Part2 井伏鱒二と”阿佐ヶ谷将棋会”

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 会員模様 : 第1 出発期 (S3頃〜S8頃)


    太宰 治  : 東大入学、破天荒人生は続く  


(だざい おさむ) : 明42(1909).6.19〜昭23(1948).6.13 享年38歳


本項の太宰治(本名:津島修治)と別項の中村地平(本名:中村治兵衛) は、
ともに旧制中・高校時代から文学に魅せられ、東京帝国大学文学部に進学した。
昭和5年4月、太宰は仏蘭西文学科、中村は美術史科(美学専攻)である。

青森と九州から上京した二人は共に井伏に師事し、井伏宅で顔を合わせて親交が始る。
そこから二人の文壇登場までの期間は、”阿佐ヶ谷将棋会”の出発期とほぼ重なるが
その間の二人の生活には”動と静”の大きな違いがあった。


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太宰治ほど多くの研究者によって幅広く論じられている作家は少ないだろう。
それほどに魅力のある生き方をし、作品を残したということなのだろうか。

私小説風の作品が多いが、それらは自身を題材にしたフィクションといってよい。伝えられる
言動にもこの類のものが多い。 実像は如何に・・・。 いわばこの謎解きも魅力なのである。
”誕生と同時に大舞台に立ち、自在に振舞い、自ら足早に幕を引いた人生”のように見える。
その自在な動きは、今風にいえば右脳主導で、現代の価値観に通じるものがあるのだろう。

本項の年譜関連は主に『新潮日本文学アルバム 太宰治』(1983/9 新潮社)に拠った。

   *生家が重要文化財に

太宰の生家が新たに国の重要文化財に指定される。(H16/10/16:朝日新聞朝刊(東京))

(同紙掲載の写真 : ”斜陽館”の名でも知られる)

明治40年6月落成。宅地約600坪、1階11室154坪、2階8室100坪の豪壮な大邸宅である。
太宰の生家(津島家)は明治維新後の新興農・商人地主で、父は明治34年に
青森県会議員、同37年には長者番付で県内4位という県下屈指の素封家であった。
大邸宅はこの地に君臨する権力、金力の象徴としての偉容を誇ったのである。

その後、父(津島源右衛門)は、衆議院議員(M45)、貴族院議員(T11)となったが、太宰の中学入学直前(T12/3・
太宰13歳)に東京で病死(享年52歳)した。 長兄文治が家督を継ぎ、弟太宰の行動に悩まされることになる。
 

   *”生れて、すみません

明治42年6月19日、青森県北津軽郡金木村(現金木町)のこの家で最初に生まれた子が
津島修治 (昭和8年から筆名太宰治 )である。 太宰は第10子・6男であるが、兄2人は夭折
したので事実上は4男である。3年後に弟が生まれたが、17歳で病没(S4・太宰20歳)した。

当時の津島家は、直系家族に叔母とその娘たち、それに10余名の使用人で常時30名を
越す大所帯であった。母は病弱、また政治家の妻として多忙のため、太宰は乳母や
叔母に小学校へ上がるまで育てられ、叔母を実母と思い込むほどに母とは疎遠だった。

小学校(T5・6歳〜T11・12歳)では、学力抜群で6年間全甲、主席。中でも作文力は
教師たちが驚嘆するほどだったが、一方でお道化や悪戯といった腕白ぶりを発揮した。
父の意向で1年間を明治高等小学校に通った後、旧制青森中学校(T12・13歳〜
S2・17歳:現県立青森高校))に進み、青森の親戚(豊田)宅に止宿した。

そのまま中学に進学できるところを高等小学校に通ったことについて、太宰は作品の
中で”自分が病弱だったため”と記しているが、これは事実ではないと考えられている。
(この事情については、「進学後に学力不足に陥ることを心配した父が、学力補充
を計ったため」 と『評伝 太宰治-上巻』」(相馬正一著:1995)に詳述がある。)

太宰の人間形成にはこの”家”のもつ特異性が大きく影響したといわれる。
私見であるが、太宰にとってこの”家”は、家庭・家族というより”小社会”であった。
誕生と同時にその裕福な小社会の絶対支配者のもとで、自他ともに認める気侭な4男坊として
育てられ、生きたことで太宰文学が成り立ち、そして早い人生の幕引きに繋がったと考える。

太宰が使った詞、 ”生れて、すみません” ( 「二十世紀旗手」(S12/1<改造> の副題)は、この家に生まれ、
しかも豊な才能を授かった幸運に甘える一方で、”我家”という小社会の醜さを感知し、その小社会を取りまく
大社会と接するときは、そこに誕生した運命から抜け出られない悩みを内外に向けて吐露したのだろう。
太宰の心根の優しさ、弱さといった純粋さの表れと解するが、半面、太宰独特の巧みな計算が潜むともとれる。

なお、この「生まれてすみません」という詞は、山岸外史の従兄弟の「遺書(かきおき)」と題する1行だけの創作詩
で、この詩のことを山岸が太宰に話した直後に太宰が無断使用したという。(『人間太宰治』(山岸外史著 S37))

   *文学へ

中学時代は、学業の傍ら読書や創作にも興味を示し、文学の世界に憧れるようになった。
井伏の「幽閉」(後の「山椒魚」)を読んで興奮した”というのはこの時期のことになる。
3年(T14・16歳)では自ら同人誌<蜃気楼>を創刊し、執筆・編集・表紙デザインまで行った。
(<蜃気楼>(T14/11〜S2/2:12冊)については『太宰治 その風土』(S61・小野正文著)に詳述がある。)

成績は常にトップクラスで、中学4年(S2・17歳)で旧制弘前高等学校(現弘前大学)へ進んだ。
(当時の中学は5年制だが、成績優秀者は4年から官立高校を受験することができた。)

弘前高校近くの親戚(藤田)宅に止宿し、入学当初は創作を離れ学業に専念、成績優秀を
保つ意欲を示した。 しかし、芥川竜之介の自殺(S2/7)直後から太宰の生活は一変した。
義太夫・花柳界・読書三昧となり、芸妓昇格直後の小山初代(おやま はつよ:15歳・M45生)
との交際が始った。

2年に進級(S3)はしたが当然学業成績は急下降した。芥川の自殺との関連などこの間の
太宰の胸中は測り難いが、5月(S3)には同人誌<細胞文芸>を創刊して創作活動を再開した。
<細胞文芸>は太宰文学の原点で、この時期に文学に生きる意思を固めたと見られている。

< 細胞文芸 >  時勢は昭和恐慌、農村疲弊を背景にした左翼運動が盛んで、その影響は弘前高校にも
及び、そのことは<細胞文芸>という誌名や、生家を題材にした太宰の作品にも現れている。 また、太宰は
中央の作家にも寄稿を依頼し、船橋聖一、久野豊彦、井伏らが応じた。井伏が送った「薬局室挿話」は、
<細胞文芸>4号(S3/9)に掲載されたが、太宰はこの号をもって終刊し、自らは青森の同人誌<猟騎兵>
に加わる一方、学校の新聞雑誌部委員となって左翼的とみられる活動や小説の発表を続けた。

[ ペンネーム ]  太宰は、中学時代から本名(津島修治)の他にいくつかの筆名を使っている。
<蜃気楼>、<細胞文芸>では、主に”辻島衆二”であるが、その後は"大藤熊太”や"小菅銀吉”という
一般大衆風の名前で<弘高新聞>や地元の<猟騎兵>、<座標>などに左翼傾向の作品を書いている。
(当然ながら津島家・長兄文治の立場に背反し、その意向によって未完となった作品もある。)

なお、弘前高校の交友会雑誌(S4/2)に”比賀志英郎”の名で掲載された短篇が太宰の作品
である可能性が高く、同一筆名の短篇は他にも1編あるという。(H16/6/1・:朝日新聞(東京)夕刊)

”太宰治”の名で最初に発表された作品は、<東奥日報>の懸賞入選小説「列車」(S8/2掲載)である。
次いで<海豹>創刊号(S8/3)に「魚服記」を発表して文壇デビューし、以降、この筆名で通している。
(”黒木舜平”の名で書いた探偵小説(<文化公論>(S9/4))があるが、これは例外といってよい。)
”太宰”は自分でつけた名前で、由来は種々推察されているが不祥。”治”は本名からの一字。

