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4.スウィフトと宗教

【目次】
  新教と旧教
    プロテスタンティズムの成立
    カトリックとプロテスタント
    今日のキリスト教
  イギリスの宗教事情
    イギリス国教会の成立
    国教会のプロテスタント化
    再カトリック化
    ピューリタン弾圧
  『桶物語』
  おわりに


 すでに「2.17〜18世紀のイギリス」の冒頭で触れたましたが,『ガリヴァー旅行記』第1篇で登場する「卵論争」の話には,新教と旧教の対立が反映されていました。これをより深く理解するために,新教と旧教について簡単に説明してから,当時のイギリスの宗教事情をおさらいしておきましょう。


新教と旧教

・プロテスタンティズムの成立
 新教,すなわちプロテスタンティズムは,宗教改革(Reformation)によって誕生しました。1517年10月31日、ルター(Martin Luther, 1483-1546)が,ローマ教皇の行っていた免罪符の販売に反対して、ヴィッテンベルク城教会の門扉に「95箇条の提題」を張り出したことによって、始まりました*注1。ルターの掲げた提題は、大きな反響を呼び、翌11月には、ライプチヒ、マグデブルク、バーゼルで印刷され、ニュルンベルクではドイツ語訳も出版されました(オリジナルはラテン語で書かれていました)。教会側は反響の大きさに驚き、神学者たちに反論させようとしました。しかし、1518年7月、ルターは論戦で教皇の権威を否定し、中世教会の基礎を大きく揺るがしました。1520年には、「キリスト者貴族に与う」「教会のバニロニア補囚」「キリスト者の自由」という『三大宗教改革文書』を発表します。「万人司祭主義」「聖書主義」「信仰のみ」に集約されるルターの教義は、カトリック教会の制度や伝統、秘蹟などの行事を真っ向から否定するものでした。そのため、1521年、教皇はルターの破門を宣告しますが、ルターはザクセン侯などの有力者を味方に付け、カトリックとの対立が本格化していきます。

 1541年には、ジュネーブでカルヴァン(Jean Calvin, 1509-64)が改革ののろしを上げました*注2。カルヴァンの思想は、ルターの思想の影響を強く受けたものでしが、ルターが聖書を重んじたのに対し、神の絶対主権を強調した点に特色を持っていました。カルヴァンは、新約聖書だけでなく、旧約聖書も重視し、信仰と律法の両方が重要であると主張します。そうして、ルター以上に徹底して教会改革を行う一方、「教会規則」によって市民の生活を厳格な規律のもとに置く一種の神政政治を行いました。カルヴァンによれば、一切は全能の神の意志の摂理に支配されており,人間の計画や意志も、神の定めた目標に向かわしめるよう支配されています。ここからカルヴァンの予定説が生じます。予定説とは、人間の救いと滅びが予め神によって決定されている、という考え方を言います。このことは、教皇や教会、人間の努力などが人間の救いと何の関わりも持たないことを意味します。さらに、人間は自らがどちらの側の存在か、すなわち救われる側に予定されているのかそうでないのかを、知るすべを持たない。努力しても救いという形で報われるわけでもありません。そうした不安をぬぐい去り、自分が救いの側に予定されていることを確信するために、人びとは神の召命*注3としての職業労働に禁欲的に従事することになりました。働いて利益が上がるのは、自分の行いが(ひいては自分の存在が)神の意志に適っているからだ、と考えようとしたのです。こうして、新興の市民層は世俗的職業活動に邁進し、やがてそこから近代資本主義が成立していったのです。その意味で、カルヴィニズムはヨーロッパ社会の近代化と密接に関わるものでした*注4

・カトリックとプロテスタント

 宗教改革によってプロテスタントが誕生すると、失地回復を目指す旧教側はイエズス会を結成してアジアなどへの布教に力を注ぎます。ザビエル(フランシスコ・デ・シャヴィエル)が日本に「天主教」を伝道したのはこのころです*注5。やがて新旧両教のあいだで宗教戦争が勃発しました。これは17世紀半ば過ぎまで続きます。

