『海外ミステリを読む』(14)
<ロサンゼルスの探偵達>(その2)
ロス・マクドナルド編(6)
「凶悪の浜」1956年(鷺村達也訳。創元推理文庫1959年)
[概略]
常夏の南カリフォルニア、ロサンゼルス郊外。太平洋の青い波に洗われ
マリブ海浜に背中から心臓を射ちぬかれた若い女の死体が発見された。
迷宮入りとして葬られたこの事件の2年後に、再び惨死体が漂着し、あ
い前後して別に二つの殺人事件が発生する。
非情の暴力と恐喝、精神異常者とハリウッドのプロデューサー、暗黒街
のボスとそれに踊らされる美男のボクサー。
(同書・見開きページより)
[ストーリー]
『チャネル・クラブは、マリブ浜の南端に向って海を見下ろす岩棚の上にあ
った。褐色の長い建物のうしろには、ふかぶかと絨緞を敷きつめた階段の
ような庭園が、ずっと上の公道まで層をなして続いている。庭園の外側に
は高い有刺鉄線の柵がめぐらされ、てっぺんには三つよりの棘が並んでい
る。そして、それを覆い隠すように夾竹桃の生垣が茂っている。』
これがこの作品の冒頭です。アーチャーはこのクラブの支配人に呼ばれ
て来た所です。マリブの高級リゾート・クラブについては海野弘さんが
「L
Aハードボイルド」(平成11年・グリーンアロー出版社)で、こう書いていま
す。
『マリブーは長いこと、大都市となり、周辺をのみ込もうとするロスの圧力
に抵抗し続けてきた。フレデリック・H・リンジという地主が、公道を通すこ
とを拒否していたのである。1929年にパシフィック・コースト・ハイウェイ
がやっと開通し、マリブーはいくらか開放され、金持の別荘地帯となる。
ここには「マリブー・コロニー」のような、まわりから厳重に隔離され、警備
された居住区がある。ここにはシャーリー・マックレーンが住んでいること
で知られる。その他、「マリブー・リヴィエラ」などのコロニーがある。海岸
の背後の丘は、さらに高級な住宅地となっていて、そこにバーバラ・ストレ
イサンドのラミレス・キャニオン・ロードのコロニーがある。ここにはマンシ
ョン、ゲスト・ハウス、スポーツ施設などがある。
マリブーにはこのように、コロニーやランチといった仕切られた特別地区
があり、「「凶悪の浜」に出てくるチャネル・クラブもそのような特権的なク
ラブのはしりだったろう。』
アーチャーがここの入口でガードマン(元プロ・ボクサーのトニー・トーレス)
にマネージャーのクラレンス・バセットに呼ばれて来たと話していると、突
然夾竹桃の茂みの中から若者(ジョージ・ウオール)が飛び出してきて、自
分はカナダのトロントから出てきたが、妻のことで聞きたいことあるのでバ
セットに会いたいと言いますが、拒否されます。
トロントはロス・マクドナルドが少年時代を過した街ですから詳しく知ってい
る筈です。ここは別にトロントである必要はないわけですが、作家にはこう
いう場合に全く行ったこともない未知の街を使うことに拘りを見せない人と、
たとえ名前を書くだけの土地にしても知っている土地でなければ落着かな
い気分になる人がいますが、ロス・マクドナルドは後者なのでしょう。
バセットと会い、話を聞くと、アーチャーに依頼したいのはジョージ・ウオー
ルを追払って欲しいということでした。彼はバセットが彼の妻の元水泳の飛
び込み選手のヘスター・キャンベルを横取りしたと誤解しているというので
す。二人が話し合っている所にウオールがやってきます。今度は三人の話
合いになり、アーチャーがウオールを助けて、妻を捜すことで双方が納得
します。
クラブを出ようとしたときに、映画のプロデューサーで、有力な会員であるサ
イモン・グラフとその妻のイソベルをプールで見かけます。
『グラフは仰向けにプールの水に浮いて入た。褐色の腹が、ガラパゴス亀の
背中のようにふくらんで、水面に出て入た。グラフ夫人の方は、服を着たま
ま日向にぽつんと座っていた。黒ずくめのドレス、黒い髪そして黒い眼が、
まわりの日差しを抹殺しているようだった。一見して彼女は、長くきびしい苦
しみを経てきたことを物語っていた。』
こうしてアーチャーは事件の渦中へと入って行くのですが、ヘスターが映画
女優志願で、恋人も俳優だったりして、今度のアーチャーは映画の世界に
関って行きます。海野弘さんは同書で「跳び込みの選手からスターの卵とい
