Part2 井伏鱒二と”阿佐ヶ谷将棋会”

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会員模様 : 第1 出発期 (S3頃〜S8頃)


    中村地平  : 好青年、東大入学で文学専念   


(なかむら ちへい) : 明41(1908).2.7〜昭38(1963).2.26 享年55歳

本項の中村地平(本名:中村治兵衛) と別項の太宰治(本名:津島修治) は、
ともに旧制中・高校時代から文学に魅せられ、東京帝国大学文学部に進学した。
昭和5年4月、中村は美術史科(美学専攻)、太宰は仏蘭西文学科である。

九州と青森から上京した二人は共に井伏に師事し、井伏宅で顔を合わせて親交が始る。
そこから二人の文壇登場までの期間は、”阿佐ヶ谷将棋会”の出発期とほぼ重なるが
その間の二人の生活には”静と動”の大きな違いがあった。

年譜は主に『中村地平全集第3巻 - 巻末年譜(黒木清次・久保輝巳編)』による。

   *宮崎 大淀川畔

明治41年2月、宮崎(現宮崎市)で肥料問屋を営む古い商家の次男として生まれた。
父は後に宮崎無尽株式会社を設立(S16・現宮崎太陽銀行)、長くその社長を勤め、
宮崎経済会に重きをなした。地平(本名:治兵衛)は兄と姉の3人兄弟の末子である。

宮崎の町をゆっくり流れる大淀川に面した大淀町に生家はあり、そこで宮崎中学校
(現宮崎県立宮崎大宮高校)卒業までを過ごした。中学時代に佐藤春夫の台湾小説を
読んで南方にあこがれ、文芸部委員として交友会雑誌を編集、小説習作を発表した。

   *台北(台湾)高校へ

卒業の年(T14・17歳)は入試準備のため一時期福岡の予備校に通ったが、
文学への関心はさらに深まった。翌年(T15)、台湾の台北高等学校に入学した。

1年生の時、土方正己、塩月赴らと台湾における最初の印刷文芸雑誌<足跡>を発刊、
2年生から文芸部委員として交友会雑誌<翔風>を編集、両誌に小説習作を発表した。

   *東京 - 井伏に師事

昭和5年、台北高校を卒業(22歳)、東京帝国大学文学部美術史科(美学専攻)に入学、
東京での山岸外史、津村秀夫ら若い文学仲間との交友が始る。

井伏の「亡友中村地平」(S38・<新潮>)に「昭和五年から知りあひになったことを覚えてゐる。
その年の四月か五月ごろ、中村君が二度目か三度目の来訪で私のうちへ遊びに来てゐると、
そこへ初めて来訪の津島修治君がやって来た。私は中村君と津島君を紹介した。」とある。

井伏(32歳)に師事、太宰ら多くの文学青年と知り合い、山岸の誘いで同人誌<あかでもす>
に参加、自らも津村ら4人と同人誌発刊を計画するなど本格的な文学活動が始った。

   *「熱帯柳の種子」でデビュー

昭和6年に書いた「熱帯柳の種子」が井伏の手を経て<作品>に載り(S7/1)、これが佐藤春夫
に認められて文壇デビューとなった。<作品>の編集助手を勤めたのもこのころである。

かねて津村らと計画した同人誌<四人>を創刊(S7/1)し、1年間(通巻5号)続け、ここに
小説・誌・童話などを発表した。太宰や伊馬鵜平(春部)、小田嶽夫らとの交友が深まっていく。
太宰・小山祐士とともに井伏門下の三羽烏といわれたが、静かな堅実な文壇登場であった。

昭和8年(25歳)、東大美術史科を卒業したが、籍は大学院に置いて文学に専念した。
檀一雄、古谷綱武、尾崎一雄、浅見淵らを知り交友を深め、中村の活動は一段と発展する。

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年譜によって文壇デビュー・大学卒業までを辿ったが、幼少期に関する記述は少ない。
お金持ちの末っ子として、何不自由なく、波乱なく順調に成人したものと見受ける。

