chocho0024さんの「伊敷線の思い出」 2006/08/01
実は,今日(8/1)は奇しくも私の61回目の誕生日であることから,自分の幼年の頃から大学卒業までほとんど毎日のようにお世話になった伊敷線の思い出を綴ってみたいと思います.
市電に係わる私の思い出の中で,印象深いものとしては,4,5歳の頃,市電に初めて導入されたボギー車(300番台)を見た時であり,警笛,空気式ブレーキ,長く,高い車体に驚いたものでした.その後,400番台の電車も導入され,いずれも,車体が改造されました.また,小学校3,4年の頃,新造車で導入された501,502および503番の電車も忘れがたいものです.
先日,都電・荒川線での追突事故が話題になりましたが,私も乗っていた市電の追突事故を2回経験しました.新上橋電停を出た直後の伊敷行の電車が,鉄道のガード下に止まっていた省営(当時はこういってましたよね,今のJRです)バスの後部に追突しました.もうひとつは,高見橋から柿元寺(加治屋町)方向へ走っていた電車が,柿元寺電停で止まり切れずに,前の市電にみごとに追突してしまいました.いずれも単車であり,手動のブレーキであったため,うまく止まり切れなかったのでしょうか.ぶっつかる直前には,電気ブレーキ(といっていたようですが,コントローラーを断の位置からさらに回す)も掛けたため,追突直前に,前方へ飛ばされた記憶があります.
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ずいぶん昔,伊敷線は,新上橋電停から以遠は単線となり,新照院電停から先は国道3号線を離れ,城山側に寄った所にありました.また,終点の伊敷電停は旧練兵場,玉里自動車学校近辺にあったと思います(この自動車学校が,いまでもここにあればの話ですが).
新上橋の上り・下りの電停を過ぎたところで線路は単線となり,旧国鉄のガードをくぐって伸びていました.このガードは甲突川側のみにあり,城山側にガードが設けられたのは,後年となりますが,中学時代(1958年(S33)入学)には既にあったように思います.
新照院電停には,待避線が設けられており,伊敷行きの電車はこの待避線に入り,伊敷方面から来る電車を待ち,タブレットの交換を行っておりました.
旧草牟田電停には入れ替え線がありましたが,この入れ替え線は草牟田行き臨時便の入れ替え専用で,タブレットの交換はなかったように思います.
旧中草牟田電停は,当時,自宅からの最寄りの電停であり,周辺には歯科医院,薬局,米屋等がありました.自宅は,旧中草牟田電停より旧護国神社電停が距離的には近かったのですが,自宅付近から先は田んぼで,市電はこの田んぼの中の専用軌道を走っていました.このため,旧中草牟田電停を利用していたものと思います.従って,旧護国神社電停,終点伊敷電停についての記憶は殆どありません.
タブレットの交換を行っていた所が,新照院電停のみとすると,終点までは結構距離があり,運行上も随分と不便であるような気もします.もしかすると旧護国神社電停でタブレットの交換を行っていたかも知れませんね.
1952年(S27)の夏のある日,鴨池沖の舟でのキス釣りへ父親に連れられて行くことがありました.当日の朝,いつもの通り旧中草牟田電停で市電を待ちましたが,一向に来る様子がありませんでした.たまりかねた父親が通りかかった新聞配達の少年に市電が来ない事情を聞いたところ,今朝から市電は下(国道)を走っていると告げられ,慌てて,新線へ駆けて行きました.伊敷線全線が国道を走るようになったのは,小学校に入学したこの年(1952年(S27))と思ってきましたが,半世紀以上も前のことであり,断定出来るほどの自信はありません.
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幼稚園から大学時代は,加治屋町,朝日通り,高見橋,都通り,専売公社前,あるいは工学部前まで市電で通い続けました.1969年(S44)には,加治屋町へ転居しましたので,伊敷線を使わなくなり,さらに,2年後には県外に就職したため,伊敷線をはじめ,鹿児島市電への思い出はここまでとなります.伊敷線および上町線が廃止されたのは残念ですが,伊敷線は,今でも私の記憶の中で元気に走っています.
なお、鹿児島市電に関する唯一の古いコレクションとして,鹿児島市交通局の「創立30周年記念」のカードがありましたのでご紹介します.
chocho0024さんの「単車のあれこれ」 2006/08/08
ここで取り上げる単車とは,当然,オートバイのことではありません.路面電車は,この単車とボギー車に大別されます.単車では,4個の車輪(2本の車軸)が直接車体に取り付けられいるのに対し,ボギー車では,4個の車輪を持つ台車が,台車の中心にある車軸を介して車体に取り付けられています.
大学に入学した頃(1964年(S39)),加治屋町で伊敷線から西駅(現鹿児島中央駅)方向へ直接に乗り入れる便がありました.このため,乗り換えることなく工学部前まで行けて,随分,重宝したものです.この便には,単車が用いられていましたが,単車が走っているのを見た私の記憶はこれが最後です.単車はいつ頃まで現役で走っていたのでしょう.因みに,今の鹿児島市電は,全てボギー車であり,単車はありません.