[ 自殺未遂(1回目)]  3年2学期の期末試験が始る前夜(S4/12/10・20歳)、太宰は常用の催眠薬
カルモチンを大量に飲んだ。最初の自殺未遂事件といわれる。左翼的言動や創作、学業成績不良、
小山初代との交際などで、”家”、特に長兄との関係に悩んだのだろうが、動機ははっきりしていない。
未遂の結果を計算したうえでの大量服用で、本気で死ぬ気ではなかったという見方もある。
約1ヶ月後(S5/1)、左翼関係仲間の弘前高生多数が弘前警察に検挙されたが太宰は検挙を免れた。

   *東京 - 井伏に師事 - しかし・・・

昭和5年、 弘前高校を卒業(20歳)して東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学。
上京当初は本郷に下宿したが、5月には三兄圭治(東京美術学校在籍:この年6月病没・
享年27歳)の住居に近い戸塚町諏訪(現新宿区高田馬場)の学生下宿常盤館に移った。

井伏に強引に面会を求め、4月か5月頃、神田の作品社で初対面となった。(Part1に既述
井伏宅にも出入するようになり、別記のように中村地平と知り合っている。


しかし・・・、この年(S5)の太宰の身辺は、青森の同人誌<座標>創刊(S5/1=上京前)号から
左翼的小説の連載、三兄圭治の病死、共産党の非合法活動の援助(資金、アジト提供)、
愛人小山初代(おやま はつよ:芸妓)の家出上京決行、対応のため長兄文治上京、太宰の
分家除籍(太宰は義絶と解した)を条件に初代との結婚を文治が承認、等々、多端を極めた。

そして11月、鎌倉の海岸で心中をはかった。女性(銀座のバーの女給・17歳)は死亡、
太宰は自殺幇助罪に問われたが起訴猶予となった。2回目の自殺未遂であった。

この時「江ノ島海岸で投身入水」というのは太宰の作品上のことである。事実は「11月28日夜、鎌倉七里ガ浜の
西端、腰越の小動神社裏海岸の岩の上で、前回と同じ催眠薬カルモチンを多量に服用した」説が有力である。
翌朝8時頃、海岸で倒れているのが発見された。女性は広島から内縁の夫と7月に上京したばかりであった。

今回も動機ははっきりしない。時期的には分家除籍(11/19付)謄本を受け取った直後で、初代との結婚が目前に
ある。財産分与がない一連の措置に太宰は不満で長兄に強い不信を抱き、将来へ不安を感じたこと、つまりは
その意思表明と方向転換を狙ったもので、女性の死は計算外のことであった・・偽装心中・・という見方もある。

翌6年1月、太宰は長兄文治との間で覚書を交わした。ここには太宰の東京での生活費援助額
(120円:銀行の初任給70円の時代)が決められているが、その条件は一言でいえば”東大
を卒業すること”である。刑事事件沙汰、金銭浪費、左翼活動の禁止などが明記されている。

小山初代(おやま はつよ:18歳)と同棲(S6/2・太宰21歳:入籍なし)し、五反田に住んだが、
長兄との覚書に違反し、登校はせず、共産党のシンパ活動のため住居を神田や淀橋(新宿)、
日本橋などを転々としながら創作や読書のほか俳諧(朱麟堂と号す)にも凝って暮らしていた。

結局、昭和7年7月には長兄文治の強烈な勧告に従って青森警察署に自首(出頭)し、8月には
初代と沼津に約1ヶ月滞在して、デビュー作とすべく「思ひ出」を執筆した。9月には東京へ戻り、
芝白金三光町(現港区)にある旧大鳥圭介別邸の離れを借りて住んだ。母屋には、同郷の
先輩で三兄圭治の友人だった東京日々新聞記者飛島定城一家が太宰に誘われて同居した。
飛島は太宰が左翼活動に関わっていた頃に、長兄文治から面倒を見るよう頼まれたという。

太宰は12月に青森検事局に出頭して左翼活動からの離脱を誓約し、以降はこれを実行した。
いよいよ、文学の道一筋に進むこととなって、昭和8年(太宰 24歳)を迎える。

   *”阿佐ヶ谷将棋会” 

太宰は上京(S5)早々に井伏と念願の初対面を果たし、井伏宅へ出入するようになるが、
昭和7年までは、自らの身辺問題に追われてあまり訪問できなかったのではないか。

そして昭和8年2月、白金の借家からの立ち退きを通告された太宰と飛島定城一家は井伏宅
へ徒歩約10分の天沼へ引越した。場所の選定には太宰の意思が働いたかもしれない。

天沼の最初の借家は駅まで遠すぎたので5月に再度引越したが、荻窪駅まで徒歩3分の
この大きな借家(井伏宅へ10分)は、家賃48円で飛島28円・太宰20円の負担だったという。
ここから太宰は井伏宅を頻繁に訪問し、師弟としての関係を深めるようになる。(Part1に既述

井伏は「10年前頃-太宰に関する雑用事-」(S23<群像>)に「昭和7年から数年間、太宰に関する
日記を時々書いた・・・」旨を記しているが、太宰は帰京して仕上げた「思ひ出」を井伏に送り、
井伏は9月15日付(S7)で「甲上の出来」と高く評価し、併せて訓戒・激励の言葉を記した手紙を
太宰に返しているので、このころからの関係ははっきりしてくる。

初対面からこのころまでの井伏と太宰との関係はどの程度だったのだろうか。 『評伝 太宰治-上巻』
(相馬正一著:1995)は、「太宰は左翼のシンパ活動を続けながら小説を何篇か書くと決まって井伏宅を
訪れた。」旨記してるが、『ピカレスク 太宰治伝』(猪瀬直樹著:2000)は 「井伏は用心深く見知らぬ人物は
家に入れなかった。太宰が井伏宅の家の中へ入ることを許されたのは昭和8年以降である。」旨記している。

この間の二人の関係を明確に示す資料が乏しいので前掲の猪瀬説があるのだろうが、井伏宅で太宰と
中村が会ったという井伏の具体的な記述などから前掲の相馬説に近い状況だったと考える。 しかし親密
な師弟関係に発展するのは太宰が天沼へ移ってから、つまり昭和8年の春以降であることは確かである。

この時期に太宰を知った文学関係者は数少ないのではないか。阿佐ヶ谷関係では
別記のように中村地平が井伏宅で会った(S5/4〜5頃)というが、その後は昭和6〜
7年頃知ったという小田嶽夫、井伏が太宰を連れて訪問した青柳瑞穂くらいだろう。
(青柳は”夕食時に出したすき焼きの肉を太宰だけが無遠慮にパクパク食べた”とエピソードを残している。)

太宰が文学青年として東京で活発な活動ができたのは、<海豹>の同人になって創刊号
(S8/3)に「魚服記」を、続いて4月から「思ひ出」を発表した頃からである。(Part1に既述

つまり、太宰は昭和7年以前から井伏宅を訪れ、その時は将棋や酒も楽しんだだろうから
”出発期の会員”だが、会員として本格的に登場するのは”第2期 成長期”からといえる。

 「太宰治 : 東大入学、破天荒人生は続く」 の項  初UP H16/11 )

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1期からの
会 員
井伏鱒二 青柳瑞穂 田畑修一郎 小田嶽夫 中村地平
太宰 治 木山捷平 外村 繁 安成二郎 (蔵原伸二郎)

2期からの
会 員
古谷綱武 秋沢三郎 浅見 淵 亀井勝一郎
上林 暁 浜野 修 村上菊一郎 -

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会員模様 : 第2 成長期 (S8頃〜S13頃)


    太宰 治  : (前) 失踪事件・パビナール中毒   


太宰 治(だざい おさむ):明42(1909).6.19〜昭23(1948).6.13 享年38歳

昭和8年(1933)、太宰 24歳。 ”将棋会 第2成長期” は太宰の20代後半にあたる。
太宰は、昭和5年に弘前高校を卒業、東大仏文科に入学して東京での生活が始まった。
生家は青森県屈指の資産家津島家だったが、東京でも左翼活動に関わり、恋愛問題や
心中事件などで激動の日々が続いた。父の急逝で家督を継いだ兄文治との確執を経て
小山初代と結婚(入籍なし)、昭和7年に左翼活動からの離脱を誓約(S7/12)して、文学に
専念することになった。しかし迎える第
2期も、太宰はまさに新たな動乱の中にいた。