   *青年”地平”の横顔

小田嶽夫は初対面の頃(S7前後)を次のように回想している。(「回想の文士たち」より)

「彼はまだ東大生で、背が高く、体格がよく、黒目がちの大きい目をしているのが
印象的だった。好男子というのとは違うが、清潔な感じのりっぱな顔だった。 -(中略)-
中村君が一般の文学青年と変っていたのは、感じが明るく、クセのない性質であること
であった。 -(中略)- 九州宮崎の人だということだが、いかにも南方人の感じで
官能的なあたたかさ、男性的な明快さ、甘やかな感傷性などが対者に好感を与えた。」

井伏は「何かにつけ、将棋をさすとき以外はおっとりしている人であった。」と記している。

   *”阿佐ヶ谷将棋会”

中村は、上京当初(S5)は大学(本郷)近くに下宿し、昭和10年には吉祥寺に住んだ(後述)。
杉並区域に住んだ形跡はないが、本郷や下落合(現新宿区)など、その近辺に居た。

中村がいつから”将棋会”に参加したか判然としないが、昭和5年当時には井伏と親交が
あった青柳、蔵原、田畑、太宰らと将棋や酒の付き合いがあってもおかしくない。

井伏は中村と太宰について、「この二人は私のうちでよく将棋をさした。棋力は初めのうち
中村君の方が上で、二年目ごろからは勝ったり負けたりの仲になった。」と書いており
(前掲書)、二人は”第1期 出発期”からの会員の一人といってよかろう。

昭和7〜8年には小田や古谷とも知り合っている。木山、外村とも同席しているはずである。
中村が主にピノチオを会場とした”第2期 成長期”の主要メンバーだったことは確かである。

「中村地平 : 好青年、東大入学で文学専念」  の項   初UP H16/10 )

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1期からの
会 員
井伏鱒二 青柳瑞穂 田畑修一郎 小田嶽夫 中村地平
太宰 治 木山捷平 外村 繁 安成二郎 (蔵原伸二郎)

2期からの
会 員
古谷綱武 秋沢三郎 浅見 淵 亀井勝一郎
上林 暁 浜野 修 村上菊一郎 -

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会員模様 : 第2 成長期 (S8頃〜S13頃)

 
    中村地平  : 退職して文学専念・真杉静枝   


中村地平(なかむら ちへい):明41(1908).2.7〜昭38(1963).2.26 享年55歳

昭和8年(1933)、中村 25歳。 ”将棋会 第2期 成長期” は中村の20代後半にあたる。
中村は、昭和5年に台湾の台北高校を卒業、東大に入学して東京での生活が始まった。
宮崎の生家は裕福な古い商家で、十分な仕送りを受けた学生生活だったようだ。
井伏鱒二を師として井伏宅に出入りし、東大同期の津島修治(太宰治)らと知り合った。
山岸外史らと文学活動を共にし、昭和7年1月に発表した「熱帯柳の種子」は佐藤春夫に
認められて文壇デビューとなった。将棋会の第1期、中村の静かな登場だった。

第2期は、東大卒業、都新聞入社、文学専念のため退職、兄の戦死、召集を受けて
即日除隊、それに真杉静枝との同棲が重なるなど、静から動の時代へと変わった。
しかしこの間、経済生活に不安があった様子は窺えない。生家からの十分な仕送りは
節度を持って使ったのだろう。文学青年窶れを経験しなかった数少ない一人といえる。

中村は、自身の体験に基づく私小説を多く書いているが、素材は体験でも内容的には創作
という作品も多い。特にこの時期のことに関しては事実に即したような作品は見当たらない。
そこで、本項は中村と親交があった文士たちの記述を主に参考にしたが、
中村のこの時期の生活や人物像、人格形成過程は霧の中の感がある。

   *都新聞記者 - やっぱり文学

     ・東大卒業 ・・ 大学院に在籍

 東大に入ると、早速に文学活動を開始し、 「熱帯柳の種子」で佐藤春夫に認められて
文壇にデビュー、井伏に師事して太宰ら多くの文学青年とも知り合った。
昭和8年に東大美術史科を卒業したが、文学に専念するため籍は大学院に置いた。

