ITSUKA KIMI NI評論
ピエールと
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インターナショナル・プレス レジナルド・オカダ Groove 今村健一氏 Swing Journal 藤本史昭氏 Adlib 青木誠氏 OUT THERE 末次安里氏 インターナショナル・プレス レジナルド・オカダ
(ブラジル人向けの新聞インターナショナル・プレスのポルトガル語でのインタビューの訳です)
日本人歌手、ギタリスト、作曲家、中村善郎は、ボサ・ノヴァが世界の文化になった、という事の一つの証明だ。昨年彼は彼はヨーロッパに滞在し、フランスの市場にリリースするためにレコーディングした、その音楽のなかの主要なものはブラジルの有名なリズムからはぐくまれたものだ。
1990年からほぼ毎年中村善郎はソリストとして、またプロデューサーとしてCDをリリースして来ている。興味深いことは彼のCDの主なレパートリーがポルトガル語であることだ。多くは彼自身が作詞していて、その数は60曲近くまでになっている。
'77年から'79年にブラジルに滞在し、中村はボサ・ノヴァを学んだ。それ以来彼は専門家としてだけでなく、その非凡な生き方にまで反映し、ボサ・ノヴァを東洋哲学と比肩するものと捉えるまでになっている。
その類似の所為か、実際世界的に愛されているブラジルのリズムは、この10年の間特に日本で非常に一般化し、以前は限られたファンしかいなかった音楽市場を拡げた。
このインターナショナル・プレスのインタビューで中村は自身のブラジル音楽との関わりを語り、ボサ・ノヴァがこの国で成功した理由を分析した。IP:どのようにしてブラジルとその音楽に興味を持ち始めたのですか?
YN:僕が小さい子供の時、緑と黄色の旗を本で見たんです。その時その国はきっととても広い所なんだろうな・・、と想像しました。その時までブラジルの事はまったく知りませんでした。それから少しづつ他の情報を知り、僕の興味は1977年、25才のとき向こうに行って、一年半滞在するまでに高まったのです。僕が想像した通り、実際ブラジルは広大な国でした。たくさんの街を旅し、サン・パウロではしばらくの間、バールジーニョ(小さな酒場)に通いました。そこでは毎晩誰かが歌ったり楽器を弾いたりしていました。僕はいつもノートを持っていて、誰かが歌っている歌を知りたくなると、その曲を教えてくれるように頼みました。その頃僕はあまりよくはギターを弾けませんし、ボサ・ノヴァで使われているような不協和音はとても難しくて、よく勉強しないと弾けないものだと思ってました。でも彼らに弾き方を教えて貰った時、想像したよりずっと簡単なんだと知ったんです。そんな風にして僕はブラジル音楽を学びました。IP:あなたはプロになろうと思って音楽を勉強にブラジルに行ったのですか?
YN:僕はただ旅行したくてブラジルに行っただけで、最初は一年半もいるとは思ってませんでした。バックパックを背負って、ヒッピーみたいな状態で、あまりお金も使わないで過ごしてました。プロのミュージシャンになる事は考えてなかったんですけど、日本に帰って来たとき東京のサシ・ペレレから誘いがあり、それからプロとして弾き始めました。IP:どうしてあなたの作る曲の多くは日本語ではなくてポルトガル語で書かれているのですか?
YN:ポルトガル語はボサ・ノヴァのリズムと調和したものです。僕は日本語でも曲を作りますが、必要なバランソ(スイング感)を出すのは難しいです。
IP:あなたのスタイルの音楽に対する今の反応はどうです?
YN:この十年ぐらいこういった音楽は、若者を中心にとても成功していると思います。以前70年代や80年代はボサ・ノヴァを好きな人はかなりな音楽ファンに限られてました。でも今は違います。小野リサがこういったスタイルの音楽を日本で一般的なものにする刺激になった、と言えるしょう。そういった流れのお陰で僕のようにボサ・ノヴァを演奏するものも好意的に迎えられ、CDを出す事が出来、地方でもライヴが出来るようになったのでしょう。IP:あなたにとってボサ・ノヴァは何を意味しますか?
