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『海外ミステリを読む』(27)

     <ロサンゼルスの探偵達>(その2)

       ロス・マクドナルド編(19)

       「ロス・マクドナルド論」  

           ロス・マクドナルドが死んだのは1983年ですから、今年で18年が
         過ぎたことになります。1949年に「動く標的」でリュウ・アーチャー
          が主人公の長編小説を発表して以来、最後の「ブルー・ハンマー」ま
         で18作を26年間書き続けました。その間、毀誉褒貶の評価が飛交
          いました。今回はロス・マクドナルド編の最後として、日本における、
          これまでの彼に対する評価を辿ってみたいと思います。

         その前に私自身の考えを述べておきますが、他人の作品を評価する
          際には対象への好き嫌いが大きな影響を与えるということを常に意
          識すべきだと私自身は思っています。好きであれば好意的な批評に
     なってしまうし、嫌いであれば貶めるような評価を下してしまうのです。
          これに職業つまりお金が絡み、義理人情が圧力を加えてきます。
          批評は出版という営利事業における商品つまり本の売行きに大きな
          影響力を持つからです。ですから、批評が歪んでくる恐れがあるわけ
          です。
          それを見破り、歪んだ見方の底に沈むものを見抜く眼力が要求され
          るわけです。テレビのクイズ番組で、物体を分解したり、拡大したり、
          歪めたりした映像を提示し、それが本当は何なのかをあてる番組が
          ありますが、あれも慣れてくると、結構、見えてくるそうです。
          作家論・作品論を読む場合も同じです。まず、最初に評者が対象の
          作家が好きかどうかを読む取ることから始めると理解が早いのです。
          次に、評者がその時に置かれている立場を読取るのです。出版者の
          提灯持ちの記事を書かなければいけない場合なのか、新聞社のお雇
     い評論家として大衆むけに書かなければいけない状況なのか、ある
     いは自称ミステリ評論家の立場で、背後関係を考えずに自由にものを
          言える状況なのか。その辺の判断がつけば、文章の背後に隠された
          様々な飾りを剥ぎ取り、正しい見方が出来るのです。皆、それぞれの
          状況に応じて書分けているのです。ですが、好き嫌いは隠せないもの
          です。その選分けの作業こそが批評を読む楽しさと言えるでしょう。連
          載中にも書きましだが、自伝を読む楽しさは作者の意図した嘘と意図
          せぬ嘘を見抜いたり、書いてあることよりも、書かなかったことの理由
          を探ることにあるのと同じです。

        まず最初に当時、ロス・マクドナルドに対する日本での一般的な評価
         はどのようなものだったかを読んでみたいと思います。それは彼の死
         亡記事から読めるのです。新聞というものは時の権力に追随すること
         によってしか存在し得ないのは今も昔も変りません。相手が軍部であ
         れ、民衆であれ、商業資本であれ、その原則が変ることはありません。
         新聞にとっての正義とは時の権力者の正義なのだということを忘れる
         と新聞にミスリードされることになります。

         以下に挙げる記事は朝日新聞の昭和58年7月13日号に掲載されて
         いたものです。見出しとして「文学の香り高い探偵小説の巨匠」と掲げ
         たあとに本文が続きます。

        『米探偵小説家、本名ケネス・ミラー。11日、脳機能を低下させるアル
        ゼイマー病のため、カリフォルニア州サンタバーバラの病院で死去。
         67才。1915年カリフォルニアに生まれ、44年の「暗いトンネル」を
         振出しに、76年まで私立探偵リュー・アーチャーを主人公にした20
         冊のシリーズ物をはじめ、24冊の探偵小説を発表した。
       探偵小説の中に心理的なテーマやカリフォルニアの社会などを織り
        込み、文芸評論家などから「探偵小説を文学に高めた」と評価された。
        ニューヨーク・タイムズ紙もリュー・アーチャー・シリーズを「米国人によ
        って書かれた最高の探偵小説シリーズ」と評したことがある。』

       死亡記事で気をつけなければいけないのは死者に対して礼を失する
        ことは書かないのが原則だということです。具体的に引用すれば物議
        をかもしだす恐れがありますので、架空の記事で説明しますと、阪神
    タイガースが余りに弱いのでチームを解散し、役に立たない選手達は
        鳴尾町内や浜甲子園団地や甲子園浜の駐車違反の防止の監視員
       にするという事件があったと仮定すれば「阪神タイガースは日本一にな
       ったこともある、日本を代表する球団だった」と書かれるであろうという
       ことです。「球団が貧乏で選手補強にお金を出さないくせに、監督の采
       配にはあれこれと口だけは出すので有名だった」などとは書かれない
       ということです。

