| HOME (総目次) |
会員模様 : 第1期 出発期 (S3頃〜S8頃)
外村 繁 : 家業を弟に譲って文学復帰 ![]()
(とのむら しげる) : 明35(1902).12.23〜昭36(1961).7.28 享年58歳
外村繁については、「荻窪風土記」に「外村繁のこと」という一編があり、既にPart1で
「外村繁のこと == 豪商(近江商人)から文士に!!」 に記した通りである。
復帰までを略記すると・・・
三高ー東大で同期の梶井基次郎、中谷孝雄らと親しくして文学の道を志し、
東大時代には同人誌<青空>を創刊する(T14)など積極的に活動していたが、
卒業した年(S2)の11月に父が急逝したため家業(呉服木綿問屋)を継がざるを得なくなり、
商売の道に励んだが、結局、昭和8年2月に家業を弟に譲り、文学の世界に復帰した。
同時期に住まいを阿佐ヶ谷へ移したのは、心機一転の決意の現れだろうが、
界隈には既に多くの文学青年仲間が集まっていたことが影響しているだろう。
田畑修一郎の項で記したように、復帰は<麒麟>への参加に始っているが、阿佐ヶ谷へ
移ると直ぐに井伏、青柳、小田などとの親交が深まり、将棋はできなかったが
阿佐ヶ谷将棋会の「第2期 成長期」を構成する主要メンバーの一人となるのである。
--------------------------------------
これで井伏が「昭和8年にシナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した。」
というその当時のメンバーが揃ったのではないだろうか。
古谷綱武・秋沢三郎も参加していた可能性はあるがはっきりしない。
この面々については、亀井勝一郎・浅見淵・上林暁・浜野修・村上菊一郎とともに
次の「第2期 成長期」に記す。
( 「外村繁 : 家業を弟に譲って文学へ復帰」 の項 初UP H17/1 )
| HOME (総目次) |
| 第1期からの 会 員 |
井伏鱒二 | 青柳瑞穂 | 田畑修一郎 | 小田嶽夫 | 中村地平 |
| 太宰 治 | 木山捷平 | 外村 繁 | 安成二郎 | (蔵原伸二郎) |
| 第2期からの 会 員 |
古谷綱武 | 秋沢三郎 | 浅見 淵 | 亀井勝一郎 |
| 上林 暁 | 浜野 修 | 村上菊一郎 | - |
**************************************************************
会員模様 : 第2期 成長期 (S8頃〜S13頃)
外村 繁 : 文学復帰は順風満帆
外村 繁(とのむら しげる):明35(1902).12.23〜昭36(1961).7.28 享年58歳
昭和8年(1933)、外村 31歳。 ”将棋会 第2期 成長期” は外村の30代前半にあたる。
外村は、第1期(出発期)に記したように、昭和8年2月(30歳)、家業を弟に譲って文学に
復帰した。住居も阿佐ヶ谷へ移し、心機一転,、文学に生きることを決断したのである。
家業は上手くいかなかったとはいえ破綻したわけではなく、経済的には恵まれていた。
復帰の第一歩は昭和7年11月、経済的援助の目的で<麒麟>に参加したことに始まる。
なお、本項は「荻窪風土記−外村繁のこと」や井伏、浅見、亀井、小田、木山らとの
関係が深く、それらの項との重複が多いことをご容赦願いたい。
*文学再出発
父の急逝(S2/11)で家業(近江商人:呉服木綿問屋「外村商店」)を継ぎ、文筆を絶って
その経営に専念、精励したが、業績は思わしくなかった。不況の最中とはいえ、
外村自身が自分はその道に適さないとの思いを強めていったのではないだろうか。
外村の下で家業に携わっていた弟は、小学校を卒業するとすぐこの仕事に就いており、
