医師と少女
| ――死。 死とは一体なんなのだろうか? それは人生の終着点なのか、それとも新たなる出発点――つまりそれは死後の世界とやらが存在するならの話だが――なのだろうか。 死への恐怖は、その際に苦しむからではないだろう。いや、それも少しはあるだろうが、やはり未知の世界に対する恐怖が大きいのは自明だった。つまり死んだらどうなるのか、という、誰もが一度は考える事に対する恐怖だ。 例えば、輪廻転生と言う考え方がある。簡単に言えば、死んでも魂の浄化が済めば、生まれ変わるというものだ。その時人間として生まれ変わるのか、犬として生まれ変わるのか、鳥なのか、魚なのか、それとも虫なのかは、生前の行ないが関係してくるという。行ないが良ければ人間として生まれ変われるらしい。 そういう輪廻転生を信じない人は大勢いるだろう。信じる人には悪いと思うが、僕もその内の一人だ。輪廻転生など信じていない。 しかし――。 しかし死神という存在なら信じる事ができる。なぜならば、僕が死神だからだ。 死神といっても、所謂、黒装束に身を包み、生者の魂を鎌で刈り取るというものではない。そういった存在は僕も信じない。 僕には『死』が見えるのだ。 こういう言い方は少し間違っているかもしれない。『死』が見えるといっても、他人を殺したりする能力がある訳ではない。正確に言えば『死期』が見えるという事だ。 始めてこの能力に気づいたのは、小学校三年生の時だっただろうか。 友人の身体の回りに、緑色に光る、燐のようなものが見えたのだ。それはとても幻想的で綺麗なもので、僕はそれに対して恐怖というものは覚えなかった。 僕は友人に「ねえ、何で身体が光ってるの」と尋ねたが、「はあ、何意味解らないこと言ってるの?」と気味悪がられた。他の友人にその事を尋ねても、「あいつの身体が光ってる? 目、悪くないか。医者行った方が良いぞ」とまで言われたぐらいだ。 身体が光っていた友人は、その一ヵ月後に交通自己で死亡した。その後も何度か似たような体験を経験し、僕は悟った。あの光を発している人間は、それが明日になるか一週間後の事なるかは解らないが、一ヵ月以内に必ず死亡する、と。 このような能力を持った人間の話を、幼い頃漫画か何かで読んだ気がするが、その出典はどうしても思い出せなかった。 とにかく、僕はこの能力を忌み嫌い、恐怖した。そして自分が死神なのだと思うようになった。 中学の時に母の身体にこの光りを見た時は、気が狂いそうになった。 そしてやはり母は死亡した。脳卒中だった。 僕はこの時、医者の無能さを呪った。人名を助ける事が医者の役目なのに、それを果たせなかった彼等を憎んだ。だがその憎しみは、やがて自分の生きる目標へと繋がった。といっても、推理小説のようにその医者達に復讐するのではない。自分も医者になって、この能力を否定したかったのだ。光を発する人物を治療し、その光を消したかった。 そして僕は努力の結果、念願の医者になる事ができたが、本来の目的である、光を消す、という事に成功はしていない。必至に治療したにも関わらず、他界した者。手術が成功して、無事退院したが、その帰宅途中で事故にあって死んだ者……。様々な死者たちに出会ってきたが、やはり彼等全員が、死の光を発していた。そしてそれは僕の身体も例外ではない……。 僕は一つの病室の前に立っていた。 ネームプレートを見ると、そこには『白河郁美』と書かれていた。それを確認してから、僕は病室に入る。 「あ、先生、遅いよ」 僕の入室に気づいた彼女は、上体をベッドから起こし、頬を膨らませた。 良かった、まだ光っていない。まだあの緑の光は彼女の身体から発されていないのを確認すると、僕は安堵した。 端から見れば、なぜ彼女が入院しているのだろう、と思えるぐらい元気だったが、彼女の命は長くて後半年だった。それは彼女の担当をしている僕が一番良く知っている。 だからこそ、入室の際は、あの光が見えないか、と心配になってしまう。実に心臓に悪い。 「ああ、すまないね、郁美ちゃん。でも仕事が忙しいんだから、少しぐらいは許してくれないかな」 「ぶー。私も患者よ。だから私と会うのも仕事の内なの」 そう言われると返す言葉もなかった。僕は誤魔化し笑いをすると、白河郁美に軽く頭を下げた。 「まあ、良いけどね」 郁美は溜息をついた。僕は椅子に座ると、 「今日は何をしていたんだい?」 と問いかけた。彼女はテーブルの上に置かれてある文庫本を指して、「これを読んでいたの」と微笑んだ。書店の紙カバーのお陰で何の本か解らないが、おそらく、一昨日、僕が彼女に頼まれて買ってきた小説だろう。タイトルは忘れたが、内容は彼女のような年頃の女の子が好んで読むような恋愛物で、レジでは凄く恥ずかし思いをした。それは中学の時、始めて成人向けの本を購入した時の感情に似ていた。 「で、面白いかったかい? 僕に感想を聞かせてくれないかな?」 彼女は、残念そうに首を振った後、少しぶっきらぼうに答えた。 「あんまり面白くない。評判が良かったからどんなに面白いんだろう、と思ってたんだけど……。読む気がなくなったわ」 「そうか、面白くなかったか……」 何の為にあんな恥ずかしい思いをしたのか、と自問したくなったが、そうしても答なんて見つからないだろう。 「ねえ、先生」 「ん? なんだい?」 「あのね、明日も本、買ってきてよ。あ、お金の心配はしないで、今日お母さんから貰ってあるから」 どうやら、僕に本を買ってこさせるという計画は、既に立てられていたようだ。僕には、その彼女の計画を妨害するつもりは毛頭ないけれど、遠慮しておきたい事もあった。 「ああ、解った。でも、そうだな、ティーンズ系の小説は勘弁してくれないか。恥ずかしすぎる」 「えーっ!」 非難の声を上げる郁美。どうやら次もティーンズ系の恋愛物を買わせるつもりだったようだ。最初に釘をさしておいて良かったと思う。 「うーん。それなら漫画にする。少女漫画。ちなみに恋愛物ね」 そちらの方が恥ずかしい。この歳――と言ってもまだ二十七だが――で少女漫画を買うのは、小説を買うのより勇気のいる事だ。今はどうか知らないが、僕が学生の頃は少女漫画を持っていると言うだけで、クラスの男達から、からかわれたりしたほどだ。 (もしかして彼女は僕を困らせて楽しんでいるのではないか?) と疑った。 結局僕は少女漫画購入も断ってしまった。すると今度は、僕がどんな本を読んでいるのか訊いてくる。その真意の程は解らないが、とりあえず僕は答えた。 「僕が読む小説はね、ファンタジー物なんだ」 郁美は意外そうな表情を浮かべた。多分、医者の僕が読む小説は、夏目漱石とか芥川竜之介とか、そう行ったジャンルのものだと思われていたのだろう。それは偏見であるが、医者の僕がファンタジーを好むというのは、想像に難いものだというのは自覚できる事だ。 もし、『死』を見ることのできる目を持ていなかったら、医者になんかならなかったろうし、それならゲーム会社に就職していたかもしれない。RPGを作るのが僕の夢だったから……。 「先生、今日は早いんですね」 僕が入室すると、郁美は輝かしい笑顔を向けてくれた。良かった。今日も『死』は見えない。 開け放たれた窓から入る風が、彼女の長い髪の毛をなびかせている。絵になる光景とはこの事を言うのか、と僕は感心してしまった。 「あ、それ……」 彼女の視線は、僕が右手に持っている茶色の紙袋に移る。