YN:僕はボサ・ノヴァはブラジル音楽というより、インターナショナルな音楽として捉えてます。誰もが共感や理解を持つ事の出来るこのスタイルは、世界中のどんな街でも演奏できるものでしょう。例えば、去年フランスで僕はフランス人のミュージシャン達とレコーディングをしました。彼らはとても気に入ってくれたし、とてもうまく行ったと思います。必ずしもボサ・ノヴァを演奏するのがブラジル人である必要はありません。同時に僕はそのスタイルは東洋的なセンチメンタリズム、哲学をもつものだ、と思っています。ボサ・ノヴァの中では開放的な光の部分と内向的な影の部分がバランスよく共存している。その解釈は発展させるとタオイズム(陰陽という相反する力がバランスする)にも通じるものでしょう。そういった例が「イパネマの娘」の詞の中にも見られます。「なんてきれいな喜びにあふれた女の子・・・」という詞と同時にその後「なんて僕は独りぼっち・・・」といった自分の状態が語られたりする、・・・分かりますか?(ちょっとスタイルを変えるだけで、この歌の主人公がきれいな女の子にも、ちょっと寂しげな中年の男にも変わる、単純に明るい歌ではなく、他面的なセンチメンタリズムを持った歌だ、という事を言いたかった)同じ曲の中に相反する感覚が存在してます。IP:そういった見方で考えると演奏する人と聴く側の人の関係というのはどうなるのですか?
YN:特徴的なリズムと、主に和音に見られるような大量の情報を持ちながら、この音楽はゆったりとした世界、人々にはそよ風のように軽く心地よくものとして届きます。でも、もしもう少し興味を持って聴けば、もっと集中し、より深い世界を旅することが出来るでしょう。そしてより多くの興味深いこと、美しいことを見つける事ができるでしょう。僕のようにその世界の通訳的なことをしていても、その凝縮した世界から、より深く、新しい発見をします。ボサ・ノヴァは歌手におしつけがましいやり方を要求する事はありません。それは静かな感覚であり、他の楽器に被いかぶさるような声の力を必要とするものではないのです。僕が演奏するとき、僕自身の存在もその場の全体の一部になります。そして自分の事を忘れその環境の中にとけ込んでしまいます。IP:どのようにしてフランスでレコーディングすることになったのですか?
YN:フランスの詩、音楽、映画などの多岐にわたって活躍するピエール・バルーさんを通じてです。彼もボサ・ノヴァが好きで、有名な作家達の曲のフランス語ヴァージョンを作ったりしています。僕の2作目の「エスキーナ」で共演して貰って以来付き合いが続いています。去年レコード・プロデューサーである彼の息子から(実際はピエール自身からです)誘いがあり、ポルトガル語、フランス語、日本語で歌う「いつか君に」というCDを作りました。
Groove 1999.11月号 今村健一 POINT OF VIEW
連載の記念すべき一人目はピエール・バルーと深い交流を持ち、日本のジョアン・ジルベルトとして知られている中村善郎氏だ。ちなみに僕はリアル・タイムでボサノバを歌っている世界中のミュージシャンの中でも、善郎氏は最高峰だと思っている。マルコス・ヴァーリよりも瑞々しく、ホベルト・メネスカルよりも優雅。そんな彼がピエール氏の協力によりフランスで作った新作がフランスおよびベネルクス三国ではSARAVAHから出たという話を聞いて(日本盤はSME)僕はいそいそと出かけていった。
--前作(「リオの鳥」「エスコンジ・エスコンジ」)はリオ・デ・ジャネイロで録音したものだったけど今回はSARAVAHの南仏(ヴァンデ)にあるスタジオでSARAVAH人脈を中心に作られてますね。その違いはどうでした。
「ブラジル人とフランス人では微妙なタイム感が違いましたね。あとは、リオの方が都会的な空気でオン・タイムでレコーディングが進行したけれど、フランスのヴァンデはみんな泊まり込みでラフな雰囲気でセッションしたくらいかな。でも全体をよく聴くとフランスらしさが滲んでいるんですよ」
--今やジャズ界ではビッグな存在であるリシャール・ガリアーノも参加してますね。
「彼が何年か前にピエールの公演で来日した時からの付き合いなんです。今回はツアーの移動日に強行軍できてくれたんだけど、何度も演奏を重ねるうちに彼もノッてきて最後には椅子を降りて踊りながら弾いてくれました(笑)
--さて、ピエール氏の話です。今回は8年前の「エスキーナ」に入っていた彼とのデュエット「出会い」が再演されてますね。善郎さんと彼との出会いはどういう感じだったのですか?
