

亮のルーツは父親・哲の出身地である山形県新庄市本合海(もとあいかい)である。
亮は東京で生まれ埼玉で生活していたのであるが、田舎の山形が気に入っていたようである。
その山形新庄本合海を紹介してみたい。以下の文章は亮の叔父・尚が種々文献を調べまとめあげたものを引用
させて頂いた。
私達の住む本合海は、山形県の母なる河である最上川の中流域に位置し、その存在は古くから川岸集落としての重要性に富み、
奈良・平安時代以前より交通の要衝として栄えていたと推察される。
そのことが判るのは、昔の日本国が編纂した六つの国史(古事記、日本書紀、続日本紀・・・・)のひとつである「三代実録」に
この土地が初めて登場しており、正統な史実からも判明できよう。
=貞観(じょうがん)十六年五月十一日条(西暦874年)に当時の政府朝廷は矢向神に従五位下(じゅうごいのげ)の官位を授けた。=
矢向(やむき)神の御祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」であり、出羽の国においてのこの神様鎮座は本合海の地が最初だと考えられる。
今から一千二百〜三百年前にはもはや我々の祖先である「合河乃津(あいかわのつ)」の人々は大いに活躍し、
中央との交流が活発だったのである。・・・・遠い遠い昔から各地を結ぶ出入り口の役目を果たしていたに違いない・・・・
鎌倉時代には征夷大将軍の頼朝に追われた弟の源義経(みなもとのよしつね)が、平泉に逃れる途中に清川から舟で最上川を遡り、
「矢向の大明神を伏し拝み奉り、あひ川の津に着き給ふ」と、室町時代初期成立の軍記物語「義経記(ぎけいき)」にも記されており、
このことを裏付ける伝承の史跡が近隣の町村に現在も著しく残っている。
時代は少し下がり、南北朝時代の頃より、最上河畔に屏風のように屹立する八向山=矢向山(やむきやま)に構えた八向楯代々の主で
ある合海志摩守(あいかいしまのかみ)はこの地方一帯に勢力を張っていたが、この地にも最上山形の勢力が伸びてきて戦乱となった。
ついに寄せての大将・清水大蔵(しみずおおくら)の水断ちにより、さしもの堅城も落ちたのである。この後、この城の主として、
清水大蔵の馬上衆で筆頭家老の木戸周防(きどすわ)が入り本合海河岸を支配した。
時は元禄二年六月三日、その日は快晴であったが、最上川の流れは前に降った雨により流れが早かったと言われている。
江戸を出立し、「奥の細道」各地を回った俳聖・松尾芭蕉と随行した曽良はこの日、本合海の河岸より、水嵩が増し満々と流れる最上川を
舟で清川まで下り羽黒山に向かったと曽良の随行の日記に記載されている。
安政二年の秋、母を伊勢詣りにと親孝行した回天の志士である清河八郎(きよかわはちろう=新撰組の産みの親)は、帰路、親戚のある
清水より舟に乗り本合海で矢向大明神を志津権現として拝んでいることが彼の紀行文である「西遊草」「奉母行」に見られる。
明治維新の戊辰戦争においては、本合海町村は辛くも戦場にはならずにすんだものの、その動乱には町民の多くが関わされた。
慶応四年(同年九月に明治と改元)四月二十三日深夜、大山格之助並びに桂太郎(両名、後の総理大臣)が配下四百八十名を、
そして九月二十四日早朝には西郷隆盛が七百名の兵を引き連れて当地に繰り込んで来、兵糧の調達、人足船の手配を町役人に
命じている。町役人は二十五日に昼頃から夜中にかけて、兵糧米八俵を炊き出し二十六日未明に小船で送ったと記されている。
明治十四年九月二十三日朝七時、明治天皇は新庄町より庄内に出発、十時頃に本合海にて御小休。あらかじめ特設していた船橋を渡られ、
古口(ふるくち)に向かわれたのである。
御小休所役に斎藤与左衛門、御厠課役に中村小平治、騎兵休所役に斎藤定吉、御膳水御用役に八向栄の各人が御用を努めた。
明治十九年三月五日。高山樗牛(たかやまちょぎゅう=「滝口入道」の作者)は午後に本合海渡船場より畑(はた=向こう岸の集落)
に渡り雪道を古口に走った。祖母危篤の報に接した彼は福島から郷里の鶴岡に夜を日に継いで駆け付けた。
四日の日暮れ舟形(ふながた)を発し、三人引きの雪舟に乗り、夜通し駆けに駆けたのである。
正岡子規(まさおかしき=「歌集ホトトギス」の作者)が芭蕉の足跡を尋ねる旅に出たのは明治二十六年の夏。七月十九日上野駅より
汽車に乗り仙台に向かった。
その後徒歩と人力車に乗り継ぎ山形に着き、大石田(おおいしだ)より船に乗ったのは八月八日の早朝である。
船は二時頃に本合海の渡船場に着いたとある。
その時の様子を「はて知らずの記」にこうしるしている。
「客の乗った船を、少女の乗った小舟が追いかけ、餅を売る。歌など歌いながら売り尽くすまで離れない。最上の少女の、
なんとけなげなことよ。」
幸田露伴(こうだろはん=「五重の塔」の作者)と大橋乙羽が本合海に宿をとったのが、明治三十年十月十九日の夜の事である。
その日の朝、酒田より新庄に向けて出発した二人ではあったが、古口のあたりで日暮れになってしまい、すっかり夜になってしまった
のである。
露伴は露骨に宿の汚さを不快げに書いている。−「古びて汚く、部屋にはぶち犬の皮を敷いてあり、あさましく感じた」−
阿部次郎(あべじろう=哲学書「三太郎の日記」の作者)は明治三十一年から三十二年まで、旧制山形中学に学ぶ。松山町が
生家である為、休みになると帰省したが、ある時は山形から大石田まで歩き、またある時は本合海まで歩いたという。
そこから舟に乗り家に帰ったのである。
季節により本合海から大石田の間は最上川に逆白波が立つと舟が動かなくなり、二三日は舟で過ごす事があったと言われている。
このことより、彼が大石田よりも本合海から乗船した回数の方が多かったのではないかと考えられる。 (山形県新庄市:八向 尚
氏 記述)
