HOME (総目次)


Part2 井伏鱒二と”阿佐ヶ谷将棋会”


-- はじめに --

「阿佐ヶ谷文士村」という呼称がある。この呼称は平成5年(1993)に
杉並区立阿佐ヶ谷図書館開設に際して名付けられたものである。

関東大震災(大正12年(1923))直後から中央線の高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪あたりには
移住者が急増し、界隈は農村から住宅地へと急速に変っていった。
この移住者の中には、無名の文学青年たちも数多く含まれ、
同人誌を軸に交友を広げ、深め、切磋琢磨して世に出る機会を窺っていた。

約20年を経た戦後、”阿佐ヶ谷会”という著名な文士を中心とする交遊の輪ができたが、
メンバーの多くは移り住んだ当時は無名の文学青年たちである。このメンバーをはじめ
阿佐ヶ谷界隈に居住した数多くの文士たちは、昭和の文壇に新風を送り込み、
昭和文学史上に特筆すべき足跡を残している。

阿佐ヶ谷図書館はこの由緒ある地を「阿佐ヶ谷文士村」と名付け、
この地にゆかりのある文士たちの著作、資料を集めた特設コーナーを設けている。

[ 阿佐ヶ谷文士村名簿 ]

このPart2では、”阿佐ヶ谷会”の母体である戦前の”阿佐ヶ谷将棋会”をテーマに
井伏をはじめとするメンバーが激動の昭和を
どのように生き、何を書き、何を残したのかを訪ねてみた。

(注) 「阿佐ヶ谷」という旧住所は、現在の表示では「阿佐谷北」「阿佐谷南」となって「ヶ」がないが、
JRの駅名表示は「阿佐ヶ谷」のままで、地域名としては「阿佐ヶ谷」が通用している。



( 阿佐ヶ谷界隈文学地図 :杉並中央図書館「阿佐ヶ谷文士村展」(H15)のチラシ)



-- 阿佐ヶ谷将棋会 --

”阿佐ヶ谷将棋会”といっても会則や名簿、正式な開催記録があるわけではない。
そもそも”阿佐ヶ谷将棋会”という名称さえもいつから使われたのか判然としない。
木山捷平の昭和13年6月の日記には”阿佐ヶ谷将棋会”と書かれているが、
中村地平が同年12月に書いた「将棋随筆」では”阿佐ヶ谷会”で次の一節がある。

「僕たちの将棋振興に与って力があるのは、阿佐ヶ谷会の存在である。
阿佐ヶ谷会というのは、阿佐ヶ谷を中心とする中央沿線に住まうわかい文学者が、不定期
に集まって酒をのんだり、無駄話をする会合である。幹事は小田嶽夫に外村繁の両君で
あるが、この会でときおりヘボ将棋の会を催して、会員の技倆に等級を決めるのである。」

続いて常連の名や力量、棋風などが記され、このころの大体の雰囲気が伝わってくる。
いつ、誰からということなく、適時 ”阿佐ヶ谷会”とか”阿佐ヶ谷将棋会”の名が
使われたということだろう。

ちなみに、木山捷平の年譜(木山捷平全集 八巻)には昭和11年の項に
「4月 阿佐ヶ谷会が初めて開催された。」とあり、小田嶽夫は「阿佐ヶ谷あたりで大酒
飲んだ」
(S29)に、「日中戦争の少し前ごろに小田らの発起で将棋会開催の通知を
出したのが始まり」という記憶を書いているが、どのような会だったかは不詳である。


1. ”阿佐ヶ谷将棋会”の会員

昭和初期、”阿佐ヶ谷将棋会”に集まったのは井伏鱒二、青柳瑞穂、田畑修一郎、
小田嶽夫、木山捷平、外村繁、古谷綱武、太宰治、中村地平、上林暁、亀井勝一郎、・・・

このころはみんなまだ若く、”文学青年窶れ”をしながら早く世に出たいと懸命だった。
時勢は、左翼の台頭とその弾圧・ファッシズム化・戦争へと激しく動く中、その多くは
政治思想や権力とは距離をおいた立場で、売れない市井の生活を書き、貧乏だった。

(Part1 「荻窪風土記 - 平野屋酒店・文学青年窶れ・阿佐ヶ谷将棋会・外村繁のこと」等が関連)

興味深いのは、各人に 「地方出身者である、長男ではない、実家は
相当に裕福である、父は早世」 という共通項があることである。

もちろん全員がすべてに当てはまるわけではないが、 東京での窮乏生活は、
当人たちの自立心とともに、一寸乱暴な生活振りが一因だったとも云えよう。
これが昭和文学史上に残る大きな足跡に繋がったところが文士の文士たる所以だろうか。

先ずはメンバーのご紹介から ・・・(当地への初転入年順)

(以下、本文中、茶色の名前(例えば井伏鱒二)は、「阿佐ヶ谷文士村名簿」掲載を示す。)

会員名 生-没 (享年) 長男 出生地 出身(中退)学校 当地への
初転入
備考
井伏鱒二 M31-H5 (95) × 広島県 福山中-早大仏文 S2(29歳) 清水・没年まで
青柳瑞穂 M32-S46 (72) × 山梨県 甲府中-慶大仏文 S2(28歳) 阿佐谷南・没年まで
安成二郎 M19-S49 (87) × 秋田県 大館中 S2(41歳) S20:天沼・没年まで
田畑修一郎 M36-S18 (39) × 島根県 浜田中-早大英文 S3(25歳) 阿佐谷北:区外近郊へ
小田嶽夫 M33-S54 (78) × 新潟県 高田中-東京外語 S4(29歳) 阿佐谷南:区外近郊へ
亀井勝一郎 M40-S41 (59) 北海道 山形高-東大美学 S6(24歳) 高円寺北:区外近郊へ
木山捷平 M37-S43 (64) 岡山県 姫路師-東洋大文 S7(28歳) 阿佐谷北:区外近郊へ
外村 繁 M35-S36 (58) × 滋賀県 三高-東大経済 S8(31歳) 阿佐谷南・没年まで
太宰 治 M42-S23 (38) × 青森県 弘前高-東大仏文 S8(24歳) 本天沼:区外近郊へ
秋沢三郎 M36-S55 (76) × 広島県 五高-東大英文 不詳 サンケイ新聞勤務
浜野 修 M30-S32 (60) × 埼玉県 東大美学 不詳 国会図書館勤務
村上菊一郎 M43-S57 (71) 広島県 福山中-早大仏文 S10(25歳) S25:善福寺・没年まで
上林 暁 M35-S55 (77) 高知県 五高-東大英文 S11(34歳) 天沼・没年まで
古谷綱武 M41-S59 (75) ベルギ- 成城高 不詳 S23:成田東・没年まで
浅見 淵 M32-S48 (73) × 兵庫県 神戸二-早大国文 - S25:八王子・没年まで
中村地平 M41-S38 (55) × 宮崎県 台北高-東大美学 - S19:宮崎・没年まで

(注)  (1) 「会員」は、「荻窪風土記:文学青年窶れ」に列挙されている名前に、井伏自身と
”将棋会”への出席状況などから安成二郎、田畑修一郎を加えて16名とした。

(2) 「長男」欄の○は長男、×は長男以外。(秋沢と浜野は不詳だが、本名(三郎と修三)から×と推定した。) 

 
(3) 「当地への初転入」は、阿佐ヶ谷界隈へ最初に引越してきた時と、その時の年齢(転入年-生年)。
備考欄の町名は現表示。「没年まで」は杉並区内で他の場所に転居している場合もある。
「 - 」は、杉並区域居住の記録は見当たらない。従って、”阿佐ヶ谷文士村”の名簿には入っていない。
「不詳」は、明確な記録は見当たらないないが、実際には阿佐ヶ谷界隈に居住したことが知られている。

(4) 「出生地」、「当地への初転入」年及び居住は『阿佐ヶ谷文士村』(H5・杉並区立中央図書館発行)による。
なお、「当地への初転入」は実際と異なる場合がある。(実際の転居と届出時期の相違によるものだろう。)

