『海外ミステリを読む』(22)
<ロサンゼルスの探偵達>(その2)
ロス・マクドナルド編(14)
「一瞬の敵」1968年(日本語版初版1975年)
(小鷹信光訳。ハヤカワ・ミステリ文庫)
[概略]
サンデイはハイスクールに通うごく普通の少女だった。この夏までは。
そのサンデイがショットガンを持って家出した。前科者の恋人、デイヴ
ィと一緒に違いないので連れ戻して欲しいとのサンデイの両親の依頼
を受け、アーチャーはデイヴィのアパートを訪ねた。だが、サンデイとデ
イヴィはアーチャーのすきをつき、ショットガンを手に姿をくらましてしま
った。あとには、サンデイの父の雇主ハケットの広大な地所を示す地
図が残されていた。二人の狙いは何か?事件を追うアーチャーが見た、
富めるものと貧しき家族の生んだ悲劇を描く円熟期の異色作
(文庫版・裏表紙より)
[ストーリー]
『まだ朝は早く、セパルヴィダ大通リを走る車の数も少なかった。山合い
の低い峠にさしかかるころ、遠くの渓谷の青味がかった断崖の背後か
ら、まばゆく陽が昇ってきた。』
これがこの作品の冒頭です。アーチャーは依頼人キース・セバスチャン
に呼ばれてやって来た所です。娘のサンデイが昨夜から家に帰って来
ないので連れ戻して欲しいという依頼でした。ボーイフレンドのディヴィと
一緒で、おまけに父親のショットガンも持出していることが分っているだ
けに心配も大きいようでした。
アーチャーは先に、二日分と必要経費の250ドルを頂きたいと要求しま
す。でないと娘が突然帰ったり、依頼人の気が変ったりして費用を貰い
損ねることがあると説明するのです。それに対して、相手が小切手をくれ
たので引受けることにしました。中年になり、我らのアーチャーもなかなか
しっかりしてきたようです。
アーチャーはまず、サンデイの親友のハイジに会い、デイヴィの住いを教
えて貰い、そこへ出向きます。
アパートの持主はローレル・スミスで、「端正な顔が、顔の輪郭を形づく
っている染めた赤毛の為にちょっぴり下卑てみえる」女性で、「人あたり
のいい、教養とはあまり関係のない経験を積んだ言葉つきで」応対し、彼
の部屋まで案内してくれます。そこにはサンデイもいました。ですが、彼
女は一緒に帰ることを拒否します。アーチャーはディヴィと喧嘩になり、殴
り倒されます。
アパートから離れたアーチャーは車でそのアパートを見張ります。すると
向いの家から男が出て来て、録音テープらしいものを自分の車のトラン
クに入れるのを目撃します。そのあとアパートから車が出てきます。運転
しているサンデイと助手席のデイヴィを見たので、すぐ尾行しますが、見
失ってしまいます。
そのあと、アーチャーは再びアパートに戻ります。そして、ローレル・スミ
スから、デイヴィの保護監察官が顔見知りのベルサイズという男だと聞
出し、そのあとデイヴィの部屋を見せてもらいます。その部屋でアーチャ
ーは机の引出しから人工湖のある屋敷の地図らしいものを見つけます。
さらに帰りがけにはガレージで切り落されたショットガンの銃身を発見し
ます。
次にアーチャーはベルサイズに電話をかけ、呼出して、昼食を共にしま
す。彼からはフライシャーという保安官補がローレル・スミスとデイヴィの
こと知りたがっていたこと、ディヴィの養父母がウェスト・ロサンゼルスに
住んでいることを聞出します。
ベルサイズと別れたアーチャーは依頼人のオフィスを訪れます。その時、
依頼人が彼の上司であるスティーヴン・ハケットと食事から戻った所に出
くわします。オフィスで二人だけになると、早速、経過報告をし、ディヴィの
部屋で見つけた地図も見せます。すると、筆跡が娘のサンデイのもので
あることが判明し、さらに、その地図に描かれているのはマリブの丘の上
にあるハケットの屋敷のようだと言い出します。それを聞いたアーチャー
は渋る依頼人に対して、ハケットに警告した方が
いいと忠告します。
話合った結果、アーチャーが依頼人の名前を出さずに、それとなく警告
に行くことになります。マリブのダウンタウンからさらに数マイル離れた場
所にあるハケットの屋敷は門から車で入り、途中に禿鷹のいる森や、鴫
と鴨のいる池を通り過ぎた、さらに奥の丘の上にありました。ハケット家
は石油で儲けた富豪なのです。
アーチャーの話を聞いたハケットの母親が「時間をさいて頂いたのですか
ら、ミスター・アーチャーにお支払いすべきだと思うけど」と息子に言う
と、
ハケットは財布から20ドルを取りだします。
『「これで埋め合わせてもらえると思うが」
「せっかくですが、埋め合わせはもうすんでいます」
「いいから、おとりなさい」ハケットの母親が言った。「きれいな、石油のお
金なのよ」
「結構です」
ハケットは驚いたように私を見た。彼の金のほんの切れ端にせよ、受取る