「「エスキーナ」を作るにあたってゲスト参加を依頼したのが最初。でもわざわざNoと言って断るために僕のところに来てくれたんです。ボサノバは結局ジョアン・ジルベルト一人のものだってお説教までされてね(笑)」
--(笑)で、そのNoがYesに変わったのって、何がきっかけだったんですか?
「若き日のピエールがブラジルで撮った映画「サラヴァ」をビデオ・リリースするときに彼の家でパーティがあったんでいろいろとボサノバを弾かされたんです。で、そのうちピエール氏が、「君が僕に歌わせたかった曲を弾いてみてくれ」、と言い出して。その夜の事を歌にしたのが「出会い」なんですよ」
--善郎さんのアルバムを聴いていると、そんな人との出会いが反映されているという点で、ピエール氏とアルバムの作りが似ているかなあと思うのですが・・・
「一期一会」を大切にするという点はそうかもしれませんね。でも内輪のベタベタしな付き合いよりも、ミュージシャンシップの方をあくまでも尊重する関係を僕は崩さないようにしていますし、ピエールにもそういう部分を感じます」
--ところでボーカルとギターで、だれか影響を受けた人っているんですか?
「まずボーカルはジョアン・ジルベルトのスタイルを踏襲しているじゃないかってよく言われるんですけよ。でもこれは気功や太極拳をやってたときの東洋的な発声法が基に自然に生まれてきたものなんです。あとギターは特に影響を受けているというわけではないのですが、ルイス・ボンファが好きですね」
--ビート感とかを参考にされたりして?
「いや、そのビート感のそのまた裏にあるニュアンスの方が参考になっているんです。逆にビートを追いかけ過ぎると、このニュアンスを取り逃がしてしまうんですよ」
なるほど、トッキーニョやシコ・ブァルキらがたむろっていた酒場でボサノバ・ギターを習ったという善郎さんならではのディープな発言だ。ところで街に氾濫しているクラブ・ボサやフェイク・ボサとかに飽きた若い人達の注目が中村善郎氏の本物の歌に集まってくる、そろそろいい頃合のような気が僕はしているのだけど。
ガリアーノ&ピエール sutudio Garage in Paris
SWING JOURNAL 1999年11月号<CATCH UP!> 藤本史昭日本人独特の陰影や郷愁がひしひしと伝わってくる。これは中村善郎の漂泊の歌だ
この人の音楽に身を浸していると、子どもの頃見た広い空や流れる雲、地面にくっきりと影を映し出す強い陽の光が、記憶の底から呼び覚まされる。
中村善郎。1952年大阪生まれ。20代の半ば、約2年間ブラジルを放浪し、ボヘミアン達の集まる酒場に出入りするうちにボサノバの魅力にとりつかれ、みずからもギターを弾き、歌を書き、それを歌うようになった。帰国後はライブ・ハウスで活動し、90年にアルバム・デビュー。以来1年1枚のペースで作品を発表し、今回の『いつか君に』は通算8枚目のアルバムとなる…。といったプロフィールを見ると、知らない人は「じゃ、中村善郎ってボサノバの人なんだ」と思うかもしれないが、実は中村自身は自分の音楽がブラジルのものだとは考えていないという。
「便宜上ポルトガル語で歌い、ボサノバのスタイルに近いけれど、近いだけでイコールじゃない。実はボサノバを真似しようとしたこともほとんどないんです。もともとぼくは、明治や大正に代表される日本的な思想や芸能が好きで、その発展形として音楽をやっている。だからブラジル人から見るとぼくの音楽って、ちょっと変わってるんじゃないかな」