なお、本項は、「評伝 太宰治」 (相馬正一著)、「ピカレスク 太宰治伝」 (猪瀬直樹著)
「NHKカルチャーアワー 文学探訪 太宰治」(渡部芳紀著)を中心にまとめた。

太宰の第2期、昭和8年は本名”津島修治”に代わる”太宰治”誕生に始まる。
筆名のことは第1期の項で”太宰”とした由来は種々推察されていると記したが、
第2期に入るにあたり、このことにもう少し触れておきたい。

== ”太宰治” の由来 ==

相馬正一著「評伝太宰治」に筆名の由来に関する諸説が紹介されている。「ダダイズム」説、
「ダァ・ザイン(da sein)」説、「堕罪」説、その複合説などで、太宰本人は「知人の名」と言って
正面からは語っていないため、太宰の生き様、作品内容が絡んで様々に推察されている。

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私は・・決め手は「ダァ・ザイン(da sein)=そこに存在すること(独語)」だったと考える。
根拠は「葉」 (初出:S9/4 <鷭>) 冒頭のエピグラフである。
「撰ばれてあることの/恍惚と不安と/二つわれにあり  ヴェルレエヌ」

この訳は、堀口大学の「ヴェルレエヌ研究」(S8:第一書房)中の「智慧」によるとされるが、堀口
は昭和7年8月に「ヴェルレエヌ詩抄」を発行しており、太宰が左翼活動を離れ文学の道に専念
するため沼津に約1ヶ月逗留、「思い出」を執筆した時期に重なる。初版は昭和2年なので太宰が
この詩を初めて目にしたのはもっと前かもしれないが、人生再出発に際して太宰が置かれた立場
とその心境に照らせば、昭和7年秋、太宰の心奥を揺すった詞であったことが十分察せられる。

文学者としての成功を思い描く一方で自分は生きるに値するのかという不安が入り混じる
心境だったはずで、自分がこの世にあることを強烈に意識していたのではないだろうか。
新しい筆名の必要に迫られ、はじめは知人の太宰姓、堕罪、ダダイズムなどを頭に浮かべ、
最後はこの強烈な意識 ”存在する(=da sein)” につながる ”太宰” に託したと推察する。

”治”の方は、太宰自身が「”おさめる”は二字(修治)はいらないので”治”だけにした」旨を
語ったといわれており、東奥日報社の懸賞に応募した短編小説「列車」で初めて
”太宰治”を名乗り、これが入選して昭和8年2月19日付<サンデー東奥>紙に掲載された。

次に、エピグラフの意味について、一般に「自分は才能ある文学者として神に選ばれた存在」
という太宰の自負を表明したものとされるが、私はむしろ次のように考えたい。

”撰ばれてある”には、自分が神に選ばれて人間としてこの世に存在すること、つまり生きることを
意識した・・、もちろんその根底にあるのは、富と権勢の「津島家」に生を受けたこと、そして他者
よりも優れた才能を授かったことで、それ故にこそ自身の生と将来の存在価値に拘ったと考える。
亀井勝一郎が左翼思想に傾倒した心情に通じるのではないだろうか。 (亀井勝一郎の項

「葉」には、文学者としての胸中、主張の部分も多いが、全体の流れは”人間としての存在”が
主題のように読める。この主題は「二十世紀旗手」(S12)に一層明確に引き継がれている。
いずれも、筆名決定の背景である太宰の心奥の主題を直接的に表現した作品と考える。

   *文学の道・・井伏宅へ徒歩10分

第1期に詳述の通り、昭和8年に入ると太宰は芝白金三光町から天沼(荻窪)へ引越した。
同郷の先輩、東京日日新聞(現毎日新聞)記者の飛島定城家に同居だが、井伏宅までは
徒歩で10分とかからない所で、井伏宅を頻繁に訪問し、師弟としての親密度を深めていく。

しかし、井伏が作品について直接的に指導した様子は見えない。昭和8年頃の太宰を井伏は
「私は読むだけで批評などしなかったが、厭きもせず次から次によく書いて来た。」と書いている。
このとき、太宰は東大仏文科に在籍していたがほとんど登校はせず、妻初代との生計は
兄文治からの仕送りに頼り、黙々と創作に励んで世に出る機会を窺っていたのである。
 

     ・<海豹> と 古谷サロン(S8)

木山捷平の日記には、昭和8年2月4日に古谷宅で<海豹>創刊の同人会が開催
されたとあり、出席者名の中に”太宰治”の文字がある。<サンデー東奥>に
”太宰治”の名が掲載されるよりも前から”太宰”を名乗っていたことが判る。

古谷綱武の項に記した通り、太宰は<海豹>の同人には予定されていなかったが、
いわば同人試験に合格して創刊号(S9/3)に「魚服記」が掲載されたのである。
<海豹>中心者の古谷綱武が絶賛したのをはじめ、この作品は文学仲間の間で
好評だった。井伏は首をかしげ不安げだったというが次いで太宰は、井伏に
前年9月に認められた「思ひ出」を 2号(4月)、4号(6月)、5号(7月)に連載し、
これがまた好評で彗星の如く東京での文壇デビューを果たしたのである。

この後、いわゆる”古谷サロン”に出入りし、<海豹>同人のほか多くの文学青年と
知り合うようになるが、<海豹>はこれで脱退してしまう。木山の8月5日の日記に、
「太宰君同人脱退の由」とあるという。脱退の理由は、太宰はこの好評に自信を
持ち、自分でもっと自由にできる雑誌を持ちたいと考えたのではないかとされる。

     ・<鷭>創刊 と 「葉」(S9)       

<海豹>脱退後も太宰は古谷宅を訪問しているので脱退にしこりはなかったのだろう。
太宰と檀一雄との初対面は太宰が古谷宅を訪ねた時だった。古谷は昭和8年秋に
檀を知り、その才を認め親交を深めていた時で、その檀は太宰の才に強く魅かれた。

<海豹>が行き詰っていた時期であるが、古谷と檀は太宰を巻き込んで新しい雑誌の
創刊を計画し翌9年4月に発行に至った。季刊誌<鷭>である。尾崎一雄はこの間の
三人の様子を”凄壮と言えるほどの熱中振りだった”と「なめくじ横丁」に書いている。

太宰はここに「葉」を発表した。冒頭のエピグラフと、36に区切られた文節で構成された
変わった形の小説である。各文節は短く、太宰の過去の習作や文学観が盛り込まれ、
相互には直接的な関連のない文節を書き込んだ「葉」を1枚1枚並べた観があるが、
それぞれが太宰の存在、生き様という主題に繋がっている。 「撰ばれてあることの/
恍惚と不安と/二つわれにあり」という根を持つ36葉である。 題名の所以である。

その「葉」は基本的には時系列的に並べられており、「思い出」(3歳〜17歳)に続く
次の時期(18歳(S2)〜24歳(S8))の”太宰の自己紹介”作品ともいわれる。
また、「36」の文節は太宰が朱麟堂と号して俳諧に凝った時期があった(S6〜7)
ことから連句の歌仙の形式が意識されているのではないかともいわれる。

リンク情報 太宰治資料館」(渡部芳紀中大教授) より   ”評釈「葉」”

いずれにしろ、太宰文学の基本姿勢を表明した主要作品の一つと位置づけられよう。
<鷭>の第2号(S9/7)に太宰は「猿面冠者」を発表したが<鷭>はこれで終刊となった。
<鷭>終刊の事情は不祥だが、太宰、檀は続いて新雑誌の創刊に熱意を燃やす。

太宰もまた文芸復興の機運に乗じて新しい文学運動を興そうと、オーソドックスな作品の
ほか、「葉」、「猿面冠者」、次いで<青い花>掲載の「ロマネスク」など、実験的、前衛的
手法の小説を発表するなど、多くの文学青年とともに積極果敢な行動が目立っていた。

     <青い花>創刊 と <日本浪曼派>

      <青い花> - 中原中也との乱闘

<鷭>2号(S9/7)発行の後、秋には、太宰は新雑誌<青い花>の創刊を計画した。
この雑誌にかける太宰の熱気を、井伏は「何か旗あげでもする前のような意気込み
であった」と記しているが、当時の仲間の多くがその意気に感じて集まったようだ。

