| 【目次】 |
|---|
| ◎ハイヒール党とローヒール党 |
| ◎スウィフトの党派的立場 |
| ◎イギリスにおける議会と政党の起源 |
| ◎スウィフトの党派的立場 |
| ・議会制度の成立 |
| ・明治人の理解 |
| ・政党の成立 |
| ・ホイッグ党とトーリー党 |
| ・名誉革命 |
| ・トーリー党内閣の成立 |
| ◎再び『ガリヴァー旅行記』に |
| ・綱渡りのエピソード |
| ・財政政策批判 |
彼らは互いに激しくせめぎ合っていて,それぞれの立場を鮮明にするために,前者はハイヒールの靴を,後者はローヒールの靴を履いています。ハイヒール党のほうがリリパット国の憲法に最もふさわしいとみられているのですが,皇帝はローヒール党を重用し,あらゆる官職にローヒール党の者をつけようとしています。皇帝自身も踵の低い靴を履いています。数においてはハイヒール党が上回っているのですが,実権はローヒール党にあります。ところが,皇位継承者である皇太子は,ハイヒール党に傾いており,片方だけ踵の高い踵の靴をはいて妙な格好で歩いています。
このトラメクサン党とスラメクサン党は,当時のイギリスの二大政党トーリー党とホイッグ党を指し,踵の高さの違う靴を履いている皇太子はのちのジョージ2世を指しているのです。ジョージ2世は皇太子時代に父ジョージ1世の政策に反対してトーリー党に傾いていましたが,即位後は進歩的なホイッグ党のウォルポールを重用しました(ウォルポールが王妃キャロラインに取り入ったのが成功したのだといわれています)。
◎ハイヒール党とローヒール党
『ガリヴァー旅行記』第1篇にリリパット国の二つの政党が登場します*注1。トラメクサン党とスラメクサン党です。
スウィフトは,自ら『1710年の政変に関する覚書き』*注2で,「私は四年近くにわたって前内閣とかなり密接な関係を保持してきた」,「国事に関して相談に与り,また現実に奔走を強いられた」と述べている通り,一時期,政治に深く関わっていました。この作品は1714年に書き始められた(出版は1765年)ものですから,ここで「前内閣」と呼んでいるのは,アン女王の死によって崩壊したトーリー党政権を指しています。 スウィフトは,1710年に成立したロバート・ハーリー*注3を中心とするトーリー党政権のスポークスマンのような役割を果たしていました。トーリー党の機関誌『エグザミナー』の主幹となり,トーリー党のために政治的パンフレットを書いたりしています。彼はその見返りとしてイングランドでの主教職を求めていましたが,実際に与えられた報酬はダブリンの聖パトリック教会の主席司祭の地位(1713年)でしかなかったのです*注4。
まもなくトーリー党びいきであったアン女王が亡くなり,ホイッグ党に好意をもっていたハノーヴァー朝のジョージ1世が即位すると,トーリー党の内閣は崩壊し,ホイッグ党内閣が誕生して,以後47年の長きにわたってイギリスの政治を担うことになります。その時の首相がウォルポールでした。ウォルポールは,いわゆる責任内閣制の伝統を作った人物として知られています。ウォルポールは,国王の信任が厚かったにもかかわらず,議会で不信任されて辞職しました。イギリスはいわゆる成文憲法の国ではなく,国の基本的な仕組みも慣習法などによっています*注5。ウォルポールの辞職は,内閣が議会に対して責任を負うという仕組みの前例となりました。
ところで,スウィフトは,元来は,ホイッグ党の考え方に近かったといわれます。特に政治的信念についてはそうで,王権神授説には反対であり,究極の主権は国民にあると考えていました。スウィフトは18世紀初めのホイッグの著作家たちと親しくしていました。しかし,彼は宗教的信念については国教主義者であり,その点ではホイッグ党に同調することはできませんでした。特にアイルランドで非国教主義を強めようとする動きには強く反対していました。