大田ブックスという僕の家の近くにある書店の紙袋だ。中には昨日注文された小説が入っている。 「ああ、そうだよ。昨日、要望された推理小説だ」 あの後、結局彼女はファンタジー小説を読む事に賛同しなかった。そういう類の小説に興味が全くないらしい。そこで僕は、推理小説はどうかと提案してみたら、少し考えた後、頷いてくれた。 僕は紙袋から二冊の本を取り出す。僕の推理小説に関する知識は皆無に等しく、江戸川乱歩とシャーロック・ホームズ、金田一耕助、明智小五郎、松本清張、赤川次郎、そしてアガサ・クリスティ―しか知らなかった。しかし何故か、それらの本の大半が本屋にはなかった。売っていたのは赤川次郎だけだ。どれを買えば良いのか解らなかった僕は、店員に何か良い推理小説はないかと訊いたところ、この二冊を薦められた。一冊は妙な家が描かれた表紙の本であり、もう一冊は女性の石像が描かれた本だった。例によってタイトルは憶えていない。 郁美は二冊の本を僕から受け取ると、パラパラと目を通し、両方テーブルの上に置いた。 「どうした、読まないのかい?」 すると彼女は首を左右に振った。 「ううん。ちゃんと読むわよ。でも、今は先生とお話がしたいから、後で読むの」 「そうか…」 僕は昨日と同じように椅子に座った。そして彼女の顔を覗き込むようにして見る。その元気で明るい表情を見れば、彼女が不治の病に冒されているという事を医者の僕でさえ疑いたくなる。いや、本当は冒されていないのではないか。あの診察はたんなる僕のミスだったのかもしれない。その証拠に、彼女の身体からはあの光は発せられていないじゃないか。 そうだ。そうに違いない。彼女が不治の病にかかっているとしても、それは奇跡的に完治するのだろう。そういう例がない訳ではない。医者が匙を投げた病人が、その後、奇跡的に治っているという事だってあるのだ。多分、彼女もその一例に加わるのだろう。僕はそう思った。――いや、思いたかった。 「――たの、先生?」 僕は郁美の声で我に返った。 「どうしたの、先生。具合でも悪いの?」 どうやら僕の顔色が少し悪かったようだ。僕は「そんなことないよ」と答え、顔を両手で叩いた。もちろん軽く叩いただけだ。 「ふーん、そう。なんか顔色悪かった、というか深刻そうな顔してたから訊いてみたんだけど……。医者の不養生って言うぐらいだから、先生も気をつけてよね」 僕はそんな彼女の言葉に、微笑ましいような、嬉しいような、情けないような、少し複雑な気持ちになった。今、僕はどんな顔をしているのだろうかと想像してみたが、どうも良く解らなかった。多分苦笑いに近い、とは思うが。 「ねえ、先生。本のおつり、残ってるでしょ?」 「あ、ああ」 僕はそう言われて、財布の中からおつりを取り出した。銀色に輝く硬貨が二つ。おつりは五百五十円だ。正確には、おつりは五百三十七円だったが、僕はそこまで細かくないし、ケチでもない。僕の親友が言うには、たとえ一円でも、それを大事に扱わないと後で大きな損をするらしい。こういった小さな損失が、積もり積もれば大きな額になる、ともその友人は言っていた。 「はい、おつり」 おつりを手渡そうとすると、彼女は首をぶんぶんと振って受け取る事を拒んだ。 「ん、どうしたの?」 僕が尋ねると、郁美は申し訳なさそうに、 「あのね、先生。あと一つだけ買ってきて欲しいものがあるんだけど…」 と、上目づかいで僕を見る。そんな目で見られては断る事などできず、僕は頷いてしまった。といっても、無理難題を言われれば断るし、まさか彼女がそんな事を言わないだろう、多分。 頼まれた品は便箋と封筒、そして文字を書くためのペンだった。とはいえこれは事務所などに置かれているような、地味で事務的なものではなく、花柄とか、そういう色々な模様が入った、女の子が好んで用いる可愛らしいものである。最近では、こう言った代物でもコンビニで手に入るらしい。 「便箋? 郁美ちゃん、何を書くんだい? もしかしてラブレター?」 半ばからかうつもりで言ってみると、彼女は顔を赤らめながら早口でまくしたてた。 「ち、違――そんなんじゃないよ!」 「まあ、そう言うことにしておこうか」 そう言って僕は椅子から立ち上がった。腕時計を見ると、針は午後四時三十分を指している。こうしてはいられない。仕事はまだまだ溜まっているのだから。 今日、僕は嫌な思いをした。 この日、僕は夜勤だったので夕方に家を出た。病院へ行く前に郁美との約束をかろうじて思い出す事ができ、コンビニによって、約束の便箋一式を購入する。その時に僕は見てしまった。その店でアルバイトをしている女の子の身体から『死』の光が発せられているのを。 僕はなんとも言えない複雑な心境で、その子の手から商品の入った白いビニール袋を受け取り、コンビニを出た。彼女は三日の夜、バイトの帰り道で通り魔に襲われて、その命を永遠に失ってしまった。 僕は後ろに看護婦を従えて患者の様子を診て回る。もちろんその中には白河郁美も含まれているが、この三日間、彼女に例の光を見なかった。それはとても喜ばしい事だった。なぜ僕が彼女にだけこういう特別な感情を抱いているのかよく解らないが、診察の時は平等の扱いをしている。 彼女は十六にもなって注射が大の苦手らしく、針が彼女の皮膚を刺す時、泣きそうな顔になっている。診察を終え、空いた時間に彼女に会いに行くと、彼女は今日の昼間の事を根に持っているらしく、怒った顔で僕の方を見てきた。 「もう、先生、痛かったでんですよ、今日の注射。もっと上手にできないんですか?」 無理難題だった。僕はこれでもそれなりの技術を持っている。もちろん注射だって下手じゃない。これ以上どうする事もできない。 「はは、そんなに痛かったかい?」 僕は微笑みかけた。そして、注射を怖がるなんて、まだまだ子供だな、と思った。 「先生、私の事、子供だって思ったでしょ?」 膨れっ面で僕は睨まれた。どうやら僕は感情が顔に出る人間らしい。今まで気がつかなかったが。 「いや、そんな事はないよ」 「嘘。絶対そう思ってる。顔に出てるもん。それに、私を呼ぶ時、『郁美ちゃん』って呼ぶしぃ…。私子供じゃないよ。背も低くないし、それに胸だって結構ある……と思うし。それにそれに――」 そう言われて、僕は彼女の胸元に視線を動かした。パジャマ越しでも、大きさが解るほど豊満な胸だった。といっても、無茶苦茶大きいという訳ではなく、彼女の身体に相応しい大きさである。 彼女の裸は診察の時に見たことがある。その時はそういった意識をしていなかったが、彼女に言われ、僕は少しだけ意識してしまった。 「あーっ、先生、エッチな事考えてるでしょ。スケベ」 「そ、そんな事、ないぞ!」 僕が必至になって弁明すると、彼女は「あははははっ」と大きな声で笑った。からかわれていたのか。どうやら僕は彼女には勝てないらしい。もし僕に恋人と言う存在ができるとしたら、もっと大人しい女性の方が良いだろう。 「そういえば、このまえ買ってきた小説はもう読んだかい?」 話を逸らそうと思い、僕は尋ねてみた。すると郁美は、首をゆっくりと左右に振りながら、 「ううん。まだ読んでない。こッちの方を途中まで読んだんだけど、あんまり面白くなかったの。推理小説って私に向いてないみたい。だから先生、この本貸してあげます。先生が選んだ本なんだから、責任もって読んで、感想きかせてね」 どういう理屈か解らないが、彼女にとっては、非は僕にあるらしかった。 