やまももの部屋 |
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目次 ◎母の靴音 ◎母のふるさとの街と家 ◎春の木市と西田橋 ◎のんちゃんと風船とピラカンサ ◎赤いミズヒキの贈物 ◎私のホームページ作り |
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母の靴音 1997/10/08 私がまだ幼かった頃に母がどんな靴を履いていたのか全く記憶がない。しかし、母の靴音は鮮明に憶えている。それは、靴の踵の部分に力を入れながらアスファルトの道をカッカッカッカッと速い足取りで歩む靴音であった。 いま考えると、靴の踵に力が入っていたのは、彼女が教師としての矜持を持っていたからであろう。彼女が近所のおばさんたちと笑い興じている姿をかつて見たことがない。彼女は外ではいつも教師として振舞っていた。私が高校3年生のとき、クラス担任が私の内申書の所見に「言葉遣いが丁寧で温厚な性格」と記入してくれたが、その「言葉遣いの丁寧」さは間違いなく母親譲りのものであった。 しかし、彼女の足取りが速かったのは、教師としての職業意識からだけではなかっただろう。彼女の幼い子どもが、いつも家の薄暗い玄関でじっと彼女の帰宅を待っているからである。おそらく、家で彼女を待ちわびているわが子を少しでも早くその胸にしっかりと抱きしめたいという母親としての思いが、彼女の足取りを自然と速くしたのであろう。幼い私は、晩になるといつも家の玄関の木造りの格子窓から薄暗い外を眺めながら母の帰りをじっと待っていた。 母が職場から帰宅するまでの間、私の面倒は祖母が見ていた。私は、小学校に就学するまでは祖父母の家で暮らしていたのである。両親が日本の旧植民地からの引揚者で、着の身着のままで祖父母の家に身を寄せていたからである。 幼い私には、近所の子どもたちがとても羨ましかった。彼らには、白い割烹着を着て家の中で忙しそうに立ち働いているお母さんがいたからである。夕方近くになると、白い割烹着のお母さんたちが外で遊んでいる子どもたちに「もうごはんですよー」とほかほかのご飯のような声をかける。すると子どもたちは潮が引くように家の中に姿を消していった。そして、私だけが独り夕陽の中にぽつんと取り残された。夕食は、薄暗い電球の下で祖父母の皺だらけの顎や喉が上下に動くのを見ながら黙々と食べていた。側に父がいた記憶もない。 私は、いつも家の薄暗い玄関の木造りの格子窓から外を眺めながら母の靴音をじっと待っていた。カランコロンと下駄の音が家の前を通り過ぎていく。男の人の靴音がゆっくりと家の前をコッコッコッコッと通り過ぎていく。いろんな人の様々な履き物の音が家の前を通り過ぎていく。外はもう真っ暗なのに母の靴音はまだ聞こえてこない。あっ、カッカッカッカッと速い足取りで歩む靴音が遠くから聞こえてきた。胸は期待で高鳴る。しかし、その靴音は家の前をそのまま通り過ぎて遠くに消えていった。幼い私は外の真っ暗な夜道に耳をそばだて、ただひたすら母の靴音を待ち続ける。 母のふるさとの街と家 1998/02/07 私が幼い頃、私の母は問わず語りに彼女のふるさとの街と生まれ育った家庭のことを何度も何度も楽しそうに語ったものである。母のふるさとの街は大きく、道路や建物は立派で、沢山の人々や車がとても賑やかに往来していたという。住んでいた家も大きく立派で、お手伝いさんが沢山いて、ピアノもあり、何不自由のない生活を送っていたという。そして、彼女の父親はとても威厳があったが、またとても優しく非常な家族思いであったという。私は何度も何度もそんなことを聞かされて育った。 幼い私は、母のこんな想い出ばなしを聞きながら、その想い出ばなしと比較して、自分が今住んでいるふるさとの町はなんてちっぽけなんだろう、自分たちはいまなんて恵まれない境遇にあるのだろうと思わざるを得なかったし、さらに自分の父に対しても、話に語られた私の祖父の「父親」像とは随分かけ離れた存在であると思ったものである。 幼い私には、人間の屈折した心理など皆目分からなかった。だから、彼女が語る話の表層に出ているものを素直に受け取るだけであった。母がその想い出ばなしの奥の方にどんな複雑な想いを託していたのかなんてことは全く理解できなかった。 