(かんばやし あかつき) : 明35(1902).10.6〜昭55(1980).8.28 享年77歳
本名 徳広巖城(とくひろ いわき)。高知県幡多郡田ノ口村(現大方町)に生まれる。
上林は三男五女の長子。後に、妻の病と自らの病との凄絶な戦いを強いられるが、
末の妹、睦子の献身的な支えによって、自ら拓いた私小説作家としての道を全うした。
上林が ”阿佐ヶ谷将棋会” に初めて参加したのは、後述のように昭和13年の8月以降で、
つまり、会の ”第3期 盛会期”からと考えてよいが、上林はそれ以前から改造社の編集者
として作家訪問で阿佐ヶ谷にはよく来ていた。そして自分も作家一筋に生きることを決意し、
昭和11年からは阿佐ヶ谷に住み、<文学生活>の創刊を機に旧知の秋沢の他、浅見、小田、
外村、田畑、青柳、古谷、井伏とも懇意になったはずで、本項で上林を紹介させていただく。
本項は、『上林暁全集(全19巻)』のほか、主に大方町教育委員会発行の 『小伝 上林暁』、
『こころのふるさと 上林暁』 および、妹の徳広睦子著 『兄の左手』 を参考にした。
* 高知県立三中 - 五高(熊本) ---
・父は、教員-酒造業-村長
上林の生家は中農のお百姓で、田畑を耕し養蚕もしていたが、上林の出生時(M35)は、
父伊太郎(21歳)は小学校の教員になったばかりで、母春枝は16歳だった。
父は高知師範学校簡易科を卒業して、宿毛など家から遠い任地を転々としていたので、
上林は、幼時は田ノ口で農作業や裁縫に多忙な母と祖母(祖父は既に故人)と過ごした。
上林は「離郷記」に小作人のことを書いている。農地の一部は貸していたのだろう。
父は7年間の教員勤務の義務期間を終わると家へ帰ってきた。
明治42年 6歳 下田ノ口尋常(現田ノ口)小学校入学。 父は造り酒屋を開業した。
上林の成績は校長が「巖城君ほど優秀な子供は教えたことがない」というほどだった。
大正4年 12歳 高知県立第三中学校(現中村高等学校)に進んだ。
男子7人卒業で中学進学は上林だけだった。往復16kmの道を徒歩通学した。
上林は秋に病気(腸チブス)で休学。 翌5年、1年に復学し、寄宿舎に入った。
この年(T4)11月、父は村長となり、以降18年間務めた。(昭和38年没 84歳)
・中学、高校生活 - 文学へ
大正6年 14歳 <文章世界>を見て大正文学に眼を開かれ、田ノ口村の友人達と
回覧雑誌<かきせ>を出し、30号近くまで続けた。(誌名は村を流れる「蠣瀬川」から)
15〜16歳の頃には、芥川龍之介に傾倒し、将来は作家になろうと思うようなり
徳富盧花、夏目漱石、有島武郎、室生犀星、菊池寛などの作品もよく読んだ。
大正9年 17歳 父の勧めで松山高等学校を受験したが幾何で失敗、不合格。
大正10年 18歳 3月に中学卒業、4月 熊本第五高等学校文科甲類に入学。
秋に、校友会雑誌<龍南>の懸賞創作に応募、「岐阜提燈」が三等に入選した。
ちなみに、この時の七等入選は、同学年の永松定(後年<風車>の仲間)である。
<龍南>の編集に携わるようになり、作家への志を固めていった。
大正11年 19歳 寮を出て熊本市上林町に下宿した。
後に用いた(S2〜)筆名の”上林”はこの町名、”暁”は字画が好きだったことと、
下宿の便所から見た金峰山の美しい暁の光に魅せられたことに由来する。
同宿の女学生や下宿の娘とで文集「梧桐の家」を作った。そこに「校門際の薔薇の花」
と題する小品を書いた。後年の出世作「薔薇盗人」(S7)の原型である。
下宿の庭に大きな梧桐(あおぎり)の木があったことによる文集名だが、後年(S27)、
小説「梧桐の家」を書いて当時を偲んでいる。「天草土産」(S8)も当時の女学生が
モデルで、熊本は上林の忘れ得ぬ甘いほのかな青春が薫る第二の故郷である。