中村らが前年に創刊した<四人>は、5号(S8/1)で終刊となったので、中村は作品を
<作品>(S8/9:小説「きつつき」)や<行動>(S8/12:随想「若冠のこころ」)に発表した。

このころ、中村は下落合に住んだようで、近くの林芙美子宅や古谷綱武宅を頻繁に
訪問している。浅見淵や尾崎一雄の著書には”古谷サロン”には自分たちの他、
檀一雄、田畑修一郎、外村繁、中村地平らや、この年3月創刊の<海豹>のメンバー
である木山捷平、太宰治らが出入りしていて、お互いがそこで知り合ったと書き、
小田嶽夫は中村との初対面は昭和7(8年との記述もある)と書いている。

ほとんどが阿佐ヶ谷界隈の住人だが、中村は文芸復興の機運に乗って活動する
文学青年の一人として作品を書きながら交友を積極的に拡げていたようである。

ただ、この時期はその多くが同人活動主体だが、中村は同人に参加していない。
例えば、なぜ古谷らの<海豹>や田畑らの<麒麟>に加入しなかったのだろう・・?

資産家の次男坊として大らかに育ち、親の十分な仕送りによって東大美術史科の
大学院生として体制内で悠々と文学に取り組む優等生的生活は、”文学青年窶れ”を
自任する仲間には心底からは馴染めなかったのだろうか・・。あるいは、中村の内心
にはこの時点ではまだ文学一筋にのめり込むことへの迷いがあったのだろうか・・。
小田は、”中村には親しい同輩が殆んどいない”と書くが(後述)関係がありそうだ。

1年後(S9/3)、中村は大学院を退学し就職するのである。

     ・都新聞社入社 と <日本浪曼派>加入

  昭和9年4月、中村は高校時代の知人の紹介で、大学院を退学して都新聞社に入社し、
編集局文化部に所属した。同部には入社が2年早い北原武夫がいて知り合った。

入社後も作品は、<鷭>(S9/4:文芸時評)、<行動>(S9/5:小説「旅先にて」)、
<文学界>(S9/6:感想)、に発表している。文学も続けていたのである。

昭和9年9月18日の木山の日記に、「夜、中村地平に、新雑誌になるべく入れて
貰いたいと返事を書く。」とある。木山は帰郷中(岡山県)で中村からの報せを受けた
のだろう。ここにも中村の文学活動が窺えるが、この新雑誌というのは<青い花>で、
太宰を中心に、檀、中原中也、山岸外史らで創刊した。(S9/12:1号のみで終刊)
木山も同人の一人に加わったが、中村の計らいによるものだっただろう。

同じ頃(S9:秋)、<日本浪曼派>創刊の計画が進んでいた。創刊は昭和10年3月で、
木山の同年2月の日記には、<青い花>の太宰、中村、山岸らを<日本浪曼派>に
誘っていると書いてある。太宰、木山ら<青い花>同人の多くは第3号(S10/5)に
同人として名前が載ったが、中村の参加は同年7月になってからだった。

中村の加入が遅れた理由に檀との不仲説があるがはっきりしない。<日本浪曼派>に
加入して交友関係はさらに広がり、仲間たちとの関係を深めたことは確かである。
以降は同誌を発表の場とし、同年10月に随想「太宰治へ」を載せ、
翌11年2月に随想「茗荷谷雑記」、9月に小説「イルぜとその母」を発表した。

     ・都新聞退社 ・・ 文学専念

年譜によれば、昭和11年夏、創作専念のため新聞社を辞めることを郷里(宮崎)
に帰って父と兄に相談し、その承諾を得て同年9月都新聞社を退職した。

直ちに退職金35円(現在なら15万円程度か)を持って伊豆湯ヶ島に出かけ、
20日間滞在して小説「悪夢」を書き、<日本浪曼派>(S11/12)に発表した。

ところで・・
 この退職に真杉静枝の存在が影響していたのだろうか? (真杉とのことは後述)
父や兄は真杉の存在を知っていたのだろうか? 一寸気になるところだが、
いずれにせよ、父、兄の承諾を得ての退職は ”文学青年風”ではないだろう。

