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5.スウィフトとアイルランド


【目次】
  『ガリヴァー旅行記』とアイルランド問題
    スウィフトとアイルランド
    アイルランド小史
    ドレイピア書簡
  ラピュータ島とバルニバービ


『ガリヴァー旅行記』とアイルランド問題

 『ガリヴァー旅行記』第一部には直接アイルランド問題が登場するわけではありません。しかし,リリパット国皇帝がブレフスキュ帝国との戦いに勝った後,ガリヴァーに残りの敵艦隊も捕獲してくるよう要求したのに対して,
「この皇帝も,ブレフスキュ帝国の全土を併呑して属領にし,総督を派して統治する,卵を大きな方の端で割るといって亡命した連中を抹殺する,前人民が卵を小さな方の端で割ることを強制する,−−−こうすることによって自分は全世界の唯一の帝王として安泰を誇る,ということ以外には何も眼中にはないらしかったのだ。私は,政策の点からいっても正義の点からいっても,その不可なる所以を諄々と説いて,皇帝にそういった野望を思いとどまっていただくように努めた。そして,仕舞いには,いやしくも自由で勇敢な国民を奴隷の状態に陥れようという計画に,力を貸すつもりは毛頭ない,と私もはっきり主張した」(p.60)
と批判しますが,「総督を派して統治する」といった部分は,当時のイギリスがアイルランドに対して行っていたことと重なってきます。また,「自由で勇敢な国民を奴隷の状態に陥れようという計画に,力を貸すつもりは毛頭ない」といった部分は,スウィフトがアイルランドのために(ペンで)戦ったことと重なってくるのです。


・スウィフトとアイルランド

 「スウィフトと『ガリヴァー旅行記』」の中でも触れましたが,スウィフトはイングランドからの移住者の息子で,生粋のアイルランド人というわけではありません。また,彼自身,アイルランドやその首都であったダブリンをあまり好いてはいなかったことも知られています。それにも関わらず,彼はアイルランド問題に深く関与し,アイルランドの人たちからは「愛国者」とみなされるようになりました。

 そもそもスウィフトがアイルランド問題に関わるようになるのは,1714年にアン女王が亡くなり,イギリスでの栄達の道を絶たれ,打ちひしがれてダブリンに戻った後のことです。それ以前の彼は,この問題にはほとんど関心を持っていなかったようです。そうした意味では,スウィフトが真の愛国者であったということは難しいでしょう。しかし,アイルランドに腰を据えた(据えざるを得なくなった,というべきでしょうか)スウィフトにとって,アイルランドが置かれていた状況は見過ごすことのできないものであったのです。



・アイルランド小史

《ケルト人の定住》
 アイルランドは紀元前7000年頃から人が住み着いていました。紀元前6C.になるとケルト人*注1がアイルランドに渡ってきて,アイルランドを支配し,独自の文化と社会制度を作り上げていました。


《キリスト教化》
 432年,聖パトリック*注2が渡来し,教会制度を確立し司教を叙任して,アイルランドのキリスト教化に努めました。やがてヨーロッパは民族大移動に伴う混乱に巻き込まれていきますが,アイルランドでは平和が続き,修道院では学問が温存されました。9世紀にフランク王国のシャルルマーニュのもとで起こったカロリング・ルネサンス*注3に際して,アイルランドから学者が招かれて大きな貢献をしたことがよく知られています。この時期,アイルランドは「聖者と学問の島」と呼ばれました*注4


《ヴァイキングの時代》
 8世紀の末になると,ヴァイキング*注5がアイルランドに姿を見せ,次第に勢力を強めていきました。この間,多くの文化的遺産が破壊され,伝統的文化は衰退します。10世紀後半から11世紀初めにかけての抗争でヴァイキングは敗れ,遠征は下火となりました。ヴァイキングの進出により,アイルランド各地に商業都市が発達し,村落的社会であったアイルランドは大きく変化していきました。その過程でヴァイキングはアイルランド人と同化し,11世紀から12世紀にかけて,アイルランド文化は再び活発になりました。


《アングロ・ノルマン人の進入》
 ヴァイキングとの抗争後も,アイルランドでは各地方の諸王の間での抗争が続いていましたが,1166年,レンスター地方の王ダーマット・マクマローが敵に追われてイギリス王ヘンリー2世*注6に援助を求めました。それに応じてアングロ・ノルマン貴族ペンブルーク伯(ストロングボウ)はアイルランドに渡り,マクマローを助けて王国を回復し,以後現地にとどまって,マクマローの死後,レンスター王を継ぎました。それを見たヘンリー2世*注7は,ストロングボウが勢力を拡大するのを避けようと,自らアイルランドに赴き,アングロ・ノルマン貴族とアイルランド諸王に忠誠を誓わせました。こうして,イギリスによるアイルランド支配が始まりました。

