『海外ミステリを読む』(10)
<ロサンゼルスの探偵達>(その2)
ロス・マクドナルド編(2)
「魔のプール」(井上一夫訳。創元推理文庫)
[概略]
自分の不倫をあばいた手紙の主を調査してくれと、リュー・アーチャーに
依頼に来た女は、まるで敵地に乗り込むような奇妙な態度だった。女丈
夫の姑と変り者の夫、反抗期の娘。姑の死と屋敷の石油採掘権を狙う石
油ボス。脅迫と殺人、誘拐と拷問・・・恐るべき組織の悪に単身立ちむかっ
たアーチャーだが、事件の結末は意外な方向に動く・・・
(同書より)
[ストーリー]
『顔を見なければその女は30前に見えた。女としてはきびきびした身のこな
しで、からだもしまっている。』
これがこの作品の冒頭です。依頼人がアーチャーの事務所に現れた場面
です。名前はモード・スロカム。35才で1
児の母。
「目のまわりに心配の色
が浮かび、口元に苦悩の筋が出ていて」、
「若い女の目というより、年相応
の経験を積んだ女の目だった。35ぐらいだろうが、まだ捨てたものではない」
女性です。
夫宛に妻が不倫をしているという匿名の手紙が来たので、差出人を見つけ
て欲しいという依頼でした。
『「あなたは、いつもご主人宛の手紙を読むのですか?」
「ええ、読みますわ。私達、お互いに手紙は隠したりしませんわ。アーチャー
さん、こんな反対尋問みたいなことをされるとは思いがけなかったわ」
「もう一つだけ。手紙の内容は事実なんですか?」
肌のきれいな顔に、すっと血が上って、目がぎらぎら光った。
「その質問には答えられませんわ」』
手紙の消印はサンタ・モニカから車で北へ一時間ばかり行ったクイントという、
人口2万5千の海沿いの町になっています。これは架空の町で、距離的には
ヴェンチュラあたりになります。依頼人が住むのはクイントから2,3マイル離
れた所にある、高級住宅地ノーパル・ヴァレイです。夫のジェイムズは「クイン
ト劇団という、セミ・プロ劇団のかなり熱心な一員」です。つまり働く必要のな
い、結構な身分ということです。
依頼人はその中傷の手紙と200ドルを置いて帰って行きます。アーチャーは
他には仕事がないらしく、その日の午後には早速仕事にかかります。まず、
クイントへ行き、モテルに車を乗り入れ宿泊の申し込みをしながら情報を仕入
れます。それによるとノーパル・ヴァレイは石油が見つかり、掘出されるように
なってからは「めちゃ、めちゃですよ。完全に荒果ててしまいましたね。どこか
らともなく貧乏人やメキシコ人、汚らしい油井人夫なんかが大群をなして集っ
て来て、町は汚れるばかりですわ。ここがあんなことになってはかないません
よ」という状況のようです。
そのあと、アーチャーはクイント劇団が芝居の稽古をしている劇場に行きます。
劇場の外には主演のジェイムズ・スロカム氏の写真が張ってあり、それによる
と「40に手の届きそうな男で青白い秀でた額に明るい色の髪が波打って垂れ
かかっていた。目は大きく悲しみを湛え、口は小さく締って神経質そうだった」。
そして、彼に対するアーチャーの評価は「この写真が信用できるものとすれば、
ジェイムズ・スロカム氏は女たちの憧れそうな顔をしているわけだ。もっとも、
私の好みに合う顔ではなかった」というものです。
写真を見終わったアーチャーは一台の車が劇場の前に止り、中から若い男が
降りて来るのを見つけます。
『長い足をぴったりした色褪せたズボンに包み、花模様のアロハシャツの肩は
たくましく盛り上がっている。ズボンとシャツが被っている黒い運転手のお仕
着せの帽子と似合わなかった。(中略)
これまた、女の子にもてる顔だ。カリフォルニアの避暑地にはごろごろしている
タイプだ。』
この若者がこの物語の重要な鍵を握る、スロカム家の運転手のパット・リーヴ
ィスです。アーチャーはパット・リーヴィスの後をついて劇場に入り、客席で舞
台稽古を見ます。客席には一組のカップルがいて、何事か揉め始めます。男