文学のほか、四国の無銭旅行や、九州各地の旅行、山登りを楽しんでいる。
卒業を控えた冬休みに帰郷した上林は、元旦(T13)の朝、蠣瀬川を歩き、入野の浜で
「どんなに不遇で、つらいことがあっても、文学をもって一生を貫こう」と自らに誓った。
上林は、父の望みは上林が法科を出て教育者か政治家になることと知っていたので、
この決意を語気を強めて父に話したところ、父は、結局「やるがええわ」と承知した。
・東大文学部英文科
大正13年 21歳 東京帝国大学文学部英文科に入学。
当時の東大文科は無試験で入学できたので決めたという。
関東大震災直後のこと、復興にざわめく東京に出て本郷界隈で下宿生活を送った。
寄宿舎に入らず42円の下宿住まいとか。贅沢な学生生活であるが両親の春秋の
養蚕による収入がこれに当てられたという。(本郷の下宿相場は20円〜25円(T15))
しかし、上林が3年間の大学生活をどのように過ごしたのか判然としない。
上林は、”大学は卒業したというだけで、無為に、粗末に過ごした。作家志望だったが
手がかりはなく、半ばあきらめの心理でもあった”というように後悔の念を表している。
既述のように、東京の文学青年の間ではこのころから同人活動が盛んで、同人誌
などに作品を残している人が多いが、上林は在学中には同人に参加していない。
しかし、卒業直後に創刊(S2/5)した<風車>には多くの作品を連続して発表している。
学生時代は読書に耽り、想を練って発表の機会を窺っていたと考えてよかろう。
・卒業 - 就職
昭和2年3月 24歳 東大を卒業。 4月に改造社に入社した。
秋沢三郎の項で記したように、上林はすでに長野県の屋代中学の英語教師が
決まっていたが、改造社の入社試験を受けて合格し、中学の方は断ったのである。
学生時代、確かに、自分の将来に迷いを持っていたことが窺えるが、この決断が後の
上林の人生を定め、妻や妹、家族や父母の人生にも絶大な影響を及ぼすことになる。
森本忠のこと・・改造社の入社試験を上林は森本忠(五高-東大同期)と一緒に受け、森本は不合格
となったのだった。森本はその後上林らと<風車>を創刊するが、東京朝日新聞社に入社(S6)し、
新聞人として活躍する。森本は昭和14年に「僕の天路歴程」を著し当時を振り返っているというが、
森本の波乱の人生もここから始まったようだ。上林はこのことを「森本忠君のこと」などに書いている。
*改造社時代 ---
改造社は山本実彦が出版界に進出するため創設し、大正8年に雑誌<改造>を発行した。
<改造>は大正末から昭和期にかけて<中央公論>と並ぶ総合雑誌となった。
創作欄も充実し、評論、特集記事、諸企画などで意欲的な編集が行われていた。
改造社の大正15年の企画「現代日本文学全集」は”円本ブーム”を巻き起こした。
| リンク情報 | 「松岡正剛の千夜千冊」 より | 改造社と山本実彦 (松原一枝著) |
・雑誌記者
上林の入社時は「現代日本文学全集」の発刊最中で、校正や宣伝に忙しく携わったが、
6月(S2)には編集部に移り、記者として多くの作家を担当した。岸田国士、横光利一、
宇野浩二、井伏鱒二、川端康成などで、阿佐ヶ谷界隈に住んでいた作家が多い。
・<風車> ”上林 暁” の誕生
改造社入社の翌月、つまり昭和2年5月に上林らは<風車>を創刊した。創刊時の同人は、
五高-東大英文科の友人で上林のほか森本忠、永松定、秋沢三郎らで10人である。
空前の同人雑誌時代(別記)に入り、すでに<葡萄園>、<青空>などが発刊されている。
そこに名乗りを上げたのだが、上林は改造社に小説を書いていることが知れて首になる
ことをおそれ、本名を隠すために”上林暁” の名が誕生したのである。(由来は前記)
上林は創刊号からほとんど毎号のように小説や創作評を発表したという。純文芸雑誌