 アングロ・ノルマン人貴族の進出とイギリス国王の支配はその後も進み,1250年には全島の4分の3を支配するようになります。アングロ・ノルマン人は各地に要塞や都市を造り,大きな教会を建設しました。ダブリンにはダブリン城が築かれ,中央集権的な政治機構が導入されて,13世紀にはイギリスと同様の議会や法律,行政システムが制定されました。

 こうした動きに土着のアイルランド人領主も抵抗し続け,13世紀末頃にはアングロ・ノルマン人の植民地の拡大は止まり,植民者は徐々に地方の人々と融合し,イギリスへの忠誠は弱まっていきました。その結果,15世紀末には,イギリスが直接支配する地域はごく限られたものになりました。



《宗教改革とイギリス化》
 15世紀にはイギリスは,国王代理(といっても実際には赴任しない)の制度を設け,名目的にアイルランド王権を保持していましたが,実際にはアイルランド人伯爵が総督としてアイルランドを支配していました。

 チューダー朝の時代になると,イギリスにとってのアイルランドの戦略的重要性が増し,ヘンリー7世*注8はアイルランド人総督を罷免して新たに総督をイギリスから派遣するとともに,アイルランドの文化や生活習慣を否定して,イギリス化を図る方針に転じました。1536年,アイルランド国王の称号を得たヘンリー8世*注9は,イギリスで始めた宗教改革をアイルランドにも強要しました。その結果,イギリス王の支配が強く及んでいたいくつかの都市やダブリン周辺での宗教改革が進行しましたが,他の地域では依然としてカトリックが守られていました。アイルランド人やアングロ・ノルマン人はカトリックに固執し,イギリスと激しく対立しました。カトリックの復活を図ったメアリ(血のメアリ)が亡くなると,エリザベス1世はイギリスの再国教化を図り,首長令を復活させ*注10,統一令*注11を定めました。これに反対してアイルランドの人々は,9年にわたってイギリスとの戦いを繰り広げますが,1605年に鎮圧されてしまいます。エリザベスの後を継いだジェームズ1世は,アイルランド全体を支配下に納め,以後,急速にイギリス化が進行していきました。

 敗れた北部の指導者たちが土地を明け渡したため,ジェームズ1世はアルスター地方に英国国教会やスコットランドの長老派教会などのプロテスタントを移住させ,アルスター地方はプロテスタントの支配する地域になりました*注12



《プロテスタントの征服》
 17世紀半ば,イギリスでスコットランドの反乱や国王チャールズ1世と議会の対立が起こると,アルスター植民で土地や財産を奪われたアイルランド人カトリック教徒は,これを勢力挽回の好機と見て反乱を起こした(1641年)。反乱はアルスター全域に拡がり,数千のイギリス系プロテスタントが虐殺された。

 イギリスでも,まもなく国王軍と議会と間の市民戦争が勃発し,1649年チャールズ1世が処刑されてクロムウェルの指導するイギリス共和国が成立しました。クロムウェルは12,000人の軍隊を送ってアイルランドに残る王党派*注13とカトリックを制圧し,各地で虐殺や土地の没収を行い,アイルランドの土地の大部分がプロテスタントの所有するところとなり,イギリスによるアイルランド支配が確立されました。

 王政復古によりカトリックのジェームズ2世が即位すると,状況は若干改善されますが,まもなく名誉革命が起こってジェームズ2世は王位を追われ,フランスに亡命します。翌年ルイ14世の援軍を率いてアイルランドに上陸し,ウィリアム3世と戦いますが敗れ,アイルランドのカトリックは一層厳しい弾圧を受けるようになります。1691年にはカトリックの政治的・経済的権利が剥奪され,カトリックのミサも禁じられました。公職に就くことも認められず,財産の相続も分割相続が強制されるなど,様々な禁令が設けられました。1727年にはカトリック教徒は選挙権も剥奪され,プロテスタント地主とカトリック小作人という関係が定着していきます。