仕方がないので、僕は一冊だけ借りる事にした。自慢じゃないが僕は速読を僅かばかり心得ているから、これぐらいの厚さの小説なら、一時間も必要ないだろう。 この日の夜。この病院に一人の急患が運び込まれた。聞くところによると、急に倒れたらしい。集中治療室に運ばれた患者の執刀を担当する事になったのは僕の先輩。僕はその補佐に当たる事になった。 賢明に患者の病名を特定しようと、先輩は色々な機械を用いて調べている。こういう急患の場合、病名の特定が患者の生死に関わる。無論、早ければ早いほどいい。 ――しかし。しかしこの患者の治療は成功しない。よしんば成功したとしても、その命は長く持たない。別の死因が待っているだろう。その事を僕は理解している――いや、知っている。あの緑の光が、苦しんで意識を失っている患者に死の宣告を下しているのだ。だからといって、僕は彼の治療を諦めた訳ではない。先輩に協力して治療を行なうつもりだ。 「ううっ……!」 うめき声を上げる患者。相当苦しいのだろう。額には多量の脂汗が滲んでいる。 時間との戦いだった。患者が苦しんでいる原因を突き止めた僕たちは、大急ぎで患者に手術を施す。メスによって切り開かれた腹部からは、血と、一般人が見れば吐き気を催すような、そんな気持ちの悪い光景が見えるが、医者となって、何度も手術に立ち会った経験のある僕には、既に慣れている光景だった。 手術の経過は順調といっても過言ではなかった。病名の特定は早く、執刀ミスも無く、かつ迅速であった。だが、結果は失敗に終わってしまった。患者の体力が手術に耐えられなかったのだ。 僕は失望した。いや、最初からこうなるのは解っていたではないか。集中治療室に運び込まれた患者の身体から発せられていた、緑の光を見たときから。 とある小説に登場する人物は、瀕死の重傷を負った際、「助からないのに助けるふりをするのは、偽善であるだけでなく、技術と時間の浪費だ」と、自分を治療しようとする者に向かって言っていた。 すると僕の行為は偽善なのだろうか? できない事でも、できるふりをする……。そうかもしれない。しかし――。 いや、深く考えるのはよそう。考えても答なんか出る訳が無いのだ。出たとしても、それが「正しい」と――「間違っていない」と誰が言えるのだろうか。言える者がいるとすれば、それは余程の賢者か、それとも余程の愚者に違いないのだから……。 先生が出ていった十数分後に、小学校の時からの友人――東野香澄が、私の病室に入ってきた。テーブルに僅かばかり身を乗り出していた私は、彼女の入室に気づくと、書きかけの手紙を慌てて隠した。 はにかんだ顔で、その友人がリノリウムの床を軽快な足取りで鳴らしながら、私のベッドまで近づいてくる。 「よっ、郁美。元気にしてたか?」 話し方や正確が男の子のそれに近い彼女は、何故か女子から人気が高い。女子高が舞台の漫画などでは、何故かバレンタインデーにチョコレートを貰う側に立たされてしまうタイプだ。もちろん私は、彼女に対してそういった感情は抱いていない。 「うん……」 私は病人なんだから元気な訳がないじゃない――そう皮肉ろうとしたが、やっぱりやめる事にした。折角、お見舞いに着てくれたのに、そんな事を言っては彼女が気分を悪くするだろうから。 「それはなにより、なにより。……それにしても、何もないわね、ここ」 つまらなさそうに辺りを見まわす香澄。当たり前だよ、病室には娯楽のための物なんて、本ぐらいしかないのだから。テレビなんてもちろんない。テレビつきの病室は家の財政からすれば、無理な話だった。 「ま、良いけどね、私がここで生活するって訳じゃないから。――はい、これ。郁美のお母さんから預かってきた物よ」 そう言って差し出された手提げ袋の中には、私の着替えが入っていた。パジャマにブラジャー、そしてパンツ。三日分はある。 「郁美、そのブラ、Cカップでしょ。胸、大きいわねぇ、あんた。私なんかギリギリBカップだって言うのに……。羨ましいわ」 恥ずかしい事を平気で言ってくる香澄。まるでセクハラ親父のようだ。私は顔を真っ赤にしながら、反論する。先生を相手にした時は、あまり恥ずかしくなかったが、何故か彼女に言われると恥ずかしくなってしまう。 「ちょっ、ちょっと何言ってるのよ、香澄。恥ずかしいこと言わないでよ」 「良いじゃないの、別に。胸が無くてかわいそうって言ってるんじゃないんだからさ。気にしない、気にしない。ねっ」 ウインクをすると、香澄は椅子に座った。足を組んで、視線は私に向けられる。その表情からは先程までの陽気さは全て消えていて、真剣なものに変貌していた。 「ねぇ、郁美、あんた……いいえ、何でもないわ、気にしないで」 と、私の親友は口をつぐんでしまった。彼女が――香澄が何を言いたいのか、表情から大体解る。私の病気の事を聞きたいのだろう。 私の病気――。 病名すら告げられていない病気。 先生は「入院していれば病気はいずれ治る」と言っていた。でも私には何となくだけど解る。実際今では苦しくないし、痛くもない。でもそれは、只たんに、病気が小康状態に入っただけなんだと思う。でも――でも、私の病気は治らないんじゃないだろうか? 時折、先生が見せる悲しげな顔がそれを物語っているのではないだろうか? 私にはそれが不安で、怖くて、どうしようもなかった。そんな心を、お父さんやお母さん、それに香澄たちに悟られないために、私は明るく振る舞っている。 「……そ、そうだ、郁美。何か欲しい物はないか? 私が買ってきてやるよ」 何か欲しい物……。このまえ先生に買ってきてもらった本は、どうも私に合わなかった。だからまた別の本でも買ってきてもらおうか、と思うのだけど、正直、本を読むのも飽きてきた。別の事がしたい。何が良いだろうか? 私はそう考えながら、窓の外から外の景色を見た。 見なれた、本当に見なれたいつもの景色。自然は皆無で、あまり良い景色と言う訳ではない。ごく普通の街並みが見えるだけだ。だけど私は、その面白味に欠ける街並みを絵に描きたいと思った。何故かは解らないけど、そう思った。 中学の時は美術部に所属していたが、その才能は小学生のレベルだったという事は、他の誰よりも私が一番理解していた。絵を描く事は高校に入学した時点でもう止めていた。高校には美術部がなかったからだ。 だけど今の私は、無性に絵が描きたかった。完成するかどうか解らないけど、それでも描きたいという気持ちに嘘はなかった。 次の日。 私は香澄が色鉛筆とスケッチブックを持って病室にやってくるのを、窓から外を眺めながら心待ちにしていた。本当は筆などを使って絵を描きたいと思うけれど、まさか病室でそんな真似はできない。だから私は色鉛筆で絵を描く。だけど、色鉛筆とスケッチブックが私の許に届く代わりに、一つの凶報が届けられたのは、その日の一時三十二分の事だった。 「え? 嘘? 何かの冗談でしょ?」 最初私は、母の言葉の意味がよく理解できなかった。母は私に「香澄が死んだ」と言うのだ。単純明快な言葉で、これを理解できない筈はなかったのだが、心がその報せを否定していたのだ。 「いいえ、本当よ、郁美。東野さん、昨日急に倒れて病院に運ばれたんだけど、手術の途中で……」 母はここで言葉を詰まらせた。そして意を決して、再度、香澄の死を私に告げた。 「手術の途中で亡くなったらしいの……」 母は少し俯き加減に私を見ていた。 (香澄が死んだ? 嘘? だって昨日はあんなに元気だったじゃない!) 私は信じたくなかった。あの香澄が死んだなんて事は。病気で死ぬとしたら、それは彼女ではなくて私の筈なのに……。しかし母の表情が、それが事実であると語っている。 「ねえ、香澄のお葬式、いつするの?」 私は弱々しい声で尋ねると、母は答えてくれた。 「明後日……らしいわ。東野さんのお母さんがそう言ってたから」 「そう……。ねえ、お母さん。私、香澄のお葬式にでるわ」 私がそう言うと、母は険しい表情をして、それから首を左右に振った。縦ではなかった。 「駄目よ、郁美。あなたは病人なのよ。とてもお葬式なんて耐えられないわ。身体に悪い事は止めなさい。そりゃあ、あなたと東野さんが親友だって事、母さんも知ってるわ。母さんも彼女の事、結構好きだったし。でもね、その身体で葬式は無理よ」 「でも私、調子悪くないよ。入院してるけど、そんなに悪くないよ。ううん、健康と言って良いぐらい」 本当だった。確かに私は今の言葉通り、調子は悪くない。だからこそ、葬式に出席しても、それほど身体に悪影響はないと思ったのだけど、母は出席をついに認めてくれなかった。母曰く「その点滴のお薬のおがげなのよ」らしい。 「解ったわ、お母さん。でも、そのかわり今度ここに来る時に、スケッチブックと色鉛筆を持ってきて。絵を描きたいの。本当は香澄に持ってきてくれるように昨日頼んだんだけど……」 「解ったわ。でも……でも、あんまり無理しちゃ駄目よ」 「うん、解ってるわ、お母さん」 それからしばらくして母は病室から出ていった。独りになると、それまで堪えていた涙が溢れだし、頬を伝って流れ落ちる。 (どうしてよ!? ねぇ、どうして!? どうして香澄が、香澄が死ななくちゃいけないの、ねぇ!? あんなに元気だったじゃないの! どうして、どうして香澄が、死ななくちゃ……いけない……の……!?) 声にならない声を発して自問自答した。しかし答は返ってくる筈もない。私は嗚咽を洩らし、零れ落ちた涙がシーツを濡らして染みをつくる。力強く握った拳がシーツを皺だらけにする。 「か、香澄……」 私は頭を枕に埋もれさせて、さらに大きな声で泣いた。 香澄が何と言う病気で死んだのかは解らない。でも、人の命を助けるのが役目である医者は、彼女の命を助ける事ができなかった。助ける事ができないなら――役目を果たす事ができないなら、医者なんてものは存在する必要がないのではだろうか? そんな存在を信用して、信頼してはいけないのではないだろうか? 私は医者という存在に不信感を抱くようになってきていた。 今日、彼女の様子がいつもと少し違っていた。といっても、それは体調の不良という類ではない。感情面、心理面に何かあるのだろう。元気がないのだ。 とりあえず僕は、後ろに控えている看護婦に点滴の指示をだした。テキパキと作業をこなす看護婦を横目に、僕は郁美に話しかける。 「郁美ちゃん、調子はどうだい? 痛みとか吐き気はないかい? あんまり元気がないようだけど……」 しかし彼女は何も言ってくれなかった。ただ首を縦に動かすだけだ。それも解るか解らないかぐらい小さく。それはいつもの彼女の姿からは、想像できないほど弱々しい。 僕は彼女の顔を覗き込むようにして見つめた。その瞳の中には、悲しみ、憎悪、怒りといった負の感情が、微妙なバランスで同居しているのが見てとれた。 (この調子では何も話してくれそうもないな) そう思った私は、仕事に専念して、彼女と必要のない無駄な言葉を交わさなかった。まあ、時間が彼女の機嫌を直してくれるだろう……。 私が病室から出て行こうとした時、何気なくテーブルの上に視線を移したのだが、そこには一冊のスケッチブックと色鉛筆のケースが置かれてあった。一昨日僕がここに来た時にはなかった筈である。そう、確かになかった。この記憶は間違いない。昨日、誰かが持ってきたのだろう。 一通りの診察を終えて自分の部屋に戻る。 看護婦が淹れてくれた味の濃いコーヒーを飲みながら、僕は考えに耽る。 なぜ彼女は元気がないのだろうか? 僕が非番だった昨日、何かあったのだろうか? いや、深く考えても答が出ないだろう。僕には心当たりがないのだから。 そう言えば、昔、とある友人にこんな事を言われた。「お前は、諦めが早いというか、物事が不可能だと解ったら、その行動を中止して、すぐに次の行動に移っている」と。 今回もそれに類するだろう。彼女の元気がない理由が解らない。考えても解らない。だから考えない……。 僕の性格をこんな風――諦めが早く、物事をスパッと割り切れるような性格――にしたのは、『死』が見える事に他ならない。あの光――あの光さえ見ることができなかったら……。 僕は何度もそう思った事がある。割り切って諦める事ができない数少ない事柄だ。 「先生、白河さんがお見えになってます」 僕は看護婦の言葉で意識を現実世界に戻した。時計を見ると、正午を少し回ったばかり。約束の時間である。僕は「ああ、通しても構わないよ」というと、扉が開き、中年の女性が部屋に入ってきた。白河弥生――郁美の母親である。 僕は、椅子に座った彼女に、郁美の事を色々説明した。それには専門的な言葉があり、彼女はイマイチ理解できていない風ではあったが、これだけは理解できているだろう。彼女は小康状態を保っていて今は何ともないが、いつ苦しみだすか解らない危険な状態であるという事を。 「そういえば、郁美ちゃん、今日は機嫌が悪いというか、元気がなかったみたいですが、何かあったんですか? あ、これは体調の問題ではありませんが……」 「それはそのう。多分、あの子の親友が一昨日、亡くなってしまったからだと思います」 「親友、ですか……」 「ええ。小学校の時からの親友なんですよ。それが一昨日急に倒れて、病院に運ばれたらしいんですけど、手術のかいなく」 そうか。だから元気がなかったのか、と僕は納得した。大切な親友が死んだ。それで塞ぎこんでしまっている。無理もない事だ。僕に何かを言う筋合いはないだろう。それに、こういう場合はそっとしておく事が一番だろう。 しかし、その東野華澄という少女の名前には憶えがある。どこで聞いた名前なのだろうかと思索していると、ふと数日前の手術の事を思い出した。 東野香澄――それは数日前僕たちが手術をし、失敗に終わってしまった患者の名前だった。あの緑の光が見えた患者の名前だった。死ぬ事が解っていて、それでも助けようとした患者の名前だった。 僕は何と言って良いか解らなかった。目の前に座る郁美の母親は、不思議そうな眼差しで僕を見ていたが、やがて立ち上がると、会釈をして部屋から出ていった。 ――偽善。 僕の脳裏にまたもこの言葉が浮かび上がった。 やはり僕の行為は偽善なのだろうか? この前は考えるのを止めようと思ったが、また考えてしまっている。偽善か、そうでないかを。 しかし結局答はでなかった。 でも今はそんな事を考えるより、あの緑の光を彼女が放っていないという事を喜ぶべきだろう。 私は憂鬱だった。香澄の死によって神経が参っているのだと思う。 ここ一週間、私は診察に来る先生に辛く当たってしまっていた。先生が普通の人だったらそんな事はないのだろうが、医者だから、そういう風に当たってしまう。私が悪い事というのは解っていたけど、どうも素直になれなかった。「ごめんなさい」と素直に言えない。