 プロテスタントでは、ルターの流れを汲むルーテル教会とカルヴァン派の改革派教会が主流を占めます。この後詳しく触れますが,イギリスでは、16世紀に英国国教会(Anglican Church)がローマ教会から独立します。英国国教会は初期にプロテスタントの影響を受けましたが、メアリ王女がカトリックのスペイン王と結婚したのを契機に再びカトリック化し、メアリ一世の後をうけたエリザベス一世が再びローマ・カトリック教会との断絶を宣言しますが、ローマ・カトリック教会の立場に妥協するところが多かった(現在の英国国教会も、ローマ法王を認めない点をのぞけば、ローマ・カトリックに近い)ため,それを不満として、カトリック的な色彩を浄化しようとする清教徒(puritan)が現れ、アメリカで発展しました。

・今日のキリスト教

 今日のキリスト教は、カトリックとプロテスタントに大別できます。プロテスタンティズムはルターを始祖とします。カトリシズムには始祖に当たるものがありませんが、カトリシズムの教義は13世紀のスコラ哲学者トマス・アクイナスの神学を根幹としています。

 カトリックとプロテスタントの最大の違いは、教会の捉え方です。カトリック(catholic、「普遍的な」の意)では、教会は、イエスの十二使徒の一人、ペテロによって創立された教会を継承したもので、司教は十二使徒の後継者と見なされます。ローマ市の司教は特に「ローマ法王」と呼ばれ(ローマ教皇、パッパともいう)、ペテロの後継者としてローマ・カトリック教会の最高指導者の位置を占めます。司教の下にそれを補佐する司祭(信者からは神父と呼ばれる)があり、司教−司祭−信者という「位階制度」(ヒエラルキア)を認めます。

 プロテスタントでは、ルターの「万人司祭説」にみられるように、司教、司祭、信者の本質的な区別を立てません。「按手札(頭に両掌をおいて神の祝福と聖霊の働きをその人の上に祈る)」をうけて伝道や信者の世話を当たる聖職者を「教師」といい、いくつかの教会の牧会や伝道の責任者に任ぜられた人を「牧師」といいます。神父は生涯独身を守りますが、牧師は結婚してもかまいません。また、カトリック教会には修道会(紀元六世紀にべネディクトクスが創設したベネディクト会が起源。「貞潔」「従順」「清貧」の誓いを立てて共同生活を営む)がありますが、プロテスタント教会には、英国国教会をのぞいて、修道会がありません。

 カトリック教会としては、ローマ・カトリック教会(ふつうにカトリックとかカトリック教会とか言う場合は、これを指しています)の他に東方正教会*注6があります。ローマ・カトリックがラテン語を用いるのに対し、東方正教会ではギリシア語を用いています。神学も東方神学は知性的、形式的、思弁的で、西方神学は意志的、倫理的、実践的であるといわれます。東方正教会の大きな特徴として、キリスト、マリア、天使、聖人の画像であるイコン(聖像)を用いる点を指摘できます。イコンはこの世界における神の現れと見なされ、教会に入るとまずイコンに接吻してから行事を始めます。各家庭では部屋の東側にイコンをさげ、その家を訪れた客はまずイコンに礼拝してから主人に挨拶します。キリスト教では十戒の二番目に偶像崇拝禁止が規定されており、8世紀頃には1世紀以上にわたって画像論争がありましたが、そうした試練を経て、今日にまでイコン崇拝は生き続けています。東方教会では、「神の似姿(イマゴ・デイ)」として作られた人間は、自らのなかに神のイコンを持っているのだ、と考えます。したがって、ローマ・カトリックのような厳しい原罪観念は生まれず、神の義よりも神の愛を重んじます。

 プロテスタント教会の主だったものとしては、ルーテル教会、改革派教会(カルヴァン主義の教会)、英国国教会があります。アメリカでは、そのほか、長老派教会とバプテスト教会などのプロテスタント系の教会が大きな勢力を持っています。



イギリスの宗教事情

 ・イギリス国教会の成立
 イギリス王ヘンリー7世(チューダー朝の祖,1485-1509在位)は,当時の強国スペインとの同盟政策を進めるため,スペイン王フェルナンド5世(1479-1516在位)の王女キャサリンを,第一子アーサーの妃に迎えました。この時,キャサリン16才,アーサー14才でした。ところがアーサーは結婚後5ヶ月足らずで病死。ヘンリー7世はキャサリンをスペインに帰すことで同盟政策にひびが入ることと,彼女の莫大な持参金を失うことを恐れて,8才下の第二王子ヘンリーに彼女をめあわせました。