たしかにこの『いつか君に』を聴くと、いわゆるブラジル人のボサノバとは違った、日本人独特の陰影や郷愁、あるいは切なさといったものがひしひしと伝わってくる。そう、冒頭で述べた、子どもの頃の風景のように。
「そういう切なさというのは、ボサノバを歌う際のキーワードですよね。サウダージという。その部分ではぼくの音楽はボサノバとの共通項があるかもしれない。でもぼくはそれを東洋的な発想で表現したい。よく、音楽は国境を越えるって言うけど、高いレベルでそれを実現するには、表現する側が確固たる自分を持ってなきゃいけないと思うんです。」
さて今回のアルバムは中村にとって初のフランス録音。参加ミュージシャンもアコーディオンのリシャール・ガリアーノをはじめ、全員がフランス人である。
「10年来のつきあいであるピエール・バルーが今回のレコーディングをコーディネイトしてくれて、彼のレーベル(SARAVAH)のビーアと、その周辺の人たちが集まったんです。ガリアーノとは以前もいっしょにやったんですが、やはりすごい人。特にその音色は、世界中どこを探してもないものですね。彼と二人で録音した<イスト・アキー・オ・キ・エ>は、今回のレコーディングの中でもっともスリリングなトラックの一つでした。」
穏やかな口調の裏に見え隠れする、頑ななまでの主張。それは一見平易な楽曲が並びながら、強い意志が込められた彼の音楽と見事にリンクする。この音楽と出会えたことを、ぼくは幸福に思う。そしてこの幸福をより多くの人と、わかちあいたいとも…。なおこの作品は、フランスおよびベネルクス3国ではSARAVAHから、それ以外の国ではソニーからリリースされる。ドミニク バス・フルート
ADLIB 1999年11月号 青木 誠ボサノヴァへの想いでつながった仲間達との絆
ブラジルの地でボサノヴァに魅かれ、酒場の知り合いからギターを学んだというギタリスト&ヴォーカリスト中村善郎。志をともにする仲間達と作った音はイミテーションとは明らかに違う「響き」がある。
このインタビューで、私は初めて中村さんが大学をでた2年後の1977年、ブラジルに放浪の旅にでたことを知らされた。
「ブラジルへいくきっかけは、もともと広いところへいきたいという憧れが子供の頃からあったんです。国旗のデザインが広そうって感じで(笑)。それがしみついていたので、一生のうち一回はいきたいと思ってました。」
しかし、まだ音楽家志望ではなくて、バック・パッカーかヒッピーといった姿でブラジルの土を踏み、あちらではバール(酒場)でアルバイトして暮らしていた。そのうち音楽家仲間と知り合ってギターを弾き、うたいだしたそうだから根ッからの現地仕込みである。2年後に帰国してからは四谷の「サシペレレ」で弾き語りをはじめる。そのあとブラジル・ブームのようなものがあったが、「ワーッと騒ぐのは得意じゃない」中村さんは自分の道を歩みつづけた。
すでに7枚のアルバムがあり、近年はブラジル録音が多いのだがこんどの新譜はフランス録音である。これはいきさつがあり、このアルバムはピエール・バルーとの交友からうまれた。ピエールは映画『男と女』の名曲で知られているが、アーティスト性が強く、つきつめたものをもつ彼は商業主義を極端に嫌って「SARAVAH」というレーベルを作って独立独歩の活躍をしている。
「お互いにスタンスが似てますね。二人とも外人としてブラジル音楽に憧れて、おなじ体験したりしているから話が合うんです。」
去年、ピエールから電話があり、スタジオがあいているから何かつくらないかといってきた。そこで、パリ郊外にある彼の別荘の敷地内のスタジオにいってこれを録音し、昨年のうちに「SARAVAH」レーベルからフランスとベネルクス三国で発売された。