将棋ができない会員がいたりで、会員名を特定するなどは野暮なことかもしれないが、
この項では、参加者の日記や随筆等の記述から上記の16名を会員として焦点を当てた。
他に、塩月赳、緑川貢、尾崎一雄、石浜金作、石川淳、等々が
出席した記述が見られ、飛び入り的な参加者が少なくない。

もちろん”会長”とか”事務方”がいるわけでもない。世話役は持回り的に決めていたようだ。
会長はいないが、強いて代表格といえば井伏であったというのが大方の見方である。
戦後の”阿佐ヶ谷会”を含め、やはり井伏が中心者であったといってよかろう。


2. ”会”の歩みと会員模様

”阿佐ヶ谷将棋会”は、発足から戦後の”阿佐ヶ谷会”へ変身するまでが約20年で、
ほぼ5年毎に大きな節目を迎えているので、全体を4期に分けることができる。
ここでは各期を「出発期→成長期→盛会期→休眠期」と名付けた。

- 時代の節目にも、多くの会員の文学活動の流れにも、ほぼリンクしているのである -

1期 発足(S3〜S4頃)〜昭和 8年頃(再発足)まで   = 出発期
2期 昭和 8年〜13年(記述がある第1回開催)まで  = 成長期
3期 昭和13年〜18年(最後の会合=高麗神社)まで  = 盛会期
4期 昭和18年〜23年(初の阿佐ヶ谷会開催)まで   = 休眠期


(1) 1期 出発期 (昭和3年頃〜昭和8年頃)                                                                                                  

このころ -- 文壇は ・・・ プロレタリア文学 ・ 芸術派 ・ 同人雑誌 ・ 大衆文学 ・ 円本ブーム
時勢は ・・・ 昭和恐慌 ・ 左翼弾圧 ・ 政党不信 ・ 満州事変 ・ 暗殺続発
世相は ・・・ 農村疲弊 ・ 大衆社会 ・ モダン ・ エロ グロ ナンセンス
ご参考 = 「このころの値段」 あれこれ ( 『値段史年表 明治・大正・昭和』 から抜粋)

(「昭和史(元年〜20年)略年表」も参照下さい。)

  (1)-1 若き文士は阿佐ヶ谷へ 何故? ---

  "中央沿線には三流作家”

このころの文学青年の多くは結婚などを機に仲間の繋がりによって住居を定めたようだが、
電話普及前の時代、出版社などがある都心に近く、仲間が相互に訪問しやすい距離にいて
しかも安価で気安く住める場所という条件にピッタリなのがこの界隈だったのである。

「荻窪風土記 - 荻窪八丁通り」に、その頃(S2)は「文学青年の間では引越が流行のよう
になっていた。中央沿線方面には三流作家が移って行く。それが常識だと言う者がいた。
荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いても、近所の者が後ろ指を差すようなことはない
と言う者がいた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合なところである。」とある。
要約して記したが、新開地として地代、家賃が安かったことも確かである。

しかし、井伏のように自分の家を持った人は例外で、当時は大部分が借家住まいだった。
定職を持たない多くの若い無名文学青年の生活は経済的にも精神的にも不安定だったし、
中には少しずつ名が知れてきた人もいたりで、事情様々、気軽に転居している人が多い。

”将棋会”会員についてみれば、杉並区に永く住んだ人、あるいは転居しても転居先は近郊
(吉祥寺・三鷹など中央線沿線)の人が多く、戦後は”阿佐ヶ谷会”の核になっているので、
”将棋会”には発足当初から、共感の喜び、人を強く引きつける何かがあったといってよい。

  この時、この界隈 ・・・

中央線沿線に移住者が急増したのは、荻窪駅(M24開設)に加え、高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪の
各駅が開設(T11:大震災の前年)したことによるが、他にも青梅街道に路面電車運行(T10:
荻窪〜新宿:後の都電)、現在の西武新宿線開通(S2:杉並区域には下井草・井荻・上井草の
各駅開設)という鉄道の充実と、道路などインフラ整備が進められたことの影響も大きい。

井伏と同時期(S2)に天沼(荻窪駅北口前)に越してきた徳川夢声は「水道もガスも来ていない
から台所のすぐ前に井戸を掘り、薪で飯を炊き、木炭を用いた。」と当時を回想しているが、
上水道は昭和3年:荒玉水道(杉並町などの一部)、同7年:井荻町営水道と普及が進んだ。
電気(電灯)の普及は大正10年頃からで、ラジオ(T14:NHK放送開始)は聞けたが、
電話は荻窪電話局の開局(電話組合が昇格)が昭和8年で、一般への普及は戦後である。

杉並区(杉並・井荻・和田堀・高井戸の4町)の誕生は昭和7年(旧市15区から35区制)である。
昭和18年に東京都となり、現在の23区制はこの35区が原型となって昭和22年に成立した。


(Part1「荻窪風土記 - 荻窪八丁通り ・ 文学青年窶れ ・ 天沼の弁天通り」参照)

  第1期会員、続々阿佐ヶ谷界隈へ ・・・

安価、交通至便、気軽な雰囲気などから、類は友を呼んで無名の文学青年たちが集まった。
会員たちの阿佐ヶ谷界隈への移住事情は各人の項に記すが、概略は次の通りである。

井伏が荻窪に居を定めたのは昭和2年で、その経緯は「荻窪風土記-荻窪八丁通り」に詳しい。
 早大の予科に入って(T6)から約10年間を早稲田界隈で下宿生活したが、震災前から
何度か訪れ、親友の青木南八(T11没・24歳)とも歩き回ったことがある天沼八幡や
弁天池・天沼教会などのある荻窪の地に新居を建てて結婚したのである。(井伏29歳)

青木南八(M31/4生:井伏と同年・早大で同級)は井伏にとって特に親密な存在だった。
井伏の心奥には、荻窪は単にかねて馴染みの土地というだけでなく、夭折した無二の友に
ゆかりある地という思いがあったかもしれない。「鯉」など多くの作品で青木を追想している。)

青柳
蔵原伸二郎と同年齢で慶大予科時代から文学や骨董を通じて極めて親しい関係にあり、
井伏によれば 「阿佐ヶ谷在住の人に骨董の指導を受けたのが縁で二人は結婚を機に
その近くに越してきた」 という。(青柳は実際には結婚(T12)当初は荻窪に住んだ。)

田畑は同じ早大でロシア文学の中山省三郎と親密だった。中山は阿佐ヶ谷に住み(T15:22歳)、
骨董が好きで蔵原・青柳とも親しかったことから田畑も蔵原・青柳との親交が始った。
田畑が郷里(島根)を出るとき、阿佐ヶ谷に居を定めた(S4)背景の一つである。

小田が結婚を機に阿佐ヶ谷に住むようになった(S4)のは蔵原との関係からである。
現在の東京外語大を卒業(T11)して外務省に入り、杭州領事館勤務時代に
蔵原に勧められて<葡萄園>の同人になった(T15)のが作家としての出発点だった。
帰国(S3)後外務省を辞職(S5)して文学一筋の生活に入ったが、
井伏を知ったのも蔵原を介してである。井伏が言う将棋会発足(S4頃)の前年である。

太宰中村は、ともに東大に入学(S5)して井伏宅を訪問するようになった。小山祐士
(M39生:劇作家:「瀬戸内海の子供ら」(S9作))を加え、一時は井伏門下の
三羽烏ともいわれたが、公私にわたる長い親密な関係の出発点がこの時だった。
以降、二人はよく井伏宅を訪れており、一緒に将棋を指していたと井伏は書いている。
太宰の荻窪への転居(S8)は井伏との関係があったからだろう。
中村の住いは杉並地域ではない中野や吉祥寺などだが、荻窪・阿佐ヶ谷には近かった。

