『海外ミステリを読む』(16)
<ロサンゼルスの探偵達>(その2)
ロス・マクドナルド編(8)
「ギャルトン事件」1959年(日本語版初版1960年)
(中田耕治訳。ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
[概略]
私立探偵リュウ・アーチャーは、ギャルトン家の弁護士、ゴードン・セ
イブルに呼出された。カリフォーニアの古風な住宅地アロヨ・パークに
あるギャルトン家は長い歴史を持つ名家で、その富は途方もないもの
だと噂されていた。アーチャーを雇ったのは、未亡人のマリア・ギャル
トン、夫の死後、ただ一人で一家を切盛りしていた気丈な女性だが、
今は年衰え、長い病床生活を送っていた。彼女の依頼というのは、2
0年前にまだ22才の若さで家出し、そのまま行方不明になっている
一人息子、アンサニイ・ギャルトンを探し出すことだった。
アンサニイの家出の原因は、彼が家柄におよそ不釣合いな女と結婚
したのを、母親が許そうとしなかったからだ。しかし、それも明日を知れ
ぬ病いの身となれば、怒りも憎しみも水と流し、一目会いたかったのだ。
一方、アーチャーにとってはまるで雲を掴むような話だった。20年前の
話となれば、アンサニイの生命の安否さえ分らないのだ。そして、調査
を始めた矢先、弁護士セイブルの家の下男カリガンが殺されるという
不可解な事件が起き、ギャルトン家の周辺には暗雲が立ちこめ始めた。
人間悲劇の底にリュウ・アーチャーが遂に見出した愛と希望!正統ハ
ードボイルドの第一人者、ロス・マクドナルドが、生きることの不安と希
望を描く感動の傑作!
(同書・裏表紙より)
[ストーリー]
『ウェルズリイ・アンド・セイブル法律事務所はサンタ・テレサのメイン・ス
トリートにある貯蓄銀行の階上にあった。』
これがこの作品の冒頭です。サンタ・テレサはロス・マクドナルドが創作
した街ですが、彼が住んでいたサンタ・バーバラより更に北のサンタ・マ
リア辺りがモデルだと思います。今度の作品はここを出発点にして、ど
んどん北へ向い、ロサンゼルスは全く登場しません。
旧知の弁護士のセイブルの紹介で20年前に家出をした息子を探すこと
を大金持の未亡人に依頼されるアーチャーですが、その途中にセイブル
の家では下男のカリガンが何者かに刺殺されるという事件が発生し、セ
イブルはアーチャーをギャルトン家に一人残して家に飛んで帰ります。
アーチャーはその息子がスタンフォード大学(私立大学では東部のハー
バードと並び称される名門校)を中退したあと、サンフランシスコのスラム
街のアパートにいたことがあると聞き出します。
そのあと、セイブルの家に立寄り、殺されたカリガンの遺品を調べると、
別れた妻らしい女からの手紙と彼がサンフランシスコにいた形跡がある
品物が見つかります。アーチャーはセイブルから現金100ドルと小切手
200ドルを受取るとサンフランシスコへ向います。
こうして、今回の舞台はサンフランシスコになります。チャンドラーの作品
ではフィリップ・マーロウがサンフランシスコを歩き回るシーンはありませ
んでした。ロス・マクドナルドは長編8作目で初めてサンフランシスコを登
場させます。何故、サンフランシスコなのかも、この作品を解く一つの鍵
になっています。
『私は偶然の暗合というものを好まない。機上で、私はマリア・ギャルトン
の息子が失踪したことと、ピーター・カリガンが生命を奪われたことには
何か関係があるかも知れないと思って徒に時間を費やしていた。』
手がかりは作家志望だったアンサニイが残した同人雑誌でした。その雑
誌にジョン・ブラウンというペン・ネームで詩が載っていました。
アーチャーは空港に着くと、試しに電話帳を調べてみます。すると、求め
る名前は記載されていました。一人はカリガンの別れた妻。そして、もう
一人はアンサニイが残した同人雑誌の発行人のチャド・ボオリングです。
こうして、アーチャーは二つの事件を同時に調べて行きます。
この二つ
の事件は一つに繋がって行くのですが、その過程がこの小説の中心に
なります。
アンサニイはすでに殺されてしまっていましたが、彼によく似
た息子が見つかります。ジョン・ブラウン・ジュニアと名乗って、ガソリン・
スタンドで働きながら父を探している所だったのです。ジョンはミシンガン
