって自分のアルバムをレコーディングするのは大きなイベント。自分や自分のグループの名前を冠した作品が残って行くのだから気を使うし、気合いも入る。と言っても一人で出来ることではない。プロデューサーやエンジニアを初めとするスタッフとのチーム・プレー。
スタジオでのレコーディングは、スポーツ競技で言えば、決勝戦のようなものだ。限られた時間の中で最高のパフォーマンスを目指す。同じ目的を持って集まったスタッフとの間には、自然に同士とか共犯者のような親密さが湧いてくる。
これまでいろんな出逢いがあった。僕の場合どこかの専属になったことは殆どなく、いつも一話完結。次にまた同じ人達と仕事をするかどうかは分からない。そういう刹那的な関係だからかも知れない。レコーディングの後の打ち上げは、達成感と同時に祭りの後のような一抹の寂しさが漂う。でもそういう想いを抱きながら飲む酒も美味い。
10年前、南フランスの片田舎でピエール・バルー氏の協力を得て「いつか君に」をレコーディングした。映画「男と女」のテーマ曲などで有名なフランスの詩人だ。見渡す限り牧場と畑しかない村のはずれ。スタジオ・ボカージュはピエールの別荘を改造して作られていた。
そこに皆で合宿しての作業。朝少しレコーディングした後、昼食にはもうワインが赤白並ぶ。午後レコーディングを再開、夕方まで続く仕事も少し飲みながらだ。フランス人達は水でも飲むようにワインを飲む。僕もそのペースに合わせていたけど、不思議と酔う事はなかった。多分気候のせいだろう。夕食も勿論、その後もまだ飲みながら遊びでセッション。
録音が終わりミュージシャン達はパリに帰った。後のミックス・ダウンはエンジニアのジャックと二人。ジャックは結構派手なサウンドが好み、僕は逆にタイトな音。永い話し合い。でも最後には「こんなこと今までやったことがない……」とぶつぶつ言いながら折れてくれた。
すべてが終わった後、初夏のいつまでも暮れない夕暮れのテラスでワインを傾けながらいろんな話をした。足元ではずっとつきあってくれたラブラドール犬のギンカが黙って話を聞いていた。音楽にかける夢やお互いの文化の違い、ままにならない英語でも心は通い合っていた。
その時のワインはサウダージの香りが漂う特別な味がした。
読売新聞日曜版コラム「酒ひと話 vol.1」
生ビール、演奏のごほうび
読売新聞日曜版2009年7月5日掲載
何の影響か物心ついた頃から、ブラジルに行ってみたい、という憧れを抱いていた。今と違って情報のない時代、そこはただ遥かな国。でもその広大な大地を見てみたい、という漠然とした夢がいつも心の片隅にあった。
広い場所なら他にもありそうなのに、なぜブラジルだったのかは自分でも分からない。強いて理由を探せば、国名のエキゾチックな響き、それが遥かな思いを喚起させたのかも知れない。
大学を卒業した後、その夢を実現すべくブラジルに渡った。第一次オイル・ショックの時代。僕はどこにも就職しなかった。引っ込み思案な性格なのに、将来に対しては、何とかなる、という変な確信があった。先ずは外の世界を見てからノ。思い返してみると無謀なものだ。
想像した通りの広大な大地。すべて陸路を旅した。バスや時にはトラックの荷台。気が向くまま明日の行き先は明日決める。独りぼっちで旅をしているとサウダーヂ(郷愁)という言葉の意味が分かる気がした。
ブラジル音楽の底辺に出逢ったのは偶然だった。サンパウロの街角で通りかかったバール(カフェ)。開け放しの入り口からボヘミアン達の姿が見えた。ギターを抱えた男、グラス片手に歌う人々。
驚いたのはそのギターの見事なこと。レコードでしか聴いたことのなかった複雑なコードやリズムが軽々と奏でられている。僕は誘い込まれるようにその輪の中に入って行った。そして大胆にも僕にも弾かせて欲しいと頼んでいた。一瞬怪訝な顔の後ボロボロのギターは僕の手に渡された。