トーリー政権の成立と共にトーリー党に迎えられ,ホイッグ党からは裏切り者と非難されることになりますが,それは彼に働きかけたハーリーが,王権を尊重するがカトリックの王であってはならないとする穏健派であったこと,ハーリーとボーリンブルック*注6が組織した内閣がフランスとの愚かな戦争*注7を終わらせようとしていたことによるとみられています。スウィフト自身は,「政治的にはホイッグ党,宗教的にはトーリー党」という立場をとろうとしていたといわれています。
・明治人の理解
今日ではほとんどの国に議会が存在します。わが国の場合,国会はいわゆる二院制*注8をとっており,衆議院と参議院からなっています。議会の起源はイギリスにあります。 1265年にマグナ・カルタ*注9を無視して専制を行ったヘンリ3世*注10に対して反乱を起こした貴族のシモン・ド・モンフォール*注11によって,従来の聖職者・貴族の集会に州騎士と都市市民の代表を加えた最初の議会が作られました。
1295年には大貴族や高位聖職者とならんで,各州2名の騎士と各市2名の市民および下級聖職者の代表も加わった模範議会*注12が召集され,さらに14世紀には上院(貴族院)と下院(庶民院)からなる二院制へと発展しました。
14,5世紀に絶対王制化が進むと,国王はしばしば議会を軽視するようになり,ついに1642年清教徒革命が起こり,名誉革命を経て議会の権限が強化されていくことになります。ウォルポールの時代には,「王は君臨すれども統治せず」という原則が確立され,議会は「男を女にし,女を男にすること以外はなんでもできる」といわれるまでになるのです。
・政党の成立
この議会の制度,江戸末期から明治初期に欧米を訪問した日本人たちには,はなはだ理解しにくいものであったようです。*注13イギリス議会に関する記述でもっとも早いものは,1789年,当時の福知山藩主であった朽木(くつき)昌綱の『泰西輿(よ)地図説』にみられますが,そこには次のように述べられています。
「[ウェストミンステル]ノ殿閣ハ古ヘハ是モ王ノ居城ナリシガ,今ハ会儀堂トナリテ国中ノ諸官集リテ政事ヲ儀スルノ役所トナセリ」ここでは議会を役所,議員を役人とするなど,議会の本質が全くつかめていないことがわかります。かの有名な福沢諭吉も,当初,政党を「職掌」として捉えていた節があります。刊行されずに終わった「写本『西洋事情』」(1864年)では,
「第一政府,第二上院,第三下院,三局鼎立して国制を議す。・・・又三局の内にて職掌に区別あり。一を『リベラル』*注14といふ。古法を変革して時宜に従ふことを主とす。一を『コンセルワチーフ』*注15といふ。古法を保遵して国体を失はざることを主とす。一を『インデペンデント』*注16(といふ。右の両議を折衷するを立る。この如く三職掌を分て議論の偏頗(へんぱ)を防ぐ」と政党の意味を正しく捉えることが出来ていない様子がうかがわれます。日本人が議会や政党の本質を理解できるようになるのは,明治に入ってからのことでした。
・ホイッグ党とトーリー党
さて,王政復古で国王となったチャールズ2世が,カトリックの復活をねらって議会と対立したことはすでに「2.17〜18世紀のイギリス」で述べた通りです。議会は審査法(1673)を作って非国教徒が公職に就くことを禁じました。 チャールズ2世は失敗を悟ってカトリックから国教会に鞍替えし,ダンビー伯を起用して国教会と協力して王権強化を図りました。それに呼応して宮廷派が力を得てくると,それに批判的な党派が現れ,宮廷党に対して地方党と呼ばれました。
その中心となったのがシャフツベリ伯*注17でした。シャフツベリは権力を握っている政府に対抗するため,組織を固め,政策を整えて,世論を呼び覚まそうとしました。シャフツベリはそのために「緑リボン・クラブ」をつくりますが,これが近代的な政党の先駆となりました。