商売には通じていた。外村はこの弟に家業を託して自分は再び文筆を執ったのである。
・<麒麟>加入から--
外村が正式に弟に家業を譲ったのは昭和8年2月だが、その前年(S7)、外村は満30歳を
迎えるに際し人生に一大決断を下したように見受ける。最大要因は家業の不振だった
だろうが、その年3月には三高‐東大を通じて親しかった文学仲間の一人梶井基次郎の
夭折(31歳)があり、10月には三男が生まれたことが内面的に大きく影響していよう。
11月には、経済援助目的ではあったが田畑、小田、中谷らの<麒麟>の同人となり、
さらに、大正14年以来内縁関係のままだった妻とく子と子供たちを籍に入れたのである。
ちなみに、子供は 長男(T15/7生)、 二男(S3/12生)、 三男(S7/10生)、の3人で、
その後、長女(S9/10)、 四男(S12/2) が誕生した。
・”商店もの”が好評--
そして、昭和8年を迎えて2月に阿佐ヶ谷へ転居し、家業は弟に譲り、7月には正式に
<麒麟>の同人となって5年半ぶりに筆を執った。<麒麟>9月号に「鵜の物語」を、
<人物評論>(9月号)に「藤田専務の手帳」を発表したのである。
両作品とも家業の商店経営の経験から生まれたもので”商店もの”といわれ、
一種の社会小説として好評だった。 順調な再出発だった。
筆名:この「藤田専務の手帳」から筆名を本名の「茂」から「繁」に変えた。
出版社が「繁」と誤植したところ、それが気に入って決めたともいわれるが、
そこには心機一転、再出発の決意が込めらたことは間違いなかろう。
続いて昭和9年には「中井商店の身上」「灼傷」「歩銭」「神神しい馬鹿」を発表、
いずれも近江商人の世界を描いた”商店もの”だが、昭和10年に入ると「草筏」を
起稿した。外観上はそれまでの”商店もの”の系統に属するようだが、はるかに
内面化が進んだ作品になっていると評され、外村の代表作、出世作となった。
戦後、「筏」と「花筏」を書き、三部からなる大河小説として高く評価されている。
・長編「草筏」(第1回芥川賞候補)のこと--
「草筏」は、<世紀>(S10/3)に始まり、<木靴>、<文学生活>、<早稲田文学>と続載され、
昭和13年に完結、同年11月には単行本として出版(砂子屋書房)されるに至った。
浅見淵によれば、この作品は繁栄する外村一族、近江商人の”血”といったものを、
外村自身に流れる”血”の源流的なものを探求する意味を兼ねて描いたものという。
また、中谷孝雄によれば、「草筏」の「筏」は仏教用語で衆生を此岸から彼岸へ済度
する意味が込められ、作者が意図したところも一族済度の悲願にあったという。
戦後、「草筏」の前編に相当する「筏」と後編に相当する「花筏」を発表し、三部作の
大河小説として高く評価された。「筏」は昭和31年の野間文芸賞を受賞している。
昭和10年、芥川賞が創設されたが、その第1回(S10上半期)選考において未完のまま
候補作品となった。受賞は逃したが、文壇、出版界においての地位を確立した。
昭和13年の単行本は、翌14年に池谷賞を受賞(再び芥川賞候補にもなった)した。
「草筏」執筆中の外村は、作品としてはほとんどこれに集中しており、他には<文芸春秋>
に「春秋」(S10/10)を、<中央公論>に「血と血」(S10/12)を発表したにすぎない。
一方、文芸復興の機運の中、同人誌をめぐる活動は活発だった。 「草筏」の掲載誌が
四誌に跨るのはその影響である。 <麒麟>の同人となって阿佐ヶ谷界隈など文学仲間
との親交が広がり、 深まり、「草筏」の成功で文学復帰は順風満帆といってよかった。
・同人誌活動の渦中へ--
尾崎一雄の著書に「あの日この日 (上・下)」(1975:講談社)がある。
尾崎のいわば「自伝的文壇回顧録」である。本人が 「自分の経験や直接見聞した事実に基づく
