| 【目次】 |
|---|
| 『ガリヴァー旅行記』の舞台 |
| 時代背景 |
| 『ガリヴァー旅行記』と日本 |
| 鎖国時代の日本とヨーロッパ |
| 鎖国と海外情報 |
| ヨーロッパの日本情報 |
| 『ガリヴァー旅行記』とケンペルの『日本誌』 |
『ガリヴァー旅行記』の主な舞台はどこでしょうか?あまり意識して読んだことのある人はいないと思いますが,意外にも,第4部の馬の国フウイヌム以外は,太平洋地域なのです。*注1 もっとも,作品中の地図(岩波文庫では各部の冒頭につけられています)や本文から読みとれるデータ(注1参照)の間には,かなり矛盾もあります。
例えば,リリパット国はファン・ディーメンズ・ランド(Van Diemen's Land)の北西で南緯30度2分付近となっていますが,テキスト添付の地図の位置からすれば,南緯10度からせいぜい20度の間にあることになります。ケイスの地図*注2ではオーストラリアとニュージーランドの間にあることになっていますが,添付地図ではインド洋になります。
ブロブディンナグにしても,北緯3度の地点から東に流されたはずなのに,帰路に乗船した船は北緯44度あたりにいたことになっています。北緯44度といえば,北海道の中央より少し北にあたる緯度で,これも話が食い違っています。もともとスウィフトの時代のイギリス人には,まだこの地域の地理は十分つかめていなかったのですから,少々の食い違いはやむを得ないでしょう。また,曖昧だったからこそ,そこにこれらの「未知の」国々を配置することも出来たのです。
それにしても,『ガリヴァー旅行記』の舞台が,日本のすぐ近くに設定されていた,という事実は案外知らない人が多いのではないでしょうか。
スウィフトの時代,ヨーロッパの人々にとって東洋とは香辛料(胡椒,シナモン,ナツメグなど)の供給地でした。特に,インドと東南アジア(特にスマトラ,ジャワ,モルッカ諸島など)は垂涎の地と言ってもよかったのです。 この地域にまず進出したのはポルトガル人でした。航海王エンリケたちの努力でアフリカ西岸の探検を続け,ついに1498年バスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到着し,大航海時代の幕が切って落とされました。
1510年,ポルトガルはインド西岸のゴアを占領し,植民地としたのを皮切りに,アラビア海からペルシア湾への中継基地ホルムズ,東アフリカ沿岸各地を次々に手中に収め,16世紀のインド洋交易を独占することになります。ポルトガルは,マラッカからジャワへのスパイス交易路を支配すると共に,北上して1537年にはマカオを植民地とし,1543年には日本の種子島に漂着します。その際船長が種子島の人々の歓待への感謝の印としておいて帰った2丁の鉄砲(いわゆる「種子島」)は,瞬く間に全国に拡がり,戦国時代の大勢に大きな影響を与えることになります。17世紀にはいると,ヨーロッパの各国に東インド会社が設立され(1600年イギリス,1602年オランダ,1604年フランス),ポルトガルに対抗して東洋貿易を開始します。まず活発な動きを見せたのがオランダでした。オランダにはスペインとの長年にわたる抗争の間に多くの新教徒商人が集まり,彼らが積極的に海外進出をめざしたからです。ついで,1588年,スペインの無敵艦隊を破ったイギリスが,アジアへの進出を開始しました。1620年末,ホルムズ東方のジャスク沖海戦でポルトガル艦隊をうち破り,1622年にはペルシアを支配していたサファヴィー朝のアッバース1世がイギリス軍と協力してポルトガルからホルムズを奪還し,ポルトガルのインド洋独占の時代に終止符が打たれました。