      この死亡記事から読めることは、今では死後になりつつある「探偵小説」
      という言葉がまだこの当時は使われていたことが分ります。彼の病名も
     現在ではアルツハイマー病という表記を採用していますが、記事ではア
     ルゼイマー病となっています。外国語を日本語読みにする場合にも時の
     権力というか力関係が反映するものなのです。原語は変っていないのに
     日本語の読みや表記が変っただけなのです。例えば、昔はホアン・ミロと
      表記していたのに、今ではジョアン・ミロと表記するようになりましたが、ス
      ペイン語読みにすればホアンですが、英語読みではジョアンですから、今
      の美術界は英語圏が力を持っているのだなと分るわけです。そして日本
      のマスコミは「それが世界の常識」だからということで、その読み方と表記
      を採用しているわけです。流れには逆らわないのがマスコミのモットーで
      す。硬派の美術評論家がホワンと原稿に書いたのを編集部で勝手にジョ
    アンと直したのに文句を言ったら、以後原稿の依頼が来なくなったとか。
   そういう世界なのです。
   話が逸れてきましたので元に戻しますが、この記事に対応する意見とし
   て、こんな意見があります。

   『ぼくは日本の新聞社でロス・マクドナルドの位置について充分な価値判
    断の出来る人がいなかったと思うんですよ』

   これは1983年11月号のHMMの座談会のなかでの権田萬治氏の発
   言です。この号は「ロス・マクドナルド追悼」を特集にしていて、日本での
     ロス・マクドナルドの資料としては最上の資料といえるものです。

    この座談会は他に結城昌治、小鷹信光の両氏が加わっています。権田
     萬治氏のこの意見は私に言わせれば、新聞社ばかりではなく、当時ロ
     ス・マクドナルドに批判的な人達すべてに言えると思います。つまり、推
     理小説を単なる娯楽作品とみなし、暇つぶしや憂世の辛さを忘れるため
     に読むと言った人達から見れば、ロス・マクドナルドの作品は暗くて、読
  んでいて楽しめることが出来ないからです。密室での殺人もなければ超
  人的な探偵も出てこない。ベッド・シーンもない。あるのはいつも同じ父
  親捜しに、精神病の話の繰り返しですから面白くないというわけです。
  当時はこのような批評が多く見られました。探偵小説は娯楽作品だから
  面白くなくてはいけないという立場の人達が当時の主流派だったのです。

   この座談会では追悼号という枠の中ではありますが、ロス・マクドナルド
    に対する集約的な印象が語られています。例えば結城昌治氏はハメット、
    チャンドラー、ロス・マクの中ではロス・マクが優等生であり、面白さもつま
    らなさもそこにあると述べています。また、氏はこんな感想も述べています。

    『ぼくは、文学青年臭がもろに出てきちゃって、かなわなかった。文学青年
     なんてのは本来とっくに卒業して書いているはずなんだよ。』

   これは私も連載中に述べたように全く同感です。  

    日本で一番たくさん、ロス・マクドナルドを論じたのはこの座談会にも参加
    している小鷹信光氏であろうと思いますので、氏の論を中心にして読んで
    行きたいと思います。

    小鷹氏の批評が的を外さない理由の一つに彼が実際にミステリ小説を書
    いているので創作の辛さを身に沁みて思い知っている為だろうと私は考え
    ています。時に辛口の批評もありますが、批評のための批評ー自らの論
    理を追求することだけが目的で、作家はその道具にすぎないような批評で
    はない、むしろ愛情のこもった批評が氏の特徴といえるでしょう。
   余談ですが、氏の作品「探偵物語」「探偵物語U」は松田優作が主演した
    あの「探偵物語」の原作なのです。いまでは2冊共幻冬舎文庫に入ってい
    ますので簡単に手に入ります。おかげでハードカバー本の古書価が下落
    したと古本屋さんは嘆いています。

    それでは早速、氏のミステリ評論をまとめた「マイ・ミステリー」の中にある
    批評を読ん行きたいと思います。

    『ロス・マクドナルドについての本格的な評論作業を開始するには、「父親
     探し」「エディプス・コンプレックス」「失われてゆくカリフォーニア」といった
     テーマ、ハメット、チャンドラーをしのぐ完成された文章力、模倣から出発
     した独自な比喩表現など、諸家によって提示されている数多くの問題もさ
     ることながら、彼の作品における一人称の私立探偵、リュウ・アーチャー
    の存在とその意味、作法上の役割ということになるだろう。』

