浅原才市(さいち)は,石見国(いわみのくに)邇摩郡(にまぐん)小浜村(こばまむら)(現在の島根県邇摩郡温泉津町(ゆのつちょう)小浜)の人で,嘉永3年(1850)に生まれ,昭和7年数え年83才で亡くなっています。
才市自身の言葉によれば,彼は「せゑの(背の)太かさわ(高さは)五尺仁(五尺に)とわの*(届かない)」(鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』春秋社,p.3)小柄な人であったようです。晩年,安楽寺で取られた集合写真(浅原才市翁顕彰会編『ご恩うれしや』口絵写真参照)をみても,隣の女性よりかなり小柄に写っています。
*才市の言葉にある「とわの」は,出雲や石見の方言です。海や川の深いところをさして,「あそこは深くて背がとわん」のようないい方もします。
才市の父,要四郎は,子どもの頃に両親を亡くしたため,涅槃寺に預けられ西教という法名をもらい,涅槃寺の法務を手伝って生計を立てていました。母はトメといいますが,事情があって,才市は要四郎の従妹のスギに育てられました。
11才になると,才市は父方の祖母の実家である大家屋(おおえや)に弟子奉公に出されます。大家屋は造船業と回船業をいとなんでおり,そこで才市は船大工としての修業をつみました。25才の時,温泉津村の竹内常右衛門の娘セツと結婚。29才で娘サキが生まれると,九州へ出稼ぎに行くようになります。
才市が信仰を深めたのは九州で出会った七里恒順和上の影響が大きかったといわれています。その後,33才の時,京都に上り本願寺で帰敬式を受け,法名「釈秀素」をもらいます。さらに2年後,3ヶ月以上をかけて北陸から新潟をまわり,親鸞や蓮如の旧跡をめぐります。才市はこうした体験により,一層,信仰に熱が入るようになったようです。
九州に出稼ぎに行っていた時期に,妻せつにあてて才市が送った手紙(手紙1,手紙2)が残っています。ほとんどがひらがなで書かれたこの手紙を読むと,才市の人柄が偲ばれます。
才市は酒も呑まず(高木『才市同行』73-74ページ)注1,真面目な生活を送った人であったようです。暮らしぶりは,金持ちという訳ではありませんが,比較的ゆとりのあるものであったようです注2(高木『才市同行』74-92ページ)。
58才になった才市は,長年の出稼ぎ生活に区切りをつけて,小浜で下駄屋(浅原履物商店)をはじめます。下駄を削りながら思いついた「口あい」を書き留めはじめたのは,64才頃からのようです(「口あい」そのものは九州時代から作っていたようです)。才市は思いつくと下駄の削りかすなどにそれを書き留め,後からノートに清書しました。そのノートは現存するものでも数十冊におよび,ひらがなとごくわずかの漢字(それもほとんどはあて字)で書かれた素朴な詩の数々がわれわれに残されました。
トップページに戻る