文壇野史あるいは拾遺ともいうべきもの」 と書くように、大正9年(父の死)から昭和19年までの
自分や周辺の出来事を単なる記憶ではなく記録などの裏づけを示して正確に書いている。
昭和50年の野間文芸賞受賞作品で、読み物として面白いが、貴重な文学史資料でもある。
尾崎と外村の交遊は昭和8年に始まるが、ともに活発な同人誌活動の渦中にあり、
尾崎はここにその模様を詳述しているので、本項はこの著書に拠るところ大である。
外村と尾崎・浅見との出会い(昭和8年秋)
浅見と小田の項に記したように、昭和8年秋9月頃、当時はまだ無名の石川達三が
中心になって有力な同人誌に大合同を呼びかけ、そのための会合が開かれたが
議論百出の末このときの話はまとまらなかった。
外村もこの会合に出席した一人で、尾崎の筆致からすると、この大合同は
外村が財政の問題を執拗に取り上げたことがトドメとなって成らなかったようだ。
この会合が外村と尾崎、浅見との初対面だった。
しかし、すでにお互いが同人誌で各自の作品を読んでいるので顔を合わせると
一見旧知の如くであったという。以降、阿佐ヶ谷界隈を舞台に親交が深まる。
そして、この会合は次いで<世紀>となって実を結ぶのである。
<麒麟> → <世紀>
外村が文学を志したのは三高で出合った梶井基次郎、中谷孝雄の影響が強く、
三人は東大へ進み、<青空>を創刊(T14/1)して作品発表の場とした。
梶井が「檸檬」を発表(創刊号)するなど、有能な同人たちの活躍があって同人誌
として高い評価を得、外村らの卒業の年((S2/6:全28冊)まで続いた。
外村が5年余の空白を経て加入したのが<麒麟>だったのは中谷の紹介によるもので
極めて自然な流れだった。このころ<麒麟>の同人は、田畑、蔵原、小田、中谷、青柳、
緒方隆士らで、そのほとんどが阿佐ヶ谷界隈に住んでいた。外村の生涯の文学生活に
大きな影響をもたらす<麒麟>への加入と阿佐ヶ谷への転居の背景がここにあった。
小田の「文学青春群像」に、「雑誌のことで相談があるから、外村の家へ来てくれ、
という知らせ受けて、私は外村の家へ出かけた。会したものは外村、中谷、蔵原、
小田、淀野隆三他2〜3人であった。」とある。つまり、これが<世紀>創刊の会合で
外村は主要メンバーの一人だった。(小田は昭和9年になった頃としているが、
木山の日記や尾崎によれば、前年(S8/12)のことである。)
小田は続けて、「提唱者は淀野で、<麒麟>、<小説>、<青空>、の各同人の一部
から成る」 旨を書いている。(中谷がこの件で尾崎宅を訪れた時、木山が偶然
居合わせて尾崎が困惑したことは別記の通り) そして昭和9年4月に創刊された。
<麒麟>は昭和8年秋頃には廃刊になったようで、外村、田畑、小田、緒方、中谷、
ほかの同人はそのまま<世紀>に加入した(全同人名は浅見の項)。
外村は「中井商店の身上」(S9/5)など一連の”商店もの”をここに発表、 さらに
長編「草筏」の連載(S10/3-4)を開始したが、<世紀>はここで廃刊になった。
「草筏」は2回の連載で未完だったが、これが芥川賞候補になったのである。
(<世紀>最終号については異論もあるようだが尾崎が確認した昭和10年4月号と認めてよかろう)
廃刊には中谷らの<日本浪曼派>創刊が深く関わっている(田畑の項)が、
これにより<世紀>同人の多くは新たな発表の場を求めざるを得なくなった。
<世紀> → <木靴>
<世紀>は、小説において外村、小田、丹羽文雄の活躍が目立った。特に外村には
「草筏」があった。新雑誌創刊に向かうのは自然の流れで、昭和10年10月に
<木靴>創刊号が発行された。同人はこの3人のほか、尾崎、浅見、田畑ら小説を
志す10人だった(全同人名は浅見の項)。 ”編集兼発行人”は外村である。
