#209 『山を恋ふ』
最初に山らしき山に登ったのはいつか、思い出そうとしたのだが今ではあいまいとしている。私は茨城で生まれたので、初めての山のイメージはおそらく筑波山であろうと想像する。そのころは富士山を見てみたいという気持ちはなく、東海道線の車窓から実際に富士を見たのはずっとあとのことである。筑波山には子供の頃にケーブルカーで登ったのであろう。私の父は私と弟を海水浴につれて行ってくれたし、あるときは父の趣味であった魚釣りにつれていってくれた。茨城の海岸からは筑波山は見えないので、川べりや湖畔から見たのだろう。父母は生活に懸命で、わざわざ運動としての山登りに行くというようなことは考えもしなかった。中学生になっても私は柔道に精をだしていたし、高校時代は野球をしていて、スポーツの対象として山を見ていなかった。それでも高校の遠足で筑波山に登ったことがある。裏筑波のハイキングコースを歩いたのだが、登り道をつらいと思うだけで楽しくはなかった。のちに奥久慈の男体山あたりの山塊を眺めたときには、茨城にもこのような魅力的な山が身近にあるのだという感動を覚えたほど、山に対して奥手であった。
それではいつのころから山を恋ふるようになったのか。大学時代には山に魅せられていて、キスリングをかついであの山この山と彷徨していたから、大学の1年生の頃であろうと思う。入学試験などから開放されて、そして始めたのが山登りということであろうが、いつのまにか山の女神に誘惑されていたというのが正直なところ。夏休みにオートバイで旅に出た。北海道をめざして東北を行き、津軽海峡をフェリーで渡った。このときは山の女神は私に微笑んでいなかったようで、私は山に興味はなかった。しかし函館から大沼に行き、湖畔で数日野営したときに、駒ケ岳登ってみた。どうしてこの山に登ろうとしたのか、今では忘れてしまった。このとき女神はちらりと私を見たのに違いない。その後、支笏湖を通ったときには樽前山に登ろうとしている。しかし登山口から苔ノ洞門を過ぎてしばらく歩いたが、いまでは忘れてしまったが、なんらかの理由で引き返している。雨が降りだしたのか、あるいは熊注意の看板に恐れをなしたのかもしれない。
山の女神にしっかりと抱擁されたのは、そして山を恋するようになったのは、朝日連峰を一人で縦走したときであろう。テントをつめこんだ、飯盒と米と魚の缶詰の入った布製キスリングは重かったが、山に行ける喜びと未知の山への不安感をいだいて山形の左沢線の羽前高松から三山線に乗り継ぎ、間沢駅に降り立った。当時は立派な道標などなく、大井沢から地形図の破線を見ながら歩いていったが途中で道を見失った。さんざん歩いて疲れ果てて引き返し、河原で野宿した。地図の見方を間違えて、登山口を見つけられなかったのである。翌朝はあっけなく登山口が見つかった。山に慣れていないために1日無駄にしたが、そのときは食料の許す限り時間は無限にあるという、今思えば贅沢な時代であったので、日を無駄にしたということは全く気にならなかった。天狗角取山から寒江山、竜門山、大朝日岳、平岩山と縦走して小国まで歩いた。大朝日小屋以外は無人の山小屋に泊まり、途中で雨になって小屋に沈殿したりして、7泊8日の山旅であった。ずいぶんのんびり歩いたものである。それだけじゅうぶんに山を味わいつくしたことになる。
それからはいろいろな山に登った。高山もあれば低山もある。富士にも登った。人の生活に密着している里山の風情に惹かれて、茨城の低山には何度も通った。パソコン通信を通して登山情報を交換することにより、山旅のバリエーションも増えていった。山の仲間からは植物や茸について教えてもらい、山頂に至るだけの山登りから道中を楽しむ山登りも知った。こうして山の女神もあきれるくらいの山好きになってしまったのだが、なぜ私は山に登るのだろうと考える。いくら考えても明確な答えはでてこないが、そのヒントになるようなことはいくらでも思いつく。
- 曇の間から日がさしてきた。
- 山は早春の緑に満ちている。
- この茸は食べられるんだよ。
- この清らかな水でワインの瓶を冷やそう。
- 一歩ごとに落ち葉が乾いた音をたてる。
- あのピークで昼飯にしよう。
- これはウサギの足跡だ。
- こんにちは、これは蒟蒻の畑ですか。
- 雪で白くなった日光連山が見えるねえ。
- あの鞍部まで一気に滑っていこう。
山の風は芳しいし、山に吹く風には色があると思う。そんな山の風に吹かれていたいと思うので山に行く。これが「なぜ人は山に登るのか」という問いへの今日の答えである。しかし明日には別の答えになる。山の女神はそれほど千変万化して私を魅惑する。
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