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『海外ミステリを読む』(18)

     <ロサンゼルスの探偵達>(その2)

  ロス・マクドナルド編(10)

    「縞模様の霊柩車」1962年(日本語版初版1964年)
                 (小笠原豊樹訳。ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

    [概略]

      まだ年端もいかないころ、実母のポーリンに家出されたハリエットは、
      母親の愛というものを知らずに成長した。そして、そういう孤独な身を
      彼女は方縦な生活で紛らすようになった。25才の誕生日がやってく
       ると、叔母の残した50万ドルの遺産を自由に出来るハリエットは、あ
       るときメキシコに遊びに行きバーク・デイミスという正体の知れない男
       を連れて帰ってきた。それを知ったハリエットの父ブラックウェル大佐
       は激昂した。相手の男が、財産めあてのプレイ・ボーイにすぎないと
       いうのだ。が、ハリエットは、がんとして父親に抵抗し、いまはブラック
       ウェル家の別荘で愛の巣を営んでいた。
      後妻として夫に尽し、ハリエットにも実母以上になりたいと思っている
      ミセス・ブラックウェルが、私立探偵リュウ・アーチャーを訪ねたのは、
      このような事情がもちあがったからだ。やがて、デイミスの調査を依頼
       されたアーチャーは、早速ブラックウェル家の別荘に車を走らせた。
     おりしも、別荘近くを通り過ぎた一台の霊柩車・・・ペンキで縞模様に
       塗りたくった霊柩車は、やがて起こるべき悲劇の数々を暗示するかの
      ように、アーチャーの眼に重々しく写るのだった。・・・・
     アメリカの家庭の悲劇を鋭くえぐり、人間の愛憎を心ゆくまで描いた問
     題作!
           (同書・裏表紙より)

    [ストーリー]

      『朝のコーヒーを飲みに行って、戻ってくると、その女が事務所のドアの
      前で待っていた。この薄汚い二階の廊下で出っくわす女と言えば、大
       抵は隣のモデル周旋業に最後の望みをかけてやってくる不幸な娘た
       ちと相場が決っていたが、この女は違うようだ。あまり化粧とマッチし
       ない服装で、年は私と同じ位だろうか。おのれの趣味を心得た男が年
       をとるにつれて、その趣味に合う女性もまた老けてゆく。困ったことに、
       そういう女性の大半は人妻なのである。』

      これがこの作品の冒頭です。このようにアーチャーの事務所から物語
       が始るのは1952年の「象牙色の嘲笑」以来です。女が事務所の前
       で待っている所も同じです。ロサンゼルスが舞台になるのも久しぶりの
       ことです。
     
       待っていた女はミセス・ブラックウェル。すぐあとから夫のブラックウェル
       大佐も現れ、娘のハリエットがバーク・デイスミスという、画家を自称す
       る男と結婚しようとしているが、この男は娘の財産目当の詐欺師だと思
       うので、調べて証拠を集めて欲しいと依頼し、200ドルと二人が住むマ
       リブ海岸の別荘の鍵を置いて帰ります。

      アーチャーは早速、マリブ海岸に出向きます。そして、別荘で娘のハリ
       エットとバーク・デイスミスに、この家を大佐から借りようと思っていると
       嘘を言って、家の中を見せてもらいます。デイスミスは絵を描いている
       最中でした。

     『パレットナイフを使って、カンバスにコバルト・ブルーの絵具を塗りたくっ
      ていた。汗をかきながら、無我夢中である。』

     『その絵は、いつ描き終わるかは画家本人のみ知るといったたぐいの作
      品だった。こんなものは見たことがない。雲のようにもやもやしたマッス
     が、なにか不吉な考えの象徴であるとすれば、そのなかにいくらか明る
     い部分があり、それは希望か、でなければ恐怖をあらわしているようで
     ある。』

     そのあと、二人と別れたアーチャーは近くの食堂でコーヒーを飲みなが
     ら、見張っています。その時、こんな光景に出会います。

     『街道を、ヘッドライトのこわれた、縞模様の霊柩車がやって来た。それ
     は前と後から、四人の男の子と二人の女の子を吐出した。どの子もみ
      んなきょうだいのように見える。』

    彼らは店に入り、ビールとサンドイッチを波乗りの話をしながら平らげる
     と出て行きます。そのあと、その食堂のカウンターの中の女性がこう言
     います。

     『あんな風に、霊柩車を縞模様に塗っちまうなんて、一体何のつもりなの
     だろう。相手が死人だろうと生きている人だろうと、うやまう気持ってもの
      がなくなっちゃったんだねえ。あんな連中にビールを売らなけりゃ食べて
      いかれないんだから、情けない、情けない。ほんとに、この世の中はこ
      れから先どうなるのかねえ』

     この作品の題名は明かににここから来ています。そのあと、ハリエット
      の車が出てきたので、尾行します。アーチャーはそれを待っていたの
      です。

     車はブラックウェル家に行きます。アーチャーが車から降りると、家の
      前で、ブラックウェル大佐がデイスミスに猟銃を向けて、今にも撃ちそ
     うに怒っています。アーチャーは二人に喧嘩をやめさせ、大佐から猟
      銃を取上げます。 ハリエットはスーツケースを下げて家から出てくると、
     車に乗り込み、デイスミスと一緒に出て行きます。二人はこの場面を最
     後に行方が分らなくなるのです。

     アーチャーは再び、別荘に向います。二人がいなくなった家の中を調べ
     ます。すると、メキシカーナ航空の封筒が見つかり、それによるとシンプ
      スンという名前の人物がメキシコからロサンゼルスに到着したようです。
      さらに二階に行き、またデイスミスの絵を眼にします。

     『そして、再び絵にひきつけられた。どうもこの絵は毎回違った感銘を私
     に与えるようである。今、