あかるいひびきだが、空騒ぎせず、沈潜した歌のなかからうつくしいイメージがたしかな手応えで湧きあがる。共演はピエールの友人たちで、ピエール本人も一曲うたっているのだが、とくにアコーディオンの名手、ガリアーノが光っていた。
<WINTER SONG>のガリアーノは自分のエゴは捨て、中村さんがこのメロディーでいいたい冬のきびしい寒さを一途に表現しようとしている。凡人なら、まず自分をだしたい、目立ちたいでやってしまうところである。
「能とか落語とか、そうじゃないですか。落語なんか、一人で、座布団のうえでうごかないけど、ちゃんとそこに昔の貧乏人たちの世界がワーッと見えてくる。ダメなひとがやると見えてこないんですけど。それとおなじだと思いますね。」
──最近は落語家もタレントじみてきて、ほんとは自分が消えて芸がうき出さなくてはいけないのに、自分をひけらかすのが多くなった。音楽家もそうなってきましたね。
「パフォーマーの音楽であってはいけない。パフォーマーたちがおなじ空気のなかにいる、その空気が、表現しようとするものの一番中心になるべきだと思いますね。」
真の音楽家の態度である。おなじ体質のピエール・バルーと親友なのもこの姿勢をくずさないからである。
日本語でうたう曲も数曲ある。
「ピエールから、くるんなら日本語でやれ(笑)と命令されちゃって。それで、日本語でうたうと何でも誉めるんですよ。こそばゆくてね(笑)。」
ピエールのオハコである<おいしい水>のフランス語ヴァージョンは中村さんがフランス語でうたった。
スタジオは頑固オヤジのジャックが経営者だが、別荘地なので、庭の小鳥の声が騒がしくて中断することもたびたび。
「見張りの犬がいて、うるさいと追い払うんです(笑)。ギンカって名前ですけど。」
オヤジと犬の名前をとった<ジャックとギンカ>という曲もあった。モイーラと
OUT THERE 12月号 末次安里 YOSHIRO NAKAMURA/ 中村善郎の世界旅に出た人と、出なかった人。
もし、学校卒業後のわれわれの人生をこんな尺度で大別するならば、中村善郎とじぶんなどはその点で、好対照である。歳はさほど変わらない。彼の方が2歳年上だ。だから70年代中期の就職難情勢下で単身、南米に渡った男の勇気がそれなりに計れる。じぶんはと言えば、中村が地球の裏側を放浪していた同じ時期を煤けた東京で過ごしていた…。以来、ライター稼業で食うこと、今年で20年。旅らしい旅をしないで45歳を迎えた身としては、中村善郎が「旅立った理由」を聞いてみたかった。それも放浪の土地としてなぜ、ブラジルを選んだのかを。
「ブラジルに対する憧れというのは小さい頃から漠然とありましてね。とにかく、あの国旗のデザインが好きだった(笑)。あの国旗から受けた印象が『広い』というもので、いつかそこを歩いてみたいと思ったんですよ。それが理由らしい理由」
といっても中村少年、地図や図鑑を眺めるのが好きな地理少年だったわけではない。国旗との出会いも、
「ブラジルに関する本なんて何も読んでないですよ。知識はまるでゼロで国旗に魅せられた。それも確か、『ブラジル珈琲』とかいうブランドのラベルを見て憧れたんですよ」
『十五少年漂流記』を読んで冒険に憧れるとか、『世界の車窓から』が大好きで鉄道カメラマンになったとか、彼の場合はそういうのとも少し違う。珈琲のラベルなんだから。
1952年大阪生まれ。同志社で化学(バケガク)を専攻しつつも卒業後、ブラジルを中心に南米諸国を放浪した(77〜79年)。進学を決めた理由は?