木山は結婚4ヶ月目に百人町(現在の新宿区)から阿佐ヶ谷へ越してきた(S7)。詩人仲間として
親しかった野長瀬正夫らがこの界隈に居た影響があっただろう。小田は昭和7年に木山の
訪問を受けたと書いているが、井伏、太宰ら阿佐ヶ谷の文学青年たちと親密になるのは
翌年の<海豹>(S8)参加からで、井伏からは昭和8年に年賀状がきている。

外村は父の死によって継いだ家業(近江商人)を弟に譲って文学に復帰することを決意して
阿佐ヶ谷へ引越した(S8/2)。三高-東大を通じて親しい文学仲間中谷孝雄との関係で
<麒麟>に参加したが、中谷、田畑、小田ら同人の大部分は阿佐ヶ谷界隈の住人だった。
その関係から阿佐ヶ谷を選んだと考えてよかろう。


  (1)-2 空前の同人雑誌(同人誌)時代 ---

昭和文学の源流は、大正末期に始る同人雑誌ブームにあるといわれる。
このことは、、高見順著『昭和文学盛衰史』(S33)、小田切進著『昭和文学の成立』(S40)、
浅見淵著『昭和文壇側面史』(S43)などに詳述されている。浅見によれば、現代も数の多さ
という点では同人雑誌時代であるが、当時の有力誌の特徴は、ほとんどが東京から発行
されていること、学生中心の同人雑誌であることで、現代とは事情を異にしているという。
(浅見の云う”現代”は昭和40年代である。さらに40年を経た現在、時代環境は一変している。)

当時、文学を志した若者の多くは東京の学校に入ってプロへの道を模索していたが、
大学令改正(T9)などによる高等教育の充実によって急増したこれら学生たちにとっても、
インテリ化という構造変化が進む大衆社会にとっても、既成大家の門から世に出るという
旧来の仕組みだけでは満足できなくなっており、学生や卒業して間もない若者たち、つまり、
いわゆる文学青年たちは、自らの手で作品を発表し直接世に問う方策を考えたのだろう。

当時の時勢世相文壇の様子は別記したが、特に関東大震災以降は各方面で若者たちが
目覚しい活動をしており、文学界においても大家というより、プロレタリア文学対反プロレタリア
文学という図式の中で創作や同人活動に葛藤する文学青年の姿が目立っている。

井伏がいう 「文学青年窶れ」、 「メダカは群れたがる = 結構!」 である。

前記の高見などによる3著作には夥しい数の同人雑誌名が載っている。
そのうち有力誌とされているものだけでも数十誌に及ぶ。
その中から、”将棋会”の会員の名が見られるものを選び出してみた。
(昭和初頭までの創刊で、途中から同人に参加の場合を含む : 3著作を総合して要約した)

<世紀> T12/7〜T12/8 井伏鱒二・小林龍雄・三宅彰・古垣鉄郎・光成信男・山崎隆春・栗原信ら(早大系)
<葡萄園> T12/10〜S6/3 加藤元彦・久野豊彦・蔵原伸二郎・
小田嶽夫・吉行エイスケ・古谷綱武ら(慶大系)
<青空> T14/1〜S2/6 梶井基次郎・
外村繁・中谷孝雄・阿部知二・三好達治・淀野隆三ら(三高-東大系)
<朝> T14/2〜T15/6 井葉野篤三・西田実・逸見広・加納幸雄・紺弓之進・伊藤睦男・
浅見淵ら(早大系)
<鷲の巣> T14/10〜? 富沢有為男・佐々木弘之・内山惇一・小林理一・坪田譲二・
井伏鱒二ら(早大系)
<街> T15/4〜T15/10頃? 
田畑修一郎・寺崎浩・火野葦平・坪田勝・中山省三郎・丹羽文雄ら(早大系)
<文藝城> T15/11〜S2/9 井葉野篤三・伊藤睦男・逸見広・尾崎一雄・紺弓之進・村田春海・
浅見淵ら(早大系)
 <風車> S2/5〜S6/3頃 森本忠・
上林暁・吉田正・永松定・相良次郎・秋沢三郎・村岡達二ら(五高-東大系)
<新正統派> S3/1〜S5/5 井葉野篤三・丹羽文雄・尾崎一雄・逸見広・
浅見淵田畑修一郎・坪田勝ら(早大系)
<文藝都市> S3/2〜S4/8 崎山猷逸・船橋聖一・蔵原伸二郎・梶井基次郎・
浅見淵井伏鱒二・小田嶽夫

どれくらいの規模(頁数、発行部数、販売地域など)だったかについては詳しい記述がないのではっきりしない。
<種蒔く人>創刊号は18頁で200部、最盛期の<戦旗>が2万部/月だったという。<青空>創刊号は76頁で30銭
(コーヒー1杯10銭の時代)、また<文藝都市>は”150頁内外の堂々たる雑誌”とされており、概ねは
月刊で、70〜80頁程度、数百部/月の発行、東京の特定書店で販売という姿が思い浮かぶが如何だろうか。

昭和4年4月創刊の<白痴群>について、同人の1人大岡昇平が「白痴群 解説」を記している。
それによれば、「500部印刷、定価30銭、同人の尊敬する作家、詩人と、他の同人雑誌に送ったほかは、
適当に東京の書店に配られた。紀伊国屋書店、丸善などへは特に10部ぐらいおいて貰った。京都へは
20部送られ、大岡の記憶では創刊号は京都で2部売れた。創刊号は全62ページだった
。」という。
中原中也を中心に河上徹太郎、大岡昇平、古谷綱武ら同人9名で6号(S5/4)まで発行された。


  (1)-3 ”阿佐ヶ谷将棋会” 出発進行 ---

   最初の最初

井伏の「風貌・姿勢」(S44.2.25・サンケイ新聞(夕刊):火野葦平)に次の記述がある。
「最初は昭和3年か4年ごろ、小田嶽夫の発起で坪田譲治を囲む会を阿佐ヶ谷の支那料理屋
の寮で開いたが、その次から、毎月1回の割で集まる将棋会をつづけることになった。」
また、「荻窪風土記」には、「発足したのは、大体の記憶だが昭和4年頃であった。」とある。

井伏以外で将棋会の発足時期を昭和3〜4年に遡る記述は見当たらない。
井伏の記述にしても、遠い記憶によるもので極めて曖昧である。

例えば、小田発起の坪田を囲む会は昭和3年か4年頃と読めるが井伏の感違いかもしれない。
小田嶽夫著「小説 坪田譲二」(S45)には、小田は昭和3年に阿佐ヶ谷の蔵原伸二郎宅で
偶然に坪田と初対面、次は翌4年正月に坪田宅(雑司ヶ谷)を訪問したが不在で会えず、
6月に坪田は帰郷してしまったので「親しくなるにはあと何年かの歳月が要った」とある。

井伏が荻窪に引越してきて(S2)間もなく、界隈にいる文学青年仲間を誘って
阿佐ヶ谷南口の焼芋屋が兼業する将棋会所へ行ったのが出発点というところだろう。

阿佐ヶ谷界隈には、このころ、井伏のほかに、安成、青柳、田畑、小田がいた。
それに、文学青年との交友関係が広く、青柳とは格別に親しい蔵原伸二郎もいた。
浅見は井伏とは早大(1年後輩)、聚芳閣(T15に勤務)、<文芸都市>(S3)で一緒だった。

将棋会所の雰囲気が良くないので行かなくなったが、東大に入学した太宰、中村が井伏宅を
訪問する(S5)ようになり、木山も越してきた。井伏は「昭和8年にシナ料理屋ピノチオの
離れを会場に再発足」と書いているので、この間は井伏と親交のあった人たちが折に触れて
指していたのではないだろうか。井伏は「習作に身を入れることにした」時期でもある。

   お目当ては"酒" ? 

