Part2 井伏鱒二と”阿佐ヶ谷将棋会”
| HOME (総目次) |
安成二郎 : 年齢・将棋の技量とも別格 ![]()
(やすなり じろう) : 明19(1886).9.19〜昭49(1974).4.30 享年87歳
安成二郎は会員最年長で、中村によれば”年齢的にも技倆的にも別格の存在”だったという。
戸籍上は”M21年生”だが、本人は”M19.9.19生”と明記している。井伏より12歳年長である。
兄(安成貞雄:文筆家)の影響を受け、大正初期から雑誌社や新聞社の記者・編集者
を勤めながら、土岐善麿の「生活と芸術」などに生活派の短歌を発表している。
歌集や小説集などのほか、晩年には、厚誼を受けた大先輩や友人、後輩の逸話、
交友関係など、往時に記した90余編の人物記を集めた『花万朶』(S47)を刊行した。
安成は大正15年に阿佐ヶ谷に新居を建てて移ったので、界隈では井伏よりも少しだけ先輩と
いうことになる。昭和5年暮には阿佐ヶ谷駅前で偶然会ってバアに誘われて飲んだことや、
将棋をしているが自分の方が強いこと、などを書いている(「人生の二次会の井伏鱒二君」
(S6/2))ので、”将棋会第1期”の早い時期からの親交があったことは確かである。
-------------------------------------------------------
安成二郎著作(人物記)集 『花万朶』(はなばんだ:S47)
収められた90余編には、大正初期から昭和40年代にわたり、著者がジャーナリスト・作家・歌人として接した
多くの文人の素顔、交遊振りが記されていて興味深く、楽しく読める。 露伴、秋声、藤村、雪嶺、如是閑、という
5人の大家については独立した項目が設けられており、例えば、露伴と菊池寛という腕達者同士の
将棋対局を企画したが菊池寛に断られて実現しなかった(S9)という裏話の紹介がある。
井伏のほか、上林、太宰の項もあり、阿佐ヶ谷(将棋)会のことに触れている部分もある。
井伏は、「人生にも二次会があるといいですね。」と言ったという。 「しかし私の見るところによれば、
井伏君などは、生まれながらにして人生の二次会に出席している人であろう。」と結んでいる。(S6:上記)
巻末には、簡略ではあるが本人が書いた”著者略伝”を載せている。
荒畑寒村が本書の序文に、著者の本領は歌人であるとして、次の二首(歌集「貧乏と恋と」(T5)所収)
・豊葦原瑞穂の国に生まれきて/米が食えぬとは/ウソのよな話
・言魂の幸わう国に生まれきて/ものが言えぬとは/ウソのよな話
を掲げて、”ユーモラスで、しかも時代に対する皮肉で痛烈な風刺批評を含み、後世に伝えらるべき
名歌である” と評し、作歌ばかりでなく散文にも優れ、名文家であると紹介している。
( 二首目の”言魂”(ことだま)は、原典は”言霊”である。)
-------------------------------------------------------
安成が阿佐ヶ谷に新居を構えたのは40歳の時(T15)だが、ここで、安成の生い立ちなどを
振り返る。安成の文学と人生の原点だが、兄貞雄の存在とその人脈が基盤になっている。
伊多波英夫著 『安成貞雄を祖先とす − ドキュメント・安成家の兄妹』(H17) がある。
著者は秋田県大館市の方で、郷土の、そして母校の大館中学の大先輩安成貞雄の生き方に
関心を持ち、以来40年にわたる資料収集を経て本書を刊行した。その過程で貞雄の弟妹4人に
ついて看過できなくなりその章が設けられたが、特に貞雄と二郎に関しては豊富な資料に基づく
極めて詳細、緻密な内容である。 本項は、主に本書の記述、巻末の4兄妹の略年譜に拠った。
父は元長州藩士
父(安成正治)は長州藩(山口県)の藩士で2歳年下の乃木希典(日露戦争時の陸軍大将)と
親交があった。明治維新で上京(M8)し機械工となり、次いで秋田県にある官営阿仁銅山に
赴任(M15)した。そこで地元の大工の長女(きみ)と結婚し、長男貞雄(M18)が生まれた。
その後、勤務地の関係で何回か転居するが、次男二郎(M19)、三男三郎(M21)、