「叔父が化学で優秀な人だったんで憧れて、じぶんもその道を選んだ。ところが一人の教授が事あるたびに『化学は体に悪い』と言いまして。反発を覚えながらも実験なんかやってると、確かに体に悪いのかなぁと思うようになりましてね(笑)。それと基本的にじぶんは文学系だと思ってましたから・・・」
大きな旅は初めてだった。当時はドルの高い時代、中村は「日系人が使うJALの里帰り便を選んで」およそ半額で海を越え、ブラジルの土を踏んだ。そこでボサノヴァとの運命的邂逅をするわけだが、とりたてて音楽少年だったわけではない。
「バーデン・パウエルが来日した時は観にいきましたけど、それも憧れの国のアーティストが来たからで。観たあとはギターも触りましたが、フォークソングを弾くのも大変で、もういいやと投げ出したクチ」
が、異境のボヘミアンたちが集う酒場に連日出入りするうちに、ボサノヴァを覚えたいと思い出す。
「皆けっこう上手いから、『あの指の押さえ方を教えて』という感じで習い始めた。曲もじぶんが覚えたい曲からという具合にね。それを後日演奏すると皆、もの凄く喜んでくれて。まあ、彼らからすれば犬に芸を教えてる気分だったんでしょうが(笑)」
やがてポルトガル語によるオリジナル曲も創り始める。帰国後は数多くのセッションにも引っ張り出されたが、彼自身が歌うのは希だった。
一瞬でたちまち魅せられる独特のヴェルベット・ボイス、「日本のジョアン・ジルベルト」とも形容される歌声はある時期、「秘宝」としてしまわれていたという。どうして?
「嫌いなの。ギターを弾くのは好きだけど、歌わずに済むものならば歌いたくない。人のバックをやってれば歌う必要がなかったけれども、それでは仕事が窮屈なってきてというのが本音なんですよ」
含羞の人なのだ。彼がその含羞を少し脱いで歌う時、たまらない郷愁が漂う。良い音楽は総じてどこか、初めてなのに懐かしさを覚えるものだが、中村の新作『いつか君に』を聴いた時もそう思った。
今回のフランス録音に協力を惜しまなかった朋友、ピエール・バルーは中村の魅力をこう綴っている。
<彼のアルバムは恥じらいを含んだやさしさの世界への旅を約束してくれる。繰り返し聴くことによってしか、その豊かさを想像できない世界だ>。なぜならば、とバルーは言う。<彼のようなアーティスト(稀にしかいない)は自己のオブセッションを充分に表現しつつも道の半分までしか進んで来ないからだ>。
あとの半分は聴く側の人間それぞれが歩んでいかないと<旅が成立しない>と、バルーは鋭く指摘する。
この至言を中村本人にぶつけたら、「歌、嫌いだからねえ。聴いてる人には申しわけないですよね。ただ、嫌いであるから凄く分析はしますよ。いかに力を使わないで歌うかとか。日本に帰ってきてからも5年ほど、歌った事がなかったですからね・・・」
南米遊学体験者の中村だが、むしろ「じぶんの全体的な嗜好は日本的なもの」と語る。能や落語も好きだ。
「能にしても落語にしても、一人でパフォーマンスをして会場を一色にしちゃうと、もう自分がそこにいなくなるでしょう。どんどんじぶんが無くなってく。僕にとってのボサノヴァも全くイコールなんですよ」
含羞の人は「無私の精神」を愛する人でもあった。そんな中村が、アコーディオンの第一人者リシャール・ガリアーノやSARAVAHのニュー・スター、ビーアたちのサポート陣を従えて13曲を吹き込んだ新作アルバム。なかでも山上路夫=村井邦彦コンビが赤い鳥に書き下ろした名曲、<言葉にならない言葉>の中村バージョンが意表をつく素敵さなのだ。