としてほぼ4年(S6/1まで)、通巻34冊に達した。プロレタリア文学の席巻に耐えて
長期間続いたが、伊藤整、福田清人らの<文芸レビュー>に合流して<新作家>(S6/4)
となり、さらには<新文芸時代>創刊(S7/1)などと続く。更なる発展を期した動きである。
・結婚・家族
昭和3年8月 25歳 田島繁子(20歳)と郷里で結婚式を挙げた。
上林と繁子は遠戚関係にあり、上林が大学3年、繁子が女学校5年の時に見合いをして
2年後に結婚したのである。後に上林が「彼女はモダーンだし、私は野暮だったのだ」と
書いているが、性格の違いと上林が文学一筋にのめりこんだ貧乏生活のため
あるいは早い時期から夫婦間にはしっくりしない空気があったのかもしれない。
昭和6年6月 長女 、 8年5月 長男 、 12年1月 次女、 が誕生した。
・「薔薇盗人」が出世作
上林は<風車>を本拠に作品発表を続けたが、昭和6年6月、機会を得て雑誌<新潮>に
「欅日記」を発表した。商業雑誌に初めて書いた小説でいわば文壇デビュー作であるが、
上林は後年、「文学の20年」(<文学界>(S26))などで、”飽き足らない作品”と恥ずかし
がっている。次いで翌7年8月、同じ<新潮>に「薔薇盗人(ばらとうにん)」を発表できた。
この「薔薇盗人」が好評で、川端康成の推奨があり、出世作、代表作の一つとなった。
昭和8年7月(30歳) 処女創作集「薔薇盗人」を刊行、印税なしで500部にすぎなかったが、
改造社の”徳広”でなく”上林暁”も文壇に知られたようである。 11月(31歳)に改造社が
創刊した<文芸>の編集主任に抜擢され、文芸復興の機運とともに文筆家としての地歩を
築いていったが、一方で妻の体調、精神状態は長男出産後の影響もあって思わしくなく、
妻子は妻の実母と共に半年余りを鎌倉に別居するなど、家庭的には不安定であった。
・改造社退社 - 郷里で1年余
久保田万太郎の原稿が取れなかったため山本実彦社長の叱責を受けたこともあって
勤め人に嫌気がさし、作家として筆一本で生計をたてることを決意、昭和9年4月に
改造社を退いた(正式退社は翌10年4月)。上林が言う「蟻地獄」の生活が待っていた。
厳しい現実にたちまち生活に行き詰った10月、上林は父重病の報せを機に家族を伴って
郷里に帰った。父の病が癒えても上京する気力が沸かず、そのまま1年余を居据わる格好
になったが、上林は父母の困惑や諍いの原因は自分にあると感じる苦悩の日々だった。
「ちちははの記」(S13/9)は、登場人物の名前は実際とは異なるがこの体験が題材である。
小説には書かれていないが、このとき、父は県議の選挙違反事件に巻き込まれ、大正4年から
18年間務めた村長を辞職、平穏な気持ちではいられない状況も背景にはあったのである。
*再上京 - 私小説の道 ---
・阿佐ヶ谷の家
昭和11年1月末 33歳 再び上京のため生家を出発、高知の妻の実家に寄って約1ヶ月
を過ごす間に二・二六事件が起きた。文学をやれる世ではなくなったのかもしれないが
「文学をもって生きる覚悟」を決めて東京へ向かい、まだ兵士が警備する新宿駅へ降りた。
以前の同人仲間の歓迎を受けた。永松、福田、伊藤、秋沢らで、その手助けで早速に
新しい借家を探し、阿佐ヶ谷と荻窪のほぼ中間の天沼(現天沼1丁目)に落ち着いた。
秋沢が大家に交渉して1円負けさせ、家賃は14円となった。6畳、4.5畳、3畳の古い
1戸建ての家だった。このころ、秋沢は阿佐ヶ谷に住み、他の友人の多くもその界隈に
住んでいたので決めたのだろう。3月上旬、一家4人の天沼での生活が始まった。
新宿駅に着いたのは3月2日朝で、永松夫妻、秋沢、福田の出迎えを受けたこと、その日は秋沢の家に
泊まり、伊藤整、小田嶽夫、福田、永松が集まったこと、秋沢の助力で4日目に借家が決まり、5日目の