 二人の間には,メアリという王女が生まれました*注7。しかし,その後は死産,流産を繰り返し,産まれた子供も幼児のうちに病死してしまい,後継者となる王子には恵まれませんでした。キャサリンが42才に達し,もう子供の産まれることは考えられなくなった1517年頃から,ヘンリーは彼女との離婚を考え始めました。ちょうどそのころ,ヘンリーはキャサリンの侍女のアン・ブーリン*注8と恋愛関係に陥っていたこともあって(それだけが原因ではなく,後継者問題の方が大きなウエイトを占めていたと思われます),王はキャサリンと離婚し,アン・ブーリンを王妃にしようと考えました。

 ところがカトリック教会では離婚を認めていませんでした。しかし,ヘンリーは問題にしませんでした。もともと兄嫁であったキャサリンとの結婚も,教会法上は認められていなかった*注9にもかかわらず,法王が特免を発して認めていたのです。また,当時の教会は,金を出せば教会法上許されなかった近親結婚も認めていました。ヘンリーの場合,先の特免は無効であり,キャサリンとの結婚は非合法である,という宣言を出してもらうだけでよかったのです。そこで王はローマに特使を派遣しますが,ローマ法王はそれを拒否しました。それには事情がありました。当時ローマはドイツのカール5世に支配されていましたが,キャサリンはカール5世の伯母でした。従って,ヘンリーの要求をのむことは,カール5世の報復を招く危険が極めて高かったのです。法王は様々な口実をつけて問題を先送りしようとしました。

 ヘンリーは反ローマ的な法律を次々と議会に認めさせて法王に圧力をかけましたが,功を奏せず,1533年キャサリンとの離婚と,アン・ブーリンとの結婚を強行しました。結婚後3ヶ月でアンは出産しますが,男児ではなく王女で,エリザベスと名づけられました*注10。1534年,国王は「国王至上法」を議会に認めさせましたが,ここには,「わが国の元首たる国王・・・は,”アングリカーナ・エクレシア”と呼ばれる,イギリス教会の地上唯一最高の首長と解され,認められ,かつみなされるものとする」との宣言がなされ,ここにローマから独立したイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)が成立しました。

 ヘンリーは新教にはまったく好意をもっておらず,ローマから独立したとはいっても,指導者がイギリス国王であるという以外,イギリス国教会は内容的にはカトリックとほとんど同じでした。唯一プロテスタントにならったのは,広大な修道院領の接収でした。旧修道院領はまもなく,金に困った王が売却したことから,貴族やジェントリー(新興の地主層)などの手に渡りました。彼らの中からは,当時盛んになりつつあった羊毛業の影響で高騰していた土地を転売し,大きな利益を上げるものが続出しました*注11

 ・国教会のプロテスタント化
 ヘンリー8世の治世が終わると,イギリスでは急速なプロテスタント化とそれに対するカトリック反動の時代がつづきました。ヘンリーを継いだのはわずか9才だったエドワード6世*注12でした。彼は幼少の時から新教派的な教育を受けており,政治の実権を握った側近政治家たちも,新教的な色彩の強い人々でした。そのため,この時期に整備された教会の儀礼などは,僧侶の結婚を認めるなど,ルター派的な要素を色濃く持つものとなりました。しかし,民衆にとっては新しい信仰内容や礼拝の仕方はなじみにくいものでした。
 ・再カトリック化
 エドワード6世が16才で死去すると,ヘンリー8世の遺言でヘンリーの長女メアリ*注13が即位しました。メアリは熱心なカトリックの信奉者で,不遇のうちに育ったこともあって,反動は激しいものとなりました。メアリは即位するとすぐ,国民には強制はしないといいつつも,国教会のカトリック化を推進しました。

 国民にとってはプロテスタントよりむしろカトリックの方がなじんだものであったため,大きな反対は起こりませんでした。しかし,法王権の承認,修道院領の回復は国民の強い反発を買い,特に後者についてはメアリもあきらめざるを得ませんでした。続いてメアリは,イギリスに野心を持っていたスペイン王フェリペ2世*注14と結婚,国民の不信を買いました。さらに,イギリスがスペインとフランスとの戦争に巻き込まれ,唯一大陸に持っていたカレーを失ったため,一層国民の反発を招くこととなりました。

