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Part1 井伏鱒二と「荻窪風土記」


はじめに : (著者) 井伏鱒二は”荻窪激変”の昭和を生きた。 (略年譜

       [生涯荻窪] 

   著者・井伏鱒二は、昭和2年(1927) 29歳の時に荻窪へ引越してきた。

以来、平成5年(1993)7月10日に95歳の天寿を全うされるまでの67年間をこの地に住み、
数多くの文人や地元の人々との交流を重ねながら執筆活動を続けた。

「荻窪風土記」は、この地に移って50数年を経た昭和57年(1982:井伏84歳)の刊行である。
<荻窪八丁通り><阿佐ヶ谷将棋会><二・二六事件の頃>等々、雑誌「新潮」に
「豊多摩郡井荻村」と題して昭和56年2月から57年6月まで連載した17編の随筆から成っている。
(「荻窪風土記」は、「豊多摩郡井荻村」を副題としている。)

      [荻窪激変]  

激動の昭和にあって、荻窪は農村から住宅・商業地へと急激に変貌した。
樹木の緑・土の香り・水の流れは、住宅に、アスファルトに、車の流れにとその姿を変えた。

その様を目の当たりにしてきた井伏は、往時の荻窪駅や青梅街道、善福寺川や
自宅界隈の情景を追想し、この地での多くの人々との出会いや親交、
激しく動いた時の流れに思いを馳せて筆を運んだのだろう。

井伏はその<あとがき>で<「荻窪あたりのこと」というつもりで「荻窪風土記」とした。
小説でなくて自伝風の随筆のつもりである。><関東大震災で東京は急に変化して、
太平洋戦争でまた締めあげられるように変った。とにかくそういうことになってしまった。>
と書いている。

[井荻村]  ちなみに、井伏によれば新居の住所は「東京府豊多摩郡井荻村字下井草1810」
(現在の表示では「東京都杉並区清水」の一角)である。
荻窪駅から、教会通りを抜けても青梅街道を歩いても、徒歩約10分である。

また、新居建築中の数ヶ月間を過ごした下宿先 平野屋酒店は、
現在は公生堂ビルがあるあたりだった。



 公生堂ビル(本編では<公正堂ゼロックス店>)。
  荻窪駅北口前の青梅街道四面道方向、北側沿い。
 (1階はJTB、地階はぷりんとや(コピー店)。)

 写真左側の路地を挟んだ隣は、あさひ銀行(H15.3.1から「りそな銀行」)。
 千川上水から分水して青梅街道に沿って流れていた灌漑用水は、
 ここで天沼田圃と阿佐ヶ谷田圃に分岐していた。
この路地は天沼田圃への用水路跡(下は下水道)で、教会通りを横切って
              天沼八幡神社の方に通じている。      (H14年7月撮)

平成19年5月、りそな銀行の建物は建替えのため取り壊しが始まった。
1年後には新しいビルがお目見えするだろう。
平成20年5月、新ビルが完成し、りそな銀行は仮店舗から戻って営業を再開した。

 


(一)  荻窪八丁通り == 歩いてみよう荻窪!!

     ★ 昭和2年、井伏青年が見た情景 ★

       [田畑と雑木林と馬車]

巻頭の本編は、井伏が荻窪へ引越してきた頃(昭和2年(1927))の情景を、
土地の古老が語るその過去を交えて描いている。

「まえがき」に記した参考図書を総合すると、当時の荻窪あたりは、人家は急増していたが
まだ武蔵野の原野が残り、田や畑、雑木林や大きな木立、並木が広がる農村だった。

青梅街道は、現在とは異なり、駅の東側の大踏切で中央線と交差する旧道筋で、
道幅は10m前後、砂利敷道で雨が降るとひどい泥道となった。

道の両側には店が並んでいたが、まだ蹄鉄屋もあった。
野菜や大根漬け、肥桶等を積んだ車を馬が引いていた。

          [田用水]

街道の北側に沿って千川上水分流の水田用水が流れ、そのまた分流や
善福寺川、妙正寺川、あちこちの湧水を水源とするきれいな灌漑用水が
そこここにめぐらされていた。

ただ、その清流は関東大震災(大正12年(1923))を境とした人口増とともに
汚染、変質が急速に進んでいて、街道沿いはドブ川化していたようだ。

井伏は、<いくら贔屓目に見ても気持ちのいい流れとはいえなかった>として、
井戸の水質を心配した訪問客(S2/12:富沢有為男)がいたことを記している。

上水道は昭和7年(1932)に「井荻町営水道」が給水を開始しているが、
それまでは、井戸の使用が普通だったのである。
なお、荻窪地区の電灯は大正10年から一般に普及したが、
電話、ガス、下水道の普及はずっと後のことである。