単車には色々の種類がありました.一番記憶に残るのは,乗降口に扉がなく,扉の代わりに鎖が付いている電車です.このような電車では,客室と運転台との間にのみ扉があり,運転手および車掌の方々は,運転台で外気に直接さらされ,夏場,冬場は大変だったと思います.また,乗客が多い場合,客室,運転台に入れない乗客をステップに立たせたままで走ることもありました.小学生であった私もこのようにして乗車した経験があり,怖いというより,そのスリルにわくわくしたように覚えています.
単車のブレーキは手動であり,運転台の右側にある大きな真ちゅう製のハンドルで操作していました.このハンドルはよく使い込まれているためか,ピカピカといつも光っていました.ハンドルの根元と,このハンドルに繋がる軸の床部分には逆転防止装置が付いていました.床部分の逆転防止装置は,鉄製の爪であり,視認できるのですが,ハンドルの根元の逆転防止は,ここが膨らんでいること,また,運転手の操作からそのように推定しているだけです.停留所が近付くと,運転手はコントローラーのノッチを断の位置に戻して惰性走行とし,右足つま先で逆転防止の爪を軸に付いた歯車へ押さえつけるとともに,ブレーキハンドルを時計方向にグルグルと回し,最後には,ハンドルを時計の7時位に置き,そこから11~12時位まで力強く押すことを繰返してブレーキを締め,停車させていました.この最後の操作に,ハンドルの根元の逆転防止装置が効果を発揮していたようです.
発車に際しては,ブレーキを緩めるため,床部分の逆転防止の爪を外すのですが,この時,ハンドルは勢いよく逆転しました.乗降口に扉のある電車でも,運転室への入り口は鎖が渡されているだけあり,運転室へ近寄りすぎて,勢いよく回転しているハンドルに頭を叩かれた友人がいました.
ハンドルの握りの部分に,奥さんのお手製と思われる毛糸のカバーを付ける運転手もいました.冷たさを遮るためか,手の中にある握り部分の回転を滑らかにするのか,いずれかだったのでしょう.空気ブレーキに時代になってからもブレーキ・レバーへカバーを付ける運転手がおられました.
毎日,市電に乗っていましたので,親しく話掛けられる運転手さんもでき,ブレーキの仕組みを聞いたことがありました.その時,「床下で,チェーンを巻き取ってブレーキを掛けている」と聞いたのですが,実際,床下を覗くこともなく,実物を目にしたことはありませんでした.50代中頃以降,勤めていた会社が2度の合併を繰り返し,その度に,姫路,横浜での単身赴任生活を経験しました.横浜に赴任中,かって横浜市内を走っていた電車を展示する横浜市電保存館へ行ったことがありました.種々の電車が展示されている中に,貨物運搬用に用いたという珍しい単車もありました.何気なくこの電車の床下を覗いたところ,チェーンを巻き取る仕掛けを見出し,昔,運転手さんに聞いた話を約50年振りに我が目で確認でき,感激したものです.そのとき撮影した写真を添付しました.
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手動ブレーキ(写真奥)
現役時代は,真ちゅう製のハンドル
はピカピカに輝いていたと思います |
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手動ブレーキ床下部分
巻き取られた油にまみれのチェーンが見えます |
しゅうさんの「市電の思い出」 2006年8月25日
掲示板に市電の写真についての話題が投稿された。
なんだか久しぶりに懐かしくなって、古いアルバムをめくってみた。
市電の上町線と伊敷線が廃止になったのは、1985年の9月30日。
私が中学1年の時だった。
私にとっての市電は、伊敷線だった。
幼稚園時代。私の住まいは薩摩団地だった。
母は車の免許を持っていなかったから、買い物に行くのは、専ら徒歩か電車、バスだった。
団地には、そもそもバスは通っていなかったから、急な坂道をおりて、住宅中通のバス停から5番線を使うこともあったが、本数はそれほど多くなく、たいてい山崎川沿いの歩道を歩いて、国立病院(現在の県民総合保険センター)の横に出て、「国立病院前」電停から電車に乗った。
母に手を引かれて、電停までは30分以上の道のり。夏の暑い日はたいへんだったけれど、電車に乗れる「ワクワク」感も手伝って、いつもあっという間に着いたように思う。
それは今でもいい思い出だ。
伊敷線の電車はよく揺れた。
玉江橋から護国神社までの区間(ちょうど今の伊敷中前バス停付近)は、いちばんひどかった。
吊り革がゆらゆら揺れて、というより、ブランブラン揺れて、壁だったか天井だったか、ぶつかって「バチッ」と音もした。
冷房電車などまだない時代。
夏は窓を開けて走るのが当たり前だけど、涼しいのは走っている間だけ。
横を走るトラックの容赦ない排ガスと、巻き上がる桜島の降灰で、それはそれは大変だった。
灰のひどい日は、窓も開けられなかった。
天文館で帰りの電車を待つ時も、3番線伊敷町行きはいつも「待ちぼうけ」だった。
1番線が行って、2番線が行って、もう一度1番線が行ってから、ようやくやってくるのが3番線。
また、国立病院前で降りて、だいわや、フードセンターで買い物をして、コーヒー牛乳を飲んでから、また、川沿いの道を歩いた。
日当平の父の実家に寄って、父の車で坂の上の団地の我が家に帰るものだった。
なんだか、遠い昔のようだけど、今から30年ぐらい前。4〜5歳くらいの記憶だ。
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この文章は、しゅうさんご自身が運営しておられるブログ「バス好きしゅうの日常」にアップされたものを転載させてもらいました。 |
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