もうしばらくして気分が落ちつけば、素直になれるだろうか? そう言えば最近、妙に身体がだるい時がある。それが延々と続くというのではないけど、きっと病気のせいなんだと思う。医者に対して信用を無くしている私は、自分の病気も治らないと思っている。先生の「治るよ」という言葉を信じれずにいる自分が嫌だった。そんな自分が嫌だった。 窓から外を見て、それから視線をスケッチブックに移す。 そうだ。絵を描こう。何もしないでいると本当に気が滅入ってしまう。病は気からと言うけれど、こんな状態でいれば治る病気も治らないだろう。 窓の外は、何の変哲もない街並み。沢山の家が見えて、マンションが見える。コンビニや道路も見える。本当に何の変哲もない街並み。でも私にはこれしかなかった。病室を抜け出して中庭でも描こうかとも思ったけれど、やっぱり止めておこう。母や先生が心配するから。 私はスケッチブックを膝の上に広げて、色鉛筆を構える。絵は三枚描こう。一枚は父と母に。もう一枚は死んでしまった香澄に。そして最後の一枚は、私の病気を最期まで診てくれるだろう先生に。 「絵を三枚描くといったけど、同じ絵ばっかりじゃ、飽きてくるわね。うーん、どうしようか? やっぱり中庭に行こうかな。でも……」 そうだ。こうしよう。窓から見える風景も、昼と夜ではその雰囲気も違う。それに見る角度を少し変えただけでも、絵は変わってくる。それに現実の風景に虚構の風景を混ぜる、という手法だってある。 「そうね、そうしましょう」 と、私は独語した。 そうと決まれば膳は急げであった。私は外の風景を見ながら、色鉛筆をスケッチブックに走らせる。二十四色の色鉛筆の放つ色彩が、真っ白な紙面を幻想的な街並みに変えていく筈であったが、私は一つ失念していた。 「鉛筆削りがないわ」 そう。鉛筆削りがないのである。色鉛筆の芯はすぐに丸みを帯びて、かけなくなってしまった。だから絵を描くのはひとまず中止である。それなら別の部分を別の色鉛筆で描けば良かったのだが、それは私の体調が許してくれなかった。身体がだるく、そして少し熱っぽいのである。 (ちょっと疲れたわ。絵は明日にしよう。明日、お母さんが着た時に、鉛筆削りを頼んでおかないと……) そんな事を考えている私は、知らず知らずの内に眠りについてしまった。 私が描こうとしている三枚の絵。一枚は両親に。もう一枚は香澄に。そして最後の一枚は先生に……。どうか絵を三枚とも描き終わるまで、私の身体が――命がもってくれますように……。 夢の中で、私はお願いした。叶うかどうか解らないけど、私はそうお願いした。 私が絵を描くのを再開したのは、その翌日ではなくて、二日後の事だった。母が見舞いに来てくれなかったので、鉛筆削りを持って来てくれるように頼めなかったからだ。先生に頼んで買ってきてもらう、という方法も考えはしたが、やっぱりなんだか恥ずかしかったので、その方法は採らない事にした。正確に言うと、採れなかったんだけど。 でも今日はあまり捗らなかった。身体がだるいからだ。だから絵を本格的に描くのは、明日から、というにした。 「仕方ないか。身体がちょっとだけだるいから。でも、まだ大丈夫。私の身体、まだ大丈夫の筈よね」 と、私は自分に言い聞かせるように呟いた。 翌日――。 体の調子は回復していた。今日も調子が悪かったら、先生に身体の事を報告しておこうと思っていたけれど、どうやらその必要はないみたい。 絵を描くのも順調に進んでいる。このままいけば一枚目の絵は明後日には完成する、と思う。 ――トントン。 ドアをノックする音。 鉛筆を動かす手を休め、スケッチブックを閉じると、私は「はい」と、元気良く応えた。絵を描いているうちに気分が晴れて、憂鬱な状態から回復したようだ。 開いたドアから入ってきた先生は、私に二言三言話しかけてから、いつもように椅子に座った。看護婦さんはいない。それはそうだ。今日の診察はもう済んでるんだから。 「やあ、郁美ちゃん。今日は元気があるね。機嫌は直ったのかい?」 屈託のない笑顔で話しかけてくる先生。機嫌が良いのは事実だった。一時は医者に対して不信感というのを抱いたが、それも和らいできている。香澄が死んだ事によって、一時的に憂鬱になっていただけなのだから、それも当たり前だろう。でも、医者に対する不信感が完全に無くなった訳でもない。先生だから、こういう風に普通に――ごく普通に振る舞う事ができる。 「うん、先生。もう大丈夫だよ」 「そうか、それは良かった。最近、郁美ちゃん、元気なかったからね。僕、心配だったんだよ。郁美ちゃんには元気が一番似合ってるからね」 何か気になる言い方だが、気にしないでおこう。 でも、そういう先生の声は、いつもと違って少し元気がない。何かあったのだろうか? 私は少し訝りながら先生の顔を見たが、表情はいつもと変わった様子は無かった。 「先生、元気ないですよ。何かあったんですか?」 「そ、そんな事ないよ、郁美ちゃん。僕はこう見えても元気だよ」 「あー、解った」 私は少しだけ大きな声を上げた。私は忘れていた。先生が、からかいがいのある人だって事を。だから私は、久しぶりに先生をからかって楽しもうと思った。先生には悪いけど、楽しいのは事実だ。 「先生、恋人さんと喧嘩したんでしょ?」 対する先生の反応は想像した通りだった。慌てふためいて、手を振りながらそれを否定する。それが面白い。 「わっ。い、郁美ちゃん。そんなんじゃないよ。僕は元気だよ。そ、それに、僕には、その、恋人、いないから……。はは。この歳になって彼女の一人もいないなんて、ちょっと情けないけどね」 「だったら私が先生の恋人になってあげる。だからそう落ちこまなくても良いよ」と言って、さらに追い討ちをかけようとしたけれど、流石にそれは酷過ぎるので自重することにした。もしそんなこと言って「うん、良いよ」って頷かれでもしたら、どうして良いのか解らないし……。 「私も彼氏なんかいませんよ。この歳になっても」 「郁美ちゃんはまだ若いから良いよ。郁美ちゃん可愛いから、そのうち彼氏ぐらいできるよ。その点は僕が保証する。だから心配しなくて良いよ」 「そうだと良いんですけどねーっ」 私は少しつっけんどんな声で言ってみた。もちろん先生を困らせるため。でも先生は私の望む反応は見せず、「そうだよ」と言っただけだった。 「ところで郁美ちゃん。絵の方だどうだい? 順調に描けているかい?」 なんで先生が絵の事を知ってるの? と一瞬思ってしまったが、膝の上にあるスケッチブックと、開いた色鉛筆のケースを見れば一目瞭然の事だった。それにスケッチブックと色鉛筆は一週間前からこの部屋のテーブルの上にあったんだから、容易に想像できて当然である。 「うん。順調に描けてるよ、先生。今一枚目の絵を描いてるんだけど、私、全部で三枚描くつもりなんだよ」 「三枚も描くのかい?」 「うん」 「三枚も何の絵を描くんだい? あの窓から見える風景かい?」 「うん、そうだよ。でもね、ちょっと幻想的にしてみるんだ。つまりファンタジックという奴ね。あの窓から見える景色はちょっと味気ないから、虚構を交えてみようと思うの。だから同じ場所を描いた絵でも、中身は全然違うようになる筈よ」 「ふーん、そうか。そうだ、絵、見せてくれないか?」 と、先生は描きかけの絵を見せてくれるよう私に頼む。でも、まだ見せたくなかった私は、首を左右に振って先生の頼みを断った。 