雑誌を見て覚えたジョビンの曲をシドロモドロになりながら弾くと、祝福の声と共におごりのビールがテーブルに置かれた。僕は受け入れられ、旅の目的は音楽の方にシフトした。
毎晩通いつめ酔っぱらいギタリスト達から手ほどきを受けた。「とにかく楽しむこと」何度も言われた。言われるまでもない、愉しくて仕方がなかった。教えてもらった曲を練習して何日か後に披露すると、ご褒美に美味しい生ビール奢ってくれた。
僕にはブラジルの生ビールが世界一。気候や環境と合っている。それとも愉しい人達と一緒だったから?ボサ・ノヴァを演奏していると、心の中にあの頃の情景が蘇ってくる。すると無性にビールが飲みたくなる。
ホーザ・パッソス/アモローザ
The CD Club 2009 8月号、CDレビュー

昨年秋、日伯友好100周年を記念して来日したジルベルト・ジル氏と対談する機会があった。ジル氏はブラジル音楽界を代表するアーティストの一人。来日する直前まで文化大臣を務めていたことでも有名だ。様々な話題の中、印象的だったのが彼の視点で語ってくれたボサ・ノヴァ。それはこれまで語られてきた解釈とは少し違う切り口のものだった。キー・ワードは彼の出身地でもあるバイーア、リオの東北約三千キロに位置する古都だ。そしてそこはボサ・ノヴァの創始者の一人ジョアン・ジルベルトの出身地でもある。
バイーアはアフロ・ブラジルと言われる混合文化の拠点。音楽の面でも独特のリズムやサウンドの宝庫だ。ブラジル東北部の代表的なリズム、バイアォンなどが盛んに演奏されている。それらは小粋な都会の音楽と違って、田舎の広大な風景を体現している。
ボサ・ノヴァ=リオというイメージは強い。リオのサンバがジャズの影響を受けて出来たと言うのが定説として語られている。でもジョアン・ジルベルトの世界はリオのサンバとは明らかに違う。時間の流れを忘れさせてしまう濃密で安らぎに満ちた音空間。静けさと同時に躍動感を感じさせ、ミニマムでありながら小宇宙のように広がるサウンド。その秘密をジル氏はこういう風に語ってくれた。
「ジョアンはリオのサンバにバイーアの音楽の要素を持ち込んだ。特にバイアォン。バイアォンにはブラジルの広大な風景が詰まっている。そしてそれを美の結晶のように簡素化し宗教的なまでに高めた新しい世界。それが彼のボサ・ノヴァ。そこからすべてが始まった・・」
「スカートをはいたジョアン」と評されるホーザ・パッソス。彼女はジョアンのボサ・ノヴァを継承するアーティストとして高い評価を受けている。彼女もまたバイーア出身。リオ派とは異なる、ミステリアスで広がりを感じさせる世界はジョアンと同質のものがある。ヨー・ヨー・マのブラジル音楽プロジェクト「オブリガード・ブラジル」への参加も、その世界があったからこそだろう。
この「アモローザ」はジョアンの影響を前面に出して作られたアルバムだ。タイトルが示す通りジョアンの名盤「アモローゾ」を意識して作られている。ストリングスのアレンジ、ジョアンに捧げられたオリジナルを含め選びだされたレパートリーにも敬愛の気持ちが溢れている。巷に溢れるオシャレな雰囲気をなぞっただけのものとは違う、高い芸術性を持ったボサ・ノヴァに耳を傾けて欲しい。
The CD Club on line
歌うように奏でる
中村善郎「トカール・コモ・カンタール」セルフ・ライナー・ノーツ
オーマガトキOMCA-1056 '06.9.6
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Violao(ヴィオラゥン)と呼ばれるアコースティック・ギターはブラジルでは最もありふれた楽器だ。街角のバールの壁にかけられていたり、それぞれの家の居間の片隅におかれ、生活の背景の一つとして溶け込んでいる。そして人々は特別な事ではなく日常の一コマとしてギターを弾き楽しんでいる。そのさりげない自由さが、優れたギタリストを多く輩出する土壌になっているのだろう。ブラジルは天才的なギタリストの宝庫だ。なにも有名アーティストだけではなく、街角のバールで演奏している素人ギタリストの中にも、凄いテクニックや独自の発想を持った演奏をする人を数多く見かけることができる。