はパットで、相手の女性はスロカム家の一人娘のキャシー(16才)です。
『早熟なタイプの体つきなのだった。母親似で大きな深みのある目をしている
し、スタイルはもっとよかった。運転手が彼女に熱をあげるのは無理はない
と思った』
父親の稽古を見ている所にパットが近づいて口説いている様子です。どうや
ら彼女はそれを嫌がっているようでした。最初は小声だったのが、次第に大
声になり、最後は怒鳴り合いになります。場内の灯りが付き、舞台の上にい
た全員が走って来ます。
キャシーの父親は怒って、パットを解雇します。アーチャーはその場面まで見
届けて、こっそりと抜出します。そのあと、依頼人に電話して家族に接触しな
いと犯人は見つけられないと告げます。すると、モードは今夜、家で劇団の
仲間が集るカクテル・パーテイがあるから、友人でワーナーのスタジオで秘
書をしているミルドレッド・フレミングの知合いのエイジェントということにして
来てくださいと言出します。このミルドレッド・フレミングはモードの大学時代
の友人で、彼女の過去を知る重要な人物です。
夕方、アーチャーはスロカム家を訪問して、改めて娘のキャシー、
夫のジェ
イムズ、脚本家のフランシス・マーヴェルに紹介して貰い
ます。一家の長で
あるオリヴィア・スロカムにも紹介をとアーチャ
ーはモードに求めます。
『「分らないわ。何故ですの?」
「ちょうど写真みたいに、家族全体の姿をつかみたいんですが、まんなかに
来るのはその方でしょう?」』
「どうしてもというのなら、母にご紹介しますわ」とモードはアー
チャーを庭へ
連れて行きます。オリヴィアは花壇の手入れをしてい
る所でした。
『オリヴィア・スロカムは腰を伸ばすと、泥だらけの手袋を脱ぎながらこっちへ
やって来た。穏かでかすかな陽焼け痕のあるいい顔立ちをしていたし、思っ
たよりずっと若かった。私は70近いやせた気むずかしい婆さんで、節くれだ
った手で一家の生活の手綱を握って離さない人物を心に描いていたのだが、
彼女はどう見ても55は越えてないし、年よりも老けてもいなかった。スロカム
家の3代の女は年がそれぞれちょっと近すぎるのでうまくゆかないのだ。』
モードはアーチャーを紹介すると母屋に戻って行き、二人だけの話し合いに
なり、アーチャーがなにげなく、このような静かな土地で暮したいと言うと、オ
リヴィアは表情を変えました。
『「このような土地ですって?」彼女は警戒するように言って、その緑色の目は
おうむの目のように表情をかたくした。彼女の反応に私はびっくりしたが、空
っとぼけて話を続けた。
「余生を送りたいと思うようなと土地はまだ見つかりませんのでね」
「そうか。モードがあんたをよこしたのね」彼女の声は耳ざわりな敵意のある
調子になってきた。
「もしあんたが、パレコの代理で来た人なら、すぐにこの土地から出て行って
もらいますよ」
「パレコ?」これはガソリンの名前だった。私とパレコ・ガソリンとのお付合いは、
時々そのガソリンを私の車に使う位のものである。私は彼女にそう話した。
彼女は私の顔を、しげしげと見つめていたが、わたしが嘘をついてないのが分
ったらしい。
「太平洋精油会社は私の土地を乗っとろうとするんでね。何年にもわたって私
に手をかえ品をかえ、せっついて来たので、私もつい初対面の人にはちょっと
警戒してしまうようになってしまったんですよ。とくに、土地が欲しいなんて言わ
れたら尚更ですよ」
「私の興味は、全く個人的な好みにすぎませんよ」
「悪気があったわけではないけど、ごめんなさいよ。ここ4、5年いろいろなこと
で、私もだいぶひどい目にあいましたからね。この谷が私は大好きなんでよ。
30年以上も昔のことですが、主人と二人でここを始めて見た時、まるでこの世
の天国のようでしたね。(中略)夫はここに埋葬してあるんです。私もここで死