ことを拒絶した人間に会うのは久しくなかったことなのだろう。』
ハケット家を辞去したアーチャーは二人が帰って来たか確めるために再
び、ローレル・スミスのアパートに戻ります。だが、彼女は何者かに殴り
倒されていました。警察が来る前に、室内を調べて見ると、テレビの裏側
に盗聴器が仕掛けてあるのを見つけます。
彼女が救急車で運ばれるのを見たアーチャーは次にデイヴィの養父母を
訪れます。そこで、デイヴィとサンデイが午後に現れたことを知ります。
その時に、今夜、ハケット邸に行くような話振りだったと聞くと、電話を借り
てハケットに知らせようとします。ですが、遅すぎました。二人はハケットを
車で連れ去ったあとだったのです。
話を聞いたアーチャーはすぐ、ハケット邸に戻ります。ハケットの母親は
息子を無事に連れ戻したくれたら10万ドル払うとアーチャーに依頼しま
す。警察ならタダでこの仕事をやってくれますよとアーチャーは言います。
でも、彼女は「警察は必要ありません。事件は解決してくれるけど、誘拐
された犠牲者を失うこともしばしばです。私は、生きた息子を取戻したい
のです」と訴えます。それに対して、アーチャーは僕にはすでにセバスチ
ャンという依頼人がいますと反論します。すると、ハケットの母親はセバ
スチャンを屋敷に呼出し、納得させます。
依頼人がもう一人増えたアーチャーはここからサンデイとハケットの二人
の救出作戦を始めます。しかし、この誘拐は身代金が目当ではなく、復
讐だということが明かになって行きます。復讐とは過去の出来事に対す
る恨みから発生します。従って、アーチャーの追求は過去への追求にな
ります。
ディヴィの出生の秘密から、その父親の過去に、さらに父親の出生にま
で遡るのです。つまり、ディヴィの祖父の人生がこの事件に深く影響して
いることが分ってきます。ディヴィの祖父アルバート・ブレヴィンズは60
前後の年齢で、今ではサンフランシスコの年金受領者用のホテルで一
人暮しをしています。
アーチャーはホテルの彼の部屋を訪れ、話を聞き、証拠となる書類や手
紙を買いたい
と申出ます。彼にはアーチャーが何故金を出してまで、自
分の過去を買お
うとしているのか飲み込めないのです。それでも、生活
が苦しいので金になるのなら何でも売るとアーチャーの要求に応じます。
『「25ドルは結婚証明書の代金です」私は言った。「あとの25ドルは手紙、
残りの10ドルは、あなたの自伝の代金です」
「えっ、なんだって?」
「人生物語ですよ」私は言った。
「ああ。それは、それは。あったかい衣服が欲しかった所だ。60ドルあれ
ば、がらくた市でしばらくのあいだ買物が出来る」
手紙と結婚証明書を受取った時、私は自分がかすかにみじめに感じられ
た。(中略)
時が一瞬、涙のようにぼーっとにじんだ。デイヴィの父親は非業の死を遂
げた。彼の母親も暴力によって死んで行った。暴力の子デイヴィはアルバ
ート・ブレヴィンズにまでさかのぼる道を、激しい音をたてながら落ち続け
ている。低いうなり声、焼け焦げる匂い、涙のようににじんだ重なりあいの
なかで、私ははじめてデイヴィのようになる、ということがどんなことかを実
感していた。私は激しく心を揺さぶられた。』
こうしたアーチャーの活躍で、ハケットはなんとか生きたまま救い出されま
す。そして、彼の母親は約束通りに10万ドルという大金をアーチャーに払
います。この金額は彼がこれまで受取った報酬の最高額です。
そして、事件がすっかり片付いたあとのラスト・シーンはこうです。
『それからしばらくあと、私はサンセット・ストリップの夜を浮かれ騒いでい
る若者達の群れをかきわけながらオフィスに辿りつき、部屋に通じる階
段を昇った。ウィスキーと一緒に飲み下したコールド・チキンは思ったよ
りうまかった。
気をしっかりと取り直すために、もう一杯飲み干した。それから、ミセス・マ
ーバーグの小切手を金庫から取出した。小切手を細かな小片に引裂き、
黄色い色紙のかたまりになった小切手を、窓の外に投げた。紙吹雪は短
髪族と長髪族、マリワナ常習者とLSD中毒患者、徴兵忌避者と拝金主義
者、遊び人、生きながら傷ついたもの、愚かな聖人、極悪人、男に騙され
やすい生娘たちの上に、舞い降りていった。』
[深読みコーナー]
(1)最初にアーチャーがハケット邸を訪れた時の描写にこういう場面があ
ります。
『私が立ち上がりかけると、彼は画廊までついてきて、壁の絵の画家の
名前を告げはじめた。
「絵は好きかね?」
「たいへん好きですよ」
しかし、ハケットの詳しい講釈は退屈だった。それぞれの絵の値段がい
くらで、今はいくらになっているという話を聞かせてくれたのだ。過去10
年間に買ったすべての絵で、かなりの利益をあげている、と彼は言った。
「たいしたものですね!」
彼は、薄い色の目で私を射すくめた。「からかっているつもりなのか?」