 *スウィフトがアイルランドのためにペンをふるうのはこうした時期です。



《その後の展開》

 1750年以降,アイルランドの反政府運動が強まり,1778年のアメリカ独立戦争に乗じて貿易の自由化や議会法の改正など,アイルランドの法的独立を求める動きが強まり,1782年にその要求が受け入れられます。1793年のナポレオン戦争時にはカトリック教徒に対する制限もかなり撤廃されますが,完全な権利の回復は実現しませんでした。

 一方,フランス革命の自由・平等の理念はアイルランドにも大きな影響を及ぼし,急進的なカトリック教徒たちが完全な自由を求めて武装蜂起するようになります。イギリスがアイルランドの合併を提案すると,危機感を抱いていたプロテスタントがこれに同意し,1800年,アイルランドは完全にイギリスに合併されます。その後もアイルランドの状況は改善されず,特にカトリック小作人の生活は困窮を極めました。

 20世紀に入り,ようやくアイルランドの独立の要求が認められ,アイルランド共和国が成立します。しかし,アルスター地方のプロテスタントたちはこれに参加することを拒み,イギリスの自治州として残る道を選択し,あくまでもイギリスからの独立を求めるカトリックとの間で対立を生じ,以後,しばしば武力衝突が繰り返されることになります。これが北アイルランド紛争です。最近になってようやくカトリック系武装組織IRA*注14との間で和平が成立しましたが,いまでも時々小規模の衝突やテロが起こっています*注15



・ドレイピア書簡(The Drapier's Letters)(1724年〜)

 さて,スウィフトがアイルランドのために立ち上がるのは1720年代以後のことです。まず彼は,一連の「ドレイピア書簡」と呼ばれる文書を発表してイギリスの通貨政策を批判しました。ことの起こりはこうでした。

 1720年頃,アイルランドでは少額貨幣,特に銅貨の不足に苦しめられていました。特に一般市民にとってそれは深刻でした*注16

 そこでイギリス政府に対して銅貨の増発を望んだのです。もともとこうした問題が生じたのは,イギリス政府のやり方にありました。イングランドやスコットランドには独自の造幣局がありましたが,アイルランドにはそれがなかったのです。アイルランドでは,国王の特許を得た商人が作った銅貨が持ち込まれ,流通していたにすぎなかったのです。国営の造幣局でなく,一商人が通貨を鋳造するわけですから,どうしても不正も行われやすかったのです。その問題が露わになったのがこの時でした。

 1722年,国王はウィリアム・ウッドという少々いかがわしい鉄商人に特許を与えました。360トンの銅をつかって14年にわたって銅貨を作ることを認めたものでした。もちろん特許状には悪貨をつくらないよう厳重な規定がありましたが,ウッドはそれを無視しました。銅貨に多くの混ぜものを加えて品質を落としたのです*注17

 品質の低い通貨は当然価値が下がります。それが大量に出回ることになったため,アイルランド経済は混乱しました。そうした中,「ウッドの半ペニー銅貨に関し,アイルランド人の商人,小店主,農民,および一般市民諸君に訴える公開文」という一冊のパンフレットがダブリンで出版されました。著者名はM.B.ドレイピアとありました。これが一連の「ドレイピア書簡」の第一号でした。

 ドレイピア(Drapier)はもちろん仮名です*注18。「ドレイピア書簡」は1724年中だけでも7本,翌年8月,イギリス政府の完敗の形で決着するまでに合計20近くの文書が発表されました。ドレイピア書簡はアイルランド国民に喝采を以て迎えられました。「旧教徒も新教徒も,トーリー党もホイッグ党も,喜んでドレイピアの旗の下に結集した」とスウィフトの知人が書き残しています。

 スウィフトはこの書簡の中で次のように言っています(ドレイピアとはもちろんスウィフトその人です)。

 ウッドの銅貨は1シリング(1シリングは20分の1ポンド)分たたき壊して地金屋にもっていくと1ペニー(1ペニーは12分の1シリング。複数形はペンス)以上では買ってくれまい(イギリス本土用のものなら1ペニー以上の損になることはない)。帽子屋が一個5シリングの帽子12個を売って,ウッド銅貨で受け取れば,本来3ポンドとなるべきものが,実はたった5シリングにしかならないことになる。その結果,悪性のインフレが起こり,小作人が200ポンドの地代をウッド銅貨で払おうとすると,少なくとも馬三頭は必要になる。
 こうしたわかりやすい調子でウッドや政府の通貨政策を批判した「ドレイピア書簡」の威力は絶大でした。第3書簡では,
「アイルランド人もイングランド人も,ともに生まれながらに自由なのではないでしょうか。・・・イングランドでは自由人である私が,6時間かかって海峡を渡ると,たちまち奴隷に成り下がるというのでしょうか?」