外村はここに「草筏」の3回目から6回目まで(S10/10,11、S11/1,2)を続載したが
ここで<木靴>は終刊となり、次に<文学生活>に引き継ぐことになる。
<木靴> → <文学生活>
<木靴>は尾崎が確認した全5冊(S10/10〜S11/2)の発行と認めてよいが、解散事情
は不詳である。同人数の少なさから原稿の集まり具合や経費面において外村の負担
が過重で、より多くの人を糾合しての新雑誌発刊を策したと推察するが如何だろう。
間もなく、<文学生活>創刊(S11/6)となった。<木靴>と<新文芸時代>の同人が
合体し、そこに他からも多くが参加、計25名で発足、その後に総勢30名を超えた。
<木靴>以外からの同人は、上林暁、伊藤整、古谷綱武ら阿佐ヶ谷勢が多数おり、
井伏も発足後に参加するなど大きな勢力になった。 (全同人名は浅見の項)
外村は創刊時の編集発行人で、ここに「草筏」を書き継ぎ(S11/8、S12/4-6)、
その年には完結する意図を示したが、同年6月号で終刊したため未完のままとなった。
なお、小田はこの創刊号に「城外」を発表し、芥川賞を受賞した。
「草筏」完結は<早稲田文学>
<文学生活>の編集発行には、途中から実質上は浅見と砂子屋書房(山崎剛平)が
当っており、その浅見は昭和12年4月に尾崎と入れ替わりで<早稲田文学>の編集に
携わることになった。<文学生活>の廃刊がこれに関係しているかは不明だが、
「草筏」は浅見の計らいで<早稲田文学>に連載(S12/10〜S13/5:S13/2を除く)し、
昭和13年5月に完結した。起稿後3年余を経ての完結だった。
再び芥川賞候補 - 池谷賞受賞
昭和13年11月には単行本(砂子屋書房)になり、この期の芥川賞候補になったが、
選考の前に同じ文藝春秋社の池谷賞に決定(S14/1)したため選考除外となった。
「草筏」執筆中の昭和11年2月、外村の第一創作集「鵜の物語」が発刊された。
それまでに発表された”商店もの”が収められ、浅見が砂子屋書房で企画した
第一創作集叢書の第1弾だったが、所収作品の一つ「血と血」の一部が内務省の
検閲で切り取りを命じられた。尾崎は「いかに戦前とはいえ過酷に過ぎる。担当者
(尾崎の早大同期生)の点数稼ぎか、学生時分の腹いせか、といきり立った・・」
ように書いているが、2・26事件直後の緊迫した情勢の反映ではなかったろうか。
なお、「血と血」の初出は<中央公論>(S10/12)で、それが創作集「鵜の物語」(S11/2)の中に
1編として収められたが検閲で直ちに削除となり、以降は出版されていない。
「外村繁全集 全6巻」(S37:講談社)にも所収なく、国会図書館まで行かないと読めそうもない。
筏三部作の最後、「花筏」(S33)の一部に取り入れられているというが確認できなかった。
<文学生活> → <日本浪曼派>
<日本浪曼派>は亀井の脱退(S12/9)で発行が止まったが、昭和13年1月に中谷の
勧めで外村が編集人となって再開した。しかし長くは続かず3冊(1,3,8月)だけで
終刊となった。最終号には太宰、木山、中村らの緒方隆士追悼文が載った。
外村の<日本浪曼派>加入(12/1)は<文学生活>発行中だが、そのいきさつや
「草筏」の掲載が<日本浪曼派>でなく<早稲田文学>だった事情は不祥である。
「草筏」は<日本浪曼派>の編集方針に沿わなかったのかもしれない。
ともあれ、外村の文学復帰は順風満帆、文壇に確かな地歩を築いたことは確かで、
この間は、丁度、阿佐ヶ谷将棋会”第2期 成長期”に合致するのである。
*そこで阿佐ヶ谷将棋会
将棋ができない将棋会員は外村と青柳の二人だが、二人とも酒に目がないことで他の
会員と結ばれ、共に独特の個性をもって将棋抜きで主要会員としての存在を示した。