  蛇足かも・・ 中村の後任に井上友一郎が入社し中村と事務引継をした。北原の推薦だったが、 
戦後、井上の小説「絶壁」(S24)は北原や宇野千代をモデルにしたと物議をかもすことになる。

翌12年は、5月に小説「土竜どんもぽっくり」を同誌に発表するなど文学活動に専念
したが、8月に兄(陸軍主計中尉)は中国で戦死、中村自身も10月に招集を受けた。
盧溝橋事件(S12/7)からの日中戦争拡大は直ちに国民の生活を直撃したのである。

     ・召集:除隊 ・・ 芥川賞候補       

昭和12年10月、中村は召集令状を受け、都城の歩兵連隊に入隊したが、
胃病のため即日除隊となった。 派手な見送りを受けて出立した手前、
直ぐに帰るわけにもいかず、霧島温泉に数日滞在してから宮崎の家へ帰った。

帰京して12月に初の創作集「旅先にて」(版画荘)を出版するなど、中村は文学活動
を続け、翌13年には「南方郵信」を<文学界>(S13/4)に発表した。<日本浪曼派>は
このころは発行が滞っており、<文学界>の勢力が大きくなっていた関係だろう。

中村の「土竜どんもぽっくり」(<日本浪曼派>S12/5)は第5回芥川賞候補となったが、
この時は「暢気眼鏡」などで尾崎が受賞した。次いでこの「南方郵信」が第7回(S13:
上期作品)の候補となった。この時の受賞は中山義秀の「厚物咲」で最終選考は
田畑の「鳥羽家の子供」と競ったことは田畑修一郎の項に記した通りだが、中村は
相次いで候補になったことで、大きな自信、励みになったことだろう。

この年(S13)には、ほかに創作集「熱帯柳の種子」刊行(3月:版画荘)、小説
「陽なた丘の少女」(8月:<新潮>)、小説「離れ島にて」(12月:<文藝>)発表など
積極的な活動が見られる。 4月からは日大の非常勤講師にも就いている。

<日本浪曼派>は8月に緒方隆士の追悼号を発行して終刊となった。
中村はここに「葬儀の朝」を書いて緒方を追悼した。(詳しくは後述)

   *真杉静枝とのこと ---  

中村と真杉静枝がいつから同棲したのかは判然としないが、中村が自身の
見合結婚からの8年間のことを書いた小説「八年間」(S25)に次の一節がある。

「東京にいた瞬吉には、杉子という齢上の女との間に、恋愛があった。杉子は情熱的に、
献身的に瞬吉を愛してくれた。このように深く異性から愛されることは、おそらく一生に
二度とはあるまい、と考えられたほど彼女はいちずに純粋であった。
いっぽう瞬吉は、杉子の人間としての美しさを、心から尊敬していたが、それは愛情とは
いくらか種類のちがったものであった。女を愛したいと思いながら愛し得ぬ、そのことに
瞬吉は焦慮し、自分を恋愛のインポテントではあるまいかと、うたがったりした。」


瞬吉は中村、杉子は真杉である。 中村は ”同棲はしたが自分には
真杉と結婚する気持はなかった” と告白しているのである。
その結果、昭和14年頃に同棲を解消、真杉は昭和17年に中山義秀と結婚、
中村は昭和18年に宮崎で見合結婚し、東京に住み、翌年宮崎に疎開した。