イギリスは1612年,インドのスラトに商館を建て,ムガール王朝と交渉して,マドラス,カリカット,ボンベイ(現,ムンバイ)にも進出しました。さらに,モルッカ諸島にも進出しようとしてオランダと激しい抗争を起こし,1623年のアンボイナ虐殺事件*注3以後は香料諸島から手を引き,インド経営に全力を尽くすことになります。オランダは,1619年,バダヴィア(現,ジャカルタ)に拠点を置き,1639年にはポルトガルに代わって日本との貿易権を獲得し,1641年にはスマトラのアチェー王国と連合してマラッカを占領し,東南アジアの覇権を握りました。
『ガリヴァー旅行記』の時代は,まさにそれからさほど遠くない時代であり,ガリヴァーがラピュータに行くきっかけとなった海賊船に乗っていたオランダ人のことを,ガリヴァーが糞味噌にけなしているのもこうした事情があったからだと考えられます。
『ガリヴァー旅行記』の中でガリヴァーが訪れた国としては(途中で立ち寄っただけのものを除けば)唯一,実在するのが日本です。 イギリスは1600年,九州に漂着したオランダ船リーフデ号*補注に乗り組んでいた三浦按針(ウィリアム・アダムス)が家康に取り立てられたのをきっかけに,1613年日本と通商関係を持つに至りますが,結局貿易では利益が出ず,日本から撤退(1623年)し,特に鎖国後は,オランダが日本と交易しているだけでした。したがって,スウィフトは日本の情報をほとんどもっていなかったはずですが,その割には取り上げ方が詳しいのです。それは何故でしょうか。
それを検討する前に,当時の日本におけるヨーロッパ情報,ヨーロッパにおける日本情報に触れておきたいと思います。
鎖国は日本にとって,海外からの情報の途絶を意味したわけではありませんでした。長崎にやってくるオランダ船の船長に「阿蘭陀風説書」と呼ばれる海外事情の報告書を提出させていたからです*注4。 1669年(寛文9年)の風説書には,ネーデルランド戦争(1667-68年)*注5の終結や,スペインとポルトガルの争いの終結などの情報が伝えられています。1690年の風説書には,早くも名誉革命の情報が,かなり詳細にしかもかなり正確に報告されていますし,1703年の風説書では,ウィリアム3世が落馬事故が原因でなくなったこと,後継者としてアン女王が即位したことを告げています。
蘭学の最初期に属する西川如見(1648-1724)は『日本水土考』『華夷通商考』(1695年[スウィフト28才],元禄8年)でかなり正確な世界地図を示しています。また,新井白石(1657-1725)がイタリア人神父シドッチ*注6を尋問して『西洋紀聞』を著しましたが,そこには,シドッチの尋問に際して1639年頃に作られたブラウ図と呼ばれる世界地図を参照したことが記されています。この地図では,ガリヴァー旅行記の舞台となる地域はちょうど空白域になっています。『西洋紀聞』にはスペイン継承戦争(1701-13年)の記事も見出せます。
このように,当時の日本でも,海外事情はわれわれが想像する以上に入ってきていたことが分かります。
日本側の情報網は,当時としてはかなりのものと言っていいでしょう。では,ヨーロッパの日本情報はどうであったのでしょうか。
まず,日本がヨーロッパ人に知られるようになったのはいつ頃からでしょうか?*注7
これまでのところ,有名な『東方見聞録』が最初だと言われています。イタリア(ヴェネツィア)の商人マルコ・ポーロは、陸路中国におもむき、17年にわたって元朝に仕えました。彼の見聞は『東方見聞録』としてヨーロッパ人のアジアへの関心をあおりましたが、その中に日本は「ジパング(Zipangu)」として現れます。その情報は、大体次のような内容のものでした。
(1)ジパングはマンジ(チナ)の海岸から1500マイル(=2400キロ)東方に存在する。住人は色白で程良い背の高さである。偶像崇拝を行い、彼ら自身の国王をもつ。金や真珠などに富んでいる。これが、ヨーロッパ人に知られた最初の日本情報(伝聞でしたが)でした。これは、幻想と怪異に満ちた当時のオリエント観*注8そのものといえますが、その中に東洋への憧れも見いだすことができます。
