| 【目次】 |
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| 「卵論争」 −−問題の始まり−− |
| 17〜18世紀のイギリス(歴史的概観) |
| 清教徒革命 |
| 背景 |
| 清教徒革命 |
| 王政復古 |
| 名誉革命 |
| ハノーバー朝 |
| むすび |
『ガリヴァー旅行記』第1篇*注1で,スウィフトは有名な「卵論争」の話を取り上げます。 これは,リリパット国とブレフスキュ国の長年にわたる戦争の発端として語られる話で,卵を食べるときに大きい方の端から食べるか,小さい方の端から食べるか,という一見ばかげた問題です。
リリパット国では,皇帝の祖父が子どもであった頃,卵を食べようとして,指にけがをしたことがきっかけで,旧来の大きい方の端から食べるやり方が禁止され,違反者には重罰が科せられることになったのです。国民はこれに反発して6度も反乱を起こしました。ある皇帝はそのために命を失い,ある皇帝は地位を追われました。そのとき,常に陰で糸を引いていたのがブレフスキュの皇帝で,内乱が鎮圧されると反乱者はいつもブレフスキュに亡命するのが常でした。卵を小さい方から割るのを潔しとせず,むしろ死を選んだ人たちが1万1千人以上も出ました。卵を大きい方から割るべきだという人々の著書は禁止され,この一派は法律で公職に就けなくなっている,というのです。
この逸話は,当時のイギリスを皮肉ったものなのですが,内容を理解するためには,当時のイギリスの歴史的状況を知っておく必要があるでしょう。ここでは,まず,17〜18世紀イギリスの歴史を振り返ってみます。
とはいっても,この時期のイギリスの歴史はなかなか込み入っていて,簡単に解きほぐすのは至難の業です。とりあえず,政治史的な面を中心にまとめてみましょう。
◎清教徒革命
17世紀から18世紀にかけての時代は,まさに近代市民社会成立の時代といっていいでしょう。
特にイギリスでは,清教徒革命,名誉革命によって近代社会の基礎が形作られました。一方,フランスでは,17世紀はブルボン朝の全盛期で,前半にはルイ13世が名宰相リシュリューに助けられて絶対王制を確立しました*注2。後半には「朕は国家なり」で有名な太陽王,ルイ14世が活躍しています。なお,フランス革命が起こるのは18世紀の後半,1789年のことです。また,1618年から48年にかけてドイツでは,新旧両派の諸侯の内戦からヨーロッパ各国を巻き込んだ国際戦争に発展した30年戦争が起こり,1648年のウエストファリア条約で終結しています。
・清教徒革命
清教徒革命はイギリス国教の強制に対する清教徒(ピューリタン)*注3の反抗としての宗教的性格がありました。エリザベス1世(1558-1603在位)が未婚のまま死に,チューダー朝の血統が絶えると,スコットランドのスチュアート家のジェームズ6世が王として迎えられ,ジェームズ1世(1603-25在位)を名乗りました*注4。彼は王権神授説*注5を信じ,議会としばしば対立しました。この対立は王の専制支配と議会の権利の主張という政治的対立と,国教を強制しようとする国王とそれに反対する清教徒との対立という2つの側面を持っていました*注6。 王と議会の対立は,ジェームズ1世の子,チャールズ1世(1625-49在位)のとき,さらに激しいものとなっていきました。かれは国教を強化して清教徒を圧迫し,議会を無視して重税を課したため,議会は1628年,「権利の請願」*注7を提出して議会の権利と国民の基本的人権を確認させました。
しかし,王は翌年議会を解散し,以後11年にわたって議会を開かず専制政治を行いました。さらに,王は,スコットランドで行われていたカルビン派の長老派教会をイギリス国教会に似た監督制教会に変えようとしたため,スコットランドで反乱が起こります。国王は戦費に窮して1640年,議会を招集しましたたが,議会は戦争に反対して王を批判したため,王は3週間で議会を解散してしまいます(短期議会)。同年末,ふたたび議会が開かれました(長期議会1640-60)が,議会は王の失政を激しく攻撃して「大諌奏」*注8を通過させた(1641)ため,王は武力で議会を制圧しようとして,ついに王と議会の対立は武力衝突にまで発展し,内乱が勃発しました(1642-49)。これが清教徒革命の発端です。
◎王政復古
内乱は初め,王党派が優勢でした。しかし,議会派の中心となったクロムウェル*注9が「新型軍」*注10を結成して優勢に立ち,1644年マーストン=ムアの戦い,1645年ネーズビーの戦いで王党軍を破り,王は捕らえられて1647年,議会に引き渡されてしまいます。