 メアリはカトリック化を進める過程で,エドワード時代にプロテスタント化の中心となった人々を処刑し,その数は300名にのぼりました。そのため,人々は彼女を「血のメアリ」と呼び,ローマへの憎悪が高まっていきました。

 ・エリザベス時代
 メアリが即位後5年で世を去ると,アン・ブーリンの娘エリザベスが即位しました。エリザベスはエドワードやメアリの失敗を繰り返さぬよう,「中庸」(ヴィア・メディア)を心がけ,教義面ではプロテスタント,教会儀式の面ではカトリック的なものを取り入れ,教義の中でも,プロテスタントの諸流派(ルター派,ツウィングリ派,カルヴァン派)の立場を折衷するなど,きわめて妥協的な宗教政策を採りました。

 エリザベスはローマからの独立と国民の非カトリック化を進め,メアリ時代に大陸に亡命していた新教徒が多数帰国して活動し始めました。この新教徒にはカルヴァン派の人が多かったのですが,彼らはエリザベスの折衷的な立場に不満を持ち,国教会に対して批判的でした。彼らは「清教徒(ピューリタン)」と呼ばれ,やがて彼らが清教徒革命の担い手となっていくことになります。

 ・ピューリタン革命
 エリザベスの死後,スコットランドのジェームズ6世がイギリス王(ジェームズ1世)として迎えられます。彼は議会に結集し始めたピューリタニズムの勢力に対して,王権神授説と国教会の立場から,強圧的な姿勢をとりました。彼の跡を継いだチャールズ1世も議会と対立し,11年にわたって議会を開くことなく独裁政治を行いました。やがて,彼がカルヴァン派の強いスコットランドに国教を強制しようとしたため,スコットランドで反乱が起こりました。王は戦費調達のため,やむを得ず議会を招集しますが,ピューリタンが優勢であった議会は国王と対立し,ついに内乱へ発展します。内乱で主導権を握ったのは,議会派であり,中でもクロムウェル率いるピューリタンの独立派でした。クロムウェルは国王を倒して共和制を確立し,長老派や平等派を抑えて独裁政権を樹立します。しかし,彼のピューリタニズムにもとづく政治は民衆の支持を得られず,王政復古につながっていきます。
 ・ピューリタン弾圧
 王政復古後,新たに選び直された議会は,真っ先に一連のピューリタン弾圧法を可決しました。「地方自治体法」「礼拝統一法」「宗教集会法」「五マイル法」という4つの法律によってピューリタンを初めとする非国教徒は,政治からも都市行政からも,大学からも閉め出され,国教を拒んだ2000人もの聖職者が追放されました。

 1670年チャールズ2世はフランスのルイ14世(チャールズの従兄弟にあたる)と密約を交わし(ドーヴァー条約),時期を見てカトリック教徒であることを宣言すること,またプロテスタントであるオランダに共同で宣戦布告すること,その戦費はフランスから年金の形で受け取ることなどを約束しました。代わりにイギリスはフランスに対して貿易面で大幅に譲歩するという内容でした。ついで,1672年,チャールズ2世は「信仰自由宣言」を発表します。これはピューリタン弾圧の路線変更ではなく,イギリスをカトリックに改宗させてフランスとの共同戦線を固めようと意図されたものでした。

 議会はこうした一連の決定が議会の関与なしに行われたことに反発し,王に「信仰自由宣言」を撤廃させ,次には「審査法」を成立させました(1673年)。公職に就こうとする者はイギリス国教会に宣誓を行うべし,という法律でした。