大学を出て、今は俳優になりたいと思っているとアーチャーに語ります。
アーチャーはセイブルに連絡を取ります。やって来たセイブルは半信半
疑のまま、とにかく依頼人に会わせる為にジョンをギャルトン家に連れ
帰ります。
依頼人のマリア・ギャルトンは息子に生写しの孫をすっかり気に入り、
屋敷に住まわせます。孫の顔を見た彼女はすっかり元気になり、毎日、
一緒に外出できるまでに回復します。ですが、ここでハッピー・エンドに
はなりません。アーチャーはジョンが偽者ではないかと疑うのです。ジ
ョンの過去をたどると肝心の所で途絶えていたからでした。あまりに都
合よく過去が消えていたのです。それにジョンの父親が誰に殺されたの
か、カリガン殺しの犯人は誰なのか。アーチャーは調査を続けます。例
えばこんな点が怪しいというのです。
『「あのけがらわしいペテン師はカナダ人だよ。これを見たまえ」テーブル
の上の手紙を置いて指差した。「レイバー(labor)という言葉をlabourと綴
っている。これはカナダで行われている英国式のスペルだよ。あいつは
アメリカ人でもないんだ。偽者だよ」』
最後の3分の1はジョンが本物か偽者かという点に絞られます。その調
査の過程でジョンの本当の過去が浮び上がってくるという仕掛けです。
[深読みコーナー]
この作品程、ロス・マクドナルドが自らの過去を深く絡ませた作品はない
と思われます。例えばカナダとアメリカでのlaborという言葉の綴りの違い
は少年時代をカナダで暮したことのある彼の体験から出たものでしょう。
あるいはジョンをミシガン大学出身にしていますが、これは彼がミシガン
大学の大学院で勉強し、修士と博士号を獲得した思い出があるからだ
と思います。
それだけではありません。前作「運命」については「私は探
偵アーチャーに、軽度なパラノイアックなジャングルに住む、どちらかと云
えば世俗的なターザンという自己批判をやらせた。この小説は、消化する
のに数年を
費やしたチャンドラーの世界にかなり明白な訣別を告げ、そ
こから私自身を解き放ち、犯罪と人生の悲哀に対する私流のアプローチ
を確立した作品
だった。」(「主人公としての探偵と作家」より。小鷹信光
訳。HMM1
976年8月号)という程度に、比較的短くまとめているだけ
ですが、タ
ーニング・ポイントとなった言われるこの作品については、もっ
と詳しく書
いていますので、今回は少し長いですが、このコーナーは作者
自身に語らせて見たいと思います。
『1954年、私の人生に“地震”のような出来事が起った。そして、心の奥
底になかば閉じ込められていたカナダ時代ー少年期と青年期のすべての
ことが、海底から屍のように立ち上がり、私の目の前に立ちはだかった。
マーガレットと私はサンフランシスコのベイ地区に移り、そこで一年、私が
生まれたロスガトスからそれほど遠くない土地で過した。
その土地で私は、自分の人生の特異な形成を理解しようと、遅れてやって
きた激しさを増す苦痛に苛まれた。』
抽象的な表現なので、分りにくいと思います。小鷹信光氏編の年譜の同年
の記述ではこうなっています。
『この言い回しの中では大災害に匹敵する精神的な出来事と解さざるを得
ない。それが何を意味しているのかは明かではないが、脳の器質的障害
による精神症状が、本人かあるいは娘のリンダ(当時15才)に初めてあら
われ、転地加療を余儀なくされたのではないかと考えられる。』
ロス・マクドナルドはこのあとにこう続けています。
『人生の内面の形状は、もしその男が行動者であれば、彼の行動の軌跡に
あわせた曲線を描く。もし彼が作家であれば、何を素材に何を書いたかが、
その男の軌跡となる。だが、それは、彼自身の骨格と同じように極めて個人
的な秘められたものであり、同時に非常に複雑で、ほとんど変りようのない
ものである。私には自分の人生の形状を変えようもなかったので、それを出
来るだけ有効に利用しようと決めた。1957年の夏、マーガレットと私はサン
タ・バーバラに戻り、海を一望におさめる崖の上に立つ一軒家を借りた。
ここを選んでさらに良かった点は、イギリス人の詩人、ドナルド・デイヴィが
近くに住んでいたことだった。私達は仲良くなり、デイヴィが失った父親をテ
ーマにした叙事詩にとりかかっていることを知った。自分自身の過去の記憶