・外村 と 「荻窪風土記]
外村と将棋(会)の関係について、井伏は「荻窪風土記-文学青年窶れ」に書いている。
外村と青柳は勝敗記録係を受け持ったこと、終了後に将棋のできない外村が勝負に
ついて出まかせの間違った講評をして喝采を浴びたことなど、阿佐ヶ谷将棋会の
柔らかい雰囲気をユーモラスに伝えている。もちろん二次会、酒が入ってのことだろう。
「荻窪風土記-二・二六事件の頃」に、将棋会仲間の青柳と田畑が仲違いしたことで
外村が間に立って気を揉んだことが書かれている。外村が初の創作集「鵜の物語」を
発刊した頃で、すでにこのころには仲間を思いやる立場にいたことが窺える。
「荻窪風土記-阿佐ヶ谷将棋会」には、「外村酔っ払って独演会の観あり」という木山の
日記(S15/12)を引用し、「外村君の毒舌にはいつもユーモアがあった。」と書いている。
酒が入って自在に振舞う外村の屈託ない姿が浮かんでいる。
「荻窪風土記-外村繁のこと」では将棋(会)のことにはほとんど触れていないが、
お互いに将棋、酒にとどまらず、日常の中で文士としての信頼の上に親交が
深まったことが語られる。年齢的に、また文壇での足取りや社会的存在として
太宰、中村らの若手会員をリードする立場にあるという連帯感があったと推察する。
・外村 と 古谷サロン
”古谷サロン”については古谷の項に記したとおりで、<海豹>創刊(S8/3)によって
東中野の古谷宅に出入りする文学青年の数は急増したようだ。
外村の文学復帰、阿佐ヶ谷転居の時期に一致し、尾崎、浅見によれば外村の
訪問も頻繁だった。他に、太宰、木山、田畑ら阿佐ヶ谷界隈の住人も多かった。
酒が入って、文学談や同人誌計画、人生論、将棋や花札、麻雀に賑やかだった。
ここからも新しい文学、”昭和文学”といわれる作品が数多く生み出されていった。
文芸復興の機運に乗って外村の人脈は拡大し、もちろんその経済力も手伝って
同人誌活動における多くの重要な役回りを引き受けるに及んだのだろう。
・外村 と 「鵜の物語]
外村の初の創作集「鵜の物語」出版記念会の日のエピソードを小田と尾崎が書いている。
小田が書いた檀のパンチ事件は秋沢の項に記したので、尾崎が書くところをご紹介する。
昭和11年2月20日、出版記念と砂子屋書房の発足を記念の会、人形町の蟹料理屋で40人くらい
集まったろうか。帰途、何人かで新宿に寄って飲んだが、最後は自分1人になって選挙や政治に
ついて気炎を上げていたところ、巡査と悶着が起きて留置場に入れられた。翌朝、怒りを胸に家へ
帰った。”お土産を貰った”と気づき、玄関に盥を置いて素裸になって寒さに耐えて体中を洗った。
奇しくも、20日は志賀直哉(尾崎の師)の誕生日(M16)で、小林多喜二の命日(S8)だった。
同じ日の夜、阿佐ヶ谷の秋沢宅では檀のパンチが飛んでいたのである。
そして、2・26事件が起きる。
なお、ネット情報による「砂子屋書房史」には、出版記念会は2月22日、浅草「双葉」とある。
発起人20名連記の案内状の現物写真があるので、20日は尾崎の誤りかこじつけのようだ。
発起人は、井伏、丹羽、尾崎、小田、川端康成、淀野、瀧井孝作、田畑、太宰、檀、中谷、
古谷、浅見、三好達治等々、先輩、友人20名で、阿佐ヶ谷界隈の面々、将棋会々員と
その友人の名前が多いことが目につく。 尾崎は出席者は40名くらいというから、発起人の
ほか多数の出席があったようだ。 開催日の相違はともかく外村の順風振りが窺える。
ここに太宰の名があるが実際に出席していたか? 太宰が佐藤春夫の世話でパビナール
中毒治療のため入院した済生会病院を退院したのは2月20日頃なので微妙である。
続いて太宰の「晩年」が出版され、同年7月11日に出版記念会が開かれた。(太宰の項)