それはブラジルのサッカーの強さと似ている気がする。ブラジルでは子供達が海岸や街角のあちこちでボールを蹴って遊んでいる。日本のように、サッカー教室、といったような特別な場所に集まって練習するのではなく、ありふれた遊びとして楽しんでいるのだ。その自由な土壌が数多くの天才プレーヤーを生み出すこと、そして素人目にも、驚きと鮮やかさに満ちた、自由奔放なスタイルのサッカーに繋がっているのだろう。
僕の音楽的な経験はサン・パウロのバールで始まった。セン・ノーメ(名無し)という名のバール。一本のギターを中心にして人々が集まり、様々な音楽を自分たちで演奏し歌って楽しんでいる・・、開け放した入り口から見えるその姿が羨ましくて、フラフラと入っていった事がきっかけになった。僕にとっての先生はそのバールの酔っぱらい達だったのだ。でも酔っぱらいと言っても侮る事はできない。全員とは言えないが、その中にはすでに素晴らしいテクニックを持った人たちが結構いたのだ。
あり難いことに、大抵誰もが厭がらずにギターと歌を教えてくれた。僕が持っていたノートに乱暴に歌詞とギターのコードを書いてくれ、さらにギターのポジションを絵にしたダイアグラムまで付けてくれた。それを見ながら弾いてみると、もうあのバーデンやジョアンのレコードで聴いていたサウンドが・・。今ほど情報のない時代、そのサウンドに憧れはしても、どうやっているかは見当もつかなかった。それが簡単に僕の手の中に転がり込んで来たのだ。そして何日かして、皆の前で僕が習ったばかりの曲をたどたどしく演奏すると、大げさに褒めて貰えた。僕にとっては驚きと喜びの日々。そうやって僕はのめり込んで行った。
酔っぱらいの先生達が共通して言っていたことは「とにかく楽しむこと・・」だった。「楽しくないと練習しないだろう?それにスイングもしない・・」その言葉の正しさはその後の経験で十分に知ることが出来た。
彼らの優しさは、ある意味ブラジルの音楽を支える、伝統のようなものだったのかも知れない。「踊る大走査線」という映画に「事件は会議室で起きているのではない・・」という台詞があったけど、「文化は教室だけで作られているのではない」というのが僕の感想。
セーザル・ノゲイラ、彼に感謝を捧げなければいけないだろう。セン・ノーメで出会い、その後、僕の家庭教師のようにつき合ってくれた友人。世界的に有名なギタリスト、パウリーニョ・ノゲイラの甥で、直接彼からギターを学んでいる。パウリーニョは端正な演奏が特徴だ。僕にとってはルイス・ボンファと並んでそのノーブルさが魅力のギタリスト。セーザルは忠実に彼のスタイルを踏襲していた。パウリーニョもセーザルも基本的にインストを中心だが、時々聴かせてくれる控えめな歌も共通して魅力的だった。
セーザルが僕に教えてくれたのは、音楽をシンプルに捉えるやり方、誰かのコピーをするのではなく、自分のスタイルを作って行く方法だ。それぞれの曲をメロディとコードに分解して、それをまた自分なりに組み立てて行く・・。譜面上にきっちりと書かれた旋律をなぞるのではなく、自分の心に浮かぶ旋律を自分のリズムで繋いで行くような方法だ。「歌うように奏でる」というこのCDのタイトルには、その時に学んだものを言葉にしてみたものだ。実際セーザルも良く、メロディを繋いで行く過程で軽く歌いながら音を探ったりしていた。
そう言えばブラジルでギターを学んだ時期、ほとんど一度も譜面というものが登場したことはなかった。ダイアグラムが僕の教科書。お陰で未だに譜面を読むのは苦手だ。セーザルもそれは同じだった。演奏を聴くと端正で、ちょっとクラシカルな雰囲気の処もあるので、譜面が得意そうにも見えるのだが、彼から譜面を渡されたことは一度もなかった。ギター・ソロのインストを教えてくれる時も、要所要所のコードのダイアグラムを書いてくれ、後は目の前でそれを繋いでメロディにして行くところを実際に演奏して見せてくれるだけだった。