・名誉革命
審査法によって非国教徒が公職に就くことが禁じられた後も,肝心の国王についてはカトリックでも即位可能でした。しかもチャールズ2世の後,即位が予想されていたのは王弟のヨーク公ジェームズでした。そこで,彼の即位を排除しようとする地方党は議会で「王位継承排除法案」を通過させようと試みました。 シャフツベリは法案通過に圧力をかけるため,地方から盛んに請願書を提出させたため,彼の一派は「請願者」と呼ばれました。他方,政府側に着く者はそうした手段を嫌ったので,「嫌悪者」と呼ばれました。そして両派は互いに「ホイッグ」「トーリー」というあだ名で呼び合いました*注18。
この頃の政党は,いわゆる名望家政党*注19で,組織も綱領もはっきりしておらず,貴族が指導していてメンバーに際だった相違はありませんでした。大まかに言えば,トーリーの方が王の世襲権に疑いをもたず,王権に対する無抵抗の姿勢をとったのに対し,ホイッグは王権の法による制限と宗教上の寛容を支持していました。
王位継承排除法案が提出されると,国王はその都度,議会の解散をもって応じました。1681年の議会はわずか7日間で解散され,チャールズは絶対君主として君臨することになります。政府はホイッグに対する弾圧を強め,シャフツベリはオランダに逃れますが,そこで病没してしまいます。
このシャフツベリ伯の理論上のアドヴァイザーとなっていたのが,ジョン・ロック*注20でした。ロックは医学を学んでアシュリー卿(後のシャフツベリ伯)の侍医となり,以後,密接な関係を保つこととなります。王権の伸長にともない,国王側はフィルマーの王権神授説*注21によってホイッグを追いつめ,シャフツベリの敗北をもたらしますが,ロックはこのフィルマーの理論を批判して『統治二論』*注22を著しました。もっともこれはロック自身の亡命に伴い,出版が遅れ,名誉革命後にロックが帰国した後,公刊されることになります。
・トーリー党内閣の成立
さて,チャールズ2世の跡を継いで問題のジェームズが即位(ジェームズ2世)すると,カトリック化が急速に進められ,国王の横暴が目立ち初め,ついにホイッグのみならず,トーリーまでもが反国王の側に回り,ついに両党が一致してオランダのオレンジ公ウィリアムをウィリアム3世として迎えるにいたります。これが名誉革命です。 ウィリアムは宗教的に寛容な立場をとっていたことからホイッグに近く,また,自分の結婚の縁でトーリーの首領たるダンビー伯とも親しかったことから,両党に受け入れられる素地があったのです。
この時王位を追われたジェームズ2世は,妻子と共にフランスに逃れ,ルイ14世の庇護を受けつつ,自分が正統な君主であることを主張し続けました。彼がなくなった後も,昔からの王に愛着を感じ,ジェームズの血統の人が王になることを望む人々がイギリス国内にいました。彼らは,ジェームズ(James)のラテン語形がヤコブス(Jacobus)であることから,ジャコバイト(Jacobite)と呼ばれました。
ウィリアム3世の後を継いだアン女王はトーリー党に好意を抱き,トーリー党の内閣が成立します。しかし,王位継承法によってアンの後を受けて国王となることが決まっていたハノーヴァー家*注23(アン女王には子どもがいませんでした。そこで,縁戚関係にあったハノーヴァー家から後継者を選ぶことになっていました)のジョージ1世が,ホイッグ党を支持の姿勢を見せたことから,トーリー党は大いなる脅威を感じました。 トーリー党のボーリンブルックはジェームズ2世の復位もしくは妥協を図ることができるような内閣を作ろうとします。これはジャコバイトの内閣を作ることでもあり,トーリー党内部にも深刻な対立を生みだし,結局,ボーリンブルックの失脚と,トーリー党への強い不信を招いてしまいます。以後47年におよぶ以後のホイッグ党の支配は,その結果であったのです。
