『海外ミステリを読む』(25)
<ロサンゼルスの探偵達>(その2)
ロス・マクドナルド編(17)
「眠れる美女」1973年(日本語版初版1974年)
(菊池 光訳。ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
[概略]
飛行機でロサンゼルスに帰ってきた日に、リュウ・アーチャーは初めて
海面を汚す石油の噴出を見た。広大な石油の面が夜の帳のように海
に広がり、石油会社の作業船が必死の防止作業に走り回っていた。
アーチャーが、彼に強い印象を与え、消えてしまった若く美しい女、ロ
ーレル・ラッソに出会ったのは、その石油汚染の現場に近いパシフィッ
ク岬でだった。岬はアーチャーが好んでいた場所だったが、ローレル
はそこで油まみれのカイツブリを助け上げようとしていた。
その夜、アーチャーは再びローレルに会った。女は泣いており、海鳥
の死骸を潮に運ばせようとしていた。鳥の死に芯から打ちのめされた
様子の女をアーチャーは家まで送ることになった。だが、途中電話を
かける為にアーチャーのアパートに立寄ったローレルは、別居中の薬
剤師の夫から帰宅を拒絶された。女は行き所を失ったようだったが、
アパートを使うようにというアーチャーの申し出を断り、出て行った。ア
ーチャーの薬品棚から致死量の睡眠薬をもって・・・。
ローレルの夫の依頼をとりつけ、アーチャーは失踪した女の行方を探
ったが、女が石油汚染を起した石油王レノックスの娘であることが判明
し、事件は深い傷口を見せ始めた!
傑作「地中の男」に続いて、話題を巻起こしたロス・マクドナルドの問題
作
(ポケミス版・裏表紙より)
[ストーリー]
『私は水曜日の午後、マサトランから飛行機で帰った。ロサンゼルスに近
づくと、メヒカナ航空の旅客機が海上で高度を下げ、私は噴出した石油
の広がりを初めて見た。石油は、幅数マイル、長さはそれより遥かに長く、
たえず形の変るのっぺりした面をなして、パシフィック岬沖の青い海面に
浮いている。』
これがこの作品の冒頭です。そして、こう続きます。
『パシフィック岬は、この海岸沿いで私が好きな場所の一つである。空港駐
車場に向っている間も、市の海岸を脅かしている石油のことが、胸中の水
平線を越えたあたりに黒い雲のように浮んでいた。ウェスト・ロサンゼルス
の家へ帰らないで、海岸を南へパシフィック岬に向った。』
『私は、市民に公開されている海岸に下りて行き、海沿いに港の一部を囲
っている砂地の岬に向った。ほとんど女や娘ばかりのひとかたまりの人々
が、水際に立って沖を見ていた。世の終りを待っているのか、終りがきて
二度と動くことがないような姿でいた。
寄せ波がゆっくりとふくらんだ。くち
ばしのとがった黒い鳥が一羽、その中でもがいていた。そのオレンジがか
った赤い目が怒りに燃えているようだったが、あまりにも油で汚れているの
で、初めのうちはそれがかいつぶ
りであるとは分らなかった。白のシャツ
とスラックス姿の女が,もものあたりまで入って行き、嘴でつつかれないよ
う頭をつかんで、鳥を拾い上げた。こちらへ戻ってくる時、
黒い目に鳥と同
じような怒りをみなぎらせた美しい女であるのが分った。巾の狭い足が濡
れた砂の上に形のいい跡を残した。かいつぶりをどうするつもりなのだ、と
聞いてみた。
「家へ連れて帰って、洗ってやるの」
「たぶん、生き延びないに違いない」
「そう、でも私が生き延びさせられるかも知れない」』
女がかいつぶりを胸に抱いて立去った後、アーチャーはレストランに入り食
事をします。そのあと、浜に別れの挨拶をする為に海岸に戻り、その女に再
会します。女は泣いています。かいつぶりが死んだと話します。彼女も同じ
ウェスト・ロサンゼルスに住んでいる事がわかり、車もないというのでアーチ
ャーが送ることになります。高速道路を下りると、彼女は夫に電話したいの
で、部屋からかけさせてく
れないかと言い出すのです。アーチャーは彼女を
自分のアパートに連れて行き、電話を使わせます。でも、夫が迎えには来れ
ないようです。ここに
泊ってもいいとアーチャーがいうのですが、彼女は「で、
その代価は?」
と質問します。女に拒絶されたアーチャーは自らに問うこと
になります。
『私は,女を口説こうとしている中年男としての自分の姿を垣間見る思いが