長女くら(M27)、四男四郎(M33)の4男1女をもうけた。いずれも秋田県生まれである。
秋田県立大館中学校
貞雄、二郎は、阿仁合尋常高等小学校、向能代尋常小学校、淳城尋常高等小学校、に
通い、秋田県立大館中学校、(旧県立第二中学校、現大館鳳鳴高等学校)に進学した。
貞雄は卒業して早稲田大学英文科(予科)へ進学(M37)するが、二郎は中学3年時に
中退(M35)し父の当時の勤務先古河精錬所に日給25銭で勤めた。中退の理由について
本人は”神経を病み学校がいやになった”とか”貧しい父が気の毒になり”と書いている。
貞雄も二郎も、この中学時代から俳句を始めている。地元の句誌<俳星>に投句、貞雄は
校内に俳句の会「星秋会」を結成し、二郎も加わった。学業成績は兄弟とも優秀だった。
三郎も進学(M35)し優等生だった記録があるが家族全員で上京のため中退(M38)した。
父の死で家族上京
父は明治37年、怪我が原因の病で57歳で没した。二郎は翌年(M38)春、一人上京し早大
在学中の貞雄の下宿に同居した。 同年秋には一家が上京し、母子6人での生活となった。
この頃(M38〜39)の貞雄は、思想関係団体である早稲田社会学会に加入し社会主義の
洗礼を受け、白柳秀湖、宮田脩、暢兄弟らと<火鞭>創刊に参加、また同級生の土岐善麿、
若山牧水らと回覧雑誌<北斗>を始めた。荒畑寒村との出会いがあり親交を深めていた。
二郎は貞雄の友人、知人と接して社会主義思想に親しみ、平民社に行ったり、ビラをまいたり
したが、間もなく宮田暢の世話で内田魯庵のもとで筆耕の仕事に就いた。その後、出版社、
新聞社、雑誌社などに勤め、自らも短歌、俳句、随筆、小説などを発表するようになるが、
貞雄や友人らの援けが背景にあり、二郎の文筆人生の原点がここにあるといってよかろう。
なお、貞雄は大正13年に脳出血で急逝した(享年39歳)。 今は知る人も少ないが当時は
超個性的ジャーナリストとして異彩を放っていたようだ。『日本文学大事典(紅野敏郎)』には
「酒、貧乏、浪吟(ヨタリング)の生活を送る。一種の無頼漢で、髯の男としても著名。」とある。
「文壇与太話」(T5)の著書があり、没後、弟妹で編んだ「遺稿集」(T13)がある。
歌集「貧乏と恋と」刊行
二郎の処女出版は大正3年の警句集「女と悪魔」で、内田魯庵、宮田脩、徳田秋声、大杉栄
の序文と貞雄の跋文がある。二郎にとっては大恩ある先輩といってよい名前が並んでいる。
この年には「ナポレオン警句集」も出版したが、二郎の代表作といわれる歌集「貧乏と恋と」は
大正5年の出版である。 貧乏が主題の生活派的な歌110首など271首が収められている。
この歌集には著名な22名の文人による序文、跋文が載って話題になった。内田魯庵、
宮田脩、大杉栄、薄田泣菫、与謝野晶子、堺利彦、等々である。ここから安成兄弟の、
歌人というよりはジャーナリストとしての特殊な幅広の才覚が読み取れるように思う。
なお、前記した最も有名な歌「豊葦原瑞穂の国に生まれきて/米が食えぬとは/ウソのよな話」
の初出は、大杉栄と荒畑寒村が創刊(T1/10)し、貞雄も関わった<近代思想>(T2/9)である。
生まれ故郷の阿仁には、この歌の碑が建てられ荒畑寒村による撰文が彫られている(S45)。
雑誌社、新聞社、勤務 ・ 著作活動
二郎は明治45年(26歳)に結婚し、長男(T2〜S48)、長女(T3〜T7)、二女(T4〜H5)、
二男(T6〜H2)が生まれた。妻帯しなかった兄貞雄は自由奔放、気ままに生きることが
できたといえるが、二郎には家族のため不本意な仕事にも耐えるという意味の歌がある。
結婚当時は<楽天パック>の楽天社で編集に従事したが、間もなく廃刊で売文生活となり、
家計は苦しかったようで、貧乏の辛さを多く歌っている。「実業の世界」社に入社(T3)し、
(この時は貞雄、三郎の3兄弟が在職)三宅雪嶺担当記者や同社出版誌の編集長に
就くなど、大正8年初めの頃までここで活躍した。この間に、先の「貧乏と恋と」を
同社から刊行したほか、同社の出版誌に歌、評論、随筆、短編小説を発表するなど
自らの執筆も活発だった。歌文集「恋の絵巻」も刊行した(T8/4:日本評論社)。