「関西フォークなんてまるで興味がなかったのに、ピエールから『日本語の曲もやるべきだよ』と提案されて、なぜかあの歌を思い出した。フランス人にとって日本語は、エキゾチックに聞こえるらしいのね」
中村のシンプルなギターと歌声に絡むベースは、女性ベーシストのモイーラが弾いている。力強くも優しい爪弾きが、あの名曲を掘り起こす。
アーティスト資料の中で中村は、曲目解説を自筆しているがその文章がまた上手い。たとえば、ビーアとのデュエットで吹き込んだ<プレリュードのサンバ>について彼は、
<ピエールとのアイデアで僕が日本語、ビーアがポルトガル語で歌うことになった。(中略)みんなが口を揃えて美しいと絶賛した。でも僕はこそばゆい気持ちで、なんとなくダメになった国際結婚のカップルを思い描いてしまった>
中村さん、アウトゼアに連載コラムを持つ気はありませんか? 思わずそう提案してみたら、彼は応えた。
「いいですねえ、興味ありますよ。じつは小説も書いてるんですが(笑)」
というわけで話はトントン拍子に進み、早くも来月号から連載を始めてもらいことにした。彼は続ける。
「書くことは(自分が)そこにいなくていいじゃないですか。自分の中の風景を思い浮かべて書けばいいわけですから・・・」
自己韜晦の世界を好む人なのだ。もう一度、落語の話題にもどって、
「(巧い噺家が)座布団一枚の上でパフォーマンスをすると、もう現実の時間は関係なくなって、抽象的なものが具体的に見えてくる。その場が一色になってしまうという、そういう発想が好きなんですよ」
といって、アーティスト自身の存在感には人一倍こだわってもいる。
「人前に出るのは苦手なんだけど、何かを表現する際に存在感のないものは嫌いなんですよ。たとえばロックの存在感って、(演じる)自分とは別のところに存在感があるじゃないですか。ヒーリング系の音の中で漂えばいいみたいな世界も大嫌いだし。僕の場合ですか? 衝立のかげからちょっと覗いているみたいな存在感が理想かな(笑)」
それはバルーが<道の半分まで>と評した有りようそのものだ。中村自身が「いかに力を使わないで歌うか」と語った言葉にも通じる。
でありながら中村善郎の歌声は、一瞬にして聴き手のハートをつかみ、日常とは少し違う世界へ連れていってくれる。
「凝縮したものを、すごく圧縮したものを出しますから。ボサノヴァは抽象的なようで凄く具体的なものを引き出すことができますから。日本の文化が好きなのも、一番凝縮した文化という気がするからなんですよ」
ゆるぎない自信に裏打ちされた言葉だと思う。中村善郎はこれまでも6枚のアルバムを残してきたが、7枚目に当たる新作『いつか君に』は、「初期に戻った感じ」だという。
それは赤裸々なまでに生々しい歌声で貫かれ、現在の日本の音楽状況を考慮すると、あまりにも堂々とした反時代ぶりに思えてならない。そう感想を述べると、中村は言った。
「迎合しながら生き延びるなら、死んでたほうがいい。人のバックとかならば何でもやりますが、自分の作品を出す時はやはり考えますから」
事実、中村はTVやラジオのCM音楽も多く手がけている。ボサノヴァ講座の講師としてのキャリアも長く、NHK文化センターや朝日カルチャー・センターでも教えてきた。
講師・中村善郎の教え方は?