「いいや」
「それならいい」
だが、彼はいらいらと腹をたてていた。私が、彼と彼の金に相応の敬意を
払わなかったからだ。
「絵に興味があるといったね。ここにある絵は、カリフォルニアでも最も高
価な近代絵画ぞろいだ」
「それはさっき伺いました」』
言うまでもなくロス・マクドナルドは、絵が碌に分りもしないくせに石油で儲
けた金で絵を買い漁る成金達を皮肉っているのです。海野弘氏は「LAハ
ードボイルド」の中で、さらに1歩踏み込んでハケットのモデルとして、ポー
ル・ゲテイをあげています。日本でも時々、ポール・ゲテイ美術館所蔵の名
画が公開されることがあります。そんな時にこの作品を思い出せば鑑賞に
も幅がでるのではないでしょうか。
(2)この作品でのリュー・アーチャー
『サンセット大通りにある私のオフィスは、無人の館のように荒れていた。
待合室の片隅で、一匹の蜘蛛が巣を作り始めていた。時が流れ落ちて
行くような音を立てて、窓の蝿が数匹、不活発に動いている。平らな表
面には、どこにも薄い錆のような埃がへばりついていた。』
「荒れている」のはアーチャーの事務所ではなく、アーチャーの心なので
す。この作品でのアーチャーは精神的にも疲れているようです。
『結局、私はこの街の破壊された偉大な肉体を横切って移動を続け、そ
の肉体の何百万という細胞と細胞のつながりを見つけようと、同じよう
な夜を幾晩も過してきたのだ。死ぬ前に、いつか神経と神経のつながり
をすべて正しく接続させさえすれば、この死んだ街が生き返るかもしれ
ないという、気ちがいじみた願いと妄想を私は持っていた。フランケンシ
ュタインの花嫁のように。』
この疲れがいつもと違うアーチャーの行動を引起しているような気がしま
す。
(3)題名について
原題は「THE INSTANT ENEMY」ですから、文字通りに訳したと思
いますが、よく意味が分らない言葉です。最初の方で、アーチャーがデ
ィヴィの部屋に入って調べる場面があります。
『机の正面に、“十戒”のリストが貼ってあった。まぎれもなくディヴィの筆
跡で、きちんと書かれていた。
1 車を運転しないこと
2 アルコール類を飲まぬこと
(中略)
10 発作的に腹を立てて、突然他者の敵にならぬこと』
作品の中の手がかりはここだけですので、断定するのは無理ですが、要
するに「発作的に怒りを覚えた相手」という意味だと思います。しかし、デ
ィヴィとサンデイにとってはハケットは深い恨みのある相手ですから、「一
瞬の敵」であるはずはありません。そして、途中に起った殺人も過去から
の繋がりがそうさせたものであり、起るべくして起った出来事です。となる
と、誰が敵であり、相手は誰だというのでしょうか。
最後の謎解きの場面はハケット邸です。ハケットは無事に救い出され彼
らにとっては事件は解決し、あとは従来通りの富豪としての毎日に戻るだ
けだったのです。しかし、アーチャーにはまだ最後の詰めが残っています。
「最終報告をもってきました」と言って、ハケットと母親に彼らの犯罪を、彼
らが隠し続けようとした犯罪について言及し、認めさせようとします。
アーチャーに10万ドルを払い、無事に隠し遂せたと思っていた母親は、
それが間違いだと覚り、次の手段として、ピストルを取出します。ですが、
逆にアーチャーに奪われてしまいます。アーチャーは奪ったピストルを
構えながら、さらに追求を続けます。
『「そんなことは何一つ証明出来ないわ」』ミセス・マーバーグが言った。彼
女の息子は、そう言い切る自信がなかったらしい。スツールからすべりお
り、無器用に、渋々といってもいいような動作で私に襲いかかり、私の手
の中のリヴォルヴァーめがけて、スロー・モーションでうつされたような、お
ぼつかない足どりで突進してきた。彼の体の、どの部分を撃つかを決め
る充分な時間があった。もし、この男が好きだったら、私は彼を撃ち殺して
いただろう。私は彼の右足を撃ち抜いた。』
このあと、二人を警察に引渡してからアーチャーは事務所に戻り、ウィスキ
ーを飲み、それから発作的に10万ドルの小切手を引裂いてしまうのです。
破り捨てたのではなく、紙吹雪として撒き散らすことが可能なほどに細かく
引裂いたのです。それほど怒りが全身を貫いていたのです。いつもの彼な
ら、これほど怒ることもなかったはずです。精神的な疲れがそうさせたので
しょうが、それはアーチャーというより、ロス・マクドナルド自身の疲れだった
のではないでしょうか。好きだったら撃ち殺していたのだが、嫌いだから足
だけを撃ったと言っています。嫌いだから10万ドルの小切手を使うことが
嫌になり破棄したのだと言っているような気がします。かあっとなったという
ことなのでしょう。つまり、「一瞬の敵」は依頼人つまり、ハケット親子だった
のではないかというのが私の解釈です。