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大河2つの視点
 一週間ほどで、めでたく『翔ぶが如く』マラソンを完走することができた。どっぷり薩摩側の視点に立ってドラマを見た後に、いつもの通り『新選組!』を見た。何だか変。
 あれだけ近藤勇とそのチームである新選組に親近感があったはずなのに、薩摩の論理に頭が染まっていて真っ直ぐ受け入れられなくなっていた。
 かといって薩摩一辺倒かというとそうでもなく、頭のどこかで新選組のやり方や時代の捉え方も理解している。理解しているのに気持ちがそれにぴったりと合っていないので、自分の感情ながらごちゃごちゃで気持ち悪い。
 帝劇のミュージカル『レ・ミゼラブル』では初演の頃、主人公のジャン・バルジャンとそれを追う刑事ジャベールの2役をほとんど日替わりのようにして鹿賀さんと滝田栄さんが演じ分けていた。今日はバルジャン、明日はジャベール。
 素人がドラマを見ただけでこれだけ混乱するのだから、役の人生を生きなければならない俳優さんはもっと混乱しただろうな。初演でダブルキャストが解消されたのを思わぬところで納得。


TROYを観る
 ブラピにもあまり興味なく、ただ単純に「最近流行っている映画」という認識だったのだけれど、やっぱり流行っているだけあって面白かった。
 紀元前の戦闘シーンが満載で、剣と楯がぶつかり合う重い金属音やそれが皮膚を引き裂く音までリアルに聞こえる。
 人間の生身、というものを意識させられた。今はボタンとか遠隔でとか、ナマの人間を見ずにいろんなことができる。ネットもそうだ。でもこの時代は人間対人間でないと物事が運ばないし、人間の思惑一つで戦争が始まったりすることもある。原作になるものは神話だけれど、神話が作られた時代の人間の様子を反映している。
 人間同士のことだから、戦争が始まっても終わりが見える。戦争なんだけど「こっちの戦争の方がいいな…」とちょっと思ったりした。
 指輪物語の主人公が出ていることに、パンフを見て初めて気づいた。この人はどちらかというと情けない役が当たり役??


種なし
 スイカやブドウではすでに種なし品種が出ている。今度はビワで成功したらしい。種がない方が売れるということなのだけれど、素直に喜べないのはどうしてだろう。
 確かにその研究者の人は長年苦労して品種を作って、それによって助かる人もいるのだけど。
 生物学的にはたぶんどの種族も「子孫を残す」というのを至上命題にしていて、そのためにいろんな進歩や変化があった。人間様が「食べづらいから」とその種を取っ払ってしまってもはたして良いモノなのだろうか。生物としてはかなり屈辱的な気がする。「あんたはどうせ食べられる。種が邪魔だし、自力で子孫残さなくてもこっちでやるから種なしね」と言われてるのと同じ。うーん。


天気予報
 それにしても最近天気予報が当たらない。夕方のニュースではアナウンサーに「昨日は晴れるっておっしゃってましたよね」と嫌みを言われている人もちらほら。アナと視聴者に向かって「すみませんでした」と頭を下げる姿は、見ているこちらも悲しくなる。
 そもそも気象予報士なんて資格を作ったのは、それぞれの判断で天気の判断を付けたり予想をすることを許したからからじゃないのか? でもみんな大筋では気象庁の発表から逸れることができずに、沿った予報を出して外している。
 どうせなら占い師や競馬の予想屋みたいに、民放全部がバラバラの予報になってもいい。誰の予報が一番当たるか、ということにすれば予報士さんの気合いも入るし、見る方もよく当たる人に従って明日の予定を決められる。
 そうだよ、明日の天気さえも最近外してるんだからさあ。


カミツキガメ
 どこかの住宅地で、捨てられたらしいカミツキガメが捕獲された。ニュースでその映像を流していたのだけれど、カメはピクリとも動かずに、瞬きもせずに、ずっとベージュの床に置かれていた。
 どの局でもやっていたのを見ると、たぶんあのカメの周りには何台ものカメラと10人くらいのスタッフがいる。カメから半径2メートルほどの場所から何人もの人間がライトを当てたりカメラを回したりアングルを変えたりしている中に1匹、泰然としているカメがいる景色を思うと、ちょっと笑える。
 カメ的には何が見えて、どう思ったのだろう。