「一番簡単なことしか教えません。持続すること、それをまず教える」
が、そこからが彼らしい教え方。
「皆、自分が出している音を聞きたがるけど、出してる音じゃなくて、残った音を聴かなければいけない。聞こえてこない音を聴いてほしいんですよ。たとえば、自分が弾いていない音を聴かせるということが実際、できるんですよ」
それは生ギターを長年弾いてきた中村にとっても発見だったという。
「実際に弾いていない音も聴かせられる、とある日気づいたんですよ。唯一の具体的な方法としては、自分が弾いているつもりでいることなんですね。音を切っても、それは完璧に消えちゃうわけではない。呼吸をとぎらせないでやっていると、相手もそのつもりになってるんですよ。それは凄く意外な発見でした」
一種の間、みたいなものだろう。
「プレーヤー自身が前のコードのことを考えながら次のコードをとれば、飛んでも前のコードが相手にも聞こえたりという。それは自分でも不思議だなと思った。それは機械では絶対出せないものですからね」
彼の教える光景が浮かんでくる。そして『いつか君に』という、素朴でありながら独特の空気感が漂う希有なアルバムの秘密の一端も・・・。
『リオの鳥』(96年)、『エスコンジ・エスコンジ』(97年)とブラジル録音が続いた中村。今回はピエール・バルーの協力を得て、フランス録音に挑んだが、その『スタジオ・ボカージュ』はそもそも、バルーの別荘を改造したものだという。
「凄い田舎、ヴァンデの自然に囲まれたド田舎ですよ(笑)。車がないと買い出しにも行けないし、とにかくきれい。これまでの作品はわりと都市部にあるスタジオを使って、ホテルに泊まって創ってきたけど、今回はミュージシャンもそこに寝泊まりして録音したんですよね」
パリ市内から5〜6時間はかかる土地。そばを流れる川は週末、釣りや水泳にやってくる若者たちの声でにぎわう。その日の作業を終えると、夕暮れのベランダでワインやビールを飲みかわし、談笑しながらまた明日を迎える。ヤニ臭い編集部で原稿ばかり書いているじぶんには、羨ましすぎる光景である・・・。
<若者の歌>を吹き込む際、女性のバス&アルト・フルート奏者であるドミニクは、しきりに歌詞の意味を知りたがったそうだ。
「意味が分からないと、演奏しにくいから・・・」
中村が英語を駆使して何とか説明するが、微妙な部分が伝わらない。ビーアの助けを借りながら、中村は大意をこう言った。
「べつにあくせく働かなくても、暮らせればそれでいいじゃない・・・。そんなことを歌っているんだよ」
するとドミニクは笑みを溢した。
「それじゃ、まるでミュージシャンみたいね(笑)」
そんな感じで録音は進められた。これまでとは違う空気の印象を、中村自身がライナーノーツの中でこう語っている。引用させてもらうと、
「<場>の音楽ですよ。演奏者が出してる音じゃなくて、その場所全体が楽器みたいな。演奏者自身がパフォーマーというよりも、自分の出した音そのものがパフォーマーである、主役であるという態度なんです。そして、すべてのしぐさがとてもナチュラルだし」
欧米で尊敬を集めるアコーディオンの第一人者、リシャール・ガリアーノも強行軍のスケジュールをおして参加してくれた。ミラノからスペインに向かう途中でわざわざパリに降り、時間を割いてくれたという。
中村は恐縮し、時間の事ばかり気になった。しかし演奏を始めるとリシャールはご機嫌で、「もう一度やろう!」と何度もうながした。
最後には興に乗って椅子を降り、自ら踊りながら弾き出した。アルバムではこのテイクが採用されたが、中村は自筆解説でこう綴っている。
<最後の口笛とのユニゾンは、こういったものを録りなれているエンジニア達にも奇跡のように聞こえたらしい。後でどうやって弾いていたか、しきりと知りたがっていた。>
8曲目の<イスト・アキー・オ・キ・エ>をめぐる録音秘話である。
取材中、ボサノヴァと自分の関係について中村善郎はこう語った。
「ボサノヴァと出逢ったという感じは、自分の中ではありません。どちらかというと『内側にあった』という感じに近いかな。あまり『外のもの』という感じがしないんですよ」
行き当たりばったりでブラジルの土を踏み、まるで言葉も通じない土地で通いつめた酒場の名前は『センノーメ』。「名前がないという意味」の店で彼は馴染んでいった。
「わりと感性が近いというか、ブラジルは移民の国でしょう。ずっと住んでいる人にはブラジル人としてアンデンティティーもあるけれども、同時にどこか旅人の感覚があって。自分と似たような部分を感じた。要は人を信用していないというか、裏切られてもしょうがないみたいな。だから傷つかない。そういうスタンスがあるから、僕はすぐに打ち解けたし、すごく楽しかった」
孤独を恐れない人である。中村の歌の原点かもしれない。
「放浪したっていう感じは凄くあります。それが種になっている。自分の存在感という、種にね」
凝縮の種から咲く歌は力強い。
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