母のふるさとの街は、日本の敗戦とともに外国の街となってしまったのである。敗戦の翌年(1946年)の3月に私の父と結婚した母は、その年の12月にふるさとの街を離れて「内地」に夫と一緒に「帰る」ことになった。残った財産は、一人当たり行李3個分とふとん袋1個だけだったという。その頃、私はまだ母のお腹のなかにいた。港に向かう列車のなかでふと窓外を眺めたとき、汽車の日本人引き揚げ者たちに手を振る数人の農民たちの姿が目に入り、彼らの温かな心に触れて胸が熱くなったという。「内地」には日本海軍生き残りの駆逐艦「ゆうづき」に乗って「帰国」し、到着した佐世保港からは列車を乗り継いで私の父のふるさとの町に向かった。父のふるさとの町に夜中にたどり着いたとき、雨がしとしとと降っていたが、母は肉親のだれとも会えぬ淋しさから、町の暗さにもまして心は暗く沈んでいたという。 父と一緒に私の祖父母の家に身を寄せた母は、貧しい引揚者として肩身の狭い思いをし、夫の実家の雰囲気にも異郷の地の風土にもにあまり馴染めず、辛い日々を過ごすようになった。きっと彼女は、幼い子どもに想い出ばなしを語りながら、彼女が当時置かれていた淋しく辛くて哀しい境遇を自分で慰めていたのであろう。だから、想い出のなかで語られるふるさとの街はますます素晴らしく立派なものとなり、彼女が生い育った家庭はますます暖かで幸福なものとなっていったのであろう。特に彼女の父親への想いは人一倍強いものがあったようである。大きな米問屋を営んで沢山の人を使っていた彼女の父親は、とても威厳があって信頼できる人であり、そしてまた暇があると子どもたちをいろんなところに連れていってくれた子煩悩で慈愛溢れる優しい人として懐かしく記憶されていた。しかし、そんな彼女の父親は、敗戦でこれまで築いた財産を全て失い、彼女が暮らすこととなった町から遙か離れた遠い街で暮らしていた。 敗戦で外国となってしまったふるさとの街を母が離れたとき、もう二度と再びこの懐かしい地に戻ることはないだろうと思ったという。しかし、ふるさとを離れて33年後に母はそのふるさとの街に再び帰る機会を得ることができた。私の父が仕事の関係で母のふるさとの街に出張することになったので、同伴して出かけることになったのである。 しかし、33年ぶりのふるさとの街は当時の40万人程度の中都市からなんと270万の人口を抱える大都市に変貌し、経済成長による建設ラッシュを経て昔の面影を残す建物はほとんどなくなっていた。ふるさとの街は現実には地上から消え去っていたのである。彼女はそれでも自分が過ごしたふるさとの家を訪れたいと思った。しかし、あくまでも自分の夫の出張に同伴しての訪問である、そんな時間を割くことはなかなかできなかった。 しかし、日本に帰国する前日の午後になって、母はある大通りに面したお店の看板に懐かしい通りの呼び名が残っていることを知り、それを手かがりに彼女が子どもの頃に住んでいた家を探すことになった。全く昔とは様子が変わっているその通りに思い切って足を踏み入れたが、道の両側に続く建物はどれも見覚えのないものばかりであった。それでもしばらく歩くと立派な屋敷が見え、その大きな建物の屋根を葺いている瓦の色と形になんとなく見覚えがあるように思われた。母は、そのことに勇気づけられてさらに通りを歩いて行った。すると今度は、道の両側に大きな常緑樹の並木が見えてきた。この並木の樹の種類は知らなかったが、記憶のなかの彼女の家の近くに確かにこんな感じの樹の並木があった。しかし、周囲の家並みは全く昔とは違っていた。 母が子どもの頃に住んでいた家の隣には幼稚園があり、よくその運動場の鉄棒にぶら下がって遊んだものであった。しかし、そんな建物も広場も見当たらなかった。途方に暮れた母は、たまたま通りかかった中年の婦人に思い切って日本語で話しかけた。昔、このあたりに幼稚園がなかったですかと聞いたのである。幸い、この中年婦人は子どもの頃に日本語教育を受けており、母の言葉が通じた。彼女は、親切にもこの通りの昔の姿をあれこれ頭に思い浮かべながら、幼稚園の存在とその建っていた場所を懸命に思い出す努力をしてくれた。そして、しばらく考えてから、「ああ、あの場所に確かに幼稚園がありましたよ」と右手後方を指さした。