春の車内
 よくパチンコに行っている間に子供を車内に残していて亡くなってしまった、なんて話を聞く。
 たまたま春のような陽気の日に、車内に残ってみた。まあ10分もかからないだろうし大丈夫だろうと思ったけれど、あれはやばい。
 自分の意思で残ったり出たりできる大人でも、日なたに停められた車に3分いると、熱せられて空気がチリチリしていくのを感じる。熱に追いつめられるようなイヤな気持ち。ちょっと実験気分で我慢をしていても5分でしんどい。車内に逃げ場がない。モノで日陰を作っても意味がない。気分のせいか息も苦しくなってきて、人が戻ってくるまでに耐えきれずドアを開けてしまった。
 外の冷気のこれまた気持ちの良いこと!
 まだ春の日なたでもこんな状態なのだから、夏の炎天下に動けない幼児一人なんてとんでもない。大変なことになりますよ。


名前付け直し
 北朝鮮から子供さんたちが帰ってきた。彼らには改めて日本名を付けたという。
 今まで信じていた自分の名前がある意味否定されて、新しく名前を付けられるというのはどんな気持ちなんだろう。もちろんそれまでの自分が否定されたわけではないけれど、新しい名前は気持ちにしっくり馴染むのだろうか。
 今まで育ててきた子供に2回目の名付けをする親の気持ちはどうなんだろう。あだ名とか愛称というレベルではないからな。親からすれば、日本名の方が「本来の名前」という意識があるかもしれない。
 滅多に経験する人がいないだけに、気になる。


作る先入観
 ラジオを聞きながら作業をしている。夜中の12時頃に短編を朗読してくれる帯番組がある。月曜日に、今週はどの作家の作品を流すのかを説明していた。エドガー・アラン・ポーと江戸川乱歩の話をしていたのをぼんやりと聞き流していたら短編に入ってしまった。
 江戸川乱歩の作品は短くてもぴりりと効いて、そして怖い。「いも虫」とか今まで読んで背筋に来た話を何となく思い出してしまった。今日読んでいる短編もきっと怖いに違いない。音だけで聴いていると頭で想像してしまうぶん、怖さが倍増する。
 かなりびくびくしながら聴いていたら、どうも「煉瓦」とか「青い目」という描写が。
 なんだ、江戸川乱歩のじゃなくて、本家のポーの作品を朗読しているのか…。
 そう思った途端に今まで怖さで縮こまっていた筋肉が一気に緩んで怖くなくなってしまった。「恐怖」は先入観から、というよりも、その先入観も自分で作り出しているのだなあと実感。


セスナ
 戦闘機が横切ることがあっても、セスナが横切ることは少ない。飛んでいたとしてもそれが「スピーカーで宣伝」をしていることはもっと少ない。今住んでいる地域は特に。
 松本では日曜日になるとセスナが飛んで、そこから地上に向けて近所のショッピングセンターのセールなんかの宣伝をしていた。
 ブーンというプロペラの音が移動するのと一緒にどこか脳天気なBGMと妙に明るいアナウンスも移動していく。風向きによってそれが近くなったり遠くなったりしながら何度か旋回する。
 アドバルーンも見ない。空を使った広告は結構のどかでいいと思うのだけど。


渡る世間
 DVDデッキで遊んでいるうちに9時になり、予約画面や編集画面を出している後ろで『渡る世間は鬼ばかり』が始まってしまった。
 声しか聞こえないのにみんなの台詞があまりにも詳細で豊富な分量なので、画面を見なくても何が起こって誰がどう思っているのかが全部手に取るように分かる。さすが橋田壽賀子(←ちなみに今一発で変換したのにもびっくり)。
 テレビでなくても、いっそラジオドラマにしてしまっても十分成り立つと思う。もちろん俳優さんが感情を込めているのがうまいからというのもあるけれど。…でもやっぱり画面なくてもいいかも。


似ている人
 自分に似ている人がたくさんいるらしい。休み明けに「○○で自転車乗っていたでしょう」とか「車で○○スーパーに買い物来てなかった?」とか、心当たりがないことを言われることが多い。
 これは引っ越しをしても言われることなので、おそらくどの地域にも自分に似た人間がたくさんいるんだろう。というか、それだけありふれた顔をしてるってことか。