将棋の後は酒になって人生論や文学論、混沌の時世・女性談義に夢中だったはずである。
むしろこの方がお目当てだった・・・かもしれない。
まだお互いに"将棋会"という意識はなく、折に触れての将棋であったろうし、将棋抜きの居酒屋
談議もあっただろう。名簿には井伏をはじめ酒を抜きには語れない面々がズラリと並んでいる。
混沌の時代における混沌状態の”阿佐ヶ谷将棋会”出発期である。

(Part1の 「荻窪風土記 - 文学青年窶れ・阿佐ヶ谷将棋会」 が関連)

( (1)-3 までの項 初UP  H16/5 )

  (1)-4  会 員 模 様 --- 

1期 出発期(S3頃〜S8頃)」  登場会員

(”将棋会”に参加したであろう順に記載した。)

   井伏鱒二 : 「<三田文学>からデビュー」 の項へ

   青柳瑞穂 : 「文学の道 / 骨董の道」 の項へ

   安成二郎 : 「年齢・将棋の技量とも別格」 の項へ

   田畑修一郎 : 「旅館を売却して過去と決別」 の項へ

   小田嶽夫 : 「外務省を退職して過去と決別」 の項へ

   中村地平 : 「好青年、東大入学で文学専念」 の項へ

   太宰 治 : 「東大入学、破天荒人生は続く」 の項へ

   木山捷平 : 「無断転進、子の道・父の怒り」 の項へ

   外村 繁 : 「家業を弟に譲って文学復帰」 の項へ


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 蔵原伸二郎 : 会員とすべきか ・・

(くらはら しんじろう) : 明32(1899).9.4〜昭40(1965).3.16 享年65歳

会員名には掲げなかったが、蔵原伸二郎(本名:惟賢・これかた)に触れなければ
ならない。熊本県生まれで家系は肥後国の豪族阿蘇氏の一族で父は大地主である。
プロレタリア文学の蔵原惟人は従弟、母方の伯父に北里柴三郎がいる。

九州学院を卒業し、慶大仏文科を中退した。 詩人・短編作家として慶應系同人誌
<葡萄園>に参加した。小田嶽夫も蔵原に誘われて<葡萄園>に加わっている。

結婚(T13:25歳)を機に、慶應の同級生として格別に親しかった青柳瑞穂宅近く
(現表示・阿佐谷南)に住み、自分の幅広い交友関係の中で多くの文学青年同士を
引き合わせるなどしていたが、特に青柳の人生に与えた影響は強烈だった。

井伏は<文藝都市>に参加(S3)したが、その推薦者は蔵原だった。
田畑修一郎を中心にした<雄鶏>創刊(S6)には、蔵原も小田、緒方隆士と共に
資金を提供した。 以降、<麒麟><世紀><文学生活>と続く同人活動
流れの中に蔵原の名前がある。活発な文学活動を続けていたことが窺える。

蔵原は井伏に高利貸の紹介を頼む(S2)ほどの間柄だったが将棋をした様子はない。
しかし、酒の席にはよく顔を出していたようだ。酒はあまり強くなかったが、仲間との
付き合いを大事にし、楽しんだのだろう。井伏は「小田君についての点描」(S60)で、
会員名の中に蔵原の名も記しているので、”将棋会出発期の会員”であるといえよう。

昭和9年秋に大田区に転居したが、この頃には詩作主体に戻っていた。詩で出発し、
その後小説家を目指したが再び詩作に戻り、保田与重郎の求めで<コギト>
昭和9年9月から1年間発表した詩は萩原朔太郎の激賞を受けた。蔵原の
初期の代表作である初の詩集「東洋の満月」(S14)はこれらの作品から成っている。

「阿佐ヶ谷文士村」(村上護著:H6・春陽堂書店)によれば、「転居後の蔵原は阿佐ヶ谷
文士とは交遊を絶った。その作風はもう阿佐ヶ谷界隈などと縁遠くなっていた。」とある。
つまり、蔵原の転居には独自の詩作に回帰した文学上の理由があったという。

詩作への回帰と転居の時期が丁度重なる。蔵原は詩一本で身を立てることを決意し、
心機一転、新しい生活の場を求めたものと推察するが、そのため結果として
阿佐ヶ谷界隈の文士との交遊は疎遠にならざるを得なかったのだろう。

蔵原の木山捷平宛手紙(S9/10/9付:住所は大森区雪ヶ谷(現・大田区):『感恩集・
木山みさを編』所収)には、文学を一生の仕事とすること、食べるため寒村で他の仕事を
する必要があると思っていること、<世紀>の会に出席すること、などが記されている。
また、木山の日記(S10/2/21))に「中谷孝雄と共に蔵原を田園調布に訪問」の
記述があり、蔵原は引き続き<世紀>、<文学生活>に参加している。

蔵原が意識して積極的に阿佐ヶ谷文士との交遊を絶ったとは考え難いところである。
戦後の阿佐ヶ谷会(S29/5)に招待され出席している。

 蔵原は戦後は埼玉県飯能市やその周辺に住み、昭和40年に第6詩集「岩魚」(S39)
で読売文学賞を受賞したが、前年末頃から病床にあり、授賞式の日に永眠した。


リンク情報 埼玉の文学 ‐現代編-  蔵原伸二郎


(「蔵原伸二郎」 の項 H19/5 改訂UP)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  (1)-5 「阿佐ヶ谷将棋会 第1期(出発期 : S3〜S8)」 のまとめ --- 

 時は昭和3年頃から昭和8年初め頃まで、元号に込めた願いは虚しく砕かれていった。
昭和大恐慌の言葉が示すとおり農村の疲弊は極に達し、街には失業者があふれた。
一方、大正デモクラシーの流れは大衆の民主主義意識の高まりとなり、都市部においては
サラリーマン比率が上がって新中間層を形成し、幅広い大衆文化が生み出された。
大正後期の内外情勢の概略は亀井勝一郎の項に記したとおりである。)

 恐慌、政党腐敗は左翼、右翼、軍部の活動を活発にし、官憲による左翼弾圧や右翼・軍人
による暗殺事件が続発、中国では満州事変など武力行動が拡大、国際連盟脱退に至った。

 文学の分野では、「左翼(プロレタリア文学)でなければウダツが上がらぬ」だった。
左翼雑誌は発禁を見越してか大いに売れ、いわゆる”左傾”が流行のようになった。
無名の文学青年たちは同人誌を発行して世に出る機会を窺ったが、離合集散も激しく、
劣勢をかこつ芸術派といわれる面々は「文学青年窶れ」の日々を過ごしていた。

 関東大震災(T12)を契機として東京の人口は郊外、近郊に急速に広がり、中央線沿線の
高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪あたりの田畑は急速に住宅地に変わっていった。激増する
移住者の中には、左翼、反左翼を問わず多くの文学青年が含まれ、類は友を呼んで
お互い近間に住み、頻繁に歩いて行き来していたのである。昼夜を問わずの不意の
訪問である。電話は高嶺の花の時代、必然の成り行きであったといえる。

 井伏が荻窪に移り住んだ時(S2)、界隈には青柳、蔵原、中山(省)、それに安成が居た。
文学仲間として、また骨董趣味を通じて近所付き合いが始まり、そこへ田畑・小田が
加わった。「将棋会は昭和4年頃、阿佐ヶ谷の会所で発足」という井伏の記憶に従えば、
井伏、安成、田畑、小田あたりが集まったことになる。青柳と蔵原も不得手ながらも
付き合いで一緒だったかもしれない。井伏には蔵原を会員名に掲げた一文もある。
酒には目のない面々で、酒と会話を楽しみに誘い合っていたのではないだろうか。

 さらに界隈には、中村、太宰、木山、外村が来た。井伏とは特に親密な交友が始る。
文学的には各人各様で同じ同人に属す場合もあれば別の行動をとることもあったが、
基本的には純文学で芸術派である。そして、井伏以外のメンバーの小説は
いわゆる私小説の範疇が多いことが目を引く。それぞれの初期の代表的作品には、

田畑 -- 「鳥羽家の子供」  小田 -- 「城外」  中村 -- 「熱帯柳の種子」
太宰 -- 「思ひ出」   木山 -- 「出石」   外村 -- 「鵜の物語」