    これが当時としては最もロス・マクドナルドに対して好意的な見方と言って
     いいでしょう。その小鷹信光氏でさえ、次のような意見を述べているのです。

    『百数十年のミステリの歴史になんらかの足跡を残した無数のミステリ作家
     の中で、ロス・マクドナルドほど生存中に多くを語り、また、語られた作家も
     いない。ついに創作を通じてしか語ることをしなかったダシール・ハメットの
     黙示の重み、アルコールにおぼれ、怨言と饒舌に走るしかなかったレイモ
     ンド・チャンドラーの自己韜晦とはまったく趣きを異にしている。この多弁ぶ
     りはなにを意味しているのだろうか。』

   例えばこの文章で私に見えているのは小鷹信光氏が、ここに挙げた三人
   の作家の中で一番好きなのはハメットではないだろうかということです。更
  に言えば、小鷹信光氏のハメットへの過大評価とマクドナルドへの過少評
  価も結局は好き嫌いの度合と一致するのではないだろうか。そんな思いを
  拭えないのです。私に言わせればハメットの沈黙は単にマクドナルドのよ
  うには語れなかっただけのことだと思います。30過ぎてまで大学院で学問
  としての文学を勉強した男と14才で学校を離れた男の差だとはっきり言わ
  ない所に私は小鷹信光氏のハメット贔屓を見るのです。そのことが作品が
  後世に残した影響力に何らの関係もないと思うのですが・・・

  『一人の作家が創作活動と平行して、同時に「自分について」「自作につい
  て」多くを語り、分析し、また語られ、分析されるという現象は、シリアス・ノ
  ヴェルを書く一部の現代作家に共通している。むしろロス・マクドナルド自
  身が、自作の分析に病的執着を抱いていると言ってもよ い。』

  『ロス・マクドナルドについてのすべての議論は、結局主人公である私立探
  偵リュウ・アーチャーに帰ってくる。シリアスなテーマを取り挙げたからとい
  って、その小説が深みをおびるものではないし、父子の葛藤や母子の相
  克、崩壊する現代社会の根深い病巣といったテーマを問題にしたければ、
  ギリシャ悲劇かフロイト流の精神分析学か社会学書を学べばよい。そこに、
  作家ロス・マクドナルド自身の病的執着と思いちがいもあるのではないか。』

   まあ、これは小鷹信光氏だけではなく、当時の評者達の大方の意見だと思
  いますが、こういう文章を私は過少評価だと思うのです。それは作家ロス・
  マクドナルドの「思いちがい」ではなく、自らの意図を作品のなかに完全燃
    焼が出来ていなかったというだけのことだと思います。自分のテーマに執着
  したから、ロス・マクドナルドはあれだけの作品が書けたのではないでしょう
  か。さらに言えば、ハメットが途中から書けなくなったのは自分の中にロス・
  マクドナルドのように執着するものがなかったからではないのか。そんな気
  がしないでもありません。でも、この件についてはハメット編で考えることに
  しましょう。

  この小鷹信光氏の文章をロス・マクドナルドにより好意的に言えば、こうな
  るでしょう。

   『ロス・マクドナルドにとって、このテーマはどうしても書いておきたいテー
   マだったのです。しかし、彼には現代社会の病巣を抉り出す意図やそれ
   によって小説に深みを持たせるつもりなど一切なかったと思います。勿
   論、結果としてのそれは期待したかも知れませんが・・・
   彼は自らが抱える問題を私立探偵小説という枠の中でどう表現すべきか
   を悩んでいたに過ぎないのです。彼は自らが学んだ色々な知識を駆使し
    て試みました。ギリシャ悲劇はそこそこ消化していましたが、フロイトはま
     だ未消化と言える出来でした。しかし、そのことは彼自身がよく分っていた
     ことでしょう。』

    小鷹氏は別の座談会(早川書房の「世界ミステリ全集」(6)ロス・マクドナ
     ルド編の巻末に掲載)で、こんなことも言っています。

     『この全集に納められた三作(「人の死に行く道」「ウィチャリー家の女」「一
      瞬の敵」)には書かれた時期による文体や質的な差があらわれていて、
      その点は非常に面白いと思うのですが、新しい作品になればなるほど、
      色んな条件からいって、いわゆる「ハードボイルド」とは呼べないと思うん
      です。どれも、すごく陰惨な、じめじめした暗い話で、救いもないし、不幸
      なことばかりが起るわけでしょう。エンターテインメントとしてもきわどいと
      ころにあると思うんです。』