「えー、郁美ちゃん、ケチだなぁ。別に良いじゃないか」 「今は駄目だよ先生。完成したら、その時は見せてあげるから」 「解った。完成してから見せてもらうよ。ところで、ちょっと意外だったよ、郁美ちゃんが絵を描くのが好きだなんて」 「意外で悪かったですね」 私は少し不貞腐れてみた。そして私と先生は同時に吹き出した。 それによって、先生に対するわだかまりとか、そういった感情が私の中からほとんど拭い去れている事を再確認する事ができた。 その時である。笑い声を上げていた私の身体に激痛が走った。特定の場所が痛いのではなくて、身体全体に痛みが走る。 「ううっ」 私はその痛みに思わずうめき声を上げてしまった。先生の顔から笑みが消え、真剣な表情に変わる。どうやら先生も私の身体の異常に気づいてしまったらしい。 「どうしたんだ、郁美ちゃん。苦しいのか!?」 問い詰められて私は頷いた。先生はナースコールを使って看護婦さんに連絡をとり、何か指示を出している。しばらくして看護婦さんがやってきた。手には医療用の黒い鞄を持っていた。 鞄を看護婦さんから受け取った先生は、その中から注射器を取り出し、それを私の腕に打った。チクッと痛みは感じるけれど、いつものように痛みは感じるけれど、その痛みは身体の痛みに比べれば大した事はない。 しばらくすると、身体中に走っていた痛みは嘘のように治まった。でも、治まったかと思うと先生に怒られてしまった。でも、それは私が悪いから仕方がない。だって、身体がだるい時があった事を今まで先生に話していなかったのだから……。 さっきの激痛で私は死に対する具体的な恐怖を覚えた。死ぬのは嫌だった。痛いのは嫌だった。 私はいつ死ぬんですか、と尋ねてみたかったが、それは怖くてできなかった。なんて勇気のない人間なのだろうか、私って。 彼女の様態は加速度的に悪くなっていく――それほど長くはない医者としての経験からでも、それは容易に想像でき、予測できることだった。ついこの前までは、「長くて半年の命」と思っていたが、それは間違いだった。彼女はそんなにも長い間、生きる事ができないだろう。 しかし、まだ彼女は例の光を発しいていない。それだけが唯一の救いであり、望みだった。 僕が、彼女が時々だけど身体がだるい時があったのに、それを僕に話さず隠していた事に怒ると、彼女は俯いて「ごめんなさい、先生」と謝った。 僕はしつこい人間ではないので、それ以上は怒らなかった。怒ったって何もならない。 「まあ、今度からはそういう事は隠さないで欲しいな。気づいたときには手遅れ、という事になったら嫌だからね」 僕は微笑みながら言った。でもその微笑みは完全な作りものだった。医者というものは、自分の心を患者に知られてはいけないが、それがこんなにも難しいという事を今始めて思い知らされた。彼女に僕の今の気持ちを悟られてはいないかと、心配になってしまう。 「はい、先生。今度からは気をつけます」 申し訳なさそうにもう一度謝る彼女の頭の上に、僕はポンと手を載せた。そしてゆっくりと撫でてみる。 「心配しなくて良いよ、郁美ちゃん。君は必ず良くなる。病気は治るよ。だからそれまでは我慢しなくちゃいけないよ。解ったね?」 「うん、先生」 明るい声で彼女は言った。どうやら痛みは完全に治まったらしい。今度いつ、彼女の身体を痛みが襲うか解らないけれど、それは遠い未来の事ではない。 僕はもう一度彼女の頭を撫でてから、病室を出た。 自分の部屋に戻る途中、僕は考える。さっき僕は「必ず良くなる。病気は治る」と言った。とんだ嘘吐きではないか。彼女の病気が治る可能性なんて、一パーセントほどしかないと言うのに。自分でも思っていない事を人に信用させる――医者と言うのは嘘つきでなければできない仕事なのか。 それに彼女だって馬鹿じゃない。彼女は聡明な女の子だ。自分の命がもうあまり長くない、という事ぐらい既に察していても不思議ではない。それでいて彼女は僕の嘘にあえて騙されてくれている……。 それでも僕は嘘をつく。ははは、それではまるで道化じゃないか。 「ふっ」 小さく自嘲気味に笑った。道化を演じている自分を笑った。 僕はふと立ち止まると、壁にかけられてある一枚の絵に視線を移した。砂浜に立って海を眺めている女性の絵。潮風に靡く髪がとても綺麗だ。後ろ姿なので顔は見えない。それが絵を見るものの想像力をかき立てる。有名な画家が描いた絵ではないが、この絵は病院の理事長のお気に入りで、だからこそみんなに見てもらおうと待合室に飾られていた。タイトルは『渚』。絵とタイトルがマッチしている。 (絵、か……) 郁美はこの中の絵の少女のように、元気な姿で砂浜に立つという事は二度とはないのだろうか? 医者とはそれほどまでに無力なのか。僕は憤りを覚える。 そういえば郁美の絵はどんな絵なんだろうか? 虚構を混ぜると言っていたけど。上手いのだろうか、それとも下手なのだろうか? 僕は色々と郁美の絵を想像していたけれど、でもその時の僕は知らなかった。完成した絵を見る事ができないという事を……。 身体が痛い……。 私の身体は、あの日以来、頻繁に痛みを覚えるようになっていた。注射や点滴などで体内に薬をとりこむけれど、それごど効果があるとは思えなかった。でも先生を責める事はできないと思う。香澄が死んだ時は先生を嫌悪さえしたけれど、それは間違っている事に気づいたのだ。 絵の方はそれでもなんとか進んでいる。先生の為に描く三枚目の絵は完成するだろうか? それまで私の身体、もつのかな? と心配になってしまうが、今はまだ考えないようにしようと思う。 それに絵を描くのは私の精神を安定させるためでもある。何もしていないと、気が滅入ってしまう。だから絵を描く。 昨日、一枚目が完成し、やっと二枚目を描き始める事ができたのだけれど、当初の予定より大幅に遅れているのは仕方のない事だ。長時間、絵を描く事ができないのだから。 今日も私は色鉛筆を持ち、窓の外の風景を虚構を交えて描く。しかし長くは続かなかった。身体を襲った痛みが、色鉛筆を持つ手の力を奪う。手から離れた色鉛筆はリノリウムの床の上に落ち、カランという音をたてたかと思うと、そのままベッドの下に転がって視界から消えてしまった。 (これじゃあ、絵、描けないよ。水色の色鉛筆がないと……。でも痛くて痛くて、手が思うように動かないから、どのみち描けないか……はは) ――ポタッ。 私は泣いていた。それは死に対する恐怖からなのだろうか、それとも絵が描けない事に対する悔しさなのだろうか、どちらか解らないけれど、私は知らない内に泣いていた。涙を流したのは、香澄が死んだとき以来だ。 私は薬を取り出した。先生に「身体が痛い時に飲みなさい」と言われていた薬だ。水差しの水でその粉薬を一気に飲み干す。身体が痛いけど、それでも頑張って薬を飲んだ。苦労して飲んだ薬がとてつもなく苦いというのは、なんだか理不尽な感がいなめないけれど、我慢しよう。だってこの薬は身体の痛みを取り除いてくれるのだから。 しばらくすると痛みはひいてくれた。でも、身体が痛み出すまでの間隔は段々と短くなっているし、痛みは酷くなりその時間も長くなっているのを、私は嫌でも実感せざるを得なかった。 「……治った」 私はベッドから抜け出すと、リノリウムの床に寝そべってベッドの下に転がった色鉛筆を拾った。リノリウムの床はひんやりとしていて、火照った身体に丁度かった。 