読売センター貝塚

貝塚宮・感田神社 太鼓台祭り

ふとん太鼓               運行マップ2009

     
ふとん太鼓の歴史  

 感田神社の夏祭りにふとん太鼓が担ぎ出されたのは、寛保元年(1741年)で、泉州地方のふとん太鼓では最も古いまつりです。

 同神社の記録によれば、「寛保元年のおまつりに北之町だんじりが出されたが、引たん志りは堺から借ってこなかった」と記されており、両者を区別しているところから、このだんじりはふとん太鼓のことと考えられます。

 願泉寺の寺内町から在郷町へと発展し、人口が集中するとともに商工業が発達したことから、氏神のお祭りも次第に賑やかになった頃で、享和元年(1801年)には南町と近木町からもふとん太鼓が担ぎ出されています。

 神輿の渡御は、元文3年(1738年)の記録でもすでに「その始まりは明らかでない」と記されています。

 天正11年(1583)顕如上人が本願寺を紀州鷺森より貝塚・願泉寺に移された際、住民はこれを祝って三日三晩踊り明かし(三夜音頭の起源)、感田瓦明神の氏子達は、ハシゴらしき物の上に太鼓を乗せ竹笹を立てて、担いで回ったのが太鼓台の始まりとする説もあります。


店頭に飾られた ミニチュア太鼓台

貝塚の太鼓台関連 HP

 

各町の太鼓台

各町太鼓台の解説

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読売旅行駐車場前を帰路につく堀之町太鼓(2001.7)

○ 中町(宮本)
○ 堀之町
○ 大北町
○ 中北町
○ 西町
○ 南町
○ 近木町

献灯が祭ムードをかき立てる
ふとん太鼓の担ぎ歌   聞いてみる (平成18年7月録音)   〔担ぎ歌 談義〕

べーラ べーラ ベラショッショ

 石山の 秋の月
 牡丹に唐獅子 竹に虎
 虎追うて走るは和藤内
 和藤内
(注:まとうない)お方に知恵貸そか
 知恵の中山誓願寺
 誓願寺の和尚さん坊さんで
 坊さんタコさん入道べさん
 玉子のふわふわあがりんけ
 今日は精進、明日にしょ

 ショショマカ ショショマカ
 ショッショッショ

 
信濃屋のお半さん 石部のお宿で仮枕

(べーラ べーラ ベラショッショ)

<以下は、近年よく使われている囃し文句>

(町名を冠して)  ○○の太鼓台は ほりもん(彫物)
ようて
(良くて)(用材の木と気骨・気前・気概などの気を掛けて)が ようて 乗り手が上手で よう担ぐ

(べーラ べーラ ベラショッショ)

<合いの手や掛け合いには
             次のような文句があります>
●エンヤジャ  ●アーヨイショ  ●コリャ サイサイ
●チョコ サイサイ  ●(ス)ッチョコ サイサイ
●(ス)ッチョコ (ス)ッチョコ (ス)ッチョコ サイサイ

「誓願寺」それとも「清閑寺」?
Q: 観光協会発行のパンフレットには、「中山清閑寺」となっているのに、ここでは、なぜ「誓願寺」としているのですか?

A: 天正4年頃、信長の侵攻・統一が進む中、一向宗の法主顕如上人は、近江北の誓願寺など十か寺を中心とした、一向一揆に力を注いでいる。
 また、顕如上人が貝塚に本願寺を置いた天正11・12年の翌13年に、秀吉の都市計画によって浄土宗寺院ではあるが奈良から恒武天皇の時代・延暦13年平安遷都で上京区に移っていた「誓願寺」が、再度京都の新京極に移されていること等を考え合わせると、歌の中山とは言われているが天台宗寺院である「清閑寺」より妥当と思われる。

 貝塚市史(昭和32年3月31日発行)の第二巻第六編「民俗」790頁に記載されている歌詞では、「誓願寺」となっており、いつどのような経緯から「清閑寺」に変更されたかは不明である。

 誓願寺のHPに、『近松門左衛門の戯曲 「桂川連理柵」で有名な悲恋の男女お半・長右衛門の死後、ここに葬られた。
「お半・長右衛門墓」は、縁結びに霊験あらたかと若い男女の人気を呼んでいる。』 とある。

 [担ぎ歌]が刷り物として普及していなかった頃から、「・・・せんがんじ、せがじの おしょさん・・・」と口承で唄い継がれ「が」と濁って伝わっていたこと等を考慮し、当HPでは、「誓願寺」を採用致しました。


「にゅうどうべ」それとも「じゅうろうべ」?
Q: 観光協会発行のパンフレットには「じゅうろべ」となっているのに、ここでは、なぜ「入道べ」としているのですか?

A: ふとん太鼓の担ぎ歌は、みんなが声を合わせ力が出し易いよう、テンポも重要な要素と言えます。尻取り、連想、掛け合いによって調子を取り、気分の高揚を謀っていると思われます。
 当HPでは、(お寺の和尚さん)坊さんで→坊主頭→蛸の頭→タコ坊主→蛸入道→入道兵衛→「にゅうどうべ」の一連の流れを妥当と考え、採用しています。

<参考> 泉佐野:春日神社太鼓台の担ぎ歌

石山の  秋の月  月に群雲  花に風  風の便りは  田舎から  いなを隠せし  淡路島  縞の財布に  金五十両  五郎十郎  曽我のこと  牡丹に唐獅子  竹に虎  虎追うて走るは  和唐内  全ない御方に  知恵貸そか 知恵の中山せんがん寺  せんがん寺の和尚さん  坊さんで  坊さん蛸さん  十郎兵衛さん  お前も蛸なら
わしも蛸  互いに吸いつきゃ ええじゃないか