勿論、そこには全く見知らぬた家々が立ち並んでいるだけであったが、母は自分が子供時代を過ごした場所に戻ってきたことを確信した。 親切に場所を教えてくれたその婦人に厚くお礼を言ってから、母は傍らの並木に近づき、そのごつごつとした木肌にそっと手を触れてつぶやいた。 「お父さん、お母さん、私は帰ってきました」 昔、彼女が父親に手を引かれて家から街に出かけるとき、いつもこの並木の樹は彼女たち親子の幸せな姿を眺めていてくれたに違いない。そう思ったとき、私の母は彼女の亡父の大きな手のひらの温かいぬくもりが思い出され、両の目にどっと涙が溢れて来たという。 春の木市と西田橋 1998/03/25 鹿児島の春の到来は早い。真南に面したわが家の小さな前庭の木々にも春の知らせがもうとっくに届いている。ジンチョウゲやサクランボの花はすでにほとんど散ってしまったが、イワツツジの淡い紅紫色の清楚な花がいま満開だ。西側のフェンス際に重ね植えしたレンギョウとユキヤナギも3月の初めから黄色と白色の美しい花のハーモニーをずっと奏でている。南側のフェンスの真ん中では、冬から小さな黄色い実をつけていたキンカンのそばでベニバナトキワマンサクの花が咲き始めた。だが、年増女のあだっぽさを感じさせるベニバナトキワマンサクの濃紅色の花と健康的で可愛いキンカンの実とはなんともミスマッチである。このベニバナトキワマンサク、また植え替えようと思っているのだが、この花は他の樹木の花と調和させるのがなかなか難しい。 ところで、上に述べた木々のうち、グミ以外はすべて私が木市で購入し、私自身の手で植えたものばかりである。鹿児島市では、春と秋に甲突川左岸緑地帯(市民広場)で木市があり、毎年百近い店がテントを連ね、庭木や花の苗千種類十万本ほどが並べられる。私が9年前にマイホームを建ててから、その前庭の空間を埋めるため、この春と秋の木市を心待ちにするようになり、木市が開かれるたびに足繁く通って沢山の苗木を購入したものである。しかし、4、5年もするともう苗木を植える空間もほとんどなくなり、次第に木市から足が遠のいていった。
しかし、そんな貴重な文化財も去年の1月に解体されてしまった。では、なぜ県は西田橋を解体したのか。県と市は、1993年の大水害以前から「交通のネックになる、水害を誘発する」等の理由から五石橋の全面撤去を何度も打ち出していたが、そのたびに石橋を保存すべきだとする市民の声にその実施を妨げられていた。だが、1993年8月6日に鹿児島市を中心とする局地的集中豪雨による大水害が起こったとき、県知事がその2日後に「石橋が水害の原因」とし、石橋撤去を前提とする河川の改修方針をいち早く打ち出し、県と市の議会もその方針を了承していった。これは、県河川課の「護岸を上げるか、河床を掘り下げるか、拡幅するしかない、いずれの策にも石橋がネックとなる」とする結論を前提にするものであった。行政や議会だけでなく、市民の間にも「石橋に引っかかった樹木などが原因で氾濫した、石橋が原因で被害が拡大した」として石橋撤去を求める声が強まった。鹿児島市内の祇園之洲公園にあった肥後の名石工・岩永三五郎の石像に赤いカラースプレーで「バカ」という文字が書かれる事件も起こったりしている。それに対して石橋を守ろうとする市民グループの運動も盛り上がったが、行政は大水害でも壊れなかった玉江橋、高麗橋(ともに市の管轄)と西田橋(県の管轄)をその手で壊していった。 だが、「石橋が水害の原因」としたり、その石橋を架けた岩永三五郎にカラースプレーを吹きつけたりするのは筋違いではなかろうか。五石橋を守る市民運動の人々から水害発生の根本原因は行政側の誤った街づくりにあるとの声が高まった。すなわち、甲突川流域の水田をつぶし、山林の樹木を切り倒し、山を削り谷を埋め、その上をコンクリートとアスファルトで固め、無計画に大規模な団地開発をおこない、また甲突川をただひたすら掘り下げ真っ直ぐにし、コンク 今回、私が木市での買い物を終えた後に橋梁建設工事の見学台に登って下を見下ろしたとき、そこに「150年間汚れてきた川と傲慢になった人を見続けてきた」あの西田橋はなかった。そこには豪壮で美しい石橋はもはやなかったのである。そのかわりにコンクリートを固めて造った大きな橋桁がその建設中の無骨な姿を春の日差しに白く晒していた。