<青い花>の誌名は、ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスの未完小説の題名と同じで
太宰の当時の文学観を表象するものと受け止められ、山岸外史は中村地平から
この話を聞くと、この題名に魅かれて初めて天沼の太宰宅を訪ねたという。

昭和9年9月13日付の久保隆一郎宛書簡の中に、太宰は「この秋から、歴史的な
文学運動をしたいと思っているのですが」と記し、久保の参加を強く要請している。
太宰の熱意が実って同年12月に創刊し、そこに掲載された同人は18名だった。

主な同人は、太宰、檀、山岸、久保、今官一、中原中也、伊馬鵜平、小山祐士、
木山捷平らで、古谷と中村の名前がないことが気になるが理由は不祥である。

檀によれば、中原の酒席での搦みは凄絶で、太宰との間で同席者を巻き込んで
派手な乱闘劇があったというが、才気にあふれた強烈な個性を持つ二人が互いに
魅かれ、また反発しあう様相は、文芸復興の機運とはいうが先輩、後輩の別なく
自由競争の下で鎬を削る文学青年たちの熾烈な戦いの象徴だったように思える。

古谷と中村が同人になっていないのはこのあたりの雰囲気も関係がありそうに思う。
佐藤春夫、横光利一、井伏は<青い花>の顧問格を要請されたが応じなかったという。
太宰はここに短編の「ロマネスク」を発表した。井伏は高く評価し、尾崎も絶賛した。
太宰の分身を思わせる3人が各人の個性で生きて最後に会する面白い物語である。

太宰は第2号以下を続ける意欲を示していたが続かなかった。
原稿や同人費の集まりが悪かったようで、同人たちの熱意の問題だったようだ。
木山の日記には昭和10年2月20日に「太宰訪問。丁度山岸外史来ていて、
檀一雄も来り話す。この連中は<青い花>はもうつづける気なきなりと。」とある。

<文藝>の2月号に太宰は「逆行」を発表している。<青い花>に載せる予定だったが、
<文芸春秋>1月号に芥川賞・直木賞制度創設の発表があったので、その対象になる
ことを狙って急遽発表したと見られている。太宰が同人誌以外に発表した最初の
作品だが、この時点で<青い花>の続行は諦めていたことになろう。

      太宰 - <日本浪曼派>(S10)

昭和9年秋、<青い花>の計画が進んだ同じ時期に、<日本浪曼派>の準備が具体化
していた。舞台はやはり阿佐ヶ谷界隈で、亀井勝一郎の項に詳記した通りである。

この推進者は、保田与重郎、中谷孝雄、亀井の3名で、昭和10年3月の創刊だが、
前年(S9)11月から<コギト>に創刊を広告し、文学青年たちの関心を集めていた。
誌名や広告に見る文学主張は<青い花>につながるものがあり、保田、亀井は左翼
からの転向であることも太宰につながる。太宰もこれには強い関心を持っただろう。
<青い花>への情熱には<日本浪曼派>への対抗心を含んでいたかもしれない。

太宰の意気込みにも拘わらず、<青い花>第2号は休刊のまま過ぎ、昭和10年3月に
<日本浪曼派>創刊号が発行された。執筆者は保田、中谷、亀井ら計7名だった。

木山は2月20日の日記に「この連中は<青い花>はもうつづける気なかりき」と書き、
翌日(S10/2/21)の日記に、今日、中谷に会った時、「小生、<青い花>の中より、
太宰、山岸、中村を日本浪曼派に合流さすこと引受ける」と書いた。
しかしこの時の木山の誘いには3人とも即答しなかったと続けて書いている。

中谷によれば、太宰は山岸、中村と共に中谷を訪問し、<青い花>として合流する話を
したという。結果的には<日本浪曼派>第3号(S10/5)に載った同人名22名の中に
<青い花>の太宰、檀、山岸、伊馬、木山など8名が入り、<青い花>は廃刊となった。
太宰はこの第3号に自身の心中事件(S5/11)を題材にした「道化の華」を発表した。

<日本浪曼派>は同人少数主義で出発したが、毎月発行のためには少し増やす必要があった。
木山から<青い花>の様子を聞いた中谷はそれならばと太宰らを誘うよう話したのだろう。
一方、太宰には<青い花>を続けられない責任感があり、同人一同揃っての合流を考えたのだろう。
このような背景から、両誌は”合流”とか”合同”と表現されるが、実際には組織的な合体というより、
両誌の同人の思惑が絡みながら、特に<青い花>側の各人の判断で決着したと考えてよかろう。

この時期、昭和10年2月〜3月、太宰は一身上の大問題を抱えていた。
東大卒業は兄文治が仕送りを続ける条件の一つだったが、3月を目前にして
卒業の見込みは全くなかった。ほとんど登校せず、当然ながら単位はなかった。
このことで兄文治からの仕送りが止まれば文学どころか生活ができなくなる・・。

     ・失踪 と 3回目の自殺未遂(S10)

太宰は、東大の講師になっていた中島健蔵を井伏の紹介で訪ねるなど、卒業を画策
したが、卒業できるはずがなかった。次に太宰が考えたのは就職することである。
本気ではなく、とにかく就職して兄文治に申し開きをしようとしたのだと見られている。

都新聞は公募はしないが社員推薦は受けるということで、中村が勧めたのか、中村
に頼んだのかは定かでないが、太宰は中村の推薦で受験し失敗した。激烈な競争
倍率だったという。中村は入社2年目、推薦以上の特別な力にはなれなかったろう。

ここで太宰が取った行動が失踪と3回目の自殺未遂だった。

昭和10年3月14日、太宰は弟分のようにしていた遠戚の若い画学生、小館善四郎と
横浜へ遊びに行った後消息を絶った。 16日には天沼の太宰の家(飛島家の2階)
には井伏、檀、中村、小館、飛島らが集まって大騒ぎになり、井伏は杉並警察署へ
捜索願を出した。 読売新聞は17日朝刊で「新進作家死の失踪?」と報じた。

井伏は太宰への呼びかけを東京日日新聞に載せ、檀は熱海を探し回るなどしたが、
太宰は18日深夜(関係者の言が一致せず、夕刻以降だが正確には不明。)になって
天沼の自宅へ帰ってきた。 首筋に紅い太い蚯蚓腫れがあったといわれている。

このことのいきさつについては、太宰本人が「狂言の神」(S11/10)や「東京八景」
(S16)に書き、ほかに多くの関係者も書いているのでほぼ分っているが、それらは
記録ではなく小説、随筆などのため、いつ、何処でといった細部は判然としない。

それを総合すると、入社試験は3月10日で、太宰は答案の不出来を自覚したようだ。
正式な採否通知の有無は不明だが、太宰は3月14日に横浜泊で遊び、15日に小館
を帰して自分は鎌倉へ行き1泊、16日に深田久弥の家を訪ねた。深田夫人の八穂
(「太宰さんのこと」(S28)にこの時のことを書いている)とは子供の頃故郷で顔見知り
だった。歓待を受け、8時頃に辞した。鎌倉や深田宅を訪ねた理由は不祥である。

その夜(16日)から18日の帰宅まで、太宰の行動は太宰にしか分からない。
年譜では一般に「八幡宮近くの山中において縊死を計ったが失敗」とある。
太宰自身が「鎌倉の山で縊死を企てた」、「首を吊ったが失敗」と書いており、
太宰の首に蚯蚓腫れがあったと飛島、檀、中村、井伏らが書いていることがその
根拠だろうが、この間の具体的な行動は不明である。本気で死ぬ気だったのか、
さらには本当に首を吊る行為があったのかと疑問視する説もある。

この報せを受けて兄文治が上京した。太宰は井伏、檀、中村に同行を頼み兄文治と
会った。兄文治は太宰を青森に帰すと言ったが、井伏らのとりなしによってもう1年間
東京に居られることになった。しかし月額50円の仕送りに減らされたという。上京した
当初の120円が50円に減ったので苦しいだろうが、実際には他に母から不定期だが
幾らかの送金があっというから、質素なら暮らせるだけの金額ではあったろう。
ちなみに、昭和7年、亀井夫妻は生家からの60円の仕送りで普通に生活したという。

ところで・・太宰が東大を除籍されたのは昭和10年9月、授業料未納のためという。
昭和10年3月は卒業の最終期限ではなく、制度上はもう1年間の猶予があった。
太宰が知らないはずはないのに、なぜ突然に激しい極端な行動にでたのだろう?