があり、自らの過去や体験が題材となっている。井伏を含め、時の政治、思想とは
距離を置いた市井の日常生活を描いている。文学関係者には認められても、
時節柄、大きな収入には結びつかず、皆一様に貧乏を強いられていた。

 しかし、それぞれの実家は地方にあって相当に裕福だった。
木山以外は長男ではなく、東京の大学に入ってそのまま東京に住んでおり、
また、中村を除き、早い時期に父親を亡くしているという共通点がある。
詳しくは各人の項に記したが、それぞれが出自や家庭環境などによる強烈な独特の
事情、背景を有し、それが各自の生き方や貧乏振り、作品に色濃く反映されている。

 ”将棋会発足”という昭和4年の年齢(誕生日後)は、井伏31歳、青柳・蔵原30歳、
小田29歳、外村27歳、田畑26歳、木山25歳、中村21歳、太宰20歳。木山、
中村、太宰は独身である。安成(43歳)は別格として、井伏が最先輩格で、
前年(S3)には「鯉」<三田文学>で文壇デビューし、<文藝都市>に「谷間」や
「山椒魚」(S4)を発表して”新進作家”の地位を確立し、さらに「丹下氏邸」
<S6:改造>で文壇に正当に評価されるに至っている。界隈に限らず小説家
志望の青年たちがその周辺に自然に寄り集まったであろうと推察できる。

 ”将棋会”というが、この時期はまだ将棋を指すための会というより、むしろ酒を飲み、
語り、論じ合い、傷をなめ合い、励まし合い、がお目当ての会であったといえる。
結果的には、それが情報収集、支え合い、切磋琢磨、明日への英気に繋がっている。
今風なら、さしずめ若手ベンチャー起業家の懇親ゴルフ、出会いの場とでもいえようか。

 多くの関係者が阿佐ヶ谷会や将棋会のことを書いているが、発足を昭和4年まで
遡るのは井伏だけのようである。将来への強い不安に苛まれる文学青年たちは
心の拠り所の一つとなる交友関係を続けたが、井伏は、その核となった面々が
揃った時点を”阿佐ヶ谷将棋会”の発足と重ねたのである。
戦後、功成り名を為し、超長寿が故に多くの会員の他界を見送るにおよんで、共に
苦闘し懸命に生きた若き激動の日々を”阿佐ヶ谷将棋会”と総称して偲んだのだろう。

 この時期は将棋自体にはあまり意味がなかった、というよりもまだ”会”の体裁が
ないことを思うと、この総称にはむしろ鎮魂と甘酸っぱい郷愁の情が漂う。

ちなみに、井伏は昭和56年(83歳)に<新潮>に「豊多摩郡井荻村(荻窪風土記)」の連載を始めたが、
この時には、田畑(S18)も太宰(S23)も、外村(S36)、中村(S38)、蔵原(S40)も、
木山(S43)、青柳(S46)、安成(S49)、小田(S54)もみんな鬼籍に入っている。(( )内は没年)
先に列記した16名の会員中、健在なのは井伏と村上(S57没)、古谷(S59没)だけだった。


---・・---・・---・・---・・---・・---・・---・・---・・---・・---・・---

  官憲による左翼弾圧は厳しさを増し矛先は文芸活動にも向けられた。小林多喜二虐殺
(S8/2)でプロレタリア文学崩壊は決定的となり、反面で文芸復興の機運が高まった。
しかし、権力による支配、統制には抗い難く、各分野で”転向者”が相次ぎ
ファシズムの流れは勢いを増すばかりだった。

文筆家にも、体制的立場、抵抗的立場、転向、と様々な対応があったが、
井伏をはじめ阿佐ヶ谷将棋会の面々は、政治思想や権力とは距離を置いていた。
日常は一庶民としての普通の生活で、作品のテーマもそこに求めているので
収入には繋がりにくく、苦しい不安な生活が続いていた。

 井伏によれば、”将棋会”はそんな折に「阿佐ヶ谷のシナ料理屋ピノチオの離れを会場
に再発足した」という。界隈の文士のたまり場だったピノチオが将棋会場になったことで
交友の輪はさらに広がり、”会”には新しい顔が加わって”第2成長期”へと移行する。

( (1)-5  の項  初UP H17/2 )

**************************************************************


2期 成長期(S8頃〜S13頃)」 

2期からの
会 員
古谷綱武 秋沢三郎 浅見 淵 亀井勝一郎
上林 暁 浜野 修 村上菊一郎 -

1期からの
会 員
井伏鱒二 青柳瑞穂 田畑修一郎 小田嶽夫 中村地平
太宰 治 木山捷平 外村 繁 安成二郎 (蔵原伸二郎)

3期 盛会期(S13頃〜S18頃)」 (H19/9UP開始)

4期 休眠期」  ・・ 作成準備中 


HOME (総目次)


**************************************************************

茶色の名前(例えば金子洋文)は、「阿佐ヶ谷文士村名簿」掲載を示す。)

このころ(昭和3年〜昭和8年)

(「昭和史(元年〜20年)略年表」も参照下さい。)

文壇は = プロレタリア文学 ・ 芸術派 ・ 同人雑誌 ・ 大衆文学 ・ 円本ブーム

「芥川竜之介の死が、大正文学の終幕と同時に昭和文学の開幕を告げる銅鑼の響きで
あったことは、多くの文学史家が語っている。・・・中略・・・プロレタリア文学と
新感覚派-新興芸術派との対立によって代表される昭和初年代の文学が出発する。」
と『昭和文学史論』(久保田正文著)の冒頭にある。(芥川竜之介:S2/7 自殺 享年35歳)

(Part1「文学青年窶れ」中の「大正末期〜昭和初期の主な文学作品と文学・社会関係出来事」参照)


*プロレタリア文学*

大正末期からの社会情勢を背景に、プロレタリア文学の嚆矢とされる雑誌「種蒔く人」(T10:
小牧近江 金子洋文ら)が創刊された。大震災で廃刊の後、「文芸戦線」(T13/6創刊)に
引き継がれたが、その後激しい分裂、抗争が続き全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成(S3)
を機にナップの「戦旗」派と労農芸術家連盟(労芸)の「文芸戦線」派が対立した。

ナップは共産党の指導のもとマルクス主義文学を目指し、理論的指導者は蔵原惟人で以降
この派が主流となった。徳永直、中野重治、中條(宮本)百合子、小林多喜二などがいた。
分裂後の「文芸戦線」(後に「文戦」と改題)は労芸の指導のもと社会民主主義傾向を深めた。
理論的指導者は青野季吉で、葉山嘉樹黒島伝治平林たい子などがいた。

井伏は「左翼でなければウダツが上がらぬ時節」といい、昭和5年頃川端康成も、福田清人
「これからの新人はプロレタリア文学か大衆文学でなければだめですね」と云ったというくらい
プロレタリア文学は盛況であったが、左翼弾圧の矛先は文芸活動にも向けられるようになり
「戦旗」「文芸戦線」とも、昭和6年・7年に相次いで廃刊に追い込まれた。

昭和8年に地下活動中の小林多喜二が特高に検挙・虐殺され、共産党の最高指導者
佐野学と鍋山貞親が共産主義放棄を声明(転向)し、以降各界で転向者が続出した。
昭和9年にはプロレタリア文学雑誌はすべてその組織とともに崩壊した。

*新感覚派 - 芸術派*

プロレタリア文学の「文芸戦線」(T13/6)に対抗して「文芸時代」(T13/10)が創刊された。
その性格は、前者が「革命の芸術」で、後者は「芸術の革命」であったといわれる。
菊池寛の「文芸春秋」(T12/1創刊)によって登場した若い文学者が中心で、同人は
横光利一川端康成、片岡鉄平ら14名であった。既成文壇を否定、私小説・心境小説等の
個人主義リアリズムを否定し、文学の技法や表現の革命を目指し、「新感覚派」と呼ばれた。