に一年間没頭したあと、私の心にも同じテーマが育ち始めていた。
このテーマはその年の秋から冬にかけてふくらんでいった。海を見晴らす書
斎に座った私は、崖に沿ってわずか数百メートル離れたところでデイヴィが
彼の叙事詩を書いていることをたえず意識していた。詩を書いている彼の存
在が、私自身の物語を紙に移しかえろと力づけてくれ、ついに私は自分では
突破口となったと考えている小説「ギャルトン事件」を書上げた。その突破口
は何を突き破って、どこへ向っていたのか?一つはカナダで過した少年時代
である。私は、父を殆ど覚えていない。母と私は、運の良い時には、母の母
親や姉に頼って生きていた。良い女性たちだった。だが、彼女達のピューリ
タンの家風の中で、私はまわりに取囲まれ、しかも
間違った場所に置かれ
ているような感じにとらわれ続けた。いうなれば私は、放浪癖のある父親の
息子であり、母方の女性の血縁者は私の額にあらわれた父性の呪いの印
に気づく由もなかったのだ。
カナダにおける長い少年時代を通じて私を支えてくれたものの一つは、私が
アメリカ市民として生を受けたという、母に教え込まれた知識だった。だが、
良きにつけ、悪しきにつけ、私の少年期は私をカナダ人のはしくれに育てあ
げもした。とうとう私は、すっきりした相関関係にある情緒的境界線と政治的
境界線のあたりで精神分裂をおこしてしまった。自我意識と帰属意識がとも
にねじれてしまったのだ。
「ギャルトン事件」はこのようなテーマの中に入り込んだ作品だった。勿論、赤
裸々な真実を語ってはいない。この小説は、私の実人生とどちらかと言えば
くすぶった私の情感とから自由に解き放たれ、虚構が真実のおそるべき、凝
縮した姿を呈示する、より清明な、秩序立った世界で新たな生を受けた。
ことがうまく運ぶと、虚構は伝説物語に向いがちな作家の人生のパターンの
中からくっきり浮び上がってくるものだ。しかし、このパターンは、時の流れを
遡行して川を上る産卵期の鮭のように、名前とか場所、会話の断片、古い感
情や力といった実人生のがらくた物によって混乱させられたり、本物らしさを
認知されたりもする。
「ギャルトン事件」の中心人物はジョン(私の父の名前)とのみ呼ばれる姓の
ない少年である。この架空のジョンがアナーバーに向い、ミシガン大学に入
学するあたりでは、彼は私の歩んだ道を辿り続ける。ジョンと私にはほかに
も共通点がある。私達は本来いるべきではない場所に置かれているという
感覚、たとえどこにいても、ある境界線の外にある異郷の側に立っていると
いう感じを共有していた。どちらも、遺産相続人探しに登場するあやしげな
候補者のような気がしていた。だが、書くに値する小説であればいかなる小
説も、作家の人生の姿にあわせ、それを肉づけする強固な、積極的な観点
を有している。創作は行動であり、情熱である。
「ギャルトン事件」を書き、その素材を深く追求して行く中で私は、この本の
読者にも伝わって欲しいと願った一種の高揚感を味わった。私にとって、自
分の最悪の日々における貧困と絶望感を容赦なく見つめたこの本は、間接
的に、アメリカ市民そしてアメリカ人作家としての私の相続権を宣言し、その
権利を保証するものだった。この時初めて私は、かけねなしのプロ作家とな
ったー自分の書く物語を、正真正銘の、彼自身のものにする力の限度内で
あらゆることをやってのけ得る作家という意味で。』
(Archer
at Large序文より。小鷹信光訳)
(年譜とこのロス・マクドナルドの文章はHMMの1983年11月号から転載
させて頂きました。この号はロス・マクドナルド追悼号とサブ
タイトルが付い
ています。)
かなり率直に自らを語った文章と言えると思います。日本の作家では有島武
郎が父方と母方の出身地や気性の違う二つのものが自分の中で一つになり、
混乱させられたと書いていたと思いますが、ロス・マクドナルドも放浪癖のある
父方と真面目な生き方の母方の血筋が彼の中で水と油のように分離した状
態で存在したことから悩みが生じたことが覗えます。それに加えて、多感な少
年期にカナダでアメリカ人として存在したことが彼に苦痛を与えたのではない
でしょうか。二つの血筋と二つの土地こそがケネス・ミラー(これが本名)から
ロス・マクドナルドを生出した原点だろうと思います。