兄文治との関係といわれるが、それだけなら他の動きでもよさそうである。
芥川賞・直木賞制度創設の正式発表が<文藝春秋>昭和10年1月号にあり、
太宰は「逆行」を<文藝>2月号に発表した。「道化の華」は微妙な時期にあった。
このこととの関連が強いように思うが・・。  太宰の心底を知る人は居ない。

その翌月、昭和10年4月、太宰の人生を一変させる想定外の事態が動き始める。

     ・盲腸手術(腹膜炎:S10) と パビナール中毒       

昭和10年4月、本人は4月4日と書いているが、強い腹痛に襲われて阿佐ヶ谷の篠原病院
(既に閉院)に入院した。盲腸炎の手術をしたが手遅れで腹膜炎を併発した。激痛のため
鎮痛薬パビナールが注射されたが、太宰が使用をせがむため投与量は過剰になった。
パビナールは麻薬性鎮痛薬で依存性が生じ、太宰はいつしか手放せなくなっていた。

1ヵ月後、予後のため兄文治の関係で世田谷の病院に転入院したが、ここでも太宰は
パビナールを欲しがり、内密に薬店で市販薬を購入し自分で注射するようになった。
誰にも気付かれないうちにパビナール中毒になっていた。

   *船橋へ転居 

     ・芥川賞 と 「晩年」出版       

      第1回芥川賞(S10)

6月末で退院と決まり、肺結核にも罹っていたので7月からは転地療養のため千葉県
船橋(現船橋市)に移った。兄文治の意を受けた北芳四郎が療養環境を考慮して
探した家に妻初代と住んだが、太宰は近所の薬店からパビナールを購入した。
太宰は妻初代にも命じ、訪問客には中毒を気付かれないよう巧妙に振舞ったという。
檀は、このころから薬代のために友人知己から多額の借金をしたように書いている。

折りしも第1回芥川賞選考の時期だった。7月22日付の都新聞文壇情報などで太宰は
自分が有力候補であることを知った。ほとんど受賞したかのように喜び、弟分の小館に
7月31日付で”新聞の下馬評だが”としながらも得意げな書簡を送っている。

8月、第1回芥川賞は石川達三の「蒼氓」に決定した。太宰は「逆行」が候補になったが
受賞を逸した。太宰の落胆、衝撃は大きかった。<文芸春秋>9月号に委員による選評が
載り、そのうちの川端康成の評に憤怒した太宰は<文藝通信>(S10/10:文藝春秋刊)に
「川端康成へ」と題して抗議文を発表、川端は同誌11月号でこれに応答して文壇の内外
で大いに注目を浴びた。結果として太宰の知名度向上につながったといえる。

川端は「道化の華」について、作品は高く評価しながら、「作者目下の生活に厭な雲ありて・・」
と、当時の太宰のパビナール中毒や、なりふり構わぬ借金という実生活を批判したのだろう。
太宰は実生活ではなく文学作品としての価値で判断すべきだと怒った。作品と実生活との
関連をどのように考えるべきか、特に私小説の場合は難問だが、文学に限らず、”表彰”という
場合には、対象者の業績と人格を完全に切り離すのは無理だろう。古くて新しい問題といえる。


太宰は最終候補(次席)になって文藝春秋社から原稿依頼があり、「ダス・ゲマイネ」を
同誌10月号に発表、各方面から比較的良好な反響があった。川端も好意的に評した。

山岸によれば、太宰は芥川賞決定後の頃に山岸に佐藤春夫を紹介され、太宰は直接
佐藤に師事したという。佐藤は芥川賞委員の一人で、山岸から事前に太宰のことを
聞き、「道化の華」を読んで太宰の才を認め、選考の場において太宰を強く推した。

佐藤は「逆行」よりも「道化の華」を評価したが、これは選考対象になっていなかった。
候補作を絞る段階で、担当した委員の瀧井孝作は「逆行」の方を高く評価したためで、
最終選考に残った5作品のうち「逆行」と他の3作品は”次席”と決定したのである。

なお、この時の「逆行」は3編から成り、その後1編「盗賊」を加え、現在は4編から成る。
他の次席3作品は、外村繁「草筏」、高見順「故旧忘れ得べき」、衣巻省三「けしかけられた男」


パビナールは太宰の心身を確実に蝕んでいった。副作用には興奮、錯乱、せん妄
などの症状があり、禁断症状には不安、興奮、怒りっぽく、苦悶のため薬を求める
哀訴、嘆願があるという。太宰の言動にはこれらの影響が見られたといわれる。
肉体的にも精神的にも、そして経済的にも徐々に危機は増していたようだ。

ただ、昭和10年秋から年末にかけて、太宰は2回の旅行をしている。昭和10年9月
下旬に太宰、檀、山岸、小館の4人で湯河原へ2泊旅行、12月に弟のように接して
いた甥の津島逸朗と箱根方面へ3泊4日の旅行である。山岸の「人間太宰治」や、
太宰の随筆「碧眼托鉢」(<日本浪曼派>S11/1)に、この旅のことが書いてあるが
中毒には触れておらず、当時の湯河原での写真からもその雰囲気は感じられない。

必要なだけのパビナールを用意して行ったのか、それとも、このころはまだ禁断症状
のコントロールが可能だったのかは判らないが、いずれにしろ、この直後に
佐藤は中毒のことを心配し、その強い勧めで太宰は翌年(S11)2月に佐藤の弟が
医師として勤めている芝の済生会病院に入院することになる。

リンク情報 日本近代文学館 = 作家の写真など公開 → 太宰らの写真多数

      第一創作集 「晩年」 出版(S11)

浅見淵は砂子屋書房で第1創作集叢書を企画し、最初に外村の「鵜の物語」を刊行
(S11/2)したが、その原稿を印刷に出した頃、檀から太宰の「晩年」を発刊するよう
依頼があったと書いている。昭和11年1月頃のことである。檀は太宰から「晩年」と
書いた封筒に入った原稿十数点を預かっていた。太宰は自分の死を念頭に
”遺書として書いた一連の作品” を表象して「晩年」を表題にしたのだった。

檀もまた太宰の様子から死あるいは自殺を感じ、今のうちに「晩年」を刊行したいと
浅見や尾崎一雄に訴えて発行の方針となった。檀によれば、2・26事件の前日、
浅見と太宰宅を訪ね、太宰は大喜びで張り切って出版の打ち合わせをしたという。

ところで、山岸の前著中の「太宰とパビナール」の項によれば、太宰は佐藤の勧めで
済生会病院に入院した日に浅見あてに借金申し込みのハガキを書いており、その日は
2月10日となっている。これより前、2月5日付で太宰は佐藤あて書簡で芥川賞受賞を
哀願し”お伺いした方がよければ直ぐに飛んでいきます”のように書いている。
この毛筆の書簡は全文が写真で見られるが、中毒の影響を思わせる内容である。

佐藤はこれを見て直ぐに済生会病院を手配し、太宰に入院を勧めたのだろう。
しかし、太宰は2月20日頃には退院している。檀が見舞った時には病院を抜け出して
大酒を飲んだという。治療を真面目に受けていなかった。佐藤は後に中毒は完治した
と思っていたように書いているが、実際には未治癒のまま退院した(させられた?)。

2・26事件や砂子屋書房の事情などで「晩年」の出版計画は順調には進まず、中毒の
影響もあって太宰の苛立ちが嵩じた様子が浅見などにあてた書簡から読み取れるが、
6月になってようやく発行された。 出版記念会は7月11日に上野精養軒で行われ、
佐藤、井伏ら友人知己30数名が出席、出席者の芳名録など写真が公開されている。
木山はその日の日記に「会費2円50銭。へんな会であった。司会は檀一雄。
一同そっぽを向いている風であった。」と書いた。この会の雰囲気そのままなのだろう。

太宰は済生会病院退院後もパビナールを続けるため出席者の多くからも借金を重ね、
不義理をしていたはずで、太宰の中毒や心身の変調に多くの人が気付いていただろう。
浅見も「お通夜のよう」と書いており、通常の雰囲気の会ではなかったことがわかる。