にたいと思っています。感傷的すぎる話かしら?」』
更に彼女の話は続きます。
『あの連中は町をめちゃめちゃにして、この谷のほかの所はどこもかしこも掘り
散らしてしまったけど、この高台にだけは手をつけさせませんよ。駄目だといっ
てもあの連中にはこたえないようですが、私はそう言ってやりましたよ。』
彼女と別れて、母屋に戻りかけた時、一台の車が到着し、男が降りて来ます。
『背が高く肥っているが、思いがけないほどの敏捷さと静かな身のこなしが出
来る筋肉質の男だった。普通のズボンにスポーツコートで、開衿の絹のシャ
ツを着ていたが、警官や退役軍人の持つ制服の権威を身につけている。凹
んだ目、ごつい鼻、大きな口、長いあご、男性の情熱というものを画に描いた
ような顔だった。』
「いい天気ですね」とアーチャーが言い、男が「そうですな」と答えただけで、ま
ず男がモードに挨拶して家のなかに入ります。そのあと、アーチャーは今の男
は誰なのだと尋ねます。するとモードは夫の友達だと答えます。それに対して
アーチャーはこう言います。
『「ご主人には警官の友達が大勢いるんですか?そういうタイプには見えなか
ったが」
「ラルフ・クナドスンを知っているの?」驚いたおかげで彼女の顔はますます
不機嫌そうに見えた。
「警官のタイプはさんざん見てきてますからね。山の中の芸術家のパーテイ
で、ごつい警官が何をするんです?』
ラルフ・クナドスンはクイントの警察署の署長で、モードの友人としてスロカム
家に出入りしているようです。これで主な登場人物は揃ったことになります。
このほかにはパットの姉のシュナイダー、彼の女のグレッチェン、それにスロ
カム家の土地を狙っている実業家のウオルター・キルボーンと妻のメイビス、
それに「水治療法」と称する怪しげな治療をする医学博士のメリオテスが脇
役として犯罪に荷担して行くわけです。
アーチャーがスロカム家を去ろうとすると、家の外でパットが町まで乗せて行
ってくれと頼みます。アーチャーは彼を乗せて、クイントへ行き、一緒に酒場
で飲んでいると、警官がアーチャーを捜しに来ます。ラルフ・クナドスンが呼ん
でいるというのです。聞くとオリヴィアがプールに落ちて死んだということでし
た。最後にオリヴィアに会ったのがアーチャーなので事情を聞きたいそうです
と警官は答えます。
ここから殺人事件の捜査になるわけですが、第一容疑者のパットが殺され、
次にモードが自殺するという意外な方向に進展して行きます。
[深読みコーナー]
私にはこの作品はスロカム家の人々が登場する場面とキルボーン達が登場
する場面が噛合わないような気がして仕方がないのです。その理由として、
この作品の二重構造があるのではないかと思います。つまり、作者の最初の
構想にあとから付加えられた部分があるのではないかということです。
ロス・マクドナルドの第1稿はモードの人生を描くことに重点が置かれていた
ではないかと思うのです。モードの死後、友人だったミルドレッド・フレミングが
こう話してくれます。
ミルドレッドとモードがバークレイ大学の学生だった頃に住んでいたのがエリ
ノア・クナドスンの下宿で、そのエリノアの夫がラルフだったのです。
『モードとラルフは恋愛小説そのままの熱の上げようだった。男らしい男と女ら
しい女、それに男の妻は氷のように冷たくて賎しい女』
『モードは若い盛りを愛してもいない男と暮して、もうそれに耐えられなかった
のよ』
ストリキニーネを飲んで自殺したモードはこんな遺書を残しました。
『愛しい人へ
私が臆病なのは分っています。私には耐えられないこと、そんなことをし
ながら生きてはいられないようなことがあるのです。
でも、私の愛情は信じて。とにかく、この世には未練はありません』
この「愛しい人」というのはラルフです。彼女が何故自殺するほどの絶望を味
わったのかがこの作品でロス・マクドナルドが書きたかったことではないかと
