電網快快

2008年8月17日

更新:つん読記2008年/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

オリンピックの開催で、何かと中国が話題ですが、開会前は北京市内の様子など、あんなに盛んに報道されていたのに、試合が始まると、競技場しかテレビに映らなくなるのは、ちょっと不思議な気がします。 ここまで徹底的だと、市中ではテレビに映せない、良くないこと(反日活動とかテロへの厳戒態勢とか)が起こっているのではないかと勘ぐってしまいます。 考え過ぎか(笑)

ともかく、中国の人たちのあの異常なまでの熱狂ぶり、というか一生懸命さは、よその国の人間の目には奇異に映ります。 政治体制がああで、共産党は国の形の維持のためにオリンピックを利用しているのだから仕方がないんですが、逆に、そんなことまでしないと国が保てないとしたら、中国は今、相当危機的な状況なんだろうと、かえって危うさを感じます。

中国の危うさと言えば、少し前から気になるのは、中国の人文科学の不毛です。 「発展途上国」と目された国が、欧米に追いつこうと強引な近代化を進めるとき、かならず起こることだろうし、日本にもそれは起こっていると思うのですが、科学技術の進歩ばかりが重視されて、人文科学は置いて行かれてしまうようです。

先日も、中国の同業者と仕事の上でのやりとりをしたとき、意見が合わなくて困ったことがありました。 彼は、世の中にはたったひとつの真理があり、いつか人間はそれに到達できる、と考えていたのです。

いつの時代の人だろう、とあっけにとられました。 彼がもし、世界の人文科学の積み上げを、流れを、ちゃんと把握していれば、こんな発言は出ないはず。 少なくとも、この分野の専門家ですと国際的な場面で胸を張る人間の普通の教養としては、言うはずのないことです。 これは、文化の違いではないと思う。 だってこんなのは中国の思想とも違う。 とても中途半端に「近代化」が起きているようです。

これも、政治体制を考えると仕方がないことではあるのです。 共産党の一党支配を固持するためには、多面的な物の見方を許容してはいけないし、「正しい」答えは常にひとつでなければなりません。 だから、世の中には「真理」が存在しなくてはなりません。 だけど、それだと人文科学は硬直化して育たないでしょう。 つまり、いくら科学技術は進歩しても、いつまでたっても精神文化の成熟は望めないようと思います(そして、人びとは拝金主義に走るわけですが)。 精神的に稚拙な国が、世界の大国になれるのでしょうか。なっちゃうのかもしれませんが、なれるのだとしたら、なんというか、正直言って、なんだかやですね。

もっとも、人文科学の軽視という点では、日本もちょっとなーというところがあるので、人の国のことは言えませんね。

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2008年8月10日

更新:道楽日記2008年/『愛と死のアラビア/Red Hot Sea』

もともとスポーツに興味がない上に、オリンピックという「思想」が(うさんくさくて)好きじゃないので、全然見ません。 何が嫌いかって、勝手に(かなり無理矢理)金メダルだなんだと期待しておいて、金が取れなかった時にみんなでがっかりする風潮が嫌いです。 谷選手だって、銅メダルだからと、報道ではそれがあたかも失敗のように書きたてられているようですが、世界で3位ですよー?  十分じゃないですか。ねえ? オリンピックのこういうところが嫌いです。

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2008年8月3日

更新:おやすみ

今、夏休み中で・・・何にもせずにのんびり過ごしてます。なので、ここも、ちょっとおやすみします。

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2008年7月27日

更新:つん読記2008年/『日本を降りる若者たち』

今年は自治会の役員をやっているので、地域の夏祭りに参加しました。 で、予想はしていたのですが、なんかやっぱり、最低の経験でした。 地域社会に参加するのは社会人としての勤めだとは思っているけれど、いろいろと難しい面があるとつくづく思います。

私の住んでいるところは、元々は農村でしたが、今は、住宅地です。 住宅地に変わり始めたのは、戦後しばらくしてからのようで、その後も断続的に開発が進み、今は、おそらく人口構成的には大半がよそ者だろうと思われます。

ところが、自治会を取り仕切っているのは、古くからここに住んでいるご老人方です。 悪い人たちではないようですが、この人たちは、どうも、後からやってきた都内通勤人たちの生活を理解できないようです。 何かの集まりのときに、「家はここにあるけれど、都内などに通勤している人は、ここに住んでいる人ではない」とまで発言したことがありました。 そんなこといっても、今この地域に住んでいる人の大半はそんな人なんだけど、じゃあ、この地域は「住んでない人」が住んでる町ってことになっちゃうよー? と思ってしまいました。 現実の認識ができていないんですよね。 そのためか、無駄な労力や時間をかけることを何とも思わないような運営をしているので、困ります。 一日中家の近辺にいて、町内だけをうろついている人はそれでいいでしょうが、家にいる時間が限られている人間には、回覧板回すのだって一苦労なんですから。

そういう人が運営をやっているわけですから、なんだか理不尽なことが多くて、あんまり民主的じゃありません。 特に村の鎮守のお祭り(?)なんかは、昔から住んでいる人たちのものという側面が強いですから、自治会役員だからと言う理由でかり出されても、なんだかしらけるし、疎外感ばかりを感じます。 貴重な休日なのに、何時にどこそこに集合という指令が来て、行ってみるまで何をやんなきゃいけないかわからなくて、行ったら行ったで、「あれをやれ」「これをやれ」と全体像が分からないまま部分的な仕事を命令されて、何時までやるのか、本当に必要な仕事なのか、目算も立てられないまま付き合わされた挙げ句、ねぎらいの言葉もない。 私は山車を引っ張る子供達を世話する係を仰せつかったのですが、最終目的地の神社に着いても、お祭りだというのにビール一杯ふるまわれない。 休憩するのに、腰掛ける場所もない。 私はまだ若いからいいけれど、私といっしょに仕事をした老婦人は、炎天下何時間も歩かされたので足ががくがくしているのに、休む場所もなくて、気の毒でした。 なのに、幹事さんたち(地元の名士?)は、テントの下で「大成功」と自画自賛して酒盛りです。 なんだかなあというお祭りでした。 こんなんだったら、いっそお祭りなんて、昔からの氏子さんたちでやってもらって、自治会とは別にしてほしいんですけどねえ。 これじゃ、新しく入って来た人が、自治会に入るわけないと思います。

また、参加するよそ者側の問題として、別の難しさを感じました。 というのは、お祭り当日、顔しか知らないようなおじさんに、「今度引っ越ししちゃうんだって?」と話しかけられたのです。 それは、本当のことだし、その人は同じ地域に住む人間として、親しみを込めて話しかけてくれたのでしょうが、私にすれば、そんな個人的なことをなぜ知っているのかと、正直言って、ただひたすら気持ちが悪いだけでした。 そういえば、われわれは、こんな人間関係を煩わしく感じて、都会暮らしを始め、人と断絶して生きるようになったのです。 だから、地域に参加するというのは、あの世界にまた戻るということなのです。 それは、やっぱり苦痛です。

地域への参加は、今の時代はひたすら「良いこと」として奨励されています。 そうでないと社会としていろいろ不便だということがわかってきたからです。 だけど、それはやっぱりそう簡単なものではないし、自治会の運営の面でも、個人の側でも、考えないといけない問題はたくさんあるということのようです。

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