ちなみに、「晩年」(S11/6:砂子屋書房刊)所収の15作品は、所収順に「葉」「思い出」
「魚服記」「列車」「地球図」「猿ヶ島」「雀こ」「道化の華」「猿面冠者」「逆行」
「彼は昔の彼ならず」「ロマネスク」「玩具」「陰火」「めくら草紙」である。

渡部芳紀は、「創作集『晩年』は、その総題からも、また、太宰自身の「一聯の遺書の、銘題の
つもり」(東京八景)といった言及などから、死の影の濃いものとして受けとられがちだが、その
基本的方向は生の側に向いていたことが、創作集の結びの一文や創作集の序曲の役割を
になう「葉」の冒頭や末尾の一節からも、うかがうことができよう。」という。
(NHK カルチャーアワー 文学探訪 「太宰治」 : 2006/4-9 ラジオ第2放送テキスト)

      第3回芥川賞も逸す・・(S11)

第2回芥川賞(昭和10年下期作品が対象)は”該当なし”と決まった。太宰としては
「ダス・ゲマイネ」に自信を持っていたが、諦めて次回を期するほかなかった。

そして「晩年」に太宰は絶大な自信を持ち、第3回芥川賞受賞を確信し、兄文治らに
”受賞はほぼ確実”という手紙を書いた。佐藤の言動が太宰をその気にさせたよう
だが、結果は受賞できなかった(受賞は小田嶽夫と鶴田知也)。谷川山麓に滞在して
執筆中に結果を知った太宰は実名小説「創生記」(<新潮>S11/10)に「山上通信」の
項を付し、”佐藤が太宰に授賞すると言った”かのように”芥川賞楽屋噺”を書いた。

これに対し佐藤も、実名小説「芥川賞」(<改造>S11/11)で応酬し、
太宰の才能を讃嘆しながらも憤懣やるかたないという心情を書いた。

太宰が文壇の有力者を巻き込んだ一連のいわゆる”芥川賞事件”は世間の話題となり、
結果的に砂子屋書房など出版社を潤し、太宰の新進作家としての存在を印象付けた。

中毒が進行していた昭和11年、太宰が発表した作品には「碧眼托鉢」(随筆)、
「虚構の春」、「創生記」、「狂言の神」などがある。大胆な構成、内容の作品が多く、
中毒の影響が云々され、文学的評価も分かれるが、全体的には好評で
高い評価が多いといえる。つまり、大方は作品と中毒とは無関係と評価するが、
特に「創生記」については中毒による錯乱下の作品と評される一方、錯乱を演じ、故意
に難しく書き、佐藤とのことも意識的に書き込んだとする見方があり、二分されている。

文学的にはともかく、この昭和11年秋には、妻初代、兄文治、井伏らは、太宰は実生活
において心身面、金銭面ともに破綻状態にあると判断した。「創生記」のことも影響
しただろう。相談のうえ、10月13日に、太宰を半ば騙すような形で東京武蔵野病院
(板橋区)に強引に入院させた。 そして1ヵ月後、パビナール中毒は完治し、退院する。

が、しかし・・、ここからまた、太宰の人生の歯車はとんでもない回転をする。

   ( 「太宰治 : 失踪事件・パビナール中毒」 の項  初UP H18/6 )

HOME (総目次)


1期からの
会 員
井伏鱒二 青柳瑞穂 田畑修一郎 小田嶽夫 中村地平
太宰 治 木山捷平 外村 繁 安成二郎 (蔵原伸二郎)

2期からの
会 員
古谷綱武 秋沢三郎 浅見 淵 亀井勝一郎
上林 暁 浜野 修 村上菊一郎 -
**************************************************************

会員模様 : 第2 成長期 (S8頃〜S13頃)

  
    太宰 治  : (後) 水上心中・デカダン生活    


太宰 治(だざい おさむ):明42(1909).6.19〜昭23(1948).6.13 享年38歳

   *天沼(荻窪)へ再転居して・・ 

     ・入院1ヶ月 − 完治(S11)       

太宰は昭和11年10月13日に東京武蔵野病院(現板橋区小茂根)に入院した。

太宰から内密にするよう厳しく云われていた初代だが、太宰の心身状態もさること
ながら、薬代が嵩んで生活が困難になり兄文治に相談したのではないだろうか。
東京にいる北芳四郎が文治の意を受けて病院の手配など入院について主導した。

東京武蔵野病院は当時も現在と同じ場所(当時は板橋区毛呂町で麦畑に囲まれた閑静な所)で、
精神科の入院病棟数棟を備える大きな病院として知られていた。最寄駅は武蔵野鉄道の江古田
(現西武池袋線)だったが、現在は地下鉄小竹向原駅があり、環七道路を一寸入った所にある。


初代、北らは井伏にも状況を報告し、太宰に入院を説得するよう頼んだ。
井伏は佐藤の同意も得て船橋に太宰を訪ね、10月13日に北らと入院を説得した。
太宰は井伏の”懇願”のような態度に抗しきれず診察は受けることを承諾した。

同13日の夕方初診。絶対に入院が必要と診断され、井伏が保証人となって、
その日に病院の特別室(いわばVIP用の個室)に入院した。太宰はこの時点での
待遇には機嫌が良かったようだが、入院3日目(15日)、病院は禁断症状による
自殺の恐れありとして、北の了承を得て太宰を鉄格子の窓の個室に移した。

監禁状態となった太宰は身近な人々や社会の自分への無理解を悲しみ憤った。
人格を否定された屈辱感と敗北感で傷つき人間不信に陥った。退院直後に、入院
生活を「HUMAN LOST」と題して日記風に綴り、自らに人間失格の烙印を押した。

この作品で、太宰は初代を裏切者と激しく罵り、初代を裏で操るのは文治であり、井伏、
佐藤であると云わんばかりの不信感も書いている。特に10月23日「妻をののしる文」に
顕著で、以後は徐々に落ちつき、諦念と敗北感が現れてくる。禁断症状である不安、
苦悶が強く、怒りっぽく、示威的、演劇的で病的人格が端的に見られたという入院当初
からの心の変化を書いており、中毒は治癒したが心に深い傷が残ったことを窺わせる。

入院、治療に関わった人々にすれば、放置すれば太宰の肉体も精神も、また作家生命
も社会的存在としても破滅が目に見えており、治療を最優先したのは当然だったが、
太宰にすれば、そのためにたとえ一時的であろうと人間性の剥奪を望むものではなく、
何と非難されようが自分の信念で作品を書いて死ねるなら本望の気持だったようだ。

病院の「病床日誌」と「看護日誌」が残っており、主治医中野嘉一は「太宰治−主治医の記録」
などの著書に、入院中の太宰の様子などを書いている。太宰の当初の禁断症状による混乱は、
即時禁断のため極端に現れたようだが約1週間で落ちついたとある。


「病床日誌」の表紙に、”津島修治(太宰治)殿”と明記されている。中野医師は文学にも通じており、
太宰の主治医として適任だったようで、病院は良家出の新進作家として処遇していたように見える。


本意か不本意か・・中毒は順調に快方に向かった。退院当日(11月12日)の項には、
退院後の生活について、サナトリウムで肺結核の療養に専念するという案を書いている。
しかし井伏によれば、退院を控えて文治が上京し、北、初代、井伏らで相談の結果、
文治は、退院する太宰に ”東京で専門医の治療を受けながら文学活動を続けてよい、
仕送りは月額90円、3年間とし、その間に自活できなければ帰郷させる”と告げたという。

パビナール中毒は完治し、昭和11年11月12日、退院した。

太宰の入院で、船橋の家を引き払った初代は井伏宅や飛島宅に滞在していたが、
退院によって二人は再び井伏宅に近い天沼の碧雲荘に間借りをして落ち着いた。

太宰はそこで直ちに<新潮>1月号の原稿「HUMAN LOST」を執筆完成し、熱海逗留
(11/25〜)の前に新潮社へ送った。(実際の掲載は予定変更で4月号になった。)

     妻初代が--

太宰が入院している間に、初代は太宰が弟分のようにしていた小館と肉体関係を持った。
この時、初代24歳、小館22歳。極秘にすることを固く約したのだが、翌12年3月初旬、
小館が太宰に告白してしまった。理解し難い流れだが実際に起こったことである。