カーナビ
 車に乗らなくなってしまったので、最近のカーナビ事情には疎い。でもこないだ髪を切りに行ったときに担当の人が「いやー、便利ですよやっぱり」と話してくれた。
 てっきり、画面を見るのに止まって確認しないといけないのだと思っていたら、声で教えてくれるという。知らなかった。乗っている人は当たり前かも知れないけれど、本当に知らなかった。
 道を間違えてもそこから修正した道を教えてくれるという。それも知らなかったし。
 便利だなと思う反面、自分が使ったら絶対に道を覚えなくなる。人に案内されて行った店は二度と辿り着けない傾向があるので、カーナビを使い始めたらきっとカーナビなしではどこにも行けなくなってしまうだろうな。


ちょっと走ってる人
 気にして見てみると、かなり走っている人たちがいる。それはもう年配といってもいいような年齢の人から、昔懐かしい部活のトレーニングまで。
 部活の彼らは厳しそうだけれど、マイペースで走っている人たちはあまりつらそうに見えない。すれ違ったときの息も乱れていない。涼しい顔をして走っている。
 だいたいそういう人は短パンで薄着で、ふくらはぎが締まっていて無駄がない。
 人間の身体って鍛えればそこまで行けるんだろうなあとはおぼろげに思うものの、自分がそこまで行くにはかなり掛かりそう。
 というか、別にそれを目指さなくてもいいのだけれど…。


アメダスの雰囲気
 日本列島のアバウトな位置にお天気マークが乗っている天気予報に比べて、最近はアメダスレーダーを活用した予報が増えている。
 あれのえらいところは、今までの分をアニメにして分布を動かしてみせるのに加えて、これからの分も予想して動いてくれるところ。でもこの頃あまり当たらない。
 画面上で「アメダスの予想です」と言われて動いているアニメを見ると、あまりにも精緻なドットがいかにもそれっぽく動いていくので、ちょっと信用しようかなと思ってしまう。
 でもあれも誰かが予想したモノを動かしてるだけなんだよなあ、たぶん。見た目がハイテクっぽいので信じてしまいそうだけど、それよりも自分が景色と雲行きを見て判断した方が確率が高そうな。


繋がっている
 アーカイブスの番組で、昭和30年代に放映した老弁護士のドキュメンタリーをやっていた。その時点で「老」なのだから、生まれはさらにさらに先。その人は明治38年に早稲田大を卒業したのだという。生まれたのではなくて、そのときに卒業。
 自分の曾祖父の生まれが明治20年と聞いたことがあるので、ほぼ同年代。でも曾祖父というのは思いっきり遠い人。半分歴史の中の人だと言ってもいいくらい。
 今、明治10年代生まれ、と言われてもそれは自分とはほとんど関係ないような気がしている。でもこうやって、そのときに生まれたことのある人(日本語としては変だけど)が動いて、映って、考えを述べたりしているのを自分は見ている。
 全く関係ないというのはあり得ない。この人がいるから誰かが影響を受けて、その誰かがひょっとしたら自分とも関わっているかもしれない。
 繋がっているのだな、という感覚があった。昭和や大正でもなく、本当に歴史になってしまっている江戸でもない、微妙な世代をクローズアップしてくれたおかげで、そう思えた。


旅行はいつから
 親が旅行に行くという。自分が行くわけではないけれど、宿を選んだり、ガイドを見たり、パンフレットを探したりした。
 やっている時間が一番楽しいのかもしれない。どこに泊まって何を見て、ここならこんな料理があって美味いはず。
 旅行サイトやHPを見るときも、結局は実際に泊まるよりも以前に旅行の5割くらいを楽しめる工夫がされているHPだと本当に泊まりたくなる。
 現地のサービスがいくら良くても、行く前に「良い想像」をさせてくれないところは選ぶ気がしない。
 今回はいろいろ「良い想像」をしたので、自分は半分行き終わった気になっている。親の出発はまだこれから。


イメージの土台
 大河ドラマの『新選組!』が面白くなってきた。ばらばらだった人間がだんだんチームになってきて三谷氏十八番のそれぞれの性格を活かした群像喜劇+歴史的ドラマを期待させる。
 しかし親は『鞍馬天狗』の世代なので、そのとき悪役だった新選組自体に好印象を持っていないらしい。それはどんなに香取慎吾が好演しようと、どんなに人間臭く共感できる新選組メンバーが描かれようと、根本的に駄目だという。たぶんこれは頭で考えるモノでなくて感覚的なモノなんだろう。
 逆に新選組に親近感を持った世代が『鞍馬天狗』を見たらどうなるんだろう。