「識者の見解によれば,王の特権といえども,人民の福祉,幸福という大きな制約を受けるとのことです。だとすれば,ぜひ伺いたいのは,いったいこの特許,アイルランドの福祉,幸福ということは考慮されているのでしょうか?」

と述べ,アイルランド国民にウッド銅貨ボイコットを呼びかけています。第4書簡になると,ウッド銅貨問題もさることながら,アイルランド人自身の態度にもペンが及んできます。そうしてアイルランド人が従属国としての地位に甘んじ,「所詮自分たちは・・・」といった考え方をしているのを批判して,
「神の法,自然の法,諸国民の法,またあなた方の祖国の法,そのいずれに照らしてみても,あなた方はイングランドの同胞と同様に,立派に自由の民であり,またそうでなければならないのです」
と公然と民族自決・民族独立をアピールするに到ります。こうしたドレイピアのアピールをアイルランドの世論は支持し,イギリスももはや座視することはできなくなりました。

 1724年8月には「ウッドの処刑,見たままの記」なる,ウッドの死刑宣告,処刑場送りから死刑執行の状況までまことしやかに書いた戯文が発表されますが,これはもちろんでっち上げの嫌がらせです。これの著者もスウィフトと思われます*注19

 ドレイピア書簡を巡っては,第4書簡発表後,政府は作者に300ポンドの懸賞金をかけました。結局誰もスウィフトを売る者は現れず,1725年8月,ついに特許状の取り消しを勝ち取るのです。ガリバー旅行記が完成したのはまさにこうした時期だったのです。初めに触れたガリヴァーの言葉がもつ重みを改めて感じざるを得ないでしょう。



ラピュータ島とバルニバービ

 『ガリヴァー旅行記』第3部には,空を飛ぶ島ラピュータが登場します。ラピュータは天然磁石で空中を浮遊しており,その下にはバルニバービという陸地があります。ラピュータ島は国王直属の領地で,宮廷はここにあります。この国の首都ラガードはバルニバービの中央にあり,貴族たちの領地もバルニバービにあります。貴族たちはバルニバービ全土が国王の支配下に入ることに承伏しません。自分たちの領地はバルニバービにある上,いつ王の寵愛を失うか分からなかったからです。バルニバービのどこかで反乱や内乱が起こったり,税金を納めるのを拒否したりすると,国王はそれを鎮圧するためにラピュータ島をそこの上空に移動させ,日光や雨の恩恵を剥奪してしまいます。さらに強硬な手段としては,島から大きな岩を投下したり,場合によっては島そのものを地面に降下させ家も人間も押しつぶしてしまうことも可能でした。

 ガリヴァーは初め宮廷につれてこられるが,瞑想,思索に我を忘れている人々(国王も然り)と,叩き役(思索に耽っている人を叩いて我に返らせる),女たち,商人,小姓くらいしかいない宮廷に飽き飽きして下界に行きます。ラガードでは,家は荒れ放題,人々の服はぼろぼろで郊外の農地も土地は肥えているようなのに草一本生えていません。国民の顔つきも生気がないのです。

 ここで登場するラピュータ島とバルニバービの関係は,イギリスとアイルランドの関係を風刺したものだと言われます。「日光や雨の恩恵を剥奪する」というのは,当時アイルランドが貿易の自由を奪われていたことを指しています。バルニバービの荒廃した様子は,当時のアイルランドの様子を反映させたものと考えられます。

 スウィフトは「アイルランドの窮状の諸原因」と題する1720年頃に行われた説教で,

「わがアイルランドのごとく住民の四倍の人数を養うに足るほどのあらゆる生活必需品と大半の便利な品々を産出しうる国が,現実には窮乏の重荷に打ちひしがれ,街には乞食が溢れ,多くの零細な商人,職人,労働者が家族に衣食を給することさえできないでいるのを見ると,暗澹たる気持ちにならざるをえない。」*注20
と述べ,さらに,
「われわれにとって絶えざる嘆きの源泉は,国民に責任があるわけでもないのに数々の不利な条件がわが国に課せられていることである。」