小館は太宰が入院する直前に自殺未遂のため阿佐ヶ谷の病院に入院した。太宰が盲腸の
手術を受けた病院でる。そしてその直後に太宰は長期入院で面会謝絶となり、初代に暇が
できた。初代は小館の母に頼まれて入院中の小館の付添いをしたが、その時のことだった。
特異な状況にあって昂ぶった感情が二人の若い身体を動かしてしまったということだろう。

小館は退院し、美術学校の卒業作品作成のため青森に帰省した。そして翌12年3月上旬、
その作品を提出するために上京し、友人とともに太宰を碧雲荘に訪ね、酒宴となった。
酔いが回った頃、たまたま小館と太宰は碧雲荘の便所で一緒になり、そこで小館は
初代と関係したことを話したという。太宰はその場はそのままとし、小館が帰ると初代に
問い質した。初代は当初は否定したが、問い詰められると認めざるを得なかった。

「HUMAN LOST」が載った<新潮>(S12/4)発売の直前のことだった。太宰が受けた衝撃
の大きさは察するに余りある。太宰はこの後1年余の間は新しい作品をほとんど発表して
いない。日中戦争や身辺事情の影響もあろうが、精神病院入院とそれに続くこの件が
太宰内部の要因だったことは確かだろう。昭和13年後半から発表を再び積極化するが、
生活態度や作品内容に変化が見られ、太宰文学における中期と云われる時期に入る。

     ・水上心中 − 離別(S12)      

告白を受けて、太宰は3月下旬に初代と水上村の谷川温泉へ行く。半年余り前に滞在
して「創生記」を書いた所である。その山麓で催眠薬のカルモチンを服用して心中を
図るが未遂で二人は別々に帰京し、初代は泥の付いた着物のままで井伏宅に着いた。
この時点で、6年1ヶ月(S6/2〜)にわたる二人の結婚(同棲)生活は事実上終了した。

太宰と初代とは法的には内縁関係だったが、太宰は入籍済と思い込んでいたという。
昭和5年12月に青森の鄙びた温泉場で内祝言を挙げ、太宰はそこから直接帰京し、
翌6年2月に初代を東京(五反田)の家に迎えた。入籍手続は他人任せにしたところ、
手続はされないままだった。実質的には同棲でなく結婚生活だったと言ってよい。
太宰が早い時期にこの事実を知ったら、現実とは違った展開があったのだろうか・・?


太宰は後に、この心中を題材に小説「姥捨」(<新潮>S13/10)を発表したが、大方の
見方は、小説は事実に沿うが事実そのものではなく、心中は太宰が初代と別れる
ために主導した儀式であって、もともと本気で死ぬ気はなかったというものである。

表題の「姥捨」自体がそのことを意味している・・、つまり太宰はいつの頃からか初代と
別れたくなっていたが、精神病院入院と小館との件が続いたことで正式な離別を決意し、
そのための環境作りをしたのである。水上での二人の実際の行動は判然としないが、
服用したカルモチンは少量だったと推測されている。3月下旬の谷川山麓の気温では、
普段着で一昼夜も眠れば無傷でいられるはずがないというのが最大の根拠になる。

帰京後、初代の叔父吉沢祐五郎が間に入って離別の手順を進め、6月に最終決着した。
津島家は太宰には内緒で初代に少なからぬ手切金を払ったという。太宰は机と布団1組
だけを持って碧雲荘に近い、従って井伏宅にも近い下宿屋”鎌瀧”の1室へ移った。
太宰28歳、初代25歳のことだった。

初代は4月まで1ヶ月は井伏宅に身を置き、その後、叔父宅に移って家具類を整理して
6月下旬頃に母の住む青森へ帰っていった。この時、井伏宅には琴が残された。
井伏の随筆「琴の記」(S35/3<週刊朝日別冊>)に初代の姿が残されている。

初代にとって小館の告白は致命的だった。青森へ帰って間もなく北海道へ渡ったが、
狂った人生の流れを変えることは出来なかった。その後、知り合った男性と中国大陸
を転々とした末、昭和19年、青島市で32歳の悲運の生涯を閉じた。(井伏の項

このことがなくても離別していただろうとも云われるが、それにしても余りに厳しい現実だった。
小館は何故告白したのか・・? その後、二人の間には何事もなく、偶然青森で再会した時(S16)
には、初代の母共々世間話など懐かしく語り合ったという。間もなく初代は中国へ渡ったようだ。
小館は多くを語らず、平成15年、青森で、画家として88歳の生涯を閉じた。

作家の近藤富枝が初代の人生を取材し、事実に沿って小説にしているのでご紹介する。

リンク情報 近藤富枝: 水上心中 太宰治と小山初代 日本ペンクラブ:電子文藝館

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

昭和8年、”太宰治”として文壇デビューはしたが、経済的にはまだ兄文治に頼らざるを得なかった。
その兄との約束である東大卒業は果たせず自殺未遂を起し、さらには盲腸炎からパビナール中毒、
芥川賞事件、精神病院入院、小館の告白、妻初代との水上心中、離別と、昭和10年からの2年間に
集中した激動はまさに”小説より奇なり”で、当時は不治の病とされた肺結核にも罹っていた。
もちろんこの間には小説を書き、そして、井伏をはじめ文学仲間との交遊も次のように活発である。
太宰の生命力はとても人間業とは思えず、驚嘆のほかない。

     ・熱海人質事件(S11) 

檀の「小説太宰治」に詳しい出来事で、井伏鱒二の項にも記したところである。
太宰は東京武蔵野病院を退院した11月の25日から執筆のため熱海に逗留したが、
12月にそこを訪れた檀と酒色の日を過ごす。代金の支払いが出来なくなり金策の
ため、太宰は檀を熱海に人質として残して帰京するが数日を経ても金はできない。

太宰はどうすることもできず、井伏宅を訪れて井伏を相手に将棋を指していた。
そこへ付け馬と共に檀が訪ねてきて激怒した。
事情を知らない井伏は驚いたが、佐藤から借金するなどしてこの問題を解決した。

この時、太宰は檀に「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と低く言った。
弱々しいが、強い反撃の響きがあり、太宰の後の名作「走れメロス」(S15)執筆の
重要な心情の発端ではないかと、檀の耳にはいつまでも太宰の声が響いたという。

この時、熱海で仕上げた作品が「二十世紀旗手」(<改造>S12/1)である。入院前に<文芸春秋>
に送った原稿で、短くするよう注文がついたが入院でそのままになっていたのを改稿した。
その「終唱」には”不義は決して告白するな”と書いてある。小館はこれを読んでいただろうか・・。

太宰は、この時はまだ初代と小館の関係を知る由もなかった。

     ・「青春五月党」(S12) 

檀の「小説太宰治」によれば、昭和12年5月頃 ”例のヤケクソ” で太宰、檀、
伊馬鵜平で「青春五月党」を結成し、若い文学仲間や、檀の妹の友人を呼び集めた。
揃って石神井公園へ遊びに行き、大酒を飲んで太宰は大はしゃぎだったという。
伊馬は新宿のムーランルージュで活躍し、悩み多き青春時代を過ごしていた。
この時(5月9日)の一行の写真を見ることができる。(日本近代文学館

檀は「青春五月党」の後に続けて、太宰との自殺未遂があったことを書いている。
二人で荻窪で大酒を飲んで、あるアパートの一室で寝る時にガス栓を開いた。
どのくらいの時間か眠って、太宰は眠っていたが檀は我に返って無事だったという。
場所は ”碧雲荘ではないどこかのアパート” という曖昧さなので、”死”が心の中に
常在した当時の太宰との会話や雰囲気を伝えるための檀の創作かと思えるが、
あるいはこれに近いような成り行き、行動があったのかもしれない。

檀は、同書に、このころのことで、裸で相撲をとったことも書いている。メンバーは、
檀、太宰のほか、秋沢三郎、外村、小田、高橋幸雄、緑川貢だったという。
外村は酔って行事役、緑川が強く、太宰は何回も挑戦したがコロリと転がされた。
檀応召(S12/7)の夏というから、太宰が”鎌瀧”へ移った頃のことだろう。

     ・三宅島旅行(S12) 