    [鉄道は整備された] 

この年(昭和2年)に中央線荻窪駅に北口が開設され(それまでは南口だけ)、現在の
西武新宿線も開通(高田馬場〜東村山)し、下井草、井荻、上井草の駅が開設された。
          
また、荻窪駅南口を起終点として新宿までの路面電車(後の都電 杉並線)が
西武軌道会社により大正10年(1921)から運行されていた。
                 
荻窪は膨張を続ける大都市東京の格好の住宅地として、
大震災以降の急激な変貌に拍車がかかった時期であった。

   ★ ぶらぶら歩き まず30分余  ★


荻窪あたりの略図     :  (  )は、現存しない。 : H14/8


荻窪駅北口 → 青梅街道 旧道筋(=荻窪銀座街) → 大踏切跡 → 
地下道で南口へ → (プラスα) → 天沼陸橋 → 天沼八幡通り → 八幡神社 
→ 弁天池跡 → 天沼教会(東京衛生病院) → 教会通り → 荻窪駅北口
(所要時間 : 約2km 徒歩30分〜1時間+(プラスα))

(プラスα) 「明治天皇荻窪御小休所」跡 と 区立大田黒公園

地下道南口を出て、旧青梅街道筋を歩くと、直ぐ右にアメリカンエキスプレス社の
近代的高層ビル(=藤沢ビル)がある。そのビルの一角に(裏側の通りに面して)
古い長屋門と木立に囲まれた日本家屋が残され、「明治天皇荻窪御小休所」
(昭和11年11月建設)と彫られた史跡標石が立っている。

「史跡の指定は戦後に解除となったが、関係の方々の強い意向で標石は
そのままで建物の保全に努められている」(『杉並風土記 上巻』)とのことである。

南口のさらに南方向約500m(徒歩10分弱)の所(荻窪3-33-2)に
昭和56(1981)年10月に開園した杉並区立大田黒公園がある。(入園無料)
音楽評論家、大田黒元雄氏(1893〜1979)の遺志により寄付された屋敷跡を
整備した約2,700坪のこじんまりした閑静な日本庭園風公園である。

リンク情報 大田黒公園のご紹介(写真) 杉並区立大田黒公園

区の講演会で、井伏がこの公園の案内役となって散歩するビデオが放映された。
井伏宅からは徒歩で20分程度であり、時には散策に足を運んだようである。

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もっと時間のある方は、 四面道光明院荻窪八幡神社観泉寺善福寺川、等に
足を伸ばしてみては如何でしょうか。それぞれ荻窪風土記の舞台です。

リンク情報 文学者の息吹を感じる街のご紹介 杉並・中野文学散歩


@@@ 雑記帳 @@@

     (1)「八丁通り」は何処?・・・・・井伏の思い違い

井伏自身が後出の<平野屋酒店>の中で
<荻窪で昔から賑やかだったところは、四面道から西にかけて有馬屋敷、八幡神社
あたりまでの謂わゆる八丁通りであるそうだ。以前、私は八丁通りとは四面道から
荻窪駅あたりまでの街だと思っていた。>と記しているように、
標題の「八丁通り」は実際とは異なる荻窪駅前あたりを指している。

この通りには昭和22年(1947)に現在の天沼橋(通称 天沼陸橋)」の西袂から
荻窪駅前を経て四面道までの範囲で「荻窪北口大通り商店会」が発足しており、
「北口大通り」がわかりやすいと思う。

なお、その後「荻窪北口大通り商店会」は駅前を境として陸橋側と四面道側に分かれ、
四面道側は現在は「荻窪北口大通り商店街(振興組合)」となっている。



    
(2)「中央線・荻窪駅・青梅街道・路面電車」 

  [中央線・荻窪駅] 住民の反対で、人の少ない原野に真っ直ぐに敷設せざるを得なかった。

       開 通

JR中央線の前身は、明治22年(1889)4月に開通した新宿〜立川
(同年8月には八王子まで)間の甲武鉄道会社線で、
明治39年(1906)に国有化され「中央線」となった。

(中央線や山手線の総称は、「省線電車」(鉄道省) ⇒ 「国電」(S24:国鉄発足)
⇒ 「JR」(S62:分割民営化でJR7社発足)と変った。民営化の際、JR東日本では
公募で「国電」を「E電」と改めて一時期使用したが定着せず「JR」が一般化した。)

     一直線!

