七里恒順和上は,天保6年(天保の大飢饉の前年)7月16日,信濃の国(今の新潟県)飯塚村の明鏡寺に生まれ,11才で得度した後,初めは信濃,20才以降は九州に移って研鑽を積み,30才の時,博多の万行寺住職に就任し,明治初年の廃仏毀釈などの困難に耐えて,教化に努めました。
七里和上の法話は『七里和上言行録』『七里恒順師語録』『七里老師語録』などとして残っていますが,喩えを多用した分かりやすいものです。
元の白地になりて御聞きなされ,夫(それ)でなひと聞いても聞こへませぬず,徳利の水を一杯入れて置ては,酒の中へつけて置ても酒は這入(はい)らぬ,乃(そこ)て是まで聞いた事を腹一杯,持て居ては御話しても受られまひ。(『七里恒順師語録』47)
炭団(たどん)は何程削りても磨ひても黒ひのが自性なれば無くなるまで白くならぬ。煩悩は凡夫の自性なれば撲(ぶつ)ても叩(たたひ)ても三毒五欲の垢は抜けぬ慚愧(ざんぎ)して念佛なされ。(『七里恒順師語録』158)
七里和上の評判は高く,全国からのべ30万人もの人が和上の法話を聞こうと集まったと言われます。才市が和上と出会ったのは才市30才,和上45才の時で,明治33年1月に和上が66才でなくなるまで,21年にわたって大きな影響を受けました。
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