この同棲が中村の文学や人生に与えた影響のほどは定かでないが、真杉としては
必死の思いだったはずで、女として精一杯生きた人生の重い1コマだったと推察する。


真杉静枝(ますぎ しずえ):明34(1901).10.3〜昭30(1955).6.29 享年53歳

福井県生まれ。神官の娘として少女時代を台湾で過ごした。若くして結婚に破れ大阪へ出て自活した。
新聞記者として武者小路実篤を知り庇護を受けた。上京した昭和2年発表の「小魚の心」が処女作。
発表誌は<女人芸術>などで、男に愛されようとする女の不安な立場を私小説風に書いた。 昭和8年
創刊の同人雑誌<桜>に参加、中村地平と同棲した。昭和17年中山義秀と結婚、敗戦の翌年離婚した。
戦後は鏡書房を設立したり原爆少女のために尽くして社会的名士になったが、創作活動から遠ざかり
不遇のうちに肺ガンで没した。(「日本近代文学大事典(和田芳恵)」から抜粋)

(「新潮日本文学辞典」の生年月日は「明治38(1905).10.2」だが、上記の採用が大勢のようである。)

真杉は武者小路実篤の愛人だったが、真杉の願望は叶えられず二人の関係
は破局に至ったこと、直ぐに中村のもとへ飛び込んだが中村にも結婚は拒まれ
て同棲を解消したこと、次いで中山に近づいて結婚したことは、真杉がこの間も
私小説風作品を書いて文壇と関わりがあったので周辺には知れ渡っていた。

最近では林真理子が真杉の生涯を「女文士」(H7/10)と題して実名小説にした。
この小説によれば、二人の関係のいきさつはほぼ次のようである。


中村と真杉の初対面は昭和5年のことで、当時、真杉は武者小路の愛人という
立場で神田の美術品店「日向堂」を任されていたが、東大生の中村がそこを
訪れ、真杉の作品のことを話したという。中村は頻繁に訪問したが武者小路は
昭和6年末でその店を閉じたため、中村との関係も途切れて2年余りが過ぎた。

昭和9年夏、都新聞に岡田首相の大きな写真入記事が載ったが、そこに記者
として取材中の中村が一緒に写っていた。武者小路と別れていた真杉は
これをきっかけに中村に連絡をとり、新宿で再会したのである。

そして間もなく、真杉はトランク一つを提げて中村の家に向かった。
困惑する中村に真杉は”自分が立ち直れるまでここにおいて欲しい”と懇願した。
こうして始まった同棲だが、昭和13年12月に真杉が初の創作集「小魚の心」を
出版したのを機会に、中村は「これでもう君は充分じゃないだろうか」と解消を
告げた。 翌14年春、二人は卒業旅行と称して台湾へ出かけ、帰ると真杉は
中村の家を出た。 しかし、中村の徴用(S16/11)までは二人の関係は続いた。

ところで・・1.  この時期、文学を志す女性の奔放な男性関係は珍しくない。
中村・真杉と親交があった宇野千代、林芙美子、平林たい子などの男性遍歴は特によく
知られている。ほかにも昭和文学史に名を残した女流作家の艶聞は枚挙に遑がない。
女性が世に出るには男性に頼らざるを得ない時代だったからともいわれるが、
むしろ、女と男、性が織り成す人生の愛憎劇は昔も今も変わらないと考えるべきだろう。

ところで・・2.  二人の同棲はいつから、何処で?
年譜(「中村地平全集 第3巻 巻末」)には、昭和9年の項の最後に「この頃より真杉静枝
と交わる。」とある。この表現は、”同棲の事実は確認できなかった” ということだろうか。
昭和9年は、中村26歳、真杉33歳である。

林の「女文士」では、昭和9年秋頃からという設定だが、住んだ場所には触れていない。
「中村地平全集 第2巻(月報:城夏子)」によれば、中村の下宿は昭和8年頃は
”東中野の奥の方” で、芥川賞設定の頃も東中野で会ったとある。浅見も”古谷の家の近く
の素人下宿にいた”と書き、中村にも ”大学に入ると、林芙美子さんの世話で、下落合の
彼女の家の近くに下宿した” という一文がある。このころは下落合に居たと考えてよい。

昭和9年からの同棲なら、この下落合(=東中野)の家ということだが、田畑修一郎の項
記したように、浅見と小田は、”中村は姉夫婦と共に昭和9年秋(ないし10年春頃)から
吉祥寺の田畑の旧宅に同居した”と書き、山岸も”太宰と寒い日に、吉祥寺の義兄の家の
離室に住む中村を訪ねストーブを囲んだ” と書いている。姉夫婦宅での同棲ということは
考えにくいので、中村は下落合のほかに姉夫婦宅にも居室を持ったということだろうか?