私には思えるのです。これがこの事件のすべてなのです。
『悪漢もいなければ英雄的主人公もいない。ありふれたお話だ。賞められる
べき人間もいなければ、責めるべき人間もいない。みんなが自分のために
も人のためにも、へまばかりやっている。みんなが失敗をおかしている。み
んなが辛い目をみているのだ。』
この文章の前に、第1稿ではもっと二人の恋愛の部分があったのではない
かと思えてならないのです。ですが、それを読んだ出版社が「これではミステ
リではなく、恋愛小説ではありませんか。これは売れませんよ」というようなク
レイムをつけたのではないでしょうか。その時に槍玉に上げられたのはこん
な個所だったかもしれません。
「私は彼らの話に耳を澄ませていた。実存主義という言葉がよく出た。ヘンリ
ー・ミラー、トルーマン・カポーテ、ヘンリー・ムーア、アンドレ・ジード・・・・」
「余生をマルセル・プルーストみたいに、自室で送るんですってさ」
「モード・スロカムはベッドと鏡台の間に倒れていた。ヴァン・ゴッホがいちば
ん狂っていた時に描いた肖像のような色だった」
「自然なんて、多分コールリッジの詩のとおりなのね。心に美あらば自然にも
美を見る。心淋しければ、世界は荒廃。“憂愁によする賦”はお読みになっ
た?」
出版社の人間はこれらの文章を読上げて、「マクドナルドさん、あなたは何を
書いているつもりなのですか?これでは文学青年の習作ではないですか。
我々はあなたに人殺しの小説を、コールリッジなんて名前を聞いたこともない
犯罪者が出てくる小説を依頼しているのですよ」と言ったのではないでしょうか。
長編5作目の「犠牲者は誰だ」のポケミス版の解説にロス・マクドナルドが19
51年にミシガン大学からコールリッジに関する論文で博士号を与えられたと
書いてあります。もし、これが本当なら彼はコールリッジの研究とこの作品を
平行して進めていたことになります。
研究論文には時間的余裕と本代が必要なのです。その為に貯金を使い、収
入が必要だったので、この作品を書いたのかも知れません。だからマクドナ
ルドは腹を立てながらも、出版社側の要求通りに第2稿ではキルボーン達を
登場させたのではないでしょうか。
キルボーンの手下の自称医学博士の水槽にアーチャーを放り込んで溺れさ
せようとしたシーンを創りだし、オリヴィア・スロカムを死なせたプールと重ね
合わせ、さも意味ありげに、この作品の題名を
「THE DROWNING POO
L」としたのはマクドナルドの妥協の産物だったような気がします。
「ギャングもピストルも暴力も出てきたから、これで文句はねえだろう」と誰に
も聞えないようにぶつぶつ言っている作者の姿が私には浮んでくるようです。
本当かどうかは分りませんよ。あくまで私の個人的感想です。
コールリッジの作品は詩の抜粋版が岩波文庫にあります。
[アーチャーの過去]
モードに対して、こう言う場面があります。
「私も昨年妻と別れました。精神的にもずいぶん辛いものでした」
アーチャーと知人の奥さんとの会話。
「奥さんはネヴァダだったわね?奥さんと仲直りしに行くのね!」
「まさか。仕事で行くのさ」
「きっと奥さんを連れて帰ってくるわよ。待ってるわ」
「あれはいまさらどうにもならないさ。誰がどうしようと、一度ひびのいった仲
はもとには戻らないね」
[今月のお薦め本]
『戦後「翻訳」風雲録ー翻訳者が神々だった時代』
(宮田昇著・2000年3月初版・本の雑誌社)
普段、ミステリを読む時、訳者は黒子に過ぎません。この本ではそういう方
々が生身の人間として登場します。中にはイメージダウンになる方もいるよ
うです。
この小説の訳者である井上一夫さんを始め、我々が日頃読んでい
る作品の訳者がたくさん登場し、翻訳の世界も大変なのだなと教えてくれま
す。
著者はポケミス創刊時に早川書房にいた方なので、そのあたりの逸話もた
くさんあり、なかなか面白いです。