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べーラ べーラ ベラショッショ
石山の 秋の月
牡丹に唐獅子 竹に虎
虎追うて走るは和藤内
和藤内(注:まとうない)お方に知恵貸そか
知恵の中山誓願寺
誓願寺の和尚さん坊さんで
坊さんタコさん入道べさん
玉子のふわふわあがりんけ
今日は精進、明日にしょ
ショショマカ ショショマカ
ショッショッショ
信濃屋のお半さん 石部のお宿で仮枕
(べーラ べーラ ベラショッショ)
<以下は、近年よく使われている囃し文句>
(町名を冠して) ○○の太鼓台は ほりもん(彫物)
ようて(良くて)
き(用材の木と気骨・気前・気概などの気を掛けて)が ようて 乗り手が上手で よう担ぐ
(べーラ べーラ ベラショッショ)
<合いの手や掛け合いには
次のような文句があります>
●エンヤジャ ●アーヨイショ ●コリャ サイサイ
●チョコ サイサイ ●(ス)ッチョコ サイサイ
●(ス)ッチョコ (ス)ッチョコ (ス)ッチョコ サイサイ
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「誓願寺」それとも「清閑寺」?
Q: 観光協会発行のパンフレットには、「中山清閑寺」となっているのに、ここでは、なぜ「誓願寺」としているのですか?
A: 天正4年頃、信長の侵攻・統一が進む中、一向宗の法主顕如上人は、近江北の誓願寺など十か寺を中心とした、一向一揆に力を注いでいる。
また、顕如上人が貝塚に本願寺を置いた天正11・12年の翌13年に、秀吉の都市計画によって浄土宗寺院ではあるが奈良から恒武天皇の時代・延暦13年に平安遷都で上京区に移っていた「誓願寺」が、再度京都の新京極に移されていること等を考え合わせると、歌の中山とは言われているが天台宗寺院である「清閑寺」より妥当と思われる。
貝塚市史(昭和32年3月31日発行)の第二巻第六編「民俗」790頁に記載されている歌詞では、「誓願寺」となっており、いつどのような経緯から「清閑寺」に変更されたかは不明である。
誓願寺のHPに、『近松門左衛門の戯曲
「桂川連理柵」で有名な悲恋の男女お半・長右衛門の死後、ここに葬られた。
「お半・長右衛門墓」は、縁結びに霊験あらたかと若い男女の人気を呼んでいる。』
とある。
[担ぎ歌]が刷り物として普及していなかった頃から、「・・・せんがんじ、せがじの
おしょさん・・・」と口承で唄い継がれ「が」と濁って伝わっていたこと等を考慮し、当HPでは、「誓願寺」を採用致しました。
「にゅうどうべ」それとも「じゅうろうべ」?
Q: 観光協会発行のパンフレットには「じゅうろべ」となっているのに、ここでは、なぜ「入道べ」としているのですか?
A: ふとん太鼓の担ぎ歌は、みんなが声を合わせ力が出し易いよう、テンポも重要な要素と言えます。尻取り、連想、掛け合いによって調子を取り、気分の高揚を謀っていると思われます。
当HPでは、(お寺の和尚さん)坊さんで→坊主頭→蛸の頭→タコ坊主→蛸入道→入道兵衛→「にゅうどうべ」の一連の流れを妥当と考え、採用しています。
<参考> 泉佐野:春日神社太鼓台の担ぎ歌
石山の 秋の月 月に群雲 花に風 風の便りは 田舎から いなを隠せし 淡路島 縞の財布に 金五十両 五郎十郎 曽我のこと 牡丹に唐獅子 竹に虎 虎追うて走るは 和唐内 全ない御方に 知恵貸そか 知恵の中山せんがん寺 せんがん寺の和尚さん 坊さんで 坊さん蛸さん 十郎兵衛さん お前も蛸なら
わしも蛸 互いに吸いつきゃ ええじゃないか

ここで注目したいのは、「金五十両→五郎十郎(兄・十郎、弟・五郎の曾我兄弟の仇討ち)→十郎兵衛さん」の関連で、ここから貝塚の担ぎ歌では関連性の乏しい「じゅうろべ」の部分が移入されたのではないかとも考えられます。
この項は、不明な部分や疑問な箇所について「Q&A」形式で当HP.管理者の考えを述べています。限られた情報・知識を基にしていますので、皆様からの情報も参考にさせて頂きたいと思います。
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