 これに対して国王は,カトリックから国教会に乗り換え,国教会と協力することで王権強化を図りました。これはかなり成功しました。しかし,カトリック信者であった王の弟ジェームズ(後のジェームズ2世)がジェームズ1世の後継者となることについては,それを防ごうとする一派との対立が起こりました。結局,ジェームズ2世が王位を継ぎ,カトリックが優位となりました。軍隊でもカトリック信者が士官として任命されました。国教会の聖職者の思想取り締まりを始める一方,大学にも干渉しました。1687年には,カトリックの復活をめざしてふたたび「信仰自由宣言」が出され,国教会の説教壇からそれを読み上げるよう強制しました。それを拒否した7人の主教が逮捕されましたが,ロンドンの裁判所は無罪を宣告し,群衆はこれを歓迎しました。1688年ジェームズに男子が生まれると,カトリックの支配が今後も続くことを不満とした人々は,オランダのオレンジ公ウイリアムを王として迎え入れることになりました。名誉革命です。

 このように,イギリスでは,新教と旧教の対立に国教会が絡んで,非常に複雑な宗教事情が展開されました。スウィフトは,カトリックの強いアイルランドで国教会の牧師をしていたわけですから,こうした宗教的な対立には敏感にならざるを得なかったと思われます。ここで,彼の別の作品,『桶物語』に触れておきましょう。



『桶物語』

 『ガリヴァー旅行記』同様,スウィフトが匿名で書いたものに,『桶物語』という本があります*注15。この本は1705年に出版されたもので,執筆されたのは1690年代ごろと見られています。1696年にはほぼできていたらしいのですが,詳細は不明です。この本が出るとその過激な内容が物議をかもし,当然スウィフトは死ぬまでこれが自分の本であることを公式には認めませんでした。

 『桶物語』(A tale of a tub)というのは「与太話」「戯れ言」を意味しますが,スウィフトが序文で,「船員たちは鯨に出会ったときに空の桶を投げ与え,鯨をそれで遊ばせて,船に危害が及ぶのを食い止める習慣である」と語っているように,口やかましい才人たちが国家社会を悩ませることのないよう,彼らの気を逸らせるために桶の物語を著したという側面もあったようです。

 『桶物語』は序文+11章+結語からなっています。その主題となっている話は,「上衣と三人兄弟」の寓話です。これは,宗教改革当時のキリスト教会の歴史を痛烈に皮肉ったものです。

 昔あるところに三人の息子を持った男がいました。彼らは三つ子で,どの子が長子か産婆もはっきり決められませんでした。男は息子がまだ幼い頃に亡くなりました。男は死の床で息子をそばに呼んで三人に上衣*注16を与え,それを大切にするよう遺言しました。また,三人は常に一緒に暮らすよう言い残しました。三人は初めは一緒に行動し,上衣を大切に手入れしていましたが,やがて世間の流行に流され,上衣に肩章や金モールといった飾り*注17を付け始めました。それは父の遺言*注18に違反するのではないかと不安も覚えましたが,さまざまな工夫を凝らして遺言の中から自分たちの行動を正当化する表現を見つけだしました。

 ある時,兄は,ある貴族から住み込みの家庭教師となるよう要請され,貴族の死後,策略を巡らして子孫を追い出し,貴族の家を乗っ取ってしまいます*注19。弟たちを呼び寄せると,兄は自分を父親の跡取りと考えるように言い,さらにピーター様,ピーターのお父さんなど*注20と呼ぶよう弟たちに要求するようになりました。

 ピーターは保険会社*注21を考案し,万能酢*注22を考案するなど,次々と事業を起こして成功し,大儲けします。しかし,だんだんその横暴ぶりが目に余るようになり,ついに弟たちは兄と決別を宣言します*注23。ピーターは怒って弟たちを家から放り出し,以後,二度と家には入れませんでした。

 弟たちは父の残した遺言をもう一度読み直し,父のいいつけに立ち返ろうとします。ところが,マーチン*注24は上衣の飾りを丁寧に取り除いてもとの形に戻していきますが,もう一人の弟ジャック*注25は途中で面倒くさくなって力任せにむしり取った*注26ため,肝心の上衣がぼろぼろになってしまいます。ジャックはそれがおもしろくなく,マーチンとの仲も険悪になっていくのでした。



おわりに

 『ガリヴァー旅行記』では,宗教関連の話題は多くありませんが,『桶物語』では旧教と新教を痛烈に皮肉っています。国教側に立っていたスウィフトにとって,旧教か新教かの争いは,所詮卵の大きい端から割って食べるか,小さな端から割って食べるかと言った些細な違いであり,それをかたくなに守ろうとして争う姿はいかにも愚かしく映ったのかも知れません。


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