「最初に申し上げるいくつかの窮状の原因は,実はわれわれよりも強力な隣人*注21が神の恩寵によって改心し,同胞であり同じ君主を戴く臣下*注22であり同じ人類であるわれわれに,当然の権利と特典を認める気持ちになってくれない限り,改善は望みえないと思われる。
 その第一は,われわれが貿易のあらゆる分野で法外な制限を課せられていることで,その結果,アイルランドは酷薄な隣人のための,文字通り『薪を切り水を汲む者』*注23と化してしまっている。
 わが国窮乏の第二の原因は,膨大な数の人々の浅慮,虚栄心,忘恩である。彼らは自分が生を享け,今なお生活の資を仰いでいる生国を軽んじ,そこで暮らすには自分の身分がよすぎるとうぬぼれている。そこで彼らは自分たちを心から軽蔑している人々の間で生活し,富を同地で消費する。その結果,母国は活力を殺がれてしまうのだ。」*注24

と述べています。ここに述べられていることは,バルニバービの描写と通ずるものをもっています。この説教の中でスウィフトはアイルランドの状況を改善するために,国産品の愛用,贅沢品の輸入の削減,子どもの教育の充実などの提案を行っています。  スウィフトは,当時のアイルランドの状況を打開するためにさらに別の提案も行っています。それは,『貧家の子女がその両親ならびに祖国にとっての重荷となることを防止し,かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(1729年)です*注25

 これは,きわめてまじめにアイルランドの窮状打開の方策を示す形をとったものですが,その内容は恐るべきものです。『文学評論』で漱石は「これを真面目とすれば純然たる狂人である」と評しています*注26。スウィフトはまじめな顔で怖いジョーク(もしかしたら本気かも知れないと思わせるような)を説いているのです。

 さて,スウィフトは,ダブリンの街をうろつく乞食たちの子どもが,成長しても仕事がなく泥棒になるか傭兵にでもなるしかないことを指摘し,「子どもたちを社会の健全有用な一員とする安価で容易で正しい方法」を提案します。

 子どもを養育する能力のない親でも,一才くらいまでなら費用もそれ程かからないから,乞食などをしながらでも育てることは可能であろう。この国の人口は150万,うち,子供を産む夫婦の数は20万,うち,3万は子どもを育てる能力があるので除外し,早産や病気で一年以内に死亡する子どもを5万人と踏むと,残る12万人が毎年生まれる貧民の子となる。彼らを養育することは社会的にも難しい。何か仕事をさせるにしても6才まではまったく無理だろう。仕事によっては12才までは使い物になるまい。そこで提案。ロンドンで知り合いになった物知りのアメリカ人によると,よく育った健康な赤ん坊は丸1才になると,大変うまい滋養のある食物になる。シチューにしても焼いても炙っても茹でてもいいという。そこで,先に計算した貧民の子ども12万人のうち,2万人は子孫繁殖用に残す。男は4分の1でいい。残りの10万人は1才になったら貴族や富豪に食料として売りつける。友人を招待するなら赤ん坊一人で2品ができようし,家族だけなら4分の1で相当の料理ができる。少量の塩・胡椒で味付けをし,殺してから4日目に茹でるとちょうどよい。
 こうすることでどのようなメリットが生まれるのでしょうか?まず,貧民の多くはカトリックでしたから,こうすることでめざわりなカトリックが減ることになります(これはイングランドにとってのメリットであることはいうまでもありません)。また,1才以降,子どもを育てる経費が削減されますから,国民の資産が年5万ポンド増えることになるし,子どもは国内で製造されるのでその販売代金が国内に流通して潤います。その他,母親は子どもに優しくなり,亭主は妊娠中の女房に優しくなって殴ったり蹴ったりしなくなる,などなどの大きなメリットがあるというのです。

 スウィフトがこの提案を本気でしているわけはありません。しかし,単なるおふざけでもありません。スウィフトは大まじめにこうした突拍子もない提案をすることで,事態の深刻さをアピールしているのです。前にも触れましたように,スウィフト自身はアイルランドがそれ程好きではありませんでした。愛人(?)ステラに送った書簡では「みじめなアイルランド,たまらないダブリン」と言ったり,「こんな国に生まれ落ちたのは全くの偶然だ」と言ったりしていますし,晩年の1731年に書いた「スウィフト博士の死」では,アイルランドを「沼沢と奴隷の国,虐げられれば虐げられるほどお追従口をたたく,愚昧,性となった卑屈な国民」と表現しています*注27

 阿刀田高氏は「”いくらなんでもひど過ぎるじゃないか”が三分の一,自分を受け入れてくれなかった本国の政界に対する腹いせが三分の一,残りの三分の一が文筆家としての自己顕示欲」と分析しています*注28が,ちょうど妥当な判断ではないでしょうか。



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