正確な退職時期、理由は不祥だが、その後、東京毎日新聞の記者(T8/7)、読売新聞入社
(T8/7〜?)婦人部長などで活躍、大阪毎日新聞嘱託(T15?〜S4)となり、新聞、雑誌への
投稿も続けながら、ファブルの翻訳「家畜の歴史」、短編小説集「子を打つ」(T14)を刊行した。
このころには経済的には安定したといえようが、家庭的には思わぬ不幸に襲われた。
長女が4歳を前に病没、さらに長男は高熱を発して脳に障害が残ったのである。
長男はこの当時開校した日大二中(阿佐ヶ谷に接する天沼)に縁あって入学した。
二郎の阿佐ヶ谷への転居(T15)はこのことが関係していたのかもしれない。
安成二郎の”貧乏”
二郎は自分の貧乏を題材にした生活派の歌人として名を知られたが、安成家あるいは二郎自身
が二郎の歌ほどに極貧生活だったとは考え難い。また、上京して貞雄の影響で社会主義思想に
馴染み、社会主義活動者との親交を深めたが、自身がそこにのめり込んだ風はない。
推測による私見だが、秋田の生活は鉱山という場所柄から貧しいというイメージになるが、
父存命中の収入は少なくはなかったはずで、 貧乏ではなかったから子供たちが中学へ
進学できたと考えてよかろう。当時は成績優秀だけでは進学は無理だったはずである。
(荒畑寒村は「父の死にあって中退」と書いた(歌碑)が実際はその前年に中退している。)
父が職を失い東京生活を余儀なくされた一時期(M17頃)と没後は収入が無くて苦しかった
に違いないが、それなりの蓄えがあったはずだし、周囲の援助も皆無ではなかっただろう。
家族上京後、くらは成女女学校を卒業(M44)、四郎は暁星中学に入学(T2)している。
極貧生活ではとても考えられないことだろう。
二郎の歌には生活派的作風が多く、また名歌との評を得ているのでこれが目立つが、
例えば第一歌集「貧乏と恋と」所収歌の半数以上は青春の哀歓を歌っているもので、
生活派というイメージだけが一人歩きしている感がある。木山捷平の場合もそうだが、
自分が生み出した”貧乏”という看板に後々悩むことがあったのではないだろうか。
大正デモクラシーを背景に社会主義活動が活発化する中にあって、二郎は社会主義思想に
馴染み、権力に追従することなく多くの社会主義者との親交を保ったが、運動自体には
距離をおき、あくまでもジャーナリストの目で時勢を見つめて昭和を迎えたと推察する。
------------------------------------------
そこで阿佐ヶ谷将棋会
安成と将棋
安成が将棋を覚え腕を上げた過程はハッキリしないが、無類の将棋好きで、それなりに
強かったことは確かである。将棋が関係する随筆、随想は多数あり、短編小説「失業した神様」
(S5/1)、「きりぎりす」(S5/2)の主人公は将棋に没頭して貧血で倒れて頭に怪我をするが、
自分自身をモデルに書いていることは確かである。
「花万朶」の最初の項は「幸田露伴博士」で、大正6年の訪問時から露伴没までの交際の様子が
執筆時順に収められている。将棋の相手をしたこと、木村義雄(後の名人)を紹介したことなどが
題材になっている。露伴が将棋好きで強かったことは有名だが、”専門家に近い四段”とされ、
木村とは角落ちで対局したという。安成は露伴に飛角落ちの対局で”二段”ということのようだ。
戦後、文壇将棋会で優勝して”三段”になったが、昨今のレベルとの比較は難しいだろう。
安成と井伏
安成は”将棋会”の最も早い時期からの会員だが、きっかけは井伏との出会いだろう。
安成が遺した「阿佐ヶ谷帖」(訪問者が色紙に名前、詩歌、画、短文など適宜記入)に
井伏も記帳しているが(S5.1.19)、色紙1枚にツエッペリン号とマント姿の自画像を描き、
讃を添えて年月日、署名という内容からしてこの時が初対面とは思えない。
むしろ、井伏が荻窪へ転居して(S2)早々に知り合ったと考えておかしくない。
井伏はまだ「鯉」<三田文学>で文壇デビュー(S3)する前の無名の29歳、荻窪転居を機に
界隈の先輩、文筆界では既に名のある存在の安成(41歳)を表敬訪問していたと考えたい。
