

谷川岳の一ノ倉沢を登った犬を紹介しましょう。これは遠藤甲太『登山史の森へ』(平凡社)という本にある話です。
1970年頃、上越線土合駅前にクマとシロという二頭の犬がいました。ともに山が大好きで、趣味は登山者と一緒に谷川岳に登ること。夏ばかりでなく、冬でも長谷川恒男らのパーティーに尾(つ)いていきました。クマは先頭でラッセルしてくれるので有り難いのですが、シロは足許にじゃれつくだけで、なんの役にも立たない。一ノ倉沢に入り、急峻なテールリッジに取りつくあたりで、自分の登攀能力を識るクマはさっさと引き返してゆくのですが、シロはどこまでもくっついてくるのです。犬には無理な岩場なので、心ならずも邪険に追い払うのですが、せつない眼をして尾を振るばかり。長谷川は雪塊をぶつけたりして、やっと踵を返させたというのです。こんなお荷物を背負って登攀するわけにはゆかない。
ところが、それをやっちゃった人がいたんです。71年3月、大浜健次と鈴木昭秀は、初めての本谷を詰めていくと、シロも尾いてくる。二人がザイルを着けて登攀を始めても、シロは懸命に岩と氷を引っ掻いて追ってくる。一度ならず墜落したが、それでもついに4ピッチまで登って来てしまった。
「七十度雪壁を懸命にトラバースしていたワン公は足を滑らし、たまりかねて落下していった。思わず息をのみアンザイレンしてやらなかったことを悔む。でもあわや二ノ沢本谷に直行かと思われたが、辛くもブッシュにひっかかり一命を拾う。これで決まった!ワン公お前の生命は俺たちが預かる。どんなことがあっても頂上まで連れていくよ。(大浜健次遺作集『わが青春の山行日記』より)」
シロの尻を押し、引っ張り上げ、最後の難関ドーム壁ではザックに詰め込み、二晩のビヴァークに耐えた彼らは、ついに登攀を了えたのでした。犬の積雪期一ノ倉沢の初登頂でした。
大浜健次は傑出した登山家であり、山岳画家としても知られていましたが、86年8月、大型トレーラーの暴走に巻き込まれて、38歳にして非業の死を遂げてしまいました。シロも列車に轢かれて死んだそうです。両耳が半分垂れていて、いつも哀しい眼をしていた、山の犬でした。