のんちゃんと風船とピラカンサ 1997/09/17 日曜日の朝、ポーン、ポーンと花火を打ち上げる音が晴れ渡った秋空に響きます。私の住む新興住宅団地に新しくできたスーパーの開店祝いの花火の音です。私とのんちゃんはそれに誘われるようにおうちを出ました。のんちゃんは私の次男坊で、幼稚園の年中組さんです。私たち二人は約1キロの道のりをバス通りに沿ってスーパーまで歩いていきました。 スーパーの前にはいろんな地域の様々な特産物を売る沢山のテントが立ち並び、買い物客でとても賑わっています。子どもたちには無料で風船が渡されていますよ。のんちゃんもおじさんからボンベで大きく膨らませた青い風船をもらいました。風船は天然パーマののんちゃんの頭の上でふわふわと秋風に揺れ、のんちゃんもにこにこ顔です。 苗木を売るコーナーもあり、私は小さな赤い実をいっぱいつけたピラカンサの小鉢を買いました。お店の中を一巡した後、私とのんちゃんは家路につくことにしました。帰り道は行きと違って住宅街のなかを通っていきました。 のんちゃんは右手に青い風船のひもを握って上機嫌です。おやおや、風船を風になびかせて急に走り出しましたよ。あぶない、あぶない、あっ、転んだ、バーン。おやおや、のんちゃんは膝小僧を擦りむき、風船は割れてしまいました。 のんちゃんがわーっと泣き出しました。だいじょうぶ、だいじょうぶ、フーセンはおうちに帰ってからパパがまたお店までもらいにいくから泣かないで。でも、のんちゃんはばたばたと地団駄踏んでますます泣きじゃくります。いやだ、いやだよ、いまもらうんだ。その泣き声があんまり大きいので、近くの家の人が不審に思って外に顔を出しました。 わかった、わかった、いまもらってくるからと、近くの空き地にピラカンサの鉢を置き、のんちゃんをそこに待たせて、私はお店に引き返しました。 風船をもらって元の場所に帰ってきましたが、あれっ、のんちゃんの姿が見えません。ピラカン
しかし、スーパーのお店の前の広場にのんちゃんの姿を見つけることはできませんでした。店内にもいません。お店の人に頼んで店内放送をしてもらいましたが、黄色い上着に青い半ズボンの天然パーマの坊やを捜し出すことはできませんでした。近所の人が自動車で買い物に来たのを見つけ、藁にもすがる思いで頼み込み、店の周囲を車で捜してもらいました。しかし、それでも見つけることができません。嗚呼、せっかくのんちゃんのために風船をもらってきたのに、のんちゃんの笑顔はもう二度と見られないのでしょうか。 万策尽きた私は、お店の事務所で電話を借りて自宅に連絡をとることにしました。風船を結んだ糸を左手でしっかり握りながら、家にダイヤルしました。妻が電話に出てきたので、大変だ、のんちゃんが迷子になってしまったと告げたとき、私の声はいささかうわずっているようでした。それなのに、おやっ、どうしたことでしょう、電話の向こうで妻が笑っていますよ。彼女が言いました。あら、のんちゃんなら帰ってるわよ。 あれから5年が過ぎました。のんちゃんは小学3年生。のんちゃんが地面を引きずりながら家まで一人で持って帰ったピラカンサもわが家の庭で随分大きくなりました。のんちゃんと背比べをしたら、どっちが高いかな。のんちゃんも元気ですが、ピラカンサも濃い緑の葉を繁らせ、沢山のまるい実をつけています。実のほとんどがいまはまだ青いけれど、秋の深まりとともに赤く色づいていくことでしょう。
赤いミズヒキの贈り物 1998/01/14 わが家は南に向いて東西に細長く建てられているが、その前庭の木々の周辺に、その大半は風の贈り物だと思われるナズナ、ホトケノザ、カタバミ、ハコベ、シロツメクサ、フキ、イヌノフグリ、スミレ、タンポポ、スギナ、ドクダミ、ネジバナ、ツユクサ、アザミなどの野草がたくさん生えている。 そんなわが家の野草の一つにミズヒキというタデ科の多年草がある。ミズヒキと命名されているように、30センチから40センチくらいの細長い濃紅色の花穂を伸ばすこの野草は、お祝いの包み紙にかける水引にそっくりである。長塚節が、「秋の日は水引草の穂に立ちて既に長けど暑きこの頃」と詠んでいるが、ミズヒキは夏から秋にかけて穂をのばし、そこに赤い小花をまばらにつけるのである。わが家の庭の西側奥に高さ7メートルくらいのヤマモモの木が植えられているが、少し日陰になる木の下などを好むミズヒキは、この濃緑色の常緑の葉を大きく茂らせている木の根元周辺に元気に育っている。 