    「としても」と付加えたあたりはさすがですね。この言葉のおかげで辛うじ
     て他の娯楽派の評者達とは格の違いを見せていますが、私に言わせれ
     ば「ハメットだって救いなんかないじゃないか」ということになります。この
     あたりが好き嫌いの度合で評価も違うわけです。

     また、氏はこの座談会の中では、こうも語っています。

      『ロス・マクドナルドが作品の中で書きたかったアメリカの社会病理であ
      るとか、病根であるとか、家庭内の問題であるとか、そういうものをいち
       ばん的確に表現するための手段として、探偵小説の形を借りなければ
     うまく書けなかった、逆にそれだから成功しているといえるんじゃないで
      しょうか。もしこれをシリアス・ノヴェルで書いたら、退屈な話になってしま
      うと思います。』

     この発言は他の発言とは矛盾しているよう気がしますが、でも座談会で
     の言葉ですから深く追求すべきではないでしょう。

     ロス・マクドナルドの「シリアス・ノヴェル」への上昇志向は本国の批評家
      からも指摘されていたことです。そのことに対して小鷹氏も「シリアスなク
      ライム・ノヴェルに接近する必要もない」と彼らと歩調を合わせています。
     ですが、好意を持つ批評家なら「ダシール・ハメットがクライム・ストーリー
      を文学にまで高めたと言えるのなら、ロス・マクドナルドはミステリをノヴェ
     ルに近づけたと評するのが正鵠を得た批評と言えるのではないだろうか」
     と語るのではないでしょうか。ダシール・ハメットを「ブラック・マスク」での最
     良の作家だったというのであればともかく、ダシール・ハメットにはハードボ
     イルドの創始者の称号を与えておいて、ロス・マクドナルドには「シリアスな
     クライム・ノヴェルに接近する必要もない」ではいささか片手落ちではない
     かという気がするのです。

    最後にロス・マクドナルドの作品の評価を見てみましょう。
     小鷹氏は「さむけ」が一番好きだと言っていますし、石川喬司氏と河野典正
     氏は「ウィチャリー家の女」「縞模様の霊柩車」「さむけ」を挙げ、野崎六助
     氏は「ウィチャリー家の女」と「さむけ」を挙げています。権田萬治氏は「海外
     ミステリ事典」(新潮選書)の中の解説で「さむけ」を作者が一番気に入って
     いた作品だと書いています。光文社文庫の「海外ミステリ作家事典」では「ウ
     ィチャリー家の女」と「さむけ」を代表作としています。

    ここに引用した文章は彼の死の前後、つまり1970年代に書かれたもので
     す。30年後の今日、ロス・マクドナルドの作品は文庫本が5,6冊本屋の棚
    に並んでいる程度にしか読まれていません。しかし、今日の日本の社会を見
    るとき、心に傷を持つ人間が増え、彼らの自己主張という形の犯罪が目立っ
    てきています。それは日本のアメリカ化と無縁だとは思えません。
    1945年、アメリカは遅れた国を理想の国に近づけようと「日本のアメリカ化」
    を図りました。あれから50年の歳月がかかりましが、今やそれが完成したの
    ではないかという気がします。遅れた国は今、やっと60年代のアメリカ社会
    の歪に苦しんでいる所なのではないでしょうか。
    そんな時代だから、今一度、ロス・マクドナルドの作品は新しい読者に新しい
    読み方をされるべきだと私は思います。彼の作品は十分にそれに答えること
    の出来る作品だと思います。今なら 「病的執着」とまで言われた彼の作品の
    持つテーマは正しく理解されるのではないでしょうか。当時はアメリカの問題
    として読んでいたロス・マクドナルドのテーマが今では、日本の社会そのもの
    が抱える問題になって来ているからです。
    戦後50年、日本における自由とはこれでいいのか。学校教育は正しい方向
    に向いつつあるのか。子育ては正しく行われているのか。そこまで考えさせ
    られるテーマではないでしょうか。 要約すれば、現在ではロス・マクドナルド
    の作品は娯楽作品としてではなく、社会的テーマを抱えたノヴェルとして読
    むことが出来るのではな いか。私にはそんな思いがするのです。そして、新
    しい人による、新しい感覚のロス・マクドナルド論を読んでみたい。そんな期
    待を抱いています。

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