 ここで注目したいのは、「金五十両→五郎十郎(兄・十郎、弟・五郎の曾我兄弟の仇討ち)→十郎兵衛さん」の関連で、ここから貝塚の担ぎ歌では関連性の乏しい「じゅうろべ」の部分が移入されたのではないかとも考えられます。

 この項は、不明な部分や疑問な箇所について「Q&A」形式で当HP.管理者の考えを述べています。限られた情報・知識を基にしていますので、皆様からの情報も参考にさせて頂きたいと思います。
情報は<メール問答> にて、ご紹介させていただきます。

「わんせーの、そりゃー」って?
Q: 太鼓台を担ぎ上げるとき「ワンセーノ、ソリャ―」と言っていますが、どういう意味ですか?

A: 町によって違いますが、約1.5トンもある太鼓台を担ぎ上げるには、肩を入れた全員の呼吸を合わせなければなりません。
 一般には、「1・2の3」や「OneTwoのThree」が使われます。元の言葉は「一斉のセイ」であり、力が込もって、「ソリャ―」になったと思われます。
 「One」は「一」の変化。 「斉の、で…」とも言う。

「和藤内お方」「後ないお方」「まとうないお方」?
Q: 「虎追うて走るは和藤内 和藤内お方に知恵貸そか」とある、和藤内お方という言い回しは、理解できません?

A: 近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」(1715年文楽初演)の登場人物・和藤内の虎退治は有名ですが、その和藤内殿に知恵を貸しましょうかと言う意味なのか、尻取り・掛け合い言葉として一部の他地区担ぎ歌で紹介されている、「和藤内」〜「あと無いお方=追い詰められて後が無い方に」とするかは、意見の分かれるところでしょう。
 ちなみに、口承では「まとーない、まとうないおかたに・・・」と伝わっている。

 隣接地なのに、初めて訪れた泉佐野・春日神社の太鼓台宮入で右写真の担ぎ歌を見た。ここでは、「全(まとう)ない」と前述の口承を文字で表記していた。これは、和藤内から韻を含んだ変化で「智恵貸そか」との合理性もあると感じた次第である。
 広辞苑には、「全人(まとうど)」とは、欠点のない完全な人の意。とあり、お互いの欠点を補い合う智恵を貸すと解釈すれば、子供の頃から耳にしていたのは、聞き違いではなかったわけである。
                   (2006.7月 記す)

「信濃屋のお半さん」って?
Q: 「石山の〜明日にしょ」とは、繋がりの薄い歌詞「信濃屋のお半さん〜」の由来は?

A: この部分は、合いの手、囃し言葉、掛け合いなどで間を持たせる文句の一つと言えるでしょう。
 古老の伝承によると、信州は境沢庄の武士で戦国時代末期に貝塚・南町に移り住み、寺内の年寄役を務めた豪商「信濃屋」の下女お半さんが、恋人の後を追って店を抜け出し、近江石部の宿で一夜を共に過ごしたことを囃し立てたものである。
 信濃屋は、姓を「境澤」、当主は代々「新左衛門」を名乗った。貝塚市南上町の上善寺に墓所がある。

本件などに関する、ご意見をお寄せください。   メール問答へ

祭りの見どころ     海の日(祝日)前の土、日曜日


平成17年7月
読売旅行待合所屋上より

7月海の日前々日(土)
 >> 宵宮担ぎ比べ

平成17年から復活した府道:堺阪南線(旧国道26号線)でのイベント。

夜8時ごろに感田神社前から順次移動した各町太鼓台が府道:堺阪南線に集結。9時頃から15分間一斉に担ぎ比べが行われる。


本宮の感田神社前での担ぎ比べ(平成16年)

平成17年まで、4町・3町に分かれて20分間行われた

 >> Point2
午後1時頃、各町を出発して中町通り・西町交差点に集結〜中町通りを東上して宮入。午後2時頃からの式典のあと、感田神社前にて7町一斉に行われる担ぎ比べ(練り合い)は、この祭り一番の見もの。各町の男たちが意地をかけて15分間担ぎ抜く姿は圧巻。 

駅前通り下がりから、当YC前辺りまでの間で、近木、南、西、中、中北、堀之町、大北の順に並びます。

7月海の日前日(日)
 >> Point1
午前中は、運行されないが、各町で太鼓台7基が午後からの運行に備えて待機しているので、彫り物などをじっくりと見たい方には寺内町めぐりを兼ねての散策がお勧め。
それぞれ町内には博識者がいるので太鼓台談義に花が咲くことも・・・。

宮入お祓い→ 動画4.9㎆ (平成16年7月)
担ぎ比べ  →
 動画3.8㎆ (平成17年7月)

(平成18年からは15分間7町一斉に行うことになりました。)

平成19年の並び順は、DoCoMoショップ前から感田神社前に向けて、
南、西、堀之町、中、大北、近木、中北、の順。

平成18年から、クラッカー・紙ふぶきは禁止となっています。

 >> Point3→ 動画3.2㎆ (平成15年7月)
 灯入れ運行の最後は感田神社前では、府道山手の中町・近木町・堀之町の3町が9時30分頃から、約15分間のお別れ担ぎ比べを行なう。この時だけは、すれ違い運行が行われ壮観である。

 浜手の南町・西町・中北町・大北町の4町も、9時40分頃から中町通り府道浜側で約15分間のお別れ担ぎ比べを行なう。

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