セーザルから学んだ方法で、その後も僕はレパートリーを増やして行った。今まで弾き語りを中心にして来たが、大抵のレパートリーはソロのインストでも弾く事を試してきている。でも自分のレパートリーの全部を弾けるか、というとそうは行かない。気が短く飽きっぽい性格なので、ちょっとつまづくと直ぐに嫌になってしまうからだ。とにかく弾き語りにしてしまえば、格好にはなるので、それ以上は面倒になってしまうのだ。でもその時諦めた曲でも、ずっと後になってからトライし直してみたりしている。時間が経つと思ったより簡単に弾けるようになっている、という事も多い。そんなこんなで長い時間の間、少しずつではあるが、ギター・ソロのレパートリーも増やして行った。
Tocar como Cantar(歌うように奏でる)は僕にとって初めてのギター・ソロ・インスト・アルバムだ。今までの作品の中でも必ずインストの曲は取り上げてきたけど、ほぼ全編それだけで通すことはなかった。日頃ライヴなどで少しは顔を出すが、殆どは自宅でしか演奏した事のないレパートリーだ。
アルバムの最後に一曲だけオリジナルの歌の曲を入れた。Essa melodia linda(この美しいメロディ)はトム・ジョビンとジョアン・ジルベルトに捧げた曲だ。僕が人生の大半を費やす事になったボサ・ノヴァの創始者。彼らのサウンドには、一般的なボサ・ノヴァのイメージである、軽くオシャレ、という言葉とは全く違う次元の奥深さがある。誰の心の奥にもある孤独や人恋しさ、すべての芸術が表現しようとしている感情を、彼らは少しシャイに、そして粋に表現している。彼らのサウンドがなければ、僕は全然違う道を歩んでいたと思う。
ボサ・ノヴァの名曲、という風に考えるどうしても彼らのレパートリーに行きついてしまう。このアルバムでも大半はそう言った選曲になっている。Wave, A felicidade, Ela e carioca, Insensatez, Aua de beber, Falando de amor、Estrada do sol、ジョビンの斬新なサウンドは勿論魅力的なものだが、その詞の世界も表面的に見えるものとは全く違うものがあるので、是非そう言った事にも興味を持って頂ければ、と思う。
ジョアン・ジルベルトが好んで演奏する、サンビーニャ(サンバの小品)Isto aqui o que e, Morena boca de ouro、そしてBesame muchoはセンチメンタリズムが結晶したような彼の名演を土台にしている。
ロベルト・メネスカルが好んで題材にしている海をテーマにした、Nos e o mar、そして甘く美しい言葉が並ぶラヴ・ソングVoce
ボサ・ノヴァとは違うが、映画音楽からの曲も取り上げてみた。Someday my prince will come, Moon river今のハリウッド映画のテーマ曲の多くは、何だか大仰に歌い上げるばかりで、下手をすると、どれも同じに聞こえてしまうが、昔は違った気がする。今のように過剰に扇情的ではなく、個性の光る曲が多かったと思うのは僕だけだろうか?ちょっと控えめで粋なサウンドはボサ・ノヴァと共通している。
Na baixa do sapateiroは前述のセーザル直伝の曲だ。比べるすべはないが、彼が教えてくれたコードとメロディを弾いていても、全体の印象は多分全然違うものになっていると思う。ボサ・ノヴァ・ギターの奏法では同じ曲でも百人が百通りの演奏をする。
Valsa do sonhoは「いずれの森か青き海」という映画のために書いた僕のオリジナルだ。幼くして母をなくした主人公が、夢の中でその母と出会うシーンにこの曲が流れた。切なさ、サウダージ、に国境も人種の違いもない。