『新天沼・杉五物がたり』によれば、「この線は当初は甲州街道沿いに敷設する計画だったが
沿道住民の猛反対で断念し、次いで青梅街道沿いの二次案が検討されたが
これも田無宿の住民の反対で測量すらできなかった。そこでやむなく、住民の少ない
武蔵野台地の原野に一直線に敷設する第三案が現路線として実現した」のである。
        
現在、東中野から立川あたりまでがほぼ直線なのはそうした事情があったことによる。

開通時の駅は、内藤新宿・中野・境・国分寺・立川の五駅である。
「内藤新宿」は現在の新宿で場所もほとんど同じである。「境」は武蔵境。

      荻窪駅開設!

その後、八王子、日野、大久保が開設され、次いで明治24年(1891)に荻窪駅が開設されたが、
この時は南口だけで、北口の設置(南北跨線橋方式)は昭和2年(1927)の春のことである。
井伏は、丁度この北口設置の頃に、この地に住むことを決めたのである。

ちなみに、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の開設は大正11年(1922)である。

荻窪駅は、昭和37年(1962)に地下鉄丸の内線の起終点となって、翌年には現在の地下改札口
方式による南北口が完成した。西口改札口の開設ははっきりしないが、
昭和35年(1960)に西口に歩行者用の南北渡線橋が設置されたのでその後ということになる。

      
      [青梅街道・路面電車]
   天沼陸橋の完成で青梅街道の道筋が変った。

      新・旧の道筋は・・・

昭和2年当時の荻窪近辺の青梅街道は、
道幅10m前後の砂利敷道で、西側(四面道方面)から来ると、現在の北口交番右脇から
「荻窪銀座街」を通って駅の東側(新宿寄り)にあった大踏切で線路を渡り、直ぐに左折して
線路沿いに進んで現在の青梅街道に合流する道筋で、東側(新宿方面)から来ると、
天沼陸橋手前にある二股道の左側の道である。(右側が天沼陸橋を渡る現在の青梅街道)

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四面道方向から見た荻窪北口駅前(H14/7撮)      :  新宿方向から見た天沼陸橋手前(H15/11撮)  
  

(写真左) 左側の通りが四面道側から見た荻窪駅前の青梅街道、
右側の細い道が、駅北口バス広場を横切る旧道筋。
間にある白い壁の小さな建物は荻窪駅北口交番。
(この交番は、平成16年末に薄紫色の現代風建物に建て替えられた。)

左端奥の大きなビルは、コンパックコンピュータ社。
(現在は、合併(H14/11)により日本ヒューレットパッカード株式会社)
中央奥の大きなビルは、アメリカンエキスプレス社(藤沢ビル)で
一角に「明治天皇荻窪御小休所」跡がある。
 

(写真右) 右側の通りが新宿側から見た天沼陸橋手前の青梅街道、
左側の細い道が荻窪駅南口に通じる旧道筋。

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     爆 撃 ・・・          

高円寺〜荻窪間の舗装、拡幅(25m)化と中央線を陸橋で跨ぐ道路の工事は、
昭和9年(1934)頃着手され、10年後に完了したが駅周辺と、
昭和17年(1942)に本格化した陸橋工事は未完成だった。

そして、完成を目前にした陸橋は昭和19年(1944)12月3日の爆撃で破壊され、
戦後、昭和23年(1948)からの復旧工事で翌年には一応車馬の通行ができる程度と
なったが、青梅街道が名実ともに幹線道路として現在の姿を整えたのは、
「天沼橋(通称天沼陸橋)」として、幅25m、長さ42.4mの現在の陸橋が完成した
昭和30年(1955)である。

     踏切閉鎖・・・

大踏切はその後も存続したが、昭和41年(1966)の中央線高架化複々線運転
(地下鉄東西線も乗り入れ)開始で閉鎖され、代わりにその場所に
歩行者と自転車のための南北連絡地下道が作られた。

     荻窪駅は地上のままに・・・

中野〜三鷹間は高架線となったが、間にある荻窪は旧来の地上のままとなった。
当時(昭和37年頃)高架化を希望する荻窪側と国鉄との交渉が不調だったことによる。
(交渉の席上で荻窪側の一人が漏らした一言で高架化が実現しなかったとのこと、
その模様が『新天沼・杉五物がたり』に記されている。)