した。彼女が年をとっていたり、醜い女であったらアパートに連れて来てい
ない筈であるのは、疑う余地もなかった。』
彼女はバスルームを借りて、出てくると帰って行きます。そのあと、アーチャ
ーが入ると、睡眠薬の壜がなくなっているのに気が付きます。中には
致死
量の薬が残っていたので、アーチャーは慌てて彼女の後を追います。です
が、彼女の姿はどこにもありません。
いちど、部屋に戻り、彼女が口にした
名前を頼りに電話帳で探します。そ
して、電話します。彼女が自殺を口にし
たことがあると知ったアーチャー
はその夫トマス・ラッソに会いに行きます。
薬剤師である彼は店を離れる
ことが出来ないので、アーチャーは取敢えず
50ドルを報酬として受取り、
彼女を探すことを引受けます。
こうしてアーチャーは彼女の過去、そして彼女の親達の過去の事件に関る
ことになるのです。まず、ローレルが誘拐され、10万ドルが要求されます。
アーチャーはローレルを助け出す為に、いつものように人に会い、話を聞く
作業をしつこく続け、次第に過去に遡り、問題が親達にあることを知ります。
子供達は親達の愛憎の葛藤の犠牲者と言えることが分ってきます。この作
品の冒頭に出てくるかいつぶりはそんな子供達を象徴しているように私に
は思えます。でも、解説を書いている、かってのミステリ・マ
ガジンの編集
長、各務三郎氏はより深い見方をしているのでご紹介してお
きたいと思い
ます。実は前回紹介した論文の初稿はこの解説だったのです。一冊の本
にまとめた時に殆どそのまま採用しています。(変えたのは語尾が「です」
調だったのを、「だ」調にしたことですが、この変更は各務三郎論を展開す
るには重大な変更ですが、この稿には何の関係もないので触
れません。)
この解説の中で各務氏はこれまで幾つかの作品で登場した小鳥達は人類
よ
り長く生延びる世界の象徴として登場していたが、前作「地中の男」で山
火事で営巣地を追われ、とうとうこの作品では石油にまみれ、怒りに燃えた
目を残して死んで行き、それをアーチャーはため息をつきながら見ているし
かない。この時のアーチャーのため息はロス・マクドナルド自身のため息だ
ろうと書いています。
この作品のモデルは1969年に実際にロス・マクドナルドが住むサンタ
・バ
ーバラ沖で起った海底油田の噴出事故です。この事件では原油は実に七
ヶ月に渡って流出し続け、水鳥が3500羽死んだそうです。そして、
ロス・
マクドナルドは「石油汚染追放」のプラカードを掲げて市民達の一人として
抗議デモに参加しています。
この作品は無事に戻って来たローレルがベッ
ドで眠っているのをアーチャーが確認する所で終っています。海野弘氏は、
前にも何回か引用させて頂
いた「LAハードボイルド」の中で、ラスト・シーン
についてこんな見方
をしています。各務氏の視点からさらに1歩掘下げた
見方と言えるのでは
ないでしょうか。
『アート・サイデンボーム「ロサンゼルス200年」によると、サンタ・バーバラ
沖の石油事故があった1969年に、ロサンゼルス市とロサンゼルス郡は、
浜辺についての共同利益、共同責任の協定を結んだ。つまり、浜辺で起
きた事件に対して、ロサンゼルス市も共同の責任があり、費用を負担する
ということである。警察や消防も連携するということである。それを知って
「眠れる美女」を読むと頷けることがある。ロサンゼルス市に住んでいるア
ーチャーがなぜ、ロング・ビーチの石油事故にこれほどの関心を抱くのか。
ロサンゼルス市民は、ロサンゼルス郡の浜辺の分の税金も負担している
のだ。1969年から、法律的にも浜辺はロサンゼルス市に組み込まれた
のである。(中略)
その騒ぎの中で、戻って来たローレルは昏々と眠っている。眠れる美女と
は「カリフォルニア」のことかも知れない。あらゆる汚辱にまみれながら眠
り続ける彼女はいつか清らかに目覚めることがあるのだろうか。ロス・マク
ドナルドのはかない希望がそこに託されているようだ。』
[深読みコーナー]
中年男のアーチャーにはあんまり仕事の依頼がないようです。
『もう何日も自分のオフィスに行ってないので、そろそろ覗いてみた方がい
いと考えた。オフィスは、サンセット大通りに面した二階建の建物の二階