Esquinaは僕の2枚目のCDのタイトル曲。元々インストのナンバーでCDでは豪華にストリングスを入れてレコーディングしている。トゥーツ・シールマンスに憧れてクロマチック・ハーモニカを手に入れたのだが、このメロディはそのハーモニカを使って作った。結構高い買い物だったのに、その後ハーモニカは仕舞いっぱなしになっている。僕には無茶苦茶難しい楽器だった。その後一度だけ彼と共演する機会があったが、やっぱり目の当たりにすのと全然違う楽器のようだった。お蔵にして正解。
RecadoはThe giftというタイトルでジャズ・ミュージシャンが取り上げる曲。随分前に日本でもタバコのCMでヒットしたことがある。元はやはりサンビーニャの佳曲。
Sambinhaは気まぐれに作ったオリジナル。歌の曲だと詞の内容でタイトルはある程度決まってしまうが、インストだと自由だ。この曲にも適当なタイトルを考えてはみたのだが、なにも思いつかなかったので、そのままストレートにサンビーニャにしてしまった。
世の中には音楽に限らずどのジャンルでも信じられないぐらい凄いテクニックを持った人というのが存在している。中には空威張りやなんちゃって的な人も多いが、その本物を目の前にすると、やっぱりちょっと恐れをなしてしまうようなところがある。
僕のギターはそう言う、凄い、というものではない。シンプルでストレート。それしかできない。でも僕は僕なりに心に浮かんだものをギターに乗せて表現したい、と思う。そしてセーザルを初め酒場の先生達が口々に言っていた、楽しむ、という事を続けて行きたいと思う。
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生命感のある時空間を紡ぎだすアーティスト、重森三果
重森三果DVD「みやこ遊びうた」ライナー・ノーツ
オーマガトキOMBX-2002 08.05.28
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表現の方法として、発信する、というスタイルと、僕なりの言い方で申し訳ないが、閉じる、というスタイルがあると思う。発信する、というのはパフォーマがその個性を文字通り発信するもの。パフォーマの魅力をそのまま受け取り側に伝える解りやすい表現方法だ。受け取り側はただジッとしたまま、押し寄せてくるものを楽しんでいれば良い。パフォーマに魅力がなければ成り立たないが、いろんなストーリーをでっち上げて、無理矢理カリスマを仕立ててしまう事も出来る。今の風潮としてはこちらの方が圧倒的多数な気がする。一方、閉じる、表現のスタイルは、パフォーマの魅力だけでなく、その創り出す世界を楽しむもの。表現する世界を上手く、閉じる、事ができれば、そこには現実ではない別の世界が現れ、受け取り側はその世界の空気を呼吸し、その時間や風景を共有することになる。発信するスタイルと、閉じるスタイルの決定的な違いは、スキルにある。発信する世界ではパフォーマの個性が際立っていれば良い訳で、スキルは必ずしも不可欠な要素とは言えない。稚拙でも魅力があればそれで成り立つ世界なのだ。しかし、閉じる、表現を目指すなら、パフォーマ自身が創造する世界を俯瞰する客観的な視点と、そこに生命感を与えるためのスキルは絶対条件だ。
日本の伝統芸能の多くは閉じる世界を目指している気がする。能や落語はその端的な例。優れた演者は表現する世界の中に溶け込んで物語だけが浮かび上がる。演者の姿ばかりが見えてしまうものはかえって夢から覚めてしまう。
閉じる、という言い方をすると、狭い世界を想像してしまいそうだが、それは次元の違う別の宇宙であり、広大なスペースを持つもの。能舞台は、この世とあの世を行き来するもの、時間を越えるものが佇む荒涼とした原野。落語は座布団の上に座った、着物を着た男を見るものではなく、今は過ぎ去ってしまった庶民の生活をまざまざと体験させてくれるものだ。