・外村 と 「木山の日記]
外村と木山の初対面がいつか? おそらくは昭和8年のことだろう。木山の日記に
外村の名前が見えるのは昭和10年以降だが、顔を合わせたという意味では、
その前に、二人とも古谷宅、尾崎宅に頻繁に出入りしたからその頃のはずである。
しかし、親しくなったのは昭和11年〜昭和12年頃だろう。木山は創作面、生活面とも
非常に低調な時期だが、文学関係の交友は積極的で、外村宅をも再三訪問している。
昭和12年には、日記中の「外村繁氏」の表記が「外村繁君」に代わるのである。
外村が<日本浪曼派>に加入した頃にあたり、日記(S12.3.29)に外村が初出席の
同人会で「木山は井伏のメイで中谷のオイだ」と言ったとある。外村の真意はともかく、
お互いにそのようにいえるだけ気心が知れた間柄になっていたといえよう。
ところで、ほぼ同年輩の外村と木山のここまでの人生には驚くほど共通点が多い。
親の意に反して文学を志したこと、親に逆らって結婚したこと、そのためほとんど
勘当状態になったこと、父親が早世したため家を継がざるを得なくなったこと、
転身を経験した末にようやく最後に作家を目指すに至ったことである。
しかし、このころの二人に対する印象を一言でいうと”明と暗”なのは否めない。
本人の生き方、作風に拠るものだが、根底にあるのは経済力の違いといえよう。
順風に帆を張って再出発の外村に対し苦闘の木山の心中は如何だったろう。
そして昭和13年3月3日の日記に 「阿佐ヶ谷会。アサガヤの将棋屋にて。・・」 の
記述になる。ここには外村の名前は見えない。続いて、6月7日、7月12日と
本格的な”会”が開かれるが、勝負に参加しない外村の名前は記録に現れにくい。
青柳もそうだが、実際にどの程度出席したのかわからないが、
案内があると酒の席目当てに出かけていったと考えてよかろう。
----------------------------
「将棋会 第2期 成長期」は多くの文学青年が文芸復興の機運に乗って世に出た時に
重なる。外村がこの時期に”商店もの”によって復帰を果たせたのは先見性に
よるものだったのか、偶然だったのか不祥だが、強運であったことは確かである。
外村は昭和13年に同じ阿佐ヶ谷で引越しをした。現表示では阿佐谷南2丁目で
青柳瑞穂宅は目と鼻の先だった。 そしてそこが共に終の住処だったのである。
”阿佐ヶ谷将棋会”は記録の残る「第3期 盛会期」に入るが、日中戦争の泥沼化で
国民生活には戦時色が強まり、遂には太平洋戦争に突入する。 疎開が始まるが、
外村、青柳、それに上林は阿佐ヶ谷に残って、そこで敗戦を迎えることになる。次項以降に
記すが、この過酷な東京生活に3人の妻たちが受けた心身の痛手は計り知れなかった。
( 「外村繁 : 文学復帰は順風満帆」 の項 初UP H19/3 )
| 「外村繁:第1期 出発期」 の先頭 | 「外村繁:第2期 成長期」 の先頭 |
「外村繁」 の項 主な参考図書 『外村繁全集 全6巻』 (S37 講談社) 『外村繁全集 第6巻(年譜)』 (S37/8 講談社) 『外村繁全集 第6巻(解説 浅見淵記)』 (S37/8 講談社) 『あの日この日 (上・下)』 (尾崎一雄著 1975 講談社) 『酔いざめ日記』 (木山捷平著 S50/8 講談社) 『日本近代文学大事典 外村繁(中谷孝雄記)』 (S53 講談社) |
| HOME (総目次) |
| 第1期からの 会 員 |
井伏鱒二 | 青柳瑞穂 | 田畑修一郎 | 小田嶽夫 | 中村地平 |
| 太宰 治 | 木山捷平 | 外村 繁 | 安成二郎 | (蔵原伸二郎) |
| 第2期からの 会 員 |
古谷綱武 | 秋沢三郎 | 浅見 淵 | 亀井勝一郎 |
| 上林 暁 | 浜野 修 | 村上菊一郎 | - |