(2)クビライがジパングに二人の大将と大軍を送った。暴風雨にあって船が壊れた。ジパングの都市を占領したが、包囲されて明け渡し、帰国した。この出来事は1268年のことであった。
(3)ジパングで崇拝される偶像は、牛・羊・犬などの動物の頭をもつもの、一つの頭に3ないし4つの顔のあるもの、手が4本、10本、あるいは100本あるものもある。外国人をとらえると、殺して食べてしまうこともある。
(4)ジパングは7448の島々からなり、香りのよい木がはえている。風が夏一回、冬一回しか吹かず、航海にはまる一年近くを要する。ヨーロッパ人が実際に日本を訪れたのは、1543年のことでした。ポルトガル人ディエゴ・デ・フレイタスの情報によれば、1542年にポルトガル人がレキオス(lequios=レキオ[琉球]人)の島に暴風雨にあって漂着したといわれます。ついで、1543年には、日本側の資料(「鉄砲記」)により、ポルトガル人が屋久島に漂着して、鉄砲をもたらしたことが知られています。(これ以後,ポルトガル商船が相次いで日本に来航するようになっていきます。
1544年には、スペイン人ペロ・ディエスが来日し、日本の島(la ysla de Japan)が北緯32度にあること、リョンポ(寧波)から155レグワ(約850キロ)の所にあり、ほぼ東西に横たわっていること、人々は色白で髭を生やし頭を剃っていることなど、かなり詳しい情報をヨーロッパにもたらしました。
1547年になると、ポルトガル人商人ジョルジュ・アルヴァレスが本格的な日本見聞記を著し、日本人アンジロウ(Angero,ヤジロウYajiroとも呼ばれる)をフランシスコ・ザビエルに紹介して彼の訪日に大きな影響を与えました*注9。ザビエルは、1547年、マラッカでアルヴァレスにアンジロウを紹介され、日本の話を聞いて、日本に行くことを決意し、1549年に日本の地を踏みます。1551年に離日するまでの間に、鹿児島、平戸、山口、京都、豊後などを訪れ、1000人の信者を獲得しました。また、その間に何通もの書簡を書いて、日本の事情を詳しく紹介しています。特に1549年11月5日付鹿児島発ゴア宛の長文の書簡*注10は、16,7世紀ヨーロッパの貴重な日本情報として利用されました。
そこでは、日本人は親しみやすく、善良で、礼儀正しく、知識欲に富み、理性的な国民としてきわめて好意的に(いささか過大評価気味のような気がしますが・・・)描かれています。名誉を重んじ貧乏を恥とせず武器を大事にする武士の姿も示されています。一方、ボンゾ(坊主,僧侶)は社会的な尊敬は受けているものの道徳的な面では問題があるとしています。ヨーロッパの船が貿易(いわゆる南蛮*注11貿易)のために定期的に日本を訪れるようになった16世紀後半には,イエズス会(ザビエルもイエズス会)を中心とするキリスト教宣教師が多数来日し(フロイスがザビエルから日本の事情を聞いて来日し,ザビエル来日の1549年から約50年にわたる記録『日本史』を残したのもこの頃),日本からも天正少年使節がローマ法王のもとに遣わされました。
しかし,徳川幕府は,日本人の海外渡航の禁止,キリスト教(特にカトリック*注12の取り締まり,外国貿易の統制といういわゆる鎖国政策を断行します。そうして,1624年イスパニア船の来航を禁止(イギリスは1623年,採算が合わず自ら商館を閉じていました),1639年ポルトガル船の来航を禁止し,1641年にはオランダ商館を平戸から長崎の出島へ移し,鎖国を完成させます。鎖国によって再び日本の情報は伝わりにくくなりました*注13。特にイギリスは,東南アジアでも目立った活動はしなかった(東南アジアからは手を引いて,インド経営に全力を注いだ)から,スウィフトの頃の日本情報はかなり限られていたものと思われます。それでは,スウィフトは,どこから情報を得たのでしょうか?