色鉛筆を右手に握った私は、そのままベッドに戻ろうとしたけれど、しかし身体が思うように動いてくれなかった。病気と入院生活が、気づかない内に私から体力を奪っていたようだ。 「あはは。身体が動いてくれないや」 私は泣き笑いを浮かべながらも、何とかしてベッドに戻る事ができた。でももう疲れた。今日は絵を描くのは止めてゆっくり寝よう。眠れば嫌な事も不安な気持ちも消えるだろうと思い、身体を横にして眠りにつこうと試みた。少しの間だけでも、そういった気持ちを忘れたかった……。 私は苦痛に顔を歪めながら、無機質な病室を只ぼんやりと眺めていた。身体は確かに痛むけど、もう慣れてしまっている。いや『慣れ』ではなくて『諦め』の方が正しい。もう私は諦めている。この病気が治るという事を。だから苦痛を感じていても、部屋を眺める余裕はある。でも、絵を描く事はできないけれど……。 もう痛み止めの薬を飲んでも、痛みが完全にひく事はなかった。常時私は痛みを感じている。それが私から生きる希望というものを奪い去っていた。 (そういえば先生、今日はいつもと様子が違ってたな) その事を先生に訊いてみても、先生は「何にもないから心配しなくて良いよ」と言っただけだ。その声もやっぱりいつもと違う。それに先生はよく解らない事を言っていた。考えに耽っていて、無意識の内に言った独り言なんだけど、先生は『光』がどうのこうの言っていた。 「何なんだろう、『光』って?」 今度先生に会ったら訊いてみよう。 「い、郁美ちゃん!! ……郁美ちゃんには関係ない事だから、その、全く全然気にしなくて良いよ」 翌日、私は『光』の事を先生に尋ねたけれど、先生は答えてくれなかった。ただ酷く狼狽しただけだった。何かあるのは解っているけど、それが何なのか解らない。可能性は低いと思うけど、それがプライベートの事だったら先生に失礼だから、気になるけど私もこれ以上追及しないでおこう。 身体の痛み、だるさは昨日よりも酷くなっていると思うけれど、もうそれは大した事ではない。『死』を前にすれば、そんな事些細なものだ、と思う。 生あるものは必ず死ぬ、という言葉を、私は当たり前のように思っていたけれど、いざ『死』に直面すると、否定したくなる言葉だ。誰だって死にたくない。でも、もう私は諦めている。助からない。それは絶望というなの断崖に立たされているようなものだった。 無気力なままその日の夜を迎える。一日三度の食事もほとんど喉を通らない。栄養の補給は点滴で行っているという有様。情けない。と同時に死の足音というものが聞こえているのがはっきりと解る。 夜空を眺める私。 夜空と言っても、都会のそれは星もなく、ただ雲に覆われているだけだった。月明かりすら存在しない。――明日は雨かな? (あと何回、太陽を見れるんだろう?) 最近の私は、『死』の事ばかり考えてしまう。いつ死ぬのか? いつまで生きられるのか? 死ぬ時はどれほど苦しいのか? といった具合に。 絵を描こう。絵の続きを描こう。 唐突に思った。 このままだと、先生のための絵どころか、香澄の絵すら描き終える事はできない。だから……。 私は状態を起こし、テーブルから二つの品――スケッチブックと色鉛筆――を取った。灰色の色鉛筆を右手に持ち、それをスケッチブックに走らせようとした。だけど手は重く、重い通りに動いてくれない。細かな作業ができない。 (絵が、絵が描けないよ) 視界はまるでアルコールを多量に摂取した時のように歪んでいる。頭もガンガンと鐘を打っているかのように響いていた。今まではこんな事はなかったのに。 直後――。私の身体を今までとは比べ物にならないほどの痛みが襲った。それは正に激痛という言葉が相応しく、私から思考能力すら奪い去ってしまった。それでも私はナースコールで看護婦さんを呼んだ。 急いで駆けつけてくれた看護婦さんに満足な事情を説明する事ができない。口も満足に動かせない!? もう駄目、なの? 事態の深刻さを感じ取った看護婦さんは、先生を呼んだ。 (そうか先生、今日は宿直の日だったんだ……) 先生は真剣な表情で色々と私の身体を診てくれているけれど、詳しい事は解らない。頭が朦朧としてそれをよく知覚できていないのだ。 その間も身体中に痛みが走り、それは治まるどころか余計に酷くなっている。鎮痛剤の効果もない。 い、痛い。痛いよ、先生。 痛いよ、先生。私、まだ死にたくないよ。 死にたく、ないよ。 ついさっきまでは諦めがついていた事だけど、やっぱり諦めきれてなかった。諦めていると自分を偽ってただけだった。私まだ、死にたくない。学校に行って、恋愛小説のような恋をして、友達と悪ふざけして、それで母や学校の先生に怒られて……。それに絵だってまだ描き終わってない。まだ――まだ、まだ死にたくないのに。それなのに……それなのに、ど、どうして……。 「先生、私、いつ――いつ死ぬんですか? 死にたくないです。助けて、くださ、い……せんせ、い」 搾り出したような声でそう問いかけたが、先生の返答も聞かない内に私は意識を失ってしまった。 「私、いつ死ぬんですか?」 僕はそう問いかけられてどう返答すれば良いか解らなかった。言葉を失うとはまさにこの事を言うのだろうと思い知らされる。 彼女がいつ死ぬか。あとどれぐらい生きる事ができるか――それはひと月もないだろう。それは医学的に解っている事だし、緑の光も、あの忌々しい緑の光もそれを証明している。彼女の余命があと一ヵ月もない、と。 僕は彼女の診察と応急的な治療を終えると、立ち入り禁止となっている屋上に出た。残念ながら根本的な治療などできないのだ。今の医療技術では。 落下防止のためにある鉄製の柵に凭れかかりながら、僕は遠くの方を見る。ネオンライトに照らされた街並みは、嫌なぐらい眩しかった。 ネオンライトは『光』を連想させた。なぜ僕にはあの緑の光が見えるのだろう? それは幼い時から幾度のなく考えて、ついに答えが出せなかった問題だ。最近では考えることが馬鹿馬鹿しかったので忘却の彼方に置き去りにしていたが、なぜか舞い戻ってきてしまった。 (なぜ見えるんだろうな?) 僕は天を仰ぎ見た。先程までは雲に隠れて見えなかった月も、今ではその姿を僅かだが現している。半月だ。こういう場合は三日月――もしくは満月が相場なのだろうが、現実ではそうではないらしい。 最初彼女にあの光が見えた時、僕は言葉を失った。その時の僕の様子が変だった事を彼女は見抜いており、『光』の事について尋ねてきた。 もちろん返す言葉などない。ただ誤魔化すしかなかった。もしその事を言っても信じてもらえないだろう、というのは逃げるための口実だ。 「私、いつ死ぬんですか?」 先程の郁美の言葉を僕は心の中で反芻した。僕は患者からああいった言葉を聞くのは始めてじゃない。慣れている、というのは嫌な表現であるが、それは事実の事だ。だから、彼女の言葉も同じように受け止められると思っていた。 しかし――それはできなかった。それは彼女が僕の中で特別な存在になっている、ということを示しているのだろうか? ――僕が彼女の事を好き? いや、それは違う。彼女に対して僕は恋愛感情というのを抱いていない。それは自分が一番よく理解している。彼女は僕にとって――そう、妹のような存在だ。僕は彼女を妹のように思っている。 それは間違いない。 