夕方に引越したこと、臥薪嘗胆の悲愴な気持ちは消えてのうのうと暮らしている・・・などを「靴を大切に
しろ」<文芸通信・5月号>に書いている。3月28日付文章で、まだ多少の”ゆとり”が感じられるのだが・・・。
・”自己をぶちまける”で展ける
そして6月(S11)、<新文芸時代>、<木靴>、<世紀>、の同人らで<文学生活>が
創刊され、上林もこれに参加した。編集者としてでなく作家として井伏をはじめ阿佐ヶ谷
界隈の文学青年との交友が広がったが、健康と作品面ではスランプの極に陥り、
生活は苦しく、心身ともに疲れ果てた。妻の心労も並大抵ではなかったはずである。
資力ある両実家とはいえ、東京に出た一家を十分に援助することは無理だっただろう。
万事に行き詰って絶望の末の昭和12年元旦、上林は遺書のつもりで自己をぶちまけた
ものを残そうと思い立った。体験を題材に「学校」「町と祖母」「ちちははの記」「安住の家」
「風前の灯」「離郷記」の順に書いていった。上林が後(S27)に「私小説の道」<文芸>に、
「書きはじめてみると、意外にも私の文学が展けて来た。(中略) ”自己をぶちまける”
という厳しい文学精神に立脚し、”自己をぶちまける”という文学的方法を会得したの
である。」 と書いているところである。 ここに”上林の私小説”の道が展けたのである。
井伏は、「上林氏は1週間に1ぺんくらい阿佐ヶ谷に出て来て省線電車を眺めたり、半年に1ぺんくらい
ピノチオに来て支那蕎麦を食うだけで、ひどく幸福を感じているんだ」と人に語り、上林もこれを認めて
いたという。再上京(S11/3)以来、上林の心身と家庭事情は、秋沢ら旧来の親しい友人との交遊は
あっても、多くの友と連れ立って将棋や酒、会話を楽しめるような状況にはなかったことが窺える。
発表した作品のうち特に「安住の家」(S13/6)は高い評価を受けた。上林は35歳
になってようやく私小説作家として文壇に再登場し、その地歩を固めたのである。
同年(S13)9月には「ちちははの記」を発表、第二創作集「田園通信」を刊行した。
「安住の家」(S13/6)は、、登場人物の名前は実際とは異なるが再上京時のことが題材である。
小説にある友人の名前”伊坂”は秋沢である。秋沢の家へ集まった”田原””高来”らの名は永松、
福田ら<新文芸時代>の同人である。以前の滝野川の借家は帰郷している間に引き払い、僅かな
家財類は下井草(杉並区)の妻の伯母の家に預けてあったのでそこから運んだと書かれている。
「安住の家」、「ちちははの記」、「離郷記」など、上林が遺書のつもりで書いたという
一連の作品は、深刻な題材にしては筆致に重い暗さがなく、むしろ家族や周囲の
人物への優しい思いやりの情が滲む。 これが ”上林の私小説” の原点だろう。
なお、上林は、「私の小説における真実と嘘の割合は、一、二の例外を除いて、10対0、もしくは
9対1くらいで、8対2になることは先ずない。」と書いている。 (「小説における嘘と真」(S37))
私見だが、上林は、私小説の場合には人物を仮名にしてその経歴や出来事の時期、場所など
については適宜に創作を加え、随筆などは実名で事実を書く姿勢だったのではないだろうか。
*妻の発病 と 妹・睦子の人生 ---
昭和12年1月には次女が生まれた。妻は前2回の出産時、産後の肥立ちは思わしく
なかった。今回も妻は苦しかっただろう。上林の心身も最悪状態の上、貧窮の最中に
あり、妻の精神状態は徐々に蝕まれていったと推察できる。詳しい状況は分らないが、
妻は昭和14年7月に近くの河北病院に入院し、翌8月には小金井養生院へ転入院した。
同じ8月(S14)、第三創作集「ちちははの記」を刊行した。作家としての道が展けたところへ
また新たな試練である。8歳、6歳、2歳の子供を抱え、窮した上林は生家に援助を求めた。