ちょっと走ってみる
 運動不足だ。体脂肪がどんどん増えていく。一度増え出すと二度と減らない。減った試しがない。しかしこのままいくと体脂肪で死んでしまいそうだ。
 ジョギングに関するコラムを偶然いくつか読んだので、その気になって朝ちょっと走ってみた。
 ほんの少し10分ほど。これ以上スピードを緩めたら「歩く」になってしまいそうなほどゆっくりペースで。10分なんて恥ずかしいので余裕があったら同じコースをもう一度行くか、なんて考えていた自分が大莫迦だった。
 すでに5分を過ぎた辺りで苦しくなり、汗が出てくる。もしここで急に危険な目に遭っても絶対に逃げられない。なぜならすでにいっぱいいっぱいだから。
 一応これでも中学生のときは部活で毎朝(無理矢理だけど)坂道コースを何周も走っていたのに。自分の体を5分支えきれないとは。学生時代より体重が増えているぶん、重力が掛かっているので余計にしんどい。苦しいのと悲しいのが半々で戻ってきた。情けないけれど息をするのが精一杯。あー。
 ただ、その翌日から少し体脂肪が減った。苦しいだけの効果はあった、と思いつつ、それほど運動していなかったという証明にもなってしまった。


どうも
 道で遊んでいた女の子がボールをうちの庭に入れてしまった。返したら「ごめんなさい」という言葉が返ってきた。
 犬の散歩をしていたら女の子が来てひとしきり撫でて行った。彼女が立ち上がるときに「バイバイ」と声をかけたらこちらを見ずに「どうもー」と言って戻っていった。
 クレジットカードのCMで、外国旅行中に何事も「どうも」と返事や相づちを打つ父親が出てきて、最後にはあちらのお国の人も「ドウモ」を覚えてしまった、というオチがあった。それは「交流ができてよかったね」というメッセージを真っ直ぐ伝えたいようにも見えた。皮肉ではなくて。
 日本語にはもっといろいろな言い回しがあって、それぞれに意味があるのだけれど、最近目に見えて言葉が変になっている気がする。


本能を信じる
 平日の昼間が自由時間になった。一日全部が自分の時間だと思うと寝坊するのが勿体ない。現金なもんだ。
 日の出の頃に起きた日は、暗くなる夕方6時に眠くなる。しっかり朝ご飯を食べると胃腸の調子がすこぶる良い。晴れの日よりも雨の日の方が寝起きが悪い。
 頭で「規則正しい生活」を覚えるのよりも確実に、身体は自然に従っているのだと痛感する。というよりも、自分の身体に「自然に従う」機能がまだ残っていることに驚いた。もうすでにそういう摂理とは無縁で、戻れないと思っていた。
 もうちょっと自分の本能を信じてみよう。好きな色とか匂いとか形とか。今まで何となく概念で縛っていたものを解いたら、案外いろんな事がうまく行くかもしれない。


二度目のハローワーク
 離職票を持ってハローワークに行く。平日の昼間はやっぱり人がいないな、と思いつつ道を歩いて到着。道のスカスカな印象とは正反対に、ハローワークの中は人がギュウギュウで熱気が籠もっていた。あんまり良い熱気ではない。
 構えて「求職の申し込みに」と窓口で言ったら「失業保険の給付申し込みですか?」と聞き返される。そんなに真っ直ぐ言っていいのなら、まさにその通りです。
 渡された書類に書き込んで、窓口に行く。銀行のように番号票を機械から取って順番待ち。係の人が取って渡してくれた。
 機械だから仕方ないのだけれど「○番のお客様、○番窓口へ」と言う。聞いていると窓口の人も来ている人に向かって「お客様」と呼んでいた。まあ確かに「その人が身銭を支払ってくれるから飯を食っていける」という意味ではお客様だ。
 フロアは以前はファイルが並んで閲覧していたのが、ブースで区切ってパソコンがずらっと並んでいる。窓口待ちの人たちは隅っこで固まって待っているしかないのがちょっとつらい。
 毎回来るたびに「カウンターのあちら側は職を持っている人間で、こちら側は職を持たない人間なのだな」と思ってしまう。でも毎日他人の失業認定やら職業案内やら基本的な説明を繰り返している生活に比べればこちら側は自由だ。何をしても良いし、何を選んでも良い。何を作っても良い。
 そう思うと気が楽。