そんな彼女を助ける事のできない僕は、なんて無能で無力なのだろうか? もし、この目をもった事に意味があるのなら、『死』の光りを視認できる事に意味があるのなら、願わくば彼女を――白河郁美を助けて欲しい。もちろんタダで願いを叶えてもらおうなどと、厚かましい考えは持っていないし、そうあまくもない。必要というのであれば――。 (僕の命と引き換えでも構わない) ――風が吹いた。 秋風だが妙に生暖かい風。梅雨時の風に似ている。しかしそれは突風に近い風速を有していた。 身体が軽い。間違っても身体が風に飛ばされたのではないけれど、それに似た感覚を覚える。なんて身体が軽いのだろうか。いや、それだけではない。心も軽いと思うのは、けっして気のせいではない。風になる、とはこういう事を言うのか。体験してやっと理解できる、不思議な感覚だった。 手を広げて、僕はこの感覚を身体全体で受け止めた。 ……………………。 気づけば、僕の身体から緑の『死』の光が発せられていた。彼女と同じ『死』の光だ。 でも不思議と驚きはしなかったし、怖くもなかった。幻想的な光の美しさに心が奪われてしまったほどだ。言葉では説明できないほど美しい光。しかしその美しさとは裏腹に、その光は恐ろしいものだった。恐ろしい光の筈なのに怖くない。不思議だ……。 僕は目を閉じた。 今だけは全て忘れよう。彼女の病気の事も、その他の事も、そして光の事も……。 そして奇跡は起こった。 奇跡と呼びうるものが存在するとすれば、これも奇跡と呼んでも間違いはないだろう。そのような奇跡が起きた。 一つの命と引き換えに……。 目覚めは心地よいものではなかったが、身体の痛みは八割がた消えていた。それを考えると、久々に良い朝だったと言えなくもない。 窓から差しこむ陽光が私の目を刺激する。嫌が応にも、それが私の眠気を奪い去ろうとする。 眠い……。 私は朝に弱い。昨日は、今日が雨だと思っていたけれど、その予測は外れていたようだ。文句なしの晴天は、なんだか私を責めているような感じがする。 (お腹、空いたな……) 驚きだった。最近は食欲なんて皆無だったのに……。今は、でも何か食べたい。身体は痛いし、ちょっとだるいけど、それでも何か食べたかった。 時計を見る。針は八時前を指している。先生が診察に来る時間は九時。あと一時間もこのまま待つのはちょっと耐えられそうになかったから、私はナースコールのボタンを押した。 やってきた看護婦さんは私の姿を見て少し驚いたような顔を見せた。 「郁美ちゃん。目が醒めたの?」 よく解らない事を訊いてくる看護婦さんに私は、「はい。身体もあまり痛くありません」と答えた。看護婦さんは安心したような声で「そう。それは良かったわ」と言ってくれた。 「看護婦さん、私お腹が空いたの」 食欲があることを私が訴えると、看護婦さんは頷いて部屋を出ていった。 しばらくして看護婦さんが白衣を着た見知らぬ先生と戻ってきた。看護婦さんは台車にお粥を載せて持ってきてくれたようだ。 「先生、今日はお休みなんですか?」 「先生?」 白衣を着た初老の医師は首を傾げると、「ああ。大沢君の事か」と一人で納得してしまった。医師と看護婦は顔を見合わせ、それから言い辛そうに私に向かって言った。 「大沢くんはな……その、言い難いんじゃが……」 しばらく医師は口をつぐんでから、 「一週間前に亡くなってしまったんだよ。屋上で眠るように死んでおった」 「えっ!?」 私にはこの老医師の言葉の意味が理解できなかった。先生が一週間前に死んだ? だって昨日まで生きていたんだよ。私の病気を診てくれていた。それなのに……。 「でも先生、昨日の夜、私の身体を診てくれましたよ」 私が反論すると、先生は大きく頷いた。 「君はあの日、大沢君の治療を受けたあと気を失ってな……それから一週間の間、眠りつづけていたんだよ。生死の狭間をさ迷いながらな。君に食欲があるのは、そのためだよ。解るかい? そして一番驚くべきは、君の体調が良くなっているという事だ。大沢君が残したカルテを見る限りでは……言い難い事だが、君の病気は治る見込みがほとんどなかった。まさに奇跡だな」 「…………」 私の頭の中は混乱を極めたけれど、それでも解る事はある。一つは、信じたくないけれど先生が死んでしまった事。一つは私が一週間も眠っていた事。そして私の病気が、治りつつある事――それはこの老医師が言うように奇跡なのかもしれない。私自身、病気の回復なんて信じていなかったのだから。 老医師が退室したあと、私はスケッチブックを手に取った。先生のために描くつもりだった絵――結局、先生に見せる事ができなかったね。 まだ描き始めてもない絵。それでも先生に見てもらいたかった絵。 私が死んで、だから完成しなくて見せられのないのなら納得できるけど、でも、見せたい人がいなくなってしまうなんて、そんなのは、そんなのは……嫌だ。 先生、約束したじゃない。絵を見てくれるって。 「約束したじゃない」 ぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。 香澄も、先生も私を残して逝ってしまうなんて。病気が治っても、一番お礼を言いたい人がいないなんて。それに先生、私に小説の感想聞かせてくれるの忘れてるよ。 忘れてるよ……。 一週間後、私は無事に退院した。この退院は人々を驚かせるのに充分だったけど、私はあまり驚かなかった。未だに信じきれない不思議な気持ちだけど、驚きというのはない。でも悔しさというのはある。私が助かって先生が亡くなった。それではまるで、私が先生の命を奪ってしまったように感じる。先生の死因が不明だというのだから、その思いは尚更強くなってしまう。 私は墓地にやってきた。先生の眠る墓地だ。長時間歩くのは退院したばかりの私にとって重労働だけど、それでも私はやってきた。 『大沢家のの墓』 先生の眠る墓石の前に立ち、私は黙祷する。普通の人ならお供え物として花とか、そういったものを用意するのだろうけど、私の場合は違った。私が用意した品は二つ。 一つは先生に見せると約束した絵。入院中に描いた絵だ。お世辞にも上手いとは言えないけれど、それでも一生懸命描いた絵。 もう一つは、可愛らしい便箋とそれを仕舞ってある封筒。便箋には私の死後、先生に読んでもらうつもりだった文章が書かれてある。つまり先生に宛てた便箋だ。 私はその内容を思い出す。 先生。先生がこれに目を通している時、私はもうこの世にいないと思います。先生、この便箋を憶えていますか? 先生に買ってきてもらったやつです。あの時から私は自分はもう助からない、と薄々ですけど感づいていました。でも先生を恨みません。だって、偉そうな言い方ですけど、医者だって万能じゃないんですから。 あ、こんなこと言われたからって、落ちこまないで下さいね、先生。先生はすぐ人の言葉を真に受けるから……。 私、先生に感謝してます。これは嘘じゃありません。先生は私の死に対する恐を和らげてくれました。それは、名医の条件の一つだ、と私は思います。偉そうなこと言ってすみません。 言いたい事は沢山あるけど、これ以上書くと私の気持ちが昂ぶって上手く書けないから、ここまでにします。 私はそっと閉じていた目を開くと、二つの品を墓石の前に置いた。そして、今までの人生で一番の明るい笑顔で、私はこう言った。 「さようなら」 と。 |
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