一方、小田は「真杉といっしょになって以後、間もなく彼は新聞社を止めていた」と書き、
別の箇所には、小田が中村と親しくなったのは坪田譲治を介してで、坪田の目白の家で
二人が会ったり、その家の近所に住んでいた中村の家で会ったりしたと書いている。
都新聞退職は昭和11年9月で、中村の年譜には昭和10年の項に「この年、坪田譲治を
知り、以後長く同氏の知遇を得る。」とあることからすると、二人の同棲は昭和11年初め
ないし中頃から、目白近くの家でということになる。下落合は目白に近いが・・。

他に、井伏は「中村君は吉祥寺から下落合の方に引越した。」と書き、続けて中村から聞いた
こととして「突然、ある一人の女流作家がバスケット一つだけの支度でやってきて・・」とある。
北原は昭和12年頃から中村・真杉と特に懇意になったが  ”中村が都新聞を辞めた頃には
同棲していた” と書き、 文壇通の巌谷大四は "同棲は昭和11年の末頃から”と書いている。

二人が親密になった時期は早かったとしても、同棲は11年頃と考えてよかろう。中村が吉祥寺
に住んだ期間は短く、再び下落合方面へ戻って同棲したと考えるが、事実は不祥である。

このような詮索はヤボなこと・・かとも思うがやはり事実は知りたい。

著名人が実名を挙げて書いたからといって、事実とは限らない・・。 つまり、悪意はなくても
不確かなことを、自分の都合や未確認のままで事実の如く書くことがあるということである。

例えば、本の「後記、解説、書評」などに書いてある作品の背景などにしても、事実を
知らなければ事実でなくてもそのまま納得してしまう・・、こんな例は文学作品に限らず、
日常の中に多々存在する。 事実の追求は必ずしも下衆の勘ぐりではないのである。

ところで・・3.  「真杉静枝」を描いた主な本
巌谷著「物語女流文壇史」には、樋口一葉から現代までの多くの女流作家が登場し、
真杉もその一人で、石川達三著「花の浮草」は真杉がモデルであると紹介されている。
また、「女文士」巻末掲載の多数の参考書籍、雑誌一覧の中に、例えば十津川光子著
「真杉静枝の生涯」がある。おそらく真杉の奔放な人生に魅せられた伝記小説だろう。
高見順は「昭和文学盛衰史」で、真杉の死と東慶寺への納骨に関連して触れている。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

昭和5年、中村は井伏に師事したことで”将棋会 第1期(出発期)”からの会員としたが、
第2期には、中村は会員として積極的に参加し、親交を深めていたことがはっきりする。

     ・太宰とのこと 

中村と太宰は昭和5年に井伏宅で知り合い、一時は小山祐士と井伏門下の3羽烏と
いわれたが、二人が親交を深めたのは太宰が井伏宅に近い天沼へ引越した頃、
つまり中村が大学院に籍を置いた昭和8年以降のことだろう。将棋会第2期である。

井伏宅やピノチオ、界隈の居酒屋で将棋に酒に、他のメンバーも交えて文芸復興
の機運のもと賑やかだっただろう。中村は酒はあまり飲めるほうではなかったが、
誘えば断ることはなかったという。昭和8〜9年頃には青柳瑞穂、蔵原伸二郎、
田畑、小田、木山、古谷、外村、浅見それに太宰、中村は常連だったはずである。

昭和9年秋、太宰は新雑誌<青い花>の創刊に熱心だった。中村もこの計画に
関わったが、創刊号(S9/12)に載った18名の同人の中に中村の名前はない。
山岸によれば、中村は<青い花>という誌名自体に批判的だったという。