     特異な都電・・・  最初の廃止路線・・・

大正10年(1921)に、西武軌道会社は青梅街道の荻窪〜淀橋(成子坂)間に
路面電車を開業した。荻窪の起終点は駅の南口で、
旧道筋の大踏切の新宿寄りのところにあった。
(現在の南北連絡地下道出入口の新宿寄りあたり)

後に「都電 杉並線」となり(昭和26年(1951)に東京都が買収)、
天沼陸橋完成で起終点を北口(現在のOlympic前あたり)に移した。
Olympicの入っているビルは現在工事中で、Olympicはなくなった。(H19/4)

都のドル箱路線として大活躍していたが、交通渋滞や地下鉄丸の内線開通で
その役割を終え、昭和38年(1963)に都電最初の廃止路線となってその姿を消した。

この「都電 杉並線」は、ファンには特異な線として注目されていた。
レールの幅が1,067mm(=JR在来線)で、他路線(1,372mm)と
異なっていただけでなく、都電になる前まではオープンデッキの木造車が
トロリーを2本立てて走っていたし、鍋屋横丁以西は単線区間であったことによる。
( 『東京都電の時代』 吉川文夫著(H9)より)


  
   (3)「天沼八幡神社と弁天池」
    弁天池は消えた! 弁天様は?

     田圃のまっただ中!

天沼陸橋の西袂にある賑やかな八幡通り商店街を抜けた突き当りに
天沼八幡神社がある。(天沼2-18-5)

井伏は<天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池のまわりを歩きまわった。>
と記しているが、大正13年(1924)頃の写真(『新天沼・杉五物がたり』)
を見ると、神社の杜の周囲には人家はなく田圃ばかりで、
その中を鳥居に向かって幅2m位の道が1本真っ直ぐに伸びている。
農道兼参道だったのだろう。これが現在の八幡通りだろうが、
井伏がここを初めて歩いて目にしたのは、まさにこの情景だったに違いない。 

神社はこの地域の鎮守様で、創建は天正年間(戦国期)と伝えられる。
約800坪(約45m×60m)のこじんまりした境内だが、「杉並区保護樹木」の
プレートを付けた欅・松・樫の大木が聳える中に、弁天様や、大鳥神社の末社などが
合祀されていて鎮守の杜らしい雰囲気がある。

     お地蔵様は消えた!

昭和2年頃のこのあたりの様子について、本編に次の一節がある。

<その頃この辺には石地蔵が幾つか道端に立っていたが、
2年3年たつうちに、あらかた無くなった。
時のたつのが早すぎるような気持がする。
事実、早すぎたがために、川や井戸さえも目まぐるしく変って行った。
私がここに来てまだ1年2年たった頃は、裏の千川用水の土手に、
夏の夜は虫蛍が光っていた。春はガマ蛙が土手に群がっていた。>

今度は写真を撮ろうと思っていたら、その時にはもう消えていて撮れなかったという。
まさに変貌のさ中であった。 

     池が消えた!

<鳥居のわきの弁天池>と言うのは、天沼弁天池のことだろう。
神社の鳥居から西北方向約120mに天沼弁天池があり、弁天様が祀られていた。

『杉並風土記 中巻』によれば、500坪余の地に湧き水を水源とする約300坪の池があり、
この湧き水は昭和30年(1955)頃まではコンコンと湧き出ていたが、
その後涸れてしまった、とのことである。

現在、その地(天沼3-23)はぐるりと高い塀に囲まれていて
中に大きな建物があり木々がうっそうと繁っている。
その塀の南側の一角に一坪ほどの凹んだスペースが設けられていて、
そこに大谷石の台座があり、その上に小さな社殿が置かれている。

最新の地図に「天沼弁天」とあるので弁天様が祀られているのだろう。

『杉並風土記 中巻』によれば、そこには
「この土地は1月に売買登記した故に八幡神社とは関係がない。
弁天様への参拝は合祀されている八幡神社にして下さい。」
旨の立札が掲げられていた(写真掲載あり)が立札は今はない。
(注:「1月」とは、昭和50年に当地を八幡神社が西武鉄道に売却したとのこと、
昭和50年か51年だろう)。今では、弁天池がここにあったことを知る人も少ない。