うヘスター・キャンベルを書きながら、マクドナルドはエスター・ウィリアムズ
を思い浮べていたろう」と書いています。
ヘスターの父親はサイレント映画のスターだったという設定です。アーチャ
ーがヘスターの母親に会って、話しを聞く場面ではこういう会話が交され
ます。
『「娘は舞踏、水泳、飛び込み、それに勿論、演技のほうでも出演するんで
す。父親が、もうずっと昔ですけれども、俳優でしたのでね。レイモンド・キ
ャンベルという名前、お聞きになったと思いますわ。」
私は頷いた。サイレント時代の俳優で、トーキーになっても活躍しようとし
たが、寄る年波とテノールの声が災いして失敗し、消えていった男だ。し
かし、1920年代にはロング・ビーチの映画館という映画館が、ことごとく
彼の主演映画を上映していた時代もあった。実は私が警察畑に入ったの
も、彼の主演した「フェイト警部捕物帳」シリーズに影響されてのことだっ
た。そしてまた、ロング・ビーチの警察をやめたのも同じ「フェイト警部」の
古い記憶があったればこそなのだ。』
本筋には関係ないことですが、アーチャーの個人的な情報としては珍しい
ものです。ロス・マクドナルドはチャンドラーがフィリップ・マーロウのことを
詳しく書いたのとは違って、アーチャーのことは詳しく書かないようにして
いるからです。
この他の登場人物はヘスター・キャンベルの姉のリーナ・キャンベル、トニ
ーの娘で殺害されたガブリエル・トーレス、トニーの甥のレーンス・レナード、
映画会社の保安係のルロイ・フロストなどですが、事件そのものは「概略」
にある通りですので、これ以上詳しく書くと犯人が分ってしまいますので、
これくらいにして置きます。ただ、ここで映画会社の保安係について一言
触れたいと思います。
『ルロイ・フロストは、ヘリオ・グラフ合作プロの単なる私設警察の頭である
だけではなかった。ほかに、重大だが、つかみどころのない、さまざまな
役を務めていた。場所によっては、酔っぱらい運転の事故や麻薬輸送の
露見を警察沙汰にならないようにもみ消したり、離婚訴訟や強姦事件を
うまく泣き寝入りさせたりもするし、自殺を過失死に仮装してしまうような
手も心得ていた。』
つまり人気俳優のスキャンダルのもみ消しなどもするということです。そし
て、彼らの手に余る場合は私立探偵を使うのです。ミステリにもそんな点
にスポットをあてた作品も幾つかあります。今回、そういう作品を幾つか、
すべて文庫本でリストを挙げて置きましたので、興味のある方はこのHP
の中の「映画の世界を舞台にしたミステリ」と題したページをご覧下さい。
[深読みコーナー]
この作品は前回の秀作「犠牲者は誰だ」に続く作品ですが、前作を凌駕
しているとは言えない出来だと思います。世評も良くないようです。その
原因の大半はロス・マクドナルド自身の私生活にあるのではないかとい
う意見が多いようです。HMMの1983年11月号の「
ロス・マクドナルド
追悼特集」に小鷹信光氏編の年譜にはこんなことが書いてあります。
[1954年]
(39才)
7月に「犠牲者は誰だ」を出版し、評判も良かったが、この年の
末に私生活で大きな変化があり、サンタバーバラを離れて約1
年間、サンフランシスコのベイ地区で暮すことになる。脳の器
質的障害による精神症状が、本人かあるいは娘のリンダ(当
時15才)に初めてあらわれ、転地加療を余儀なくされたので
はないかと考えられる。
[1955年]
(40才)
前年の後半とこの年はほとんど創作活動を行っていない。それ
までに発表していた短編を集めて「わが名はアーチャー」と題し
て出版。
[1956年]
(41才)
6月に「凶悪の浜」を出版。この作品にはカナダ青年が登場し
カナダでの彼自身の少年から青年時代の記憶が随所に現れ
ている。
この年譜から察すれば創作活動を行うには悪い状況だったと考えられ
ます。実は前回には伏せておいたのですが、「犠牲者は誰だ」でも精神
に異常をきたしている人物が重大なポイントになる役柄で登場していた
のです。この作品でも冒頭の[概略]にもあるように「精神異常者」が登
場します。それでも前作の「犠牲者は誰だ」ではその人物と周りの人間
像を見事に作品の中に昇華させていた気がしました。だが、この作品で
は彼にそこまでの余裕がなかったのではないか。それが作品の出来に
も響いているような気がしてなりません。