1690年オランダ船船医として渡来し,日本に2年間滞在したケンペルという人物がいました。彼は日本の青年*注14を助手として,日本について詳しい情報を入手し,それを『日本誌』として発表しました。
ケンペルの『日本誌』が出版されたのはガリヴァーの翌年1727年ですが,スウィフトはその草稿を読んでいたらしいのです。スウィフトがケンペルの『日本誌』からヒントを得た可能性の高い場所は,以下の諸点であるとされています。
(a)ケンペルの生き方(混乱したヨーロッパを脱出し,旅行者としての人生を選択)をガリヴァーの生き方にダブらせた。日本でガリヴァーがオランダ人船医になりすますのも,ドイツ人でありながらオランダ船の船医として来日したケンペルの姿を彷彿とさせる。また,『ガリヴァー』の第3篇で,コンピュータの原形のような装置が登場しますが,その文字らしきものが書かれたプレートが,ケンペルが持ち帰った日本語の50音図と雰囲気が似ている上,そこに描かれた文字らしきもののいくつかは日本の仮名によく似ています。
(b)ケンペルは日本の鎖国政策に好意的であったが,『ガリヴァー』でも他国と交渉のない「巨人国」や「馬の国」が好意的に描かれている。
(c)『日本誌』で日本人が時計,望遠鏡,地図などヨーロッパの事物を見て驚く様子が描かれているが,『ガリヴァー』では「小人国」でその場面が再現されている。
(d)ケンペルは「エゾ」に触れ,原住民が毛むくじゃらで荒っぽい性格であったため,馬とともに軍隊を派遣して制圧した,とか,蝦夷の原住民が不潔であるのに対し,日本人は極端な清潔好きだ,とか(偏見むき出しで)述べているが,YezoがYahooに,清潔好きと馬とが結びついて「馬の国」のフウイヌムに反映されている可能性がある。
(e)ケンペルが述べる踏み絵の話が,『ガリヴァー』にも出てくる。
(f)ケンペルが京都の町の様子を述べている箇所と,『ガリヴァー』の小人国の都の描写に類似性がある。スウィフトが出版前の『日本誌』の草稿を見て,そこからヒントを得た可能性は高いようです。
既に説明しておきましたが,当時のイギリスには日本の情報はほとんど入ってきませんでした。ですから,ケンペルの『日本誌』が,最新の生の情報であったであろうと思われます。スウィフトは,また,三浦按針についての記述のある,英国の牧師が編集した紀行文・探検記(1625年刊)も所有していたことが知られています。スウィフトの日本情報はこうしたものから得たものと考えられています*注15。
『ガリヴァー旅行記』における日本についての記述で最も興味深いのは,踏み絵の話でしょう。スウィフトは「オランダ人はキリスト教徒でありながら,平気で踏み絵を踏む」といっていますが,それは事実でした。当時のオランダ人にとって利益が信仰よりも優先しました。日本のようにキリスト教が禁じられているところでは,祭式を控えるなどして,貿易に励みました。日本が踏み絵を行ったのは,キリスト教が日本の植民地化の手段となることへの疑念からでした。オランダにとっては,ポルトガルやスペインといったカトリックの国々を牽制する意味で,踏み絵はむしろ都合がよかったのです。また,オランダ国内では,利益優先が商業資本の発達をもたらし,それが「個人」を出現させ,「信仰の自由」といった先進的な思想ももたらすことになりました。
『ガリヴァー旅行記』と日本の関係など,考えてみたこともない人が多いだろうとおもいますが,こうしてみると,まんざらそうでもないことが分かって,何だか賢くなったような,得したような気がしませんか?