僕のフィールドで、閉じる、ことを端的にやってしまうアーティストはジョアン・ジルベルトだ。アパートの浴室であのスタイルを創りだした、という伝説があるために、ボサ・ノヴァは四畳半的な世界、と勘違いする人が多いが、彼の世界はたった一人で五千人の聴衆を前に演奏してもすべてを飲み込んでしまう広大さがある。そこにはサウダージと言う言葉で現されるセンチメンタリズムが満ちている。ジョアンは自分の演奏を、音楽の禅、と評した事があったが、僕には能の世界と近い感じがする。
さてこのDVDの主人公重森三果だが、彼女は間違いなく、閉じる、表現をすることの出来るスペシャリストだ。普段の彼女はどちらかと言うと物腰柔らかでおっとりとした感じがするが、いざ三味線を構えて唄い始めるとその佇まいは一転、別人のようにどっしりとした存在感を感じさせる。そしてその糸と声から紡ぎだされる音は、一瞬のうちに聴くものを濃密な空気感の中に取り込んでしまう。その空気は粋でいなせ鯔背、即物的な価値観では計れない、美しさ、を湛えている。
三歳で日本舞踊、十歳で小唄・三味線、十二歳から江戸浄瑠璃新内節、そして十五歳からは新内三味線を研鑽してきた重森三果。さらに近代美術の巨人、重森三玲を祖父に持ち、そのそばで少女時代を過ごした彼女には、美に対するモチベーションとスキルは間違いなく充満している。「覚醒するモダン・アートのDNA・・」、彼女のデビューCD「四条の橋から〜みやこ遊びうた」のキャッチ・コピーは正にその存在感を言い当てている。
このDVDには「みやこ遊びうた」と題されたコンサートの模様が収録されている。CDのレパートリーを中心にした初めてのコンサート。CDの参加メンバー望月晴美、藤舎理生、に加えて、三味線と歌の山本普乃、囃子の堅田喜子、と言った盤石のメンバーと共に、彼女は軽やかに唄い弾き、語り踊っている。特筆すべきはこのコンサートのために新たに彼女自身が創作した「敦盛」、語り、そして糸と声で表現される平家物語絵巻だ。重森は優れたパフォーマであると同時に優れた作家でもある。その紡ぎだす物語に飲み込まれた聴衆。会場を見渡すとあちこちに目頭を押さえる人の姿が。重森の芸の力で、見事に閉じられ生命感を持った時空間が、人々を覆い尽くしたのだ。
邦楽というと、辛気くさくて面倒なもの、というイメージがあるようだが、僕は決してそんな風には思わない。せっかくの我々のルーツを遠ざけてしまうのはもったいない。一歩踏み込んでみると、そこは生半可なジャズなんかより遥かにスイングし、色彩豊かで楽しさに溢れた世界が展開している。このコンサートはその好例のひとつと言えるだろう。華やかな着物姿の女性奏者が並ぶ舞台。見た目の豪華さプラス味わい深い演奏。至福のひと時!
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アグスティン・ペレイラ・ルセーナ「42:53」
アコースティック・ギター・マガジン 2009 SPRING/ CD・レヴュー
アグスティン・ペレイラ・ルセーナは60年代から活躍するベテラン・ギタリスト。アルゼンチン人でありながら彼の演奏はボサ・ノヴァ・インストゥルメンタルを主体にしている。緻密なアレンジ、スピード感あふれるスイング、すべてが一級品。しかし最も特徴的なのは、その少しメランコリックな陰を持った音色だろう。一つ一つが低音成分を充分に含む音は、質量感があり伸びが良くクリア。それが器楽という無機質な世界に生命感を与えている。芯を捉えギター全体を鳴らすしっかりとしたタッチから生まれる多彩で深い音色。昨今多く見られるフレーズにこだわり弦を撫でているだけの演奏では真似できない世界だ。この新作アルバムでもその音色は健在。すべての曲がオリジナル。卓越したコンポーザーでもある。
一本締め、お手を拝借・・、ヨーッ・・、ポン
邦楽ジャーナル 2009 3月号/ リレー連載コラム「和楽抄」