にある。裏の自分の駐車枠に車を入れて、裏の階段を上がった。隣室の
モデル・エイジェントで女の子たちが陽気にしゃべっていた。「リュウ・アー
チャー・私立探偵」とドアに記してある自分の名前と職業がなにか見慣れ
ない感じで、それを見た依頼人が受ける印象が想像できた。依頼人の姿
はなかった。(中略)
今は、事件を手がけているし、依頼人側は金持である。しかし、その金持
連中のみを収入の当てにせざるをえないような具合にはなりたくなかった。』
かっての「社会の悪と戦っているのだ」と言ったリュウ・アーチャーはもうい
ません。
『「あなたは私立探偵と称しているが、私の患者から見ればサツであること
に変りはない。あなたは自ら進んで懲悪主義的社会の代表者になったの
だし、真の目的は人を捕えて牢獄に放り込むことだけなのだ」
「それが私の真の目的かな?」
「私はそう思う」
そのもの静かな口調の非難が胸にこたえた。』
ローレルの部屋が見たいと言って、彼女の叔母のエリザベスに案内して貰
います。ローレルの手紙を読んだあと、エリザベスは自分の過去を打明け
ます。そのあとはこんな場面になっています。
『彼女があとずさりして私によりかかった。自分の行動に脅えたかのように、
見動きもせずに立っていた。私が両手をかけた。
「やめて」きびしい口調で囁いた。
「なぜ、いけないんだ?船を燃やしたり油を流したりするよりはいい。あるい
は、家に火をつけるより」』
挙句の果てにその部屋で彼女と一夜を共にしてしまうのです。そして、次の
日にはこんな心境を吐露しています。
『私は、彼女の腰の細いうしろ姿に別れを告げた。昨夜のことは、情熱がこ
もっていなくはなかったが、結果を生むことのないかりそめの出来事にす
ぎなかった。ただ、私は一生彼女のことを忘れないであろう。』
リュウ・アーチャーをこんな男に変えたのは作者自身にほかなりませんが、
ロス・マクドナルドを変えたのは何だったのでしょうか。これが男が老いる
ということなのでしょうか。病気の前兆だったのでしょうか。ラストの場面で
はいつものように犯人と対決し、殺人を認めさせようとします。犯人の自己
弁護に対して「疲れを覚えて」、途中で話を聞くことを止めて、他の部屋に
行ってしまいます。アーチャーにほったらかしにされた犯人は、そのすきに
自殺してしまうのです。こんな場面は始めてです。
疲れを覚える。何気なく使った文章でしょうが、私はロス・マクドナルドの疲
れを、そして、衰えを感じました。
[新刊紹介コーナー]
「天使の街の地獄」ロチャード・レイナー著
(吉野美恵子訳・2001年3月・文春文庫)
ロサンゼルスとはスペイン語で「多くの天使達」の意味です。この小説
の原題は「MURDER BOOK]なのですが、日本版であえて、この題
名にしたのは、今の日本では天使の街がL.Aであることがすでに周知
の事実になっているとの判断があったからだと思います。日本語にした
時に原題より響きがいいので、売れるだろうという営業サイドの読みは
正解だろうと私も思います。
帯のキャッチ・コピーは「現代の魔都に正義はありうるか?タフな刑事の
地獄めぐりを描く新感覚ハードボイルド」となっています。一言でいうなら
エルロイのタッチという所でしょうか。訳者のあとがきにはこういう文章が
あります。
「ロサンゼルスを襲った豪雨と強風のさなか、市警ヴェニス署の殺人課
刑事ビリー・マグラスは、天使の街にひそむ悪魔のささやきに耳をかし
た。大衆的人気をほしいままにして20余年になるハリウッドの二枚目
スターと、麻薬売買で巨財を築いた大物ギャング。LAの光と影。その
はざまに落ち込んだ刑事が、両者の間で板ばさみになり、事件は思
わぬ展開に翻弄されてLAの街を駆ける。」
「愚者の群れ」ガー・アンソニー・ヘイウッド著
(熊谷千寿訳・2001年3月・ハヤカワ文庫)
ロサンゼルスにまた一人私立探偵が生まれました。ベトナム戦争で修
羅場をかいくぐり、警察官となり、それもやめて私立探偵になった男ア
ーロン・ガナーの登場です。が、すでに1988年に第1作の「漆黒の怒
り」は紹介されています。ポケミスの1562番です.
帯のキャッチ・コピーは「この街で生きるには、善人ぶってはいられない。
音楽業界の影に独り立ち向う私立探偵ガナー」となっています。