「文芸時代」は、プロレタリア文学に圧倒され廃刊(S2/5)になるが、これを継いで
反プロレタリア文学を旗印に「近代生活」(「新潮」(編集長中村武羅夫)系の同人誌)の
龍胆寺雄、久野豊彦らの提唱で芸術派が大同団結し、「新興芸術派倶楽部」が結成された。

第1回総会(S5/4)には当時の同人誌「早稲田」「蝙蝠座」「文学」「近代生活」「文芸都市」
「三田文学」から30名を越える出席者があり、新興芸術派と呼ばれたが、
主流は提唱した「新潮」系で、他の同人誌系からは批判的に見られ、間もなく自然消滅した。
(「新興芸術派」は実質的には「近代生活」の一派ということであった。)

同時期に「作品」(S5/5)が創刊されている。この顔ぶれは「新興芸術派倶楽部」第1回総会に
出席した「文学」の小林秀雄堀辰雄、永井龍男、「文芸都市」の井伏鱒二、等を含め
川端康成、池谷信三郎、武田麟太郎、横光利一岸田国士三好達治、等々、
「文芸春秋」系と目される新人群で、この後に名を成した人が多い。(S15/4廃刊)

昭和初頭は他にも数多くの同人雑誌が生まれては消えており、メンバーも複雑に
絡み合っている。例えばある時期は左傾するとか、作風が異なる同人に参加するとか
考え方が異なる同人に重複参加するとか、出身校の人脈が関係するとか ・・・ 

志は高いが貧乏な新人にとっては同人雑誌こそが世に出るための唯一の手段であり、
いわば生命線であったといってよい。井伏が「メダカは群れたがる。結構!」と
云っているように特に芸術派は苦境の最中で、各々が懸命に泳いでいたのである。

*大衆文学*

大正末期から台頭した大衆文学(中里介山の「大菩薩峠」が先駆とされる)は
マスメディアの発達と共に純文学に対しての新しい小説のジャンルを形成した。
吉川英治、江戸川乱歩、大仏次郎、直木三十五、小島政二郎、尾崎士郎らが
新聞・雑誌に連載小説を掲載して人気を博した。

*大家活躍*

既成大家では徳田秋声が「順子もの」(S2〜3)と呼ばれる連作でゴシップ的話題となり、
志賀直哉は「暗夜行路 後編」(T11〜S12)に取り組み、島崎藤村は「夜明け前」(S4〜)、
永井荷風は「つゆのあとさき」(S6)を著している。
谷崎潤一郎は関西に移住して「卍」「蓼喰ふ虫」(S3〜)、「吉野葛」「盲目物語」(S6)、
「春琴抄」(S8)を発表しているが、この間に千代子夫人と離婚し、同夫人は佐藤春夫と
結婚するという三者声明をした、いわゆる「夫人譲渡事件」(S5)で世間を驚かしてもいる。

*円本ブーム*

大正15年から昭和2年にかけて、改造社が「現代日本文学全集」(全62巻)、新潮社が
「世界文学全集」(全58巻)を大々的に販売した。定価は一冊1円で”円本”と呼ばれ、
大ブームになった。不況にあえぐ時代、大宣伝と大量生産方式による画期的な廉売で
”モダン”の風潮に乗り、当初の企画を大幅に上回る増巻で大成功を収めたのである。

この頃は、コーヒー一杯10銭、月決め新聞購読料90銭、巡査の初任給は45円だった。
現在に換算すれば大雑把であるが一冊4,000円くらいだろうか。今の感覚では
一寸高いような気もするが、総合雑誌(「中央公論」や「改造」)が80銭であった。単行本
で買うと10円以上になる分量の小説が1冊になっているので超廉価であったという。

その後も、春陽堂「明治大正文学全集」、新潮社「現代長編文学全集」、平凡社「現代大衆
文学全集」等々が続き、漱石、盧花、独歩、啄木らの個人全集も刊行された。
印税で潤った文壇には一寸した”洋行ブーム”がもたらされたという。

しかしこの後、芥川の遺書にあって関心を集めた言葉 ”将来の唯ぼんやりした不安” は、
新元号「昭和」に込めた願いとは裏腹に次第に混沌の度を深め、激動の姿を現していく。

========================

元号「昭和」は、「書経」の中の「百姓明 万邦協」が出典で、
国民すべての安寧と世界の平和を切に祈念したもの

                                       (H16/5 UP)


このころ(昭和3年〜昭和8年)

(「昭和史(元年〜20年)略年表」も参照下さい。)

時勢は = 昭和恐慌 ・ 左翼弾圧 ・ 政党不信 ・ 満州事変 ・ 暗殺続発

明治維新により成立した天皇主権の国体(国家体制)は、大正末期に政党が国政の
中枢に位置する政治体制(政党政治)となり、天皇機関説がこの理論的な支えであった。
しかしこの政党政治は議会での政争を繰り返し、昭和になると党利党略・我欲と目される
財閥との癒着、利権がらみの汚職事件などで国民の信頼を失っていった。

深刻な昭和恐慌・政党不信を背景として民間右翼運動や農本主義運動が活発化し、
これらは軍部の国家改造運動とも結びついて暗殺事件が続発した。
五・一五事件(S7:犬養首相暗殺)で戦前の政党政治は終焉した。

この間に、天皇制打倒を目指す日本共産党など左翼に対する弾圧は強化され、
三・一五事件(S3)、四・一六事件(S4)などで共産党中央部は壊滅的打撃を受けた。

一方、中国情勢は国共合作の成立(T13)、北伐開始(T15)などで軍部は危機感を抱き
山東出兵(S2〜S3)、満州事変(S6)、”満州国”建国(S7)へと武力行動を拡大した。
協調路線の”幣原外交”を軟弱と非難し、軍部主導で国家改造を行う動きもでてきた。
浜口首相狙撃事件(S5)はこの流れの中での出来事であった。

国際連盟は日本の行動と”満州国”を否認(S8)、日本は直ちに国際連盟を脱退した。
日本は世界から孤立し、日中戦争(S12)から第二次世界大戦へと突き進むことになる。

                                          (H16/5 UP)

・・・ もう一寸詳しく ・・・

大正15年(1926)12月25日、大正天皇崩御で「昭和」と改元された。(T15/1〜第一次若槻礼次郎内閣)
”大正デモクラシー”という言葉が象徴するように、大正期は日本近代化の流れの中で
大衆の民主主義意識・運動が盛んになり、政治・経済・社会・文化など各方面でその風潮が溢れた。
一方、世界の大国を目指す支配体制の側は大衆への管理・規制を強化し対立を深めていた。
(T14: 治安維持法公布・改正衆議院議員選挙法(普通選挙法)公布: 加藤高明内閣)

昭和元年はわずか1週間で昭和2年を迎えたが、世界各国は大戦争後の利害や民族独立運動が
複雑に絡み合う不安と変動の渦中にあって、日本も多難な時期とならざるをえなかった。

 第一次世界大戦(T3〜T7)による国内の好景気は反動で戦後恐慌に変り、関東大震災(T12)による震災恐慌が
加わったところへ、金融恐慌(S2/3 渡辺銀行など中小銀行の取り付け騒ぎ、大商社鈴木商店倒産)が起きた。

さらには、世界大恐慌(S4/10:ニューヨーク株式の大暴落に始る)、金解禁(S5/1)により不況は一層深刻化し、
農業恐慌(S5〜 生糸・農産物価格の急激な下落と大凶作(S6・S9)で農村の疲弊は極に達した)に見舞われ、
「昭和恐慌」といわれる時期が続いた。

中国においては蒋介石の「北伐」により日本が第一次世界大戦によって得た権益が危うくなる情勢で、三次にわたる
山東出兵(S2〜(S3/5:済南事件))を行い、中国に対する積極的な干渉が開始された。(S2/4〜田中義一内閣)
同3年6月には陸軍部隊(関東軍)が謀略により張作霖爆殺事件を起こし、抗日運動は激化した。
また、朝鮮・台湾においても日本の植民地支配に対する抵抗運動は激しくなっていた。

