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日本音楽集団創立40周年記念定期演奏会

『子どものための組曲&人形風土記』リハーサル風景
前列左から:白根きぬ子先生、野坂惠子先生、宮本幸子先生、田原順子さん、杉浦弘和(杵屋五三吉)先生、宮田耕八朗先生、竹井誠さん、米澤浩、
後列左から:尾崎太一さん、坂井敏子先生、高橋明邦さん、
指揮:田村拓男代表
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創立40周年にあたって
(2004/11/26“日本音楽集団創立40周年記念コンサート”パンフレットより転載)
《日本音楽集団の創立以前から創立初期のことなど》
1960年のある日「村岡さんという人が尺八トリオを作ろうと言っているので会ってみなさいよ」というお誘いを受けました。この話を持って来られたのは渋谷区幡ケ谷にお住まいで、都山流尺八の先生をする傍ら尺八の袋や歌口キャップを扱っていて、尺八の稽古場を訪問して販売をしていた西村鏘山という方でした。その頃渋谷区笹塚に稽古場を持っておられた兼安洞童先生のところへ通っていた私の吹奏を見かけて心にかけていてくれたのです。そして、東京へ出てまだ日の浅い横山勝也さんと、村岡実さんの家で顔合わせをしました。
今年81歳の村岡さんは元気はつらつ、外交的で雄弁ですが、30半ばころの彼はもの静かで、雄弁とは言えないのですが情熱を持って語る人でした。木管五重奏や弦楽四重奏のように音域の拡がりのある合奏団は従来からありますが、音域のあまり広くない尺八だけのトリオというものの可能性に私は疑問があったのですが、村岡さんの熱弁に動かされ、それにこの3人だと当時の尺八仲間にしてはめずらしく音がハモるし、うれしくなっていっしょにやることとなりました。当時、尺八のプロと言えば、弟子に教えて生業を立てるレッスンプロしか思いつかなかったのですが、村岡さんは演奏活動をしようと言うのですから一歩も二歩も進んでいました。
実際彼は楽譜出版社に勤めていた時のコネを生かして作曲家たちに尺八の性能と効用を説き、口説き落とされた作曲家がひと度尺八を使ってみると、彼の独特な魅力ある節まわしが好評で、芝居や映画、放送劇などのBGMに、歌謡曲に、テレビの歌謡番組などなどでとても忙しくなりました。それで依頼されたスタジオ仕事がダブってしまうと断るには忍びないので私や横山さんに「頼むよ」とふりわけてくれました。私たちは彼が音楽生命をかけて開拓した仕事ですから、彼が築いたギャラを決してダンピングしないことを仁義として仕事を受けましたが、3人がそれぞれ持ち味が違い、3人ともずい分忙しいスタジオミュージッシャンになりました。
尺八が有効な楽器であることが認知されて、BGMや現代邦楽に重用されて忙しくはなりましたが私には釈然としないものがありました。どんな楽器でも演奏者は、その楽器として可能なかぎり美しい音色が出せるように訓練して演奏するのですが、あの時代そうとも言えない風潮が流行っていて、特に尺八には、荒々しさ、荒れすさんだ音あるいは、これでもかというほどおどけたりすることが要求されることが多かったのです。それが好きで、その為にこそ尺八をやっているという方には、おあつらえ向きで、とても良いのですが、私としては瑞々しい美しい音色で、心地よい音楽を奏でたいと願っていたものですからどうも……。
それでも生活がかかっていますから「ハイハイ、それでは営業用の音で」とご要望にお応えして忙しく仕事をこなしておりました。
話はもどりまして、忙しくなる前ですが1962年に「モダン尺八トリオ」と名のりを上げ、そろいのタキシードを作って第1回目の演奏会。その後、演奏会に関わった人たちと相談し、この名前ではレパートリーが限られるようだから―――と、「東京尺八三重奏団」と改名して1963年に2回目の演奏会をいたしました。ここまでの費用はタキシード代のほかは全部村岡さん持ち。村岡さんの情熱と行動力と財力にすっかり依存しておりました。村岡さんがそれほど裕福とは思えなかったのですが、ともかくこちらは食うや食わずでしたから。
2回目の後、関わった人たちが、これからは仲間になっていっしょにやろう、名前は「日本音楽集団」にしよう―――と決めたのが1964年の4月。そして6月に東京尺八三重奏団第3回演奏会を皆の友情出演でやって解散とし、11月17日が日本音楽集団(以下「集団」と略)の第1回定期演奏会で、日比谷の第一生命ホールでした。その直後、一番の柱であった村岡さんが退団。その頃村岡さんはスタジオの仕事がどんどん入るようになって来て、毎週のように続ける練習に穴をあけることになるから―――というわけで誠にいさぎよい退き方でした。
自動車がまだ少なかった当時、演奏者の仲間うちでは最初に車を持って箏を乗せてスタジオをかけ廻っていた山内喜美子さんと、やはりスタジオをかけ廻っていた上参郷輝美江さんが、村岡さんに続いて同様な理由で退団。要するに集団では生活できないからで、最初の頃は情熱があって未だいくらかひまな人たちで成り立ったわけです。