”祠”(H14年7月撮) と 弁天池のあった所(塀の左端に祠がある:H14年9月撮)
   
                
今年(平成14年)の春(5〜6月頃)には、この台座の上には何もなかった。
今回、写真を撮りに行ったら社殿があった。
台座の石も、屋根なども新しいので、この時期、修復されたのでしょうか。
『杉並風土記 中巻』の写真に見える大きな鳥居(らしい)もありませんし、
以前とは様子が異なるようです。でも、一寸、ホッとした気持ちです。

平成18年秋、この土地は杉並区が入手し、翌19年4月「天沼弁天池公園」に変わった。
弁天様の祠はそのままだが、上の写真にある塀や木々の姿はない。
公園内には、区立郷土博物館の分館が設けられ、界隈の往時の様子を示す絵図
写真が展示されている(6/17まで)。以降、諸企画が準備されているという。
当時の姿、形とは異なるが池も造られ、区民の新しい憩いの場になった。(H19/4 記)


上の写真とほぼ同じアングルで撮影.(H19年4月撮)
    

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     川も消えた!

この弁天池は、灌漑用水として利用されていた桃園川の水源の一つで、
流域の農民に大切にされ、大正の半ば頃までは日照りのときは
弁天様に雨乞い祈願も行われていたとのことである。

その桃園川も、現在は遊歩道(下は下水道)と化すなどして川としては存在しない。
荻窪あたりには、天沼や清水という地名が物語るようにあちこちに
湧水池があったが、現在残っているものは皆無だろう。

ちなみに、妙正寺川が発する妙正寺池(清水3丁目)の水源も湧水だったが、
現在は近くに掘った井戸の地下水をポンプで汲み上げている。
善福寺川が発する善福寺池の水源も同様にポンプ揚水となっている。 

このあたりには、レンガ様舗装の遊歩道や地図にない細い路地があちこちにあるが、
その多くはかっての川や用水で、下は下水道となっている。

      美人横丁は・・・

本編に<美人横丁へ行く>との記述がある。
後出の<阿佐ヶ谷将棋会>の編で説明があるが、この横丁とは八幡通りのこと。
どこまで一般に言われていたか分からない(『新天沼・杉五物がたり』)が、
昭和10年代にこのように言った人もいたのだろう。今は聞くことがない。

 

   (4)「天沼教会と教会通り(弁天通り)」  教会通り、昔の名前は弁天通り

      井伏がいつも通った道・・・

弁天池跡から西方向約200mに東京衛生病院と天沼教会(天沼3−17)がある。
荻窪駅北口前の歩道橋を下りたところが教会通りの入り口で、
そこから道なりに300m位の所である。
前記の弁天池跡の台座(社殿)のある道は病院の角で教会通りと繋がっている。

『新天沼・杉五物がたり』によれば、教会通りは、少なくとも終戦までは弁天様(池)に因んで
一般的に「弁天通り」といわれていたが、昭和30年(1955)に発足した新しい商店会名は
「荻窪教会通り新栄会」で、現在では「弁天通り」という名は消えた。

「教会通り」入口==左側角は「みずほ銀行(荻窪駅前支店)」(旧第一勧銀)。
                               
本編には、「長野屋という一膳飯屋の裏口がこの支店正面出入口あたりだった。
その筋向こうにある蹄鉄屋に来た馬子たちが訪れていた。
昭和4〜5年に出た焼鳥の屋台店は行員の出入口あたりと思う」(要約)
と記されている。

その後の青梅街道の拡幅は、北側だけを10m以上広げたので
正確な位置が分かりにくくなって、「あたり」という表現になっているのだろう。

なお、この向かって左隣のビルも「みずほ銀行(荻窪支店)」(旧富士銀行)。
平成14年4月の銀行合併で、同一銀行の2支店が並ぶという珍しい光景となった。
(日本興業銀行を含め、三行の合併)
合併に伴うシステム障害での大混乱はまだ記憶に新しい。 (H14年7月撮)
 
(平成16年1月13日、荻窪支店は角の荻窪駅前支店ビル内に移り、左のビルから「みずほ銀行」の看板が外れた。
そして同年4月3日、「洋服の青山」 が開店した。富士銀行から紳士服量販店へ・・・時代を象徴する流れである。)

      カラタチの生垣、煉瓦造りの洋館・・・

キリスト新教セブンスデー・アドベンチスト教団が約3,000坪の土地を購入して
そこに建設した杉並区最初の煉瓦造り2階建ての洋館が大正4年(1915)にできた。

教団本部、教会、印刷所があり、多数の外国人牧師が居住し、この地区で初めて
電灯がついて住民を驚かせた。(荻窪あたりでの電灯普及はこの6〜7年後のこと)
これが現在の天沼教会である。

さらに、昭和4年(1929)に教団が敷地内に開設した医療施設が
現在の東京衛生病院に発展した。

本編に<教会のカラタチの生垣>とあるが、今はカラタチの生垣も煉瓦造りの洋館もない。

(注)『新天沼・杉五物がたり』によれば、「大正3年にこの土地は囲いで仕切られ」
また「電灯は自家発電装置によるもの」である。
『杉並区史探訪』に、井荻村に初めて電灯がついたのは大正10年10月とある。

  

(写真、同じ敷地内にある教会と病院(右の建物)。手前は駐車場。(H14年8月撮))

H16/7 この駐車場の部分はぐるりと工事用の高い塀で囲まれ、写真の風景ではなくなった。
創立75周年記念事業で、来年(H17)には新しい病院の建物がお目見えする計画とか。

平成17年5月、東京衛生病院付属「教会通りクリニック」が完成、開業した。
4階建ての明るいビルだが、教会も十字架もその陰に隠れてしまった。
教会の正面は、もうこの写真のように遠くから一望することはできない。

(写真、左奥のやや茶色がかった白い建物が教会。駐車場いっぱいに新病院が建った。)

リンク情報 鐘の鳴る街:昔の名前は弁天通り 教会通り
昭和4年、キリスト教団が開設 東京衛生病院


   (5)四面道 ・ 荻窪八幡神社 ・ 大場通り

     四面道はシメントウ? == 諸説

現在では、青梅街道と環八通りとが交差する所が「四面道(シメンドウ)」で、
交差点とバス停の名であるが、
昭和4年発行の地図ではもう少し広い範囲の地名(天沼の中の小字名)となっている。
その地名の由来については、『杉並歴史探訪』によれば3説あり、要約すると次の通り。

(1)この交差点のところは、天沼、下井草、上・下荻窪4ケ村の接点で、そこにあった
秋葉神社(秋葉堂と呼ばれた)の常夜燈が、4ケ村を照らしていたので
「四面燈」と呼ばれたことに由来する。発音は「シメントウ」である。
(2)四っ辻の秋葉堂が四方に面していたから「四面堂」となった。
(3)四辻で道が四面に通じていたから「四面道」となった。
(結論) 資料不足でいずれの説が正しいかは不明。

地元の古老は、「シメントウ」と濁らずに発音していたとのことで、
本編では(1)説が紹介され、四面道には全編「しめんと」のふりがながある。

      
     常夜燈はどこに? == 荻窪八幡神社

現在の四面道交差点の中央南側にあったという常夜燈は高さ2mくらいの石造で、
「嘉永7年」と彫られている。1854年なので江戸末期の建立である。

昭和44年(1969)に、環八通り拡張(その後立体交差化)のため秋葉堂と常夜燈は
荻窪八幡神社(上荻4丁目:本編では<上荻八幡神社>とある)の境内に移された。

秋葉神社は「数百年の永きに渡って四面道に鎮座していた」と移転事情を
記した小石碑にあり、この常夜燈よりずっと古い歴史がある。

なお、四面道交差点から西へ約1kmの荻窪八幡神社の先あたりまでが
本編標題の実際の「八丁通り」である。

 

(荻窪八幡へ遷座の常夜燈(左)と秋葉神社祠(右):H15年9月撮)

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     大場通りは? == 天沼本通り ・ 日大(二高)通り

本編にいう「大場通り」のところは、現在は、地図には「天沼本通り」とあるが、
実際には「日大通り」とか「二高通り」、「税務署通り」という方が普通のようだ。

<太い幹のクヌギ並木のある広い道>と記されているが、今は街路樹はない。
四面道交差点と五叉路のように交わるバス道路で、複雑な信号に悩まされる。

なお、四面道側から順に、街路灯には「天沼新生会」「天沼協和会」の表示があり、
「天沼本通り」の表示はない。荻窪税務署があってその先が日大二高で
「日大二高通り商店会」の表示となり、「日大通り」という交差点(信号)に達する。

                                         (H14/8UP)


このページの先頭 (二)関東大震災直後 = 80年以上が過ぎた!!

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