なお、山岸著「人間太宰治」には、記憶違いとは思えない間違った記述が一部に
含まれるが、<青い花>の創刊と、1号だけで終わったいきさつが詳しく書いてある。

井伏によれば、中村は吉祥寺に移った頃から太宰との間で口喧嘩が始まった。
<青い花>という題名をめぐってという人もあり、お互いの作風が気に入らない
ということでもありそうで、真の原因は井伏にもわからないと書いている。

昭和10年3月、太宰は中村が社内推薦者になって都新聞の入社試験を受けたが、
中村の立場では如何ともできず、受験に失敗して直後に失踪、鎌倉で自殺を図った。
檀によれば、太宰が失踪した時、中村は「狂言だと思うがなあ〜」と言ったという。

太宰は本気で縊死を図ったのか? 現在において疑問視する研究者も多い。
中村はこの事件を題材に小説「失踪」(S10/9)を、太宰は翌年「狂言の神」を書いた。
太宰の人生の波乱は続くが、中村も真杉との関係に複雑な日々を送るのである。

中村の「陽なた丘の少女」(S13/8)は、真杉との同棲から生まれた作品と思うが、
作中の夢の部分は太宰の以前の鎌倉での心中(S5/11)をアレンジしたものである。

     ・中村の「将棋随筆」 

中村が書いた「将棋随筆」(S13/12)に当時の将棋会の様子が窺える。
戦地を気遣いながらもまだ余裕が感じられ、「小田は、自分(中村)が召集されたので、
自分に代わって小田が将棋会で最下位の地位に転落するとショックを受けた・・」など
ユーモラスな内容で、浅見は「中村と親しくしているうちに、中村にはなかなかひょうきん
なところがあることに気がついた。」と書いているが、そんな一面が窺える随筆である。

中村の召集は昭和12年10月で、将棋会はまだ明確な記録がない第2期(成長期)だが、
会員や当時の文学青年たちの将棋熱の高まりが伝わってくる。

     ・中村の将棋と人柄 

小田の「回想の文士−中村地平」を読むと、二人の親交は比較的濃かったことが窺える。
それによれば、中村の将棋の特徴は「待った」で、一勝負で4〜5回も、何でもないこと
のようにあっさりと「ちょっと待ってね」と言うとか。このことは井伏も書いている。曰く、
「中村はこちらが駒を動かすより先に”待った”という」。憎めない「待った」だったようだ。

その小田が中村について次のようにも書く。

「中村は多くの親しい先輩を持っていた。彼の人見知りしない性質、神経質でないこと、抵抗を
感じたりしない素直さから先輩に可愛がられるのだろうが、これは彼の長所ではあるが、
同時に短所とも言えないか? 親しい先輩を持つ反面、親しい同輩を殆んど持っていない。」 


都新聞の先輩で、宇野千代と結婚、昭和12〜13年当時、中村・真杉と夫婦で親交が
あった北原は、「善良で弱気で感じやすくて素朴な地平さん」と端的に表現している。
中村が、他人のために大盤振る舞いをしたり、”飲む、打つ、買う” にのめり込んだ
という話はない。財力はあっても節度を持った温厚な生活態度だったようなので、
無頼の徒的な強烈な個性を持つ同輩たちには物足りない面があったかもしれない。

中村の外貌については仲間の多くが一致して書いているように、背が高く、体格がよく、
黒目がちの大きい目で、毛深く、手指までもが毛むくじゃらだった。小田は、「いかにも
南方人の感じで官能的なあたたかさ、男性的な明快さ、甘やかな感傷性などが対者に
好感を与えた。」という。相当に年上の女性、真杉が魅せられた所以だろう。