それでもこの活動に参加してくれるものが次々と居て……現在67名。しかも集団で生活できないことはそのまま40年続いています。経済的理由だけではなく情熱を持っていてもどうすることもできないこともあり、創立時の団員は長沢勝俊、田村拓男と私の三人。団を去った人たちも各々立派に音楽活動を展開し、いつも熱い眼差しで団を見守ってくれています。そして今日のために初期の仲間が馳せ参じてくれました。
《NHK・FM放送》
集団発足の頃NHK・FMで「現代の日本音楽」という番組があっていわゆる現代邦楽と呼ばれた作品が毎週流れました。1960年代から70年代までNHK委嘱による作品も沢山生まれ放送されました。
一方、集団の定期演奏会は都内で64年と65年が1回ずつ、66年〜70年は年2回ずつでした。ほかにグループ又は個人による現代邦楽の演奏会も夫々が年1回ぐらいのものですから、毎週全国で家に居ながら聞くことができるあの番組が、集団のみならず私を含めて若い演奏家たちの存在と活動を全国に知らしめた影響力は絶大なものがありました。
《夏の合奏研究会》
1971年から83年まで13回、毎年8月に北軽井沢で2泊3日の合奏研究会を開催しました。FM放送を聴いて集団を知り、私たちのレパートリーを演奏してみたいと思ってくれていた人が沢山いました。比較的若い人が多く全国から参集してくれ、その第1回目に参加した人の中から翌72年、集団に加わった若者が6名、うち3名が現在集団の中心になって演奏をしている三橋貴風(尺八)、吉村七重(箏)、田原順子(琵琶)です。第1回目の練習曲が「子どものための組曲」全5章(長沢勝俊作曲)と「古代舞曲によるパラフレーズ」より前奏曲(三木稔作曲)の2曲でした。
夏休みの小学校をお借りして1日目2日目ともパート練習。3日目午前、講堂で全員合奏。舞台でも放送でも度々演奏したこの2曲、いつも私たちだけだったこの曲を初めて集団以外の人たちが奏でてくれたのです。あの時のことを思い出すと今でも熱いものがこみ上げてくるのを覚えます。
《練習場》
初期には演奏者が11名で、中に小さいながら太鼓がありますから普通の家では練習できません。十七絃の宮本幸子さんが所属している正派邦楽会の道場を箏ともども使わせて頂きました。しかし、道場といえども木造の家でしたから、太鼓はやはりご近所から苦情が来て、事務局の方がいつも謝って集団へは遠慮がちにそれとなく伝えてくれました。家元の中島雅楽之都(なかしま・うたしと)先生がお元気な頃は、迷惑ばかりかけている集団の定期演奏会にいつも来て下さいましてカステラの楽屋見舞いなどいただいて恐縮したものです。不思議な家元でした。
1973年に正派道場の建てかえ工事に入るまで、おせわになりました。正派道場なしには集団の存続は危うかったでしょう。その後は長沢の縁で人形劇団プークの稽古場、その次は三木さんの縁で東京音楽大学の教室、原宿の練習場、そして現在の笹塚のビルの地下室となりました。
以上、団の創立以前から1970年代前半の事柄から少しだけ書いてみました。もっともっとお伝えしたいこともありますし、その後の事、海外公演も含め沢山ありますが、今までプログラムや機関雑誌で折にふれ綴られて来たこともありますので、ここまでにしておきます。
《勇退》
私は、26歳で集団創立から40年、新作の初演に数々関わってまいりましたが、ここ10年ぐらい新作に触れていません。音符が細かい楽譜や判読が困難なものを初見から始めるには地下の練習場は暗いのです。若い人たちの練習に立ち会うと、この譜面でよく読めるものだと感心します。眼鏡をしてもどうもいけません。演奏能力も研究と経験によって身につけて向上している点もありますが失ってきたものもあり、体力的にも無理はできません。
尺八吹奏をやめてしまうには、まだ時間があると思っていますが、入場料をいただいてひと前で吹くという行為を、いつか上手にやめられる準備をしようと思います。仲間はありがたいもので創立団員である私を、いつも一目置いて立ててくれるのですが、40周年を境にこの後、団の第一線に立つ事を控えて、私で役に立つことがあれば後ろの方にて演奏に加わって居ることにいたしましょう。
私と集団を支え、育てて下さったお客様や多くの方々に感謝いたしますとともに、今後とも変わらぬご支援をお願いいたします。
※HP管理者注記/
ここに掲載した宮田先生の文章は、師匠の企画構成の定期演奏会にあたり現場での可能な限りのお手伝いをしたものの、より広く、より詳細にご紹介したいと思い、先生と音楽集団の了承を得て転載したものです。
当日のプログラムには、先生の文章の他に村岡実氏・小宮多美江氏・長廣比登志氏も玉稿をお寄せ下さいましたが、著作権の事を考慮し、我師匠宮田先生の文章のみを転載させて頂きましたのでご了承下さい。(2004/12/15米澤浩)
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