しかし,王の処分を巡って議会内に対立が起こり,抗争が始まりました。王と妥協し立憲王制をめざす長老派*注11と,議会専制,共和制を主張する独立派*注12とが対立しました。長老派は議会内で有力であり,独立派は軍隊において有力であったため,対立は「議会対軍」という形も取りました。そうした混乱に乗じて王はスコットランドに逃れ,スコットランド軍と王党軍の南下によって再び内乱が起こりました。議会軍は結束して王を捕らえて処刑し(1649年),クロムウェルらが共和制をうち立てました。
◎名誉革命
クロムウェルは議会内の対立派を追放し,独裁的な政治を始めました。彼は貴族院を廃止し,アイルランドを征服し*注13,オランダとの第一次イギリス・オランダ戦争(1652-54)に勝利して,1653年,終身の護国卿(Lord Protector)となって独裁体制を固めました。厳格なピューリタニズムに基づく彼の独裁政治は,やがて国民の反発を招くことになりました。1658年クロムウェルが死ぬと,王党派が勢力を盛り返し,1660年フランスに亡命していたチャールズ1世の息子チャールズ(2世)が帰国して,王位につきました(チャールズ2世,1660-85在位)。これが王政復古です。チャールズ2世はフランスと結んでカトリックと絶対王制の復活をはかったため,議会は非国教徒が公職に就くことを禁じた審査法(1673)や,不法な逮捕・投獄を禁じた人身保護法(1679)を制定して対抗しました。この過程で王権に寛容なトーリー党(地主,僧侶を代表)とどちらかといえば批判的なホイッグ党(ブルジョアジーを代表)が成立し,のちの2大政党制の基礎が形作られました*注14。
・ハノーバー朝
チャールズ2世を継いだジェームズ2世(1685-88在位)も専制的な政治を行い,カトリックの復活の意図も見られたため,1688年,議会はジェームズ2世をフランスに追放し,かわって王の長女メアリ*注15とその夫でオランダの総督*注16オレンジ公ウィリアム3世*注17を共同統治の王として迎えました。これが名誉革命です。 メアリ2世と共に王位についたウィリアム3世は,即位にあたって議会が提出した「権利の宣言」を承認し,1689年「権利の章典」*注18として法律となりました(法律として発布)。
名誉革命によって,王権に対する議会の優位が確立したため,ウィリアム3世は議会の多数党の代表者によって内閣を組織させ(1697),政党政治*注19が始まりました。ウィリアム3世が亡くなると,メアリ2世の妹のアンが王位につきました。1707年,イングランド王国とスコットランド王国が合併(同君連合)し,大ブリテン王国(the United Kingdom of Great Britain)が成立しました。
アン女王が亡くなると,子どもがいなかったため,スチュアート朝は断絶し,代わってジェームズ1世の曾孫でドイツのハノーバー家のジョージが王位につき,ジョージ1世(1714-1727在位)を名乗りました。ジョージ1世はイギリスの事情に疎く,英語も解さなかったため,政治を首相ウォルポール(1721-42在任)*注20が主宰する内閣に政治を任せてしまいました。次のジョージ2世の時も同様であったため,議会が発達し,「王は君臨すれども統治せず」というイギリス議会政治の伝統が確立されました。なお,ウォルポールが王の信任は厚かったにもかかわらず,議会の信任を失ったことを理由に内閣総辞職をしたことが前例となり,内閣が議会に対して政治上の責任を負う責任内閣制の慣例が成立します。*注21
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われらがスウィフト氏が活躍したのはちょうどこの時代です。 ここでもう一度,卵論争を見直してみましょう。どこが何(誰)を風刺したものか,わかりますか?解答は注の形にしておきましたので,該当する個所をクリックしてみてください。
卵論争は,リリパット国とブレフスキュ国の長年にわたる戦争の発端として語られる話でした。卵を食べるときに大きい方の端から食べるか,小さい方の端から食べるか,の問題です。
リリパット国では,皇帝の祖父が子どもであった頃,卵を食べようとして,指にけがをしたことがきっかけで,旧来の大きい方の端から食べるやり方が禁止され,違反者には重罰が科せられることになったのです。国民はこれに反発して6度も反乱を起こしました。ある皇帝はそのために命を失い,別の皇帝は地位を追われました。そのとき,常に陰で糸を引いていたのがブレフスキュの皇帝で,内乱が鎮圧されると反乱者はいつもブレフスキュに亡命するのが常でした。卵を小さい方から割るのを潔しとせず,むしろ死を選んだ人たちが1万1千人以上も出ました。卵を大きい方から割るべきだという人々の著書は禁止され,この一派は法律で公職に就けなくなっている,というのです。