     ・緒方隆士の入院と葬儀 

 昭和13年4月に逝った緒方の葬儀は、親交があった7人の友人によって執り行われた
ことは小田嶽夫の項に詳記したとおりで、中村もその7人のうちの1人だった。

緒方の追悼号となった<日本浪曼派>(S13/8)に中村は「葬儀の朝」を書いた。

      緒方の入院

中村は「葬儀の朝」に「友と呼ぶ緒方君に生前僕は数えるほどしか会ってはいない」
と書いている。初対面がいつ頃なのか不明だが、緒方は<日本浪曼派>創刊時の
同人なので、中村が参加(S10/7)してからは会うことが多かっただろう。

小田によれば、緒方が入院するための費用が続かなくなった時、施療患者として
経堂病院に入院できたのは都新聞にいた中村の奔走によるものだった。
新聞記者の威光で役所の担当者に強く実情を訴えることできた結果だという。
昭和11年夏頃のことだろう。中村はこの9月に文学専念のため新聞社を退職した。 

      友人葬

昭和13年4月28日未明、緒方は中谷孝雄(<世紀><日本浪曼派>などの同人仲間)
に看取られて息を引き取った。その日のうちに多くの文学仲間に連絡されただろう。
中村はその日に「緒方君の土色をした死顔に、永久の決別をした」と書いている。

そして翌29日、早朝に病院へ行って、中谷、小田、中村の3人が霊柩車に同乗して
幡ヶ谷の火葬場へ向かった。火葬場には、田畑、亀井勝一郎、青柳、外村が現れ、
お骨のこと、葬儀のことを相談したのだった。

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昭和12年7月7日、北京郊外で突発した盧溝橋事件は日中全面戦争へと発展し、
10月には、将棋会では中村のほか38歳にもなる青柳にも召集令状が来た。
小田の言葉を借りれば、「国家がこんな状態になると、個人であるこちらの生活も
いきおいあくまでも個人であるわけにいかなくなる。」のだった。

将棋会は第3期(盛会期)に入る。中村は文学に励み、将棋を楽しみ、文学仲間や
著名な先輩たちとの親交を深める一方、真杉との同棲を解消することになるが、
昭和16年には井伏ら多くの文士と共に徴用を受け、戦地へ送られるのである。

( 「中村地平 : 退職して文学専念・真杉静枝」 の項  初UP H18/5 )

「中村地平:第1期 出発期」 の先頭 「中村地平:第2期 成長期」 の先頭


「中村地平」の項     主な参考図書

『中村地平全集 全3巻 』 (中村地平著 S46/2-7 皆美社)から
第1巻 〜 第3巻 -- 「解説 (浅見淵)」 
第2巻 -- 「月報 (城夏子:北原武夫:古谷綱武) 」 ・ 「八年間」
第3巻 -- 「月報 (井上友一郎)」 ・ 「将棋随筆」 ・ 「葬儀の朝」
・ 「女流作家の思い出」 ・ 「年譜」

『女文士』 (林真理子著 1995/10 新潮社)
『物語女流文壇史』 (巌谷大四著 1989/6 (株)文芸春秋)
『昭和文学盛衰史(全2巻)』(高見順著 S33/3・11 文芸春秋新社)

『回想の文士たち』 (小田嶽夫著 1978/6 冬樹社)
『文学青春群像』 (小田嶽夫著 1964 南北社)
『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50 講談社)
『井伏鱒二全集 第22巻 亡友中村地平』(井伏鱒二著 1997/9 筑摩書房)

『人間太宰治』 (山岸外史著 S37/10 筑摩書房)
『小説太宰治』 (檀一雄著 1949 六興出版社)
『評伝太宰治 上巻』 (相馬正一著 1995/2 津軽書房)
『ピカレスク 太宰治伝』 (猪瀬直樹著 2000/11 小学館)

『杉並文学館 -井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士-』 (杉並区立郷土博物館(平成12年))


  
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1期からの
会 員
井伏鱒二 青柳瑞穂 田畑修一郎 小田嶽夫 中村地平
太宰 治 木山捷平 外村 繁 安成二郎 (蔵原伸二郎)

2期からの
会 員
古谷綱武 秋沢三郎 浅見 淵 亀井勝一郎
上林 暁 浜野 修 村上菊一郎 -