一本締め、お手を拝借・・、
ヨーッ・・、ポン
宴会や祝い事の後に繰り広げられるおなじみの光景だ。手を打つ事で、一つの事をやり終えた満足感と連帯感を確認、同時に儀式やイベントと言った非日常の時間に区切りを打ち日常に戻る、言わば結界を解く効果もある。この揃って手を打つというシンプルな行為、我々日本人は当たり前と思っているが、そうでもないと気づかされたことがあった。ライヴ・イベントの打ち上げパーティでの事だ。
海外からのアーティストも参加したイベント。僕の隣にはブラジル人のミュージシャンが同席していた。乾杯、主催者の挨拶、歓談、と進んで最後がお決まりの手締め。エキゾチックな儀式に、見よう見まねで参加しようとした彼だが、手を打つタイミングを逸したらしい。「どうしてみんな同時に手が打てるの?」と訊いてきた。ヨーッから、ポンに至るたっぷりとした「間」。指揮者もいなければカウントもない。それが彼には謎だった。
自然にやっている事、というのは案外説明するのが難しい。とりあえず僕は自分のイメージを話してみた。
「手締めの時僕らは大きくうねっている海をイメージするんだ。ヨーッという掛け声と共にそのうねりが波となって立ち上がり、最高潮に達して白波が砕ける瞬間に、ポン・・」彼は今ひとつ浮かない顔をしながら、でも「面白いね」と頷いてくれた。
和楽のリズムの概念は西洋のものとは明らかに違う。一般的にリズムという言葉から、拍、ビート、の事を思い浮かべる。拍は言わば時間軸に立てる柱。その柱を軸にメロディや和音を組み立て音楽という建物を構築して行く。しかし和楽の世界では、その柱の存在感は希薄だ。代わりに音が醸し出すうねりのようなものがリズムの主体になっている。漂うような、しかし濃密な音の世界。手締めは和楽のリズムの概念を端的に教えてくれる、最もシンプルな例だろう。
あらゆる芸術的な表現が、見るもの聴くものに現実とは違う世界を体験させることを目指している。しかし実際にその世界の空気感や時間を体験させることは難しい。音そのものを楽しむことから始まる洋楽と違って、和楽は最初から別世界がある事を意識している気がする。それが他にはないリズムの感覚に繋がっているのでは。
最小限の音と声だけで演奏される小唄や端唄。少ない音数。でも表現される世界は大きく膨らんで、艶やかな時間を体験させてくれる。長唄や清元は豪華絢爛。限りないうねりを繰り広げる大洋のように聴くものを呑み込む。数多い演奏者の誰一人お互いを確認することなく正面を見つめたまま進むのは、拍ではなくうねりを基本にしているからできることだろう。能楽は一曲全体が大きな一つのうねり。一曲が一拍、一息で出来ている最高にピュアな世界。
日本人には根強いリズム・コンプレックスがあるようだ。何かと云うと本場で勉強しなければ、とか、血の中にリズムがないのでは、という事を言いたがる。だけど僕らの身体の中には他には真似ができない優れたリズム感覚がある。その事に自信を持ってもいいのでは。
ミルトン・ナッシメント「NOVAS BOSSAS」
アコースティック・ギター・マガジン 2007 WINTER/ CD・レヴュー
「ブラジルの声」と称される巨匠ミルトン・ナシメントの新作はトム・ジョビンの作品を中心にしたボサ・ノヴァ・アルバムだ。広大な大地を体現するその声で表現される名曲は、昨今流行の都会的で軽くオシャレなサウンドとは確実に一線を画す分厚い存在感を放ち迫ってくる。ジョビンやジョアンに代表されるボサ・ノヴァはいつも広大なブラジルの風景を内在している。ミルトンの表現は正に的を得たものと言えるだろう。ギター、パウロ・ジョビン、ピアノ、ダニエル・ジョビンという正しい継承者たちとのコラボレーション。パウロのギターは控えめだが、ボサ・ノヴァの王道を行く安定したリズムと多彩なコード・ワークでサウンドを支えている。ボサ・ノヴァ・ギターを志す人はその奥ゆかし演奏にも耳を傾けてほしい。