朝鮮の元山でのゼネスト(S4)とそれに続く反日デモ発生、台湾の霧社事件(S5)がその例である。

 国内政治では、男子普通選挙(S3/2)による最初の衆議院議員選挙で無産政党から8名が当選した。
直後の3月15日、政府は危機感から全国で共産主義者の検挙・捜索を実施(三・一五事件)し、治安維持法を改正
(S3/6)、さらに特高(特別高等警察)を全県に設置(S3/7)し、左翼等の政治・思想活動の弾圧を強化した。
翌年(S4/4/16)にも共産党員の大検挙が行われ(四・一六事件)、共産党は壊滅的打撃を受けた。

山本宣治(当時の合法最左派議員)の右翼による暗殺事件(S4/3)も起きた。

(張作霖爆殺事件を民政党は「満州某重大事件」として倒閣に利用、田中内閣は総辞職(S4/7)に至り、
浜口雄幸内閣が成立したがこの事件の真相は国内では第二次大戦後まで明らかにされなかった。)


風貌から”ライオン宰相”と呼ばれた浜口首相は、対英米協調・対中不干渉路線(幣原外相)・緊縮財政・金解禁(S5/1 
:井上蔵相)を推進したが不況は激化、ロンドン海軍軍縮会議(S5/4)の条約批准は軍部・右翼の猛反発を招いた。

同5年11月、浜口首相は東京駅で右翼の青年に狙撃され、病状悪化で内閣総辞職(S6/4:第二次若槻内閣成立)。

重傷を負った浜口首相が”男子の本懐”と叫んだと言われているが、秘書官の創作とも言われる。8月26日死去)

陸軍内部では昭和6年に軍部内閣樹立を図った「三月事件」・「十月事件」というクーデター未遂事件が起きている。

同6年9月18日、南満州鉄道奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で線路が爆破された(柳条湖事件)。
関東軍は中国側の仕業あるとして直ちに軍事行動を起こし、たちまち満州(中国東北部)全土を占領(満州事変)、
同7年3月には清朝最後の皇帝溥儀を執政として「満州国」建国が宣言された。

政府は柳条湖事件直後(S6/9/24)に不拡大を表明したが効果なく、軍事行動は拡大した。(S6/10〜犬養毅内閣)
同7年1月、世界各国の注意を満州からそらすため日本軍は謀略によって上海で軍事行動を
開始したが中国側の激しい抵抗を受けた。(上海におけるS12/8の軍事行動と区別し第一次上海事変という)

同7年2月、血盟団(国家主義者井上日召を首領とする右翼暗殺団・団体名は公判担当検事が付けた)による
前蔵相井上準之助暗殺、次いで同年3月、三井合名理事長団琢磨暗殺が続いた(血盟団事件)。
そして、同7年5月15日、海軍の青年将校等の一団が首相官邸で犬養毅首相を暗殺した。(五・一五事件)
「話せばわかる」「問答無用」で拳銃が発射されたといわれる。((政党政治の終焉・海軍の斎藤実内閣成立)

 満州での事態に対し、国際連盟はリットン(英国)を代表とする調査団を設置(S7/1)した。
同7年10月公表の報告書は日本の行動に正当性を認めず、それが国際連盟総会(S8/2)で
賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム)で採択されたため、日本は直ちに国際連盟を脱退した。
日本は世界から孤立し、日中戦争(S12)から第二次世界大戦へと突き進む。


このころ(昭和3年〜昭和8年)

(「昭和史(元年〜20年)略年表」も参照下さい。)

世相は = 農村疲弊 ・ 大衆社会 ・ 新中間層 ・ モダン ・ エロ グロ ナンセンス

関東大震災直後から中央線沿線の人口が急増したことは既述の通りである。
都心部の被害が大きかった、中央線沿線の地価が安かったというだけでなく、
背景にあるのは農村疲弊、離農と大衆社会成立による都市部の膨張であった。

特徴的なのはいわゆるサラリーマン層の比率が増えたことで、高等教育機関の充実が
これを支えており、大衆社会の中で新中間層と呼ばれる階層を構成していった。
地方の二・三男以下が都会へ出て学校を卒業し、そのまま都会で就職することが多かった。

これらの人々は、中央線沿線など近郊の新しい住宅地にいわゆる”文化住宅”を建て、
現代でいう”マイホーム志向”を強め、”大衆文化”を生み出していた。

映画や軽演劇が人気を呼び、ラジオ・新聞が普及し、総合雑誌・婦人雑誌・児童雑誌
が購読され、円本といわれる全集や文庫本で文学作品や大衆小説がもてはやされた。
モガ・モボが銀座を闊歩、ダンスホールやカフェ、音楽喫茶など盛り場も賑わっていた。

また、昭和恐慌と社会不安の中で刹那的な刺激を求める傾向も強まり、
濃厚なサービスを行うカフェやレビュー、エロ・グロ・ナンセンス出版物が人気を博した。
警察の取り締まりは緩やかというよりむしろ大目に見ていたといわれる。

深刻な農村の疲弊、暗い事件が続いていたが、都会においては”モダン”世相と
いわれた時期で、大衆は自らのささやかな幸せを守るべく懸命に生きていた。

ただ、自分個人の今のことだけで精一杯で、権力による統制、支配への
反発力は弱く、ファシズムの流れのまま戦争への道を一直線に歩むことになる。

                                      (H16/5 UP)


・・・ 歌は世につれ、映画は語る ・・・

大正15年夏頃から”モダンガール・モダンボーイ”という言葉が流行った。
この言葉は
新居格(にい いたる)の作で、”モガ・モボ”と省略形にして流行らせたのは大宅壮一といわれる。
昭和初期、日本の政治・経済は激動の時代到来を予測させるような暗い、重い出来事が続くが、
社会的には近代化・都市化の流れが進み、”モダン”はこの時期の世相を象徴する言葉であった。

世相を、歌や映画・演劇などで辿ると ・・・

昭和2年: 日本ビクターと日本コロンビア設立。レコードの大量生産に入った。
「どん底のうた」「モン・パリ」「出船の港」「ちゃっきり節」「佐渡おけさ」などが流行。
築地小劇場で藤森成吉の「何が彼女をそうさせたか」が上演され連日満員となった。
映画は「稚児の剣法」で林長二郎(長谷川一夫)が、「鞍馬天狗」で嵐寛寿郎がデビュー。
「忠治旅日記」などの時代劇が流行り、阪東妻三郎、大河内伝次郎などの剣劇大スターの活躍が続く。
12月に日本最初の地下鉄(浅草〜上野)が開通した。

昭和3年: 電気蓄音機(電蓄)が普及し、歌は「私の青空」「アラビアの歌」「波浮の港」「君恋し」など。
中山晋平(”晋平節”)が活躍。 映画は「浪人街」、「道頓堀行進曲」「新版大岡政談(丹下左膳)」など。
アムステルダムオリンピックで織田幹雄(三段跳)、鶴田義行(200m平泳)が優勝、人見絹江(陸上800m)2位など活躍。

昭和4年: 「東京行進曲」「洒落男」「酋長の娘」など。ポリドール設立。
映画で「大学は出たけれど」など。(失業者が街に溢れていた)。
浅草でエノケンらのカジノ・フォーリーが旗揚げ。ドタバタ劇とエロチシズムで人気を上げていった。

昭和5年: 「祇園小唄」「すみれの花咲く頃」「酒は涙か溜息か」など。キングレコード(講談社)設立。
”古賀メロディー”が次々と流れた。映画で「何が彼女をそうさせたか」など。
下村千秋の「街のルンペン」(朝日新聞連載小説)が好評で、"ルンペン”の言葉が一躍一般化した。

昭和6年: 「侍ニッポン」「女給の歌」「丘を越えて」など。映画では本格的なトーキー時代が始った。
日本最初の本格的トーキー映画の成功作「マダムと女房」。「パリの屋根の下」(フランス映画)など。
映画の中で歌われた歌が流行したり、歌が映画になったりするようになる。