被害者の名前
 アメリカでも日本でも、一人でも死亡者が出ればその人となりと境遇と、何より名前が出る。9・11のテロで亡くなった人たちは国家挙げての慰霊祭で名前を読み上げられた。イラクでは何百人と亡くなってもその人たち一人一人の名前が伝えられることはない。
 名前を知るということは、相手を人間だと認識することだと思う。それを伝えないというのは卑怯な気がする。いつまでも十把一絡げな扱いで、相手を人だと思っていないのだから。


役所で手続き
 退職したので健康保険も年金も、国民なんたらのものに変えなければいけない。4月1日に近所の出張所に手続きに行った。c  ちょうどよい晴れ具合が手続き日和。窓口にはずらっと人がいて、それぞれ説明を受けている。銀行にあるような何か紙を取って順番待ち、というのではなくて、気づいた役所の人が奥から「手続きの方こちらにどうぞ〜」と呼んで捌いていくようなアナクロな手法。でも日々地域の人とやり取りをしているせいか、お役所的なイヤな感じではない。
 保険と年金をいっぺんに変えたい旨を伝えて、証明書類を手渡し。しばらく待つ。10分ほどで呼ばれて確認しながら手続き。
 確認のたびに「ではちょっとコピー取りますね」と書類を持って行くのだけれど、出張所のコピー機は1台がフル稼働中でそれもちょっと待ち。それでも今はオンラインやコピーがあるからいいものの、昔の手続きってどうだったんだろう。
 隣のおばちゃんはとにかく年金の手続きをしたいらしいけれど、年金手帳を紛失したらしい。年金番号すらわからないので窓口の若いおばちゃんが相手をして「ご結婚は?本籍地は?払ったことあるかわかる?」と一生懸命聞き込み調査をしていた。
 役所も窓口は結構大変なのだと思った。5時に終わるのはちょっと悔しいけれど。


プチ花見
 役所ついでに足を伸ばして、近所の桜並木を眺めて帰ることにした。数百メートルの道沿いに桜が植わっているので春先はちょっと名所。
 天気が良いのでカメラと三脚を抱えて歩いている人や、散歩の夫婦がいる。平日の昼間っていいな。
 少し大きめの公園へ回るともっとあからさまな花見目的の人たちがわらわらいる。二人がけベンチがぽつぽつと置いてあるところに、散歩のおじいさんやストレッチ途中のおじさんや、部活途中らしいジャージの学生などなど。いる人を確認しつつ歩いていたら、カップルが座っている椅子の回りには途端に誰もいなくなって苦笑。自分も座りたくない…。
 おばちゃん二人連れがお弁当らしき荷物とシートを持って「この辺でいいかしら」「いいんじゃないかしら」と相談しながら、大木の下の空き地をキープ。優雅だな。
 広いところでは保育園がそのまま引っ越したみたいにママ仲間がシートと弁当を広げて、子供らが縦横無尽に走り回っている。
 自分も静かな腰掛けを見つけて、コンビニで買ったおにぎりを食べて帰ってきた。世の中には自分が知らない世界がまだまだたくさんある。


クロスワード
 たまたま新聞に付いていた漢字クロスワードみたいなものにはまって、解いたら面白かったので、本屋のついでにその種の雑誌を見てみることにした。
 おぼろげに感じてはいたけれど、まさかこんなに発行されているとは。平積みも含めると20誌くらいが似たような名前で発行されていて、それぞれウリがある。漢字に特化したのもあれば、すべてのページがハガキになっていて解き次第すぐに懸賞に応募できるものとか、女性用の懸賞ばっかり集めたものとか。
 一番老舗っぽいものを選んで買ってみた。家に戻って親に進呈。親曰く「こんなの解いてわざわざ懸賞に送ろうって人はよっぽど暇な人だよ」。鉛筆片手にさっそくめくっている自分も含めて言ってるんだよねそれは…。


刷ったお金
 財務省の印刷局で印刷するお札の数が、前に比べて減っているという。何か危機を感じるような時期は現金を手元に置いておきたい人が増えて、発行枚数も増えるらしい。最近はそういった危機感も薄れてきたので発行枚数が減ったとのこと。
 減ったといっても「発行枚数の伸び率が鈍化した」というニュースだったので、去年よりは刷っている。毎年そんなに刷っているのか。
 と思うと同時に、毎年そんなに増やして大丈夫なのかと疑問が。ボロボロになったり引退するお札は刷っている枚数ほど多くないような気がする。
 べらぼうな数のお札を貯め込んでる人がどこかにいるのかもしれない。


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