この5月に、太宰は1週間の三宅島旅行に参加した。浅見淵の項に記した通りで、
同行者は、井伏、浅見、秋沢、塩月糾、永松定、川崎長太郎、である。

この時期は初代との離別の話が進行しており、また、青森では兄文治の選挙違反事件
が問題になっていた。太宰の人生にとっての重大事の最中であって、東京から隔絶した
離島への長旅などは、普通なかなかできるものではないが、太宰流なのかもしれない。

旅行から帰って6月、初代と正式に離別し、安下宿”鎌瀧”の一室に独居するのである。

     ・木山の日記から 

木山の日記に太宰の名が見えるのは昭和8年2月で、<海豹>創刊の時である。
これが初対面で、以降太宰の名は随所に現れる。太宰は木山より5歳年下だが、
<海豹>同人になったことで中村、檀、古谷ら若手だけでなく、浅見、小田、外村、
秋沢、、田畑修一郎、などいわば先輩格の面々との交友も深めていく。

昭和12年3月29日には日本浪曼派の同人会があり、太宰が久しぶりに出席したこと、
深更、木山らは太宰のアパートを訪問し、3時頃帰宅したことなどが記されている。
水上心中から帰った直ぐ後である。じっとしていられる心境ではなかっただろう。

同年5月6日には、夜、太宰を訪問したところ檀らが居て将棋をしたこと、この日の新聞
に青森で太宰の兄文治が選挙違反で代議士辞退の記事があったことが記されている。
この3日後が前項の「青春五月党」で、その直後の1週間が三宅島旅行となる。
水上心中から2ヶ月足らず、離別話の最中だが、とにかく気を紛らしたかったのだろう。

この夏の盧溝橋事件(S12/7)に端を発した日中戦争で、秋には青柳、中村が召集を受けたが、
檀の召集は7月下旬で、佐藤や、太宰、山岸らに見送られて東京駅を発ち、親密な交遊関係は
断ち切られた。応召による別れや戦死は身近なものとなり、官憲による言論、思想統制の強化は
国民生活に一層暗い影を落とした。将棋が流行した背景として別記したところだが、
太宰の心には、それに加えて如何とも為し難い、拭いようのない複雑な苦悩が満ちていただろう。

そして昭和13年3月3日、「阿佐ヶ谷会 アサガヤの将棋屋にて。」で始まる将棋会の
模様が記される。”会”として開催された初めての記録である。太宰も出席している。
以降、将棋会には積極的に出席した主要会員の一人である。

     ・井伏の目配り 

太宰が東京武蔵野病院を退院する時に兄文治が認めた月90円の仕送りについて、1度に渡すと
太宰が直ぐに使ってしまうことを恐れた文治は、井伏に、30円づつ月3回井伏あてに送金するので、
それを太宰に渡すよう依頼した。井伏は引き受け、太宰への関わりは一層深まって続いたのである。

太宰の「HUMAN LOST」発表後の作品は「燈籠」(<若草>S12/10)と時折の随筆
以外にはなく沈黙の期間を過ごし、ようやく1年半後に「満願」(<文筆>S13/9)を、
翌10月に水上心中を題材にした「姥捨」<新潮>を発表して積極活動を再開する。

「評伝 太宰治 下巻」(相馬正一著)によれば、井伏はこの時期を評して
「太宰君の生涯の中で最もデカダンスな生活」だったと語っているとのこと。

再びパビナールを手にすることはなかったが、特に昭和12年の生活はひどく、
”鎌瀧”で連日文学青年風の若い取り巻きたちと酒を飲む姿が目撃されている。
後年になって名が知られた檀、山岸、緑川、塩月らはその一人だったはずである。

やはり、入院や初代のことで受けた心の痛手は大きく、文学的にも従来の姿勢では
世に受け入れられないと苦悩しただろう。日中戦争を背景に当局の検閲は厳しくなり、
太宰の作品も掲載差し止めを受けたりで、この面での圧力も影響しただろう。

兄文治や、文治に太宰の世話人的役割を委ねられた東京の北と青森の中畑慶吉は
井伏を頼り、井伏も何かと目配りをしていたが、太宰が立ち直るためには
再婚が必要というのが全員一致の思いとなり、やがてその方向に動き始める。

”鎌瀧”時代(S12/6〜S13/9)、太宰の生活は乱れていたが、さきの「燈籠」「満願」「姥捨」
のほかにも原稿は書いていた。それらは昭和14年以降に作品となって発表されるが、
それまでにはない穏和な作風に変わり、”太宰の中期”といわれる時期になる。
この転換は、井伏が関わった見合い(S13/9)、再婚(S14/1)、平穏な家庭生活に重なり、
また、阿佐ヶ谷将棋会第
3期(盛会期)とほぼ一致するのである。

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太宰の転居(住居)と、関わりの深い事項を整理しておく。

期 間 住 居 地 (現住居表示) 主な関連事項(「作品名」は執筆時)
S7/9〜S8/2 港区白金 飛島同居 旧芝区白金三光町 : 筆名=太宰治
S8/2〜S8/5 杉並区本天沼2丁目 飛島同居 <海豹>
S8/5〜S10/4 杉並区天沼3丁目 飛島同居 <青い花> : 鎌倉縊死未遂 : 盲腸手術
S10/7〜S11/10 船橋市宮本1丁目 『晩年』 : 芥川賞事件 : 中毒 : 入院
S11/11 杉並区上荻 照山荘アパート 退院直後の3日間 : 「HUMAN LOST」
S11/11〜S12/6 杉並区天沼3丁目 碧雲荘 「二十世紀旗手」 : 小館告白・水上心中
S12/6〜S13/9 杉並区天沼3丁目 鎌瀧 離別後独居 :「満願」 「姥捨」
S13/9〜S13/11 山梨県の御坂峠・天下茶屋 石原美知子と見合い : 「火の鳥」
S13/11〜S14/1 甲府市朝日5丁目 下宿寿館 旧竪町(*):「I can speak」「富岳百景」
S14/1〜S14/9 甲府市朝日5丁目 旧御崎町 : S14/1結婚 : 「女生徒」
S14/9〜S23/6 東京都三鷹市下連雀 S20甲府、青森に疎開 : 玉川上水心中

(*)旧町名は、一般に「西竪町」の記述が多いが誤りである。「竪町」(たつまち)が正しい(甲府市役所確認)。

( 「太宰 治 : 水上心中・デカダン生活」 の項  初UP H18/7 )

「太宰治:第1期 出発期」 の先頭 「太宰治:第2期 成長期」 の先頭


「太宰治」 の項     主な参考図書

『評伝 太宰治 (上・下巻)』 (相馬正一著 1995/2 津軽書房)
『NHKカルチャーアワー 文学探訪 太宰治』 (渡部芳紀著 2006/4 NHK出版)
『太宰治 心の王者』 (渡部芳紀著 1984/5 洋々社)

『別冊国文学 太宰治事典』 (東郷克美編 H6/5 学燈社)
『けんか飛一代』 (飛島定城著述:編集協力 福島民報社 H6/7 )
『新潮日本文学アルバム 太宰治』 (1983/9 新潮社)

『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50 講談社)
『回想の文士たち』 (小田嶽夫著 1978 冬樹社)
『文学青春群像』 (小田嶽夫著 1964 南北社)

『ピカレスク 太宰治伝』 (猪瀬直樹著 2000/11 小学館)
『小説太宰治』 (檀一雄著 1949 六興出版社)
『人間太宰治』 (山岸外史著 S37/10 筑摩書房)

『井伏鱒二と太宰治』 (ふくやま文学館発行(2001/10))から
「太宰治に関する日記 - 昭和11年 井伏鱒二記」
『太宰治−主治医の記録』 (中野嘉一著 S63/5 宝文館出版)

『太宰治全集 第2巻』 (太宰治著 1989/8 筑摩書房)
この巻には、「創生記」、「HUMAN LOST」、「二十世紀旗手」
「燈籠」、「満願」、「姥捨」、「富岳百景」、「女生徒」、など
昭和11年から14年に脱稿された小説22編が収められている。
「月報」には主治医中野嘉一が太宰の思い出を書き、
巻末にある作品毎の「解題」は山内祥史が丁寧に書いていて、
作品とともに興味ある充実した内容になっている。



  
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