・財政政策批判
『ガリヴァー旅行記』(p.39-40)で,ガリヴァーはリリパット国の宮廷の奇妙な習慣に言及しています。それは綱渡りです。 綱渡り自体はよくある曲芸ですが,リリパットでは曲芸は宮中で高位につきたい者,皇帝の寵愛を得たい者などの志願者に限られていました。死んだり皇帝の不興を買ったりして高官の職に空きができると,その席を志望するものが皇帝たちに綱渡りを見せ,綱の上で最も高く飛び上がってしかも墜落しなかった者がそのポストを得るのだというのです。高官たちもその能力が衰えていないことを示すために,時々綱渡りをやって見せなければなりません。大蔵大臣のフリムナップ(ウォルポールを指します)が一番高く飛べるとうわさされています。この軽業に失敗して落下する者も出てきます。フリムナップも墜落してすんでの所で頸の骨を折りかけたことがあったのですが,さいわい,地上に皇帝のクッション(当時のイギリス国王ジョージ1世の愛妾ケンドル夫人を指すといわれています。ジョージ1世はふくよかな女性が好みで,ケンドル夫人も肉付きがよかったようです)が一つあったために大事にいたらなかった(ウォルポールがケンドル夫人の口聞きで窮地を救われたことを指すと思われます)とのことです。ガリヴァーにとってウォルポールはいわば天敵。ここでも目一杯当てこすりをしているのです。
ガリヴァー旅行記メニューへ
『ガリヴァー旅行記』第2篇には,巨人国ブロブディンナグの国王からイギリスについて尋ねられたガリヴァーが,イギリスの政治などについて語る場面があります(p.173-181)。その中で,イギリスの財政政策についての説明が出てきます。 国王がガリヴァーの説明を聞いた後,お前の言うことをそのまま受け止めると歳出が税収の2倍になってしまい,おかしいではないか,と尋ねるシーン(p.177-178)です。これは当時のイギリス政府がとっていた政策のことです。フランスとの長期にわたる戦争(スペイン継承戦争)で出費のかさんだ政府は,ロンドンの銀行界(シティ,The City)から長期貸付を得ることによってまかないました。貸し手の側はやがて(1694年),保証の意味でイングランド銀行を設立しました。イングランド銀行は次第に力を強めていきますが,トーリー党の人々(特にその主力をなす地方のジェントルマンたち)には不評でした。シティの影響力が増すと,シティが政治的・宗教的共感を寄せていたホイッグ党との連合の力が強くなることが避けられなかった上,赤字財政が長期的に見れば税の負担(多くはジェントルマンたちにかかってしまうのです)の増大をもたらすことになるからでした。
スウィフトはこの一連の挿話を国王の次の言葉で締めくくっています。
「お前の話や,わたしが無理矢理お前から引っぱり出した答えから判断すると,お前の国の大多数の国民は,自然のお目こぼしでこの地球上の表面を這いずり回ることを許されている嫌らしい小害虫の中でも,最も悪辣な種類だと,断定せざるをえないと思うのだ」公私ともに失意のどん底にあったスウィフトの心情がよくあらわれているといえるでしょう。しかし,スウィフトが政府の財政政策を批判したのは,正しくなかったようです。経済が成長過程にあるときは,赤字予算は決して悪ではありません。20世紀に現れた経済学者ケインズ*注24が説いたのもこの立場でした。大不況*注25にあえぐアメリカがケインズ政策を採用して以来,資本主義の国々では積極的にこの政策を採用してきました。日本の高度成長*注26も,ケインズ政策に負うところが大きいのです。当時のイギリスは貿易の伸びに伴い,大きく成長し始めていました。赤字予算は時宜をえた政策でした。スウィフトはそれを理解できない,負けつつある側の人間であったのです。*注27