8月初旬、高等女学校を卒業したばかりの末っ子、睦子が手伝いのため上京した。
上林の18歳年下の末の妹である。19歳になったばかりの睦子の人生はここからその
すべてが兄への献身に向かって進みはじめたとは、この時、誰も知る由もなかった。
上林の生涯を支えたこの睦子さん(85歳))は現在も天沼にお住まいである。
*そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---
上林が<文芸>(S14/9)に載せた「将棋盤に題す」という一文に次のようにある。
「先達、阿佐ヶ谷将棋大会を浜野修氏のいるアパートで催した。集まるもの安成二郎、浜野修、
井伏鱒二、浅見淵、古谷綱武、青柳優、木山捷平、亀井勝一郎、僕の九棋士。
盤は持ち寄りなので、僕はこの春早稲田文学社の第三回颯爽会将棋会で優勝して主催者
浅見淵氏から授与された将棋盤を風呂敷に包み、ひるから出かけて行った。-- (後略) --」
この阿佐ヶ谷将棋大会のことは「我が交遊記」(S15/6・国民新聞))にも記述があり、
昭和14年6月(妻の入院の前月)の開催である。昭和13年には木山の日記などに
3月、6月、7月に開催の記録があるが、そこには上林と浜野の名前はないので、
二人はそれ以降の参加と考えてよい。この浜野宅が最初である可能性が大きい。
なお、颯爽会については浅見もその著書で触れているので浅見の項でも触れるが、
この賞品の将棋盤の写真を見ると足付きの厚い盤で、上林は持って行くのにさぞかし難儀
しただろう。盤裏には臍はないが、開催日(S14/3/26)と上林ら参加者10名の署名がある。
私小説の道が展け、文壇に再登場して仕事は軌道に乗り始め、上林の心も
多少は落ち着いた時期にあたり、将棋会へも参加する気になれたのだろう。
井伏など会員との親交は急速に深まり、特に浜野修とは親密な付き合いと
なって200番勝負をした星取表(欄外には会員の四股名記入)が残っている。
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上林37歳 阿佐ヶ谷将棋会は”第3期 盛会期”の最中である。
妻の発病、長期入院という苦境にあって妹睦子の存在は別格だが、将棋も、と言うより
将棋を介した会員仲間との交流は、上林にとっては大きな心の支えだったのだろう。
熱心に会に参加し、戦後、妻亡き後(S21没)も、阿佐ヶ谷会の主要会員の一人となる。
( 「上林暁 : 私小説開眼で道が展ける」 の項 初UP H17/9 )
| 「上林 暁」 の項 主な参考図書
『小伝 上林 暁』 (門脇照男著 1998 大方町教育委員会) 『こころのふるさと 上林 暁』 (上林暁文学館編集 1998 大方町教育委員会) 『兄の左手』 (徳広睦子著 1982 筑摩書房) 『上林 暁全集 増補決定版 全19巻』 (上林 暁著 2000〜2001 筑摩書房) 『日本近代文学大事典』 (S53 講談社) 『酔いざめ日記』 (木山捷平著 S50/8 講談社) 『阿佐ヶ谷文士村』 (村上 護著 1994 春陽堂) 『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 (杉並区立郷土博物館編集発行 H1) |
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| 第1期からの 会 員 |
井伏鱒二 | 青柳瑞穂 | 田畑修一郎 | 小田嶽夫 | 中村地平 |
| 太宰 治 | 木山捷平 | 外村 繁 | 安成二郎 | (蔵原伸二郎) |
| 第2期からの 会 員 |
古谷綱武 | 秋沢三郎 | 浅見 淵 | 亀井勝一郎 |
| 上林 暁 | 浜野 修 | 村上菊一郎 | - |