ところで、わが家のミズヒキは、ある人から数年前に一鉢もらったものだ。贈り主は、私が帰宅するときに街で拾ったタクシーの運転手さんである。初め、このタクシーの運転手さんといろいろよもやま話をしていたら、私の趣味の一つが庭いじりだと知り、運転手さんの話は俄然熱が入ってきた。庭木や園芸の草花の話、そしてさらには野生のエビネ(ラン科の宿根草)のなかで珍しい種類のものは非常な高値で取り引きされているといった話になり、そこから野草の話に自然に話題が移っていった。そのときにミズヒキの名前が出てきたのだ。私は、ミズヒキなんて名前の野草のことを全く知らなかった。それで、運転手さんにいろいろ質問をした。そうしたら、この運転手さん、「ミズヒキがたくさん生えている場所を知っていますから、そこから採取してお客さんにあげますよ」と言ってくれた。 わが家の前でタクシーを止め、料金を払ったとき、この運転手さん、細面の顔にかけられた眼鏡の奥で優しそうな目を微笑ませながら、「明日の土曜日、私は非番で野球の試合がありますが、その帰りにミズヒキをきっと持ってきます」と約束してくれた。車中の話では、運転手さんは草野球チームのメンバーだそうである。 「明日の土曜日の夕方頃には持って来ます」との話だったので、私はお返しの菓子折などを用意して、翌日の夕方ずっと待っていた。しかし、いつまでたっても運転手さんはやって来なかった。落ち着かない気持ちで待ち続けたが、日がすっかり暮れ、家の前の街灯が点灯して暗い夜道を照らすようになっても、あの運転手さんはやはり姿を見せなかった。私はなんだかガッカリした。勿論、ミズヒキが手に入らなかったので落胆したのではない。 つぎの日の日曜日、私はもうすっかりミズヒキのことなど忘れていた。そんなお昼過ぎ、一階の居間にいたらピンポーンとインターホンが鳴った。受話器を取り上げたら、なんとあの運転手さんだ。ミズヒキを持ってきたとのこと。慌てて玄関まで飛んでいって、ドアを開けたら、片手に鉢を持った眼鏡の運転手さんがそこににっこりと笑って立っていた。「いゃー、昨日の野球の試合で転んで頭を打ってしまいましてね。病院で傷口を数針縫ったんですよ。そのため、届けるのが今日になってしまいました。遅れて申し訳ありません」との話。頭のてっぺんの包帯が痛々しい感じであった。こっちが恐縮し、家に上がってもらおうとしたら、仕事があるとのことで、そのままきびすを返して帰っていこうとした。私は慌てて呼び止め、準備をしていた菓子折を家の中から持って来て、厚くお礼を言ってそれを渡した。しかし、突然の訪問だったので、すっかり慌ててしまい、この親切な運転手さんの名前や住所などは聞き漏らしてしまった。 タクシーの運転手さんからもらった一株のミズヒキは、ヤマモモの木の西側の根元に植えた。ミズヒキは、年を経るごとに数を増やし、生育領域を広げていった。この野草は、鈎のついた実が成り、その実が人間や動物などにくっついて生育領域を広げるそうである。余所の猫がわが家の庭にトカゲやスズメなどをねらってよく遠征して来る。彼らがミズヒキの実の運び屋となるのだろうか、庭の意外な場所に、慶事の贈り物にかけられる赤い水引のような花穂が何本も風に揺れている姿を発見することがある。 私は、この赤い小花をつけた細長い花穂を見るたびに、頭に包帯を巻いたあの眼鏡の運転手さんの優しい笑顔を思い出す。あの運転手さん、いまも珍しい野草の小鉢を片手に持って人のおうちのインターホンを押し、小さな善意を贈り物として届けているのであろうか。 おわり 私のホームページ作り 2000年1月2日 世のなかはホームページ花盛りで、人気が非常に高い「カリスマホームページ」なんてのもあるようですが、まだまだ内容のあるホームページは少ないようです。それなりに名の知られた企業や団体が設けたものでも、「このインターネット時代にホームページがなかったら世間体が悪いから、まあ一応作っておくべえ」といった感じで設けられたなおざりなものが多いですね。調べごとをしていて、それと関連していると思われる研究機関のホームページに情報を求めてアクセスしても、収穫を得られることはほとんどありません。