弁士や楽士は失職し、漫談に転向して一躍スターになったのが
徳川夢声や古川緑波ら。
それぞれの道を求め、話芸に、紙芝居屋やチンドン屋に転向して人気を得た人も多かった。
12月に、新宿ムーランルージュが開場した。

昭和7年: 「影を慕いて」「銀座の柳」など。映画では「天国に結ぶ恋」など。(若者の自殺が大流行)。

ロサンゼルスオリンピックで、水泳5種目・三段跳・馬術大障害で金メダル(7個)の活躍。

余談 :この頃の流行歌レコードは1枚 1円50銭。 映画は封切館で40銭〜50銭、 コーヒーは 10銭〜15銭であった。
巡査の初任給は45円。 レコードは高かったともいえるが売上は年々大幅に伸びていた。
レコードは今で云うSP盤(78回転/分)で、録音時間は数分(片面)が限度であった。昭和30年前後から
LP盤(33/分)とEP盤(45/分:ドーナツ盤)が普及し、現在はCD、DVDと進化が続いている。

昭和史(元年〜20年)略年表


************************************************** **************************************************

ご参考 = 「このころの値段」 あれこれ

『値段史年表 明治・大正・昭和 』(週刊朝日編:昭和63年・朝日新聞社発行)から抜粋
(本書には計218品目がその資料提供者名とともに掲載されている。)

巡査の初任給 大正9年 45円 月俸:諸手当を含まない基本給
昭和10年 45円
昭和19年 45円
小学校教員の初任給 大正9年 40〜55円 月俸:諸手当を含まない基本給
昭和6年 45〜55円
昭和16年 50〜60円
公務員の初任給 大正15年 75円 月俸:諸手当を含まない基本給
(高等文官試験合格の高等官)
昭和12年 75円
銀行の初任給 大正15年 50〜70円 第一銀行の大卒の水準
(同一初任給による定期採用が
ない時期もありバラツキがある)
昭和2年 70円
昭和15年 70円
コーヒー 大正10〜12年 10銭 喫茶店(東京)のコーヒー1杯
昭和1〜5年 10銭
昭和9〜15年 15銭
カレーライス 昭和2年 10〜12銭 都心での普通の「並」1皿
昭和6年 10銭
昭和11年 15〜20銭
そば(もり・かけ) 大正9年 8〜10銭                       
                      
                      .
昭和10年 10〜13銭
昭和15年 15銭
ジョッキー一杯 大正15年 23銭 東京のビヤホール、飲食店の
生ビール一杯(1/2g)の標準
昭和6年 23銭
昭和12年 25銭
映画館入場料 大正10年 30銭 日本映画封切館普通入場料
昭和5年 40銭
昭和8年 50銭
昭和14年 55銭
レコード 大正11年 1円50銭 国産のSP盤
昭和7年 1円20銭
昭和12年 1円65銭
新聞購読料 大正9年 1円20銭 「朝日新聞(大阪)」の
月決め定価(夕刊込)
昭和5年 90銭
昭和16年 1円20銭
総合雑誌 大正11年 80銭 「中央公論」
昭和12年 1円
昭和16年 1円30銭
家賃 大正13年 10円 板橋区仲宿(中山道沿)の1戸建
または長屋形式(6・4.5・3・台所・
洗面所)の家
昭和3年 11円50銭
昭和7年 12円
昭和13年 13円
下宿料金 大正15年 20〜25円 文京区本郷の標準:3食付きの
一室(4.5ないし6畳)
昭和3年 25〜30円
昭和11年 30〜35円
芥川賞・直木賞 昭和10〜19年 賞金500円と時計(壷などの記念品の時もあり)

ちなみに・・・

*平成16年春の大卒者の平均初任給は、195,000円(男子198,300円・女子189,500円)、
高卒者は、152,600円であった。(厚労省調査:04/11/26付朝日新聞(東京朝刊))。

*朝日新聞の現在(平成16年)の月決め購読料(夕刊込)は、3,925円である。

*芥川賞・直木賞の現在(平成16年)の賞金額は、100万円である。 

 ( ”「このころの値段」 あれこれ” の項  H16/11UP)

************************************************** **************************************************

2期 昭和 8年〜13年(記述がある第1回開催)まで   =成長期  

3期 昭和13年〜18年(最後の会合=高麗神社)まで   =盛会期 (H19/9UP開始)

4期 昭和18年〜22年(初の阿佐ヶ谷会開催)まで    =休眠期  <作成準備中>


Part2 共通参考図書


(Part1の図書とともに、特に次の文献を参考にした。)

『昭和史の事典』 佐々木隆爾編 (1995) (株)東京堂出版
『日本現代史読本(第2版)』 原田勝正著 (1997) 東洋経済新報社
『岩波新書 昭和史(新版)』 遠山茂樹他 (1982) (株)岩波書店
『決定版 昭和史 第5巻 昭和の幕開く(昭和元年--昭和5年)』 (S59) 毎日新聞社
『決定版 昭和史 第6巻 満州事変(昭和6年--昭和8年)』 (S59) 毎日新聞社

『値段史年表 明治・大正・昭和』 週刊朝日編 (S63) 朝日新聞社

『日本近代文学大事典』 (S53) (株)講談社
『日本近代文学年表』 (H5) 小田切進編
『詳解 日本文学史(三訂版)』 犬養 廉ほか監修 (1997) (株)桐原書店 
『昭和文学盛衰史』 高見 順著 (1987) (株)文芸春秋 (単行本全2巻(S33))
『昭和文壇側面史』 浅見 淵著 (1996) (株)講談社
『昭和文学の成立』 小田切進著 (1965) 勁草書房
『大岡昇平全集 18 -「白痴群」解説-』 大岡昇平著 (1995) 筑摩書房

『阿佐ヶ谷界隈の文士展-井伏鱒二と素晴らしき仲間たち-』 (H元) 杉並区立郷土博物館編 
『井伏鱒二と”荻窪風土記”の世界』 (H10) 杉並区立郷土博物館編 
『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』 (H12) 杉並区立郷土博物館編
『阿佐ヶ谷文士村(杉並区立阿佐ヶ谷図書館)』 (H5) 杉並区立中央図書館編

『阿佐ヶ谷文士村』  村上 護著 (H5) (株)春陽堂書店
『新天沼・杉五物がたり』  杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会(H8)

『花万朶』 安成二郎著 (S47) (株)同成社 
『城外 夜ざくらと雪 (年譜-小田三月)』 小田嶽夫著 (S55) (株)青英舎
『中村地平全集(第三巻) (将棋随筆-S13)』 中村地平著 (S46) 皆美社
『中村地平全集(第三巻) (年譜-黒木清次・久保輝巳編)』 (S46) 皆美社
『新潮日本文学アルバム19 太宰治』 (S58) (株)新潮社
『木山捷平全集(第1巻) (日記-昭和7年〜14年)』 (S53) (株)講談社
『酔いざめ日記 』  木山捷平著 (S50) (株)講談社
『木山捷平全集(第8巻) (年譜)』 (S54) (株)講談社
『玉川上水 (海豹の頃)(わが文壇交遊録)等』 木山捷平著 (H3) 津軽書房
『木山捷平の生涯』 栗谷川紅著 (H7) 筑摩書房
『木山捷平研究』 定金恒次著 (1996) 西日本法規出版(株)
角川文庫 『恋愛論 (年譜)』 亀井勝一郎著 (S62)  (株)角川書店



『鶏肋集』 井伏鱒二著 (S11) 竹村書房
『私の履歴書(後に「半生記」と改題)』 井伏鱒二著 (S45) 日本経済新聞社
『井伏鱒二随聞』 河盛好蔵著 (S61) (株)新潮社

『井伏鱒二年譜考』 松本武夫著 (H11) (株)新典社
 


2期 成長期 HOME (総目次)
井伏鱒二 : 略年譜 昭和史(元年〜20年)略年表