将棋好きの二人のこと、その時から当然に将棋を指したはずである。
井伏は「”将棋会”の発足は昭和4年頃、阿佐ヶ谷の会所で・・」というだけでメンバーには
触れていないが、おそらく安成二郎はその一人だっただろう。他には田畑、小田で、
飲む方には青柳、蔵原も加わっただろうか。”安成を囲む会”のような雰囲気かと察せられる。
安成の”将棋会 第2期”
安成は大阪毎日新聞(嘱託:東京在勤)を辞めて(S4)、悠々の文人生活後に平凡社に入り
(S6)大百科事典の編集に携わった。いつまで在職したかは不明だが、昭和8年に安成は
”高麗神社”の修築造営に奔走している。10年後の昭和18年12月に”阿佐ヶ谷将棋会”
最後の会(第3期)が高麗神社参拝という形で開催できたのはこの関係からである。
安成は「花万朶-将棋をしながら井伏鱒二君と語る(S11/4/7)」で井伏宅訪問を書いている。
木山の日記に安成の名前が見えるのは昭和13年3月3日、記録がある最初の会からである。
つまり、第1期、第2期には木山は安成との面識がなかったか、あっても浅かったのだろう。
木山に限らず、井伏以外の面々はこの時期、安成との往き来はほとんどなかったと推察する。
中村が「安成は別格」と書いたのもこの辺の事情によるものだろう。
”将棋会第2期 成長期(S8頃〜S13頃)”の国内情勢は、ファシズムが浸透し、プロレタリア
文学は壊滅に追い込まれた。貧乏を歌い生活派を標榜した安成の心は複雑だったろう。
この時期の安成は定職には就いていない。文壇人との交遊や一人旅など、気ままな時間を
多くとっている。阿佐ヶ谷の家を出て代々木駅や目黒駅近くで一人暮らしをしたのもこの頃
である。妻が長男を連れて家族と分れて住んだ時期があるとのこと、この時期なのだろうか。
文筆家、家庭人としての心の苦悩を如何ともなし難い日々だったのではないだろうか。
------------------------------------------
将棋会は第3期 盛会期(S13頃〜S18頃)に入るが、安成の会への出席回数は多い。
上林によれば、昭和14年の将棋会では、寄せ書きに次の歌を残している。
「歌よみて将棋をさして居らるべき/世とは思はねど/これぞ楽しき」
安成の面目躍如といえようか。 (Part2 「浜野修」の項)
安成は、昭和17年には約半年間、満州、朝鮮に出かけ、帰ってから暫くは父の郷里
山口県に滞在して帰京した。天沼に転入(S20)して没年(S49)まで住んだ。
(註)安成の経歴は、伊多波英夫著「安成貞雄を祖先とす」を参考にしたが不祥のことが多い。
・ 読売新聞の退社時期は不明、大阪毎日新聞jに入った時期(T13年)は、
同書の略年譜によるが、本文の記述には”T15かも・・”とある。
・ 居所については本人が「花万朶」に「大正15年に阿佐ヶ谷に移った」と書き、
昭和2年の新築祝いの写真などが残っているのでこれは確かである。
杉並区立中央図書館発行の「阿佐ヶ谷文士村」には
「S2〜S11 阿佐ヶ谷」、「S20〜S49 天沼3丁目」とあるが、
これは役所への届出上で、この間(S11〜S20)も、実際には”将棋会”への
参加状況などから阿佐ヶ谷界隈が活動の本拠だったと考えてよかろう。
将棋の腕前は会員中最高位と目され、会の対外試合では大将格で出場している。
世に出る前の若い文士たちとは一味違った立場での付き合いだったと推察する。
戦後第1回(S23/2)の会まで出席しているが、その後は出席の記録が見当たらない。
( 「安成二郎 : 年齢・将棋の技量とも別格」 の項 改訂UP H19/6 )
「安成二郎」 の項 主な参考図書 『花万朶』 (安成二郎著 S47/12 同成社) |
| HOME (総目次) |
| 第1期からの 会 員 |
井伏鱒二 | 青柳瑞穂 | 田畑修一郎 | 小田嶽夫 | 中村地平 |
| 太宰 治 | 木山捷平 | 外村 繁 | 安成二郎 | (蔵原伸二郎) |
| 第2期からの 会 員 |
古谷綱武 | 秋沢三郎 | 浅見 淵 | 亀井勝一郎 |
| 上林 暁 | 浜野 修 | 村上菊一郎 | - |