文字通り無内容で、見事に空っぽスカスカのホームページにがっかりさせられることの方が圧倒的に多いのが実状です。 個人が運営しているホームページの場合も、なかには運営者の目的・意図がよく分からず、創意工夫もあまりなく、情熱も伝わってこないものが少なからずあります。検索エンジンを使ってキーワードで調べてこんなお粗末ホームページに入り込んでしまったときは、紳士の私(?)でも「××××!」と放送禁止用語を思わず口走ってしまいます。 このようなお粗末な個人運営のホームページは、おそらくは日曜大工感覚でチャレンジしてみたけれど、いざ完成したみたら、そこにほとんどなにも入れるものがなかったのかもしれませんね。でも、よく考えてみましたら、人に伝えたいこと、人が見て面白いもの、価値のあるものなんて、普通の個人がそうめったに持っているわけがないですね。 私もそうなんです。最近、なにかを表現したい、ひと様に伝えたいという情熱がすっかり萎えきっていましたから、心の内部から自らのホームページを作って自己表現したいと思っていたわけではありません。ただ、周囲の友人・知人たちのなかにもホームページを持つ人が増えてきました。とりわけ、パソコン通信なんかと無縁だと思っていたような人が、その名刺にURLを入れているのを見ると、鬼界島に一人取り残された俊寛僧都のような寂しさと悲哀を感じるようになってしまい、ってのはいささかオーバーな表現ですが、1999年も師走に入って西暦2000年が近づいてくると、1900年代になんとかホームページを作っておかなければと思うようになりました。 そんなわけで、時流に乗り遅れまいと「ひともすなるホオムペイジをわれもしてみむとてするなり」とホームページ作りを12月に決意し、まずIBMの「ホームページビルダー」を買い込み、それからマニュアルと首っ引きでトンカントンカンと日曜大工感覚でホーム作りをはじめたのでありました。 ところが、予想されたことですが、しばらくして、作り始めたこのホームページになにを入れたらいいのか、はたと迷ってしまいました。ひと様にお見せするような怪しげな画像を蓄えているわけではありません。オンラインソフトを作る技術もありません。通信販売するお薬もありません。うーん、困ってしまいました。結局、あれこれ考えた末に、これまで「やまもも」のハンドルネームでパソコン通信のフォーラムにいろいろ書き込んできたもののなかから私なりに「厳選」(?)してホームページに設けた「創作・エッセイ」と「漢詩鑑賞」の部屋にコピーすることにしました。それに加えて、新たに宮部みゆきの作品に対する読書感想文を書いて、「読書感想」の部屋に入れました。私はいま宮部みゆきの作品に凝っているのです。 デザイン作りにはセンスも経験も全くなく、ホームページのフォームや色、素材などを決めるのに四苦八苦し、そのために多大の時間と労力を要しましたが、なんとか12月末にそれを完成させ、プロバイダーに無事登録することもできました。 不思議なものですね、泥縄式で作ったホームページで、体裁も内容も極めてお粗末で貧弱なものですが、苦労させられた子供ほど可愛いと申します、「やまももの部屋」と命名したこのホームページに非常な愛着を感じるようになってしまいました。「カリスマホームページ」を目指す野心はこれっぽっちもありませんが、日蔭の存在で終わらせるのも可哀相です。ホームページのアクセスカウンターがなんともわびしげです。なんだかトップページの上段にそれを晒しておくことが辛くなって、上段から最下段に移してしまいました。そんなアクセスカウンターを見ながら作ったのが、「わがサイト 自力で増やす カウンター」との川柳(?)です。なんともいえぬ寂寥感と哀愁が漂っており、川柳というより芭蕉の世界に通じるものがあるのではないでしょうか。 そんな上段、おっと冗談はさておき、せっかく作ったのですから、たまに訪れた人から「いふかひなくぞ破れたるホオムペイジを営みたりつるひとのこころも荒れたるなりけり」なんて言われたり、放送禁止用語を浴びせられたりしないよう、これから時間をかけて内容を充実させるとともに、HP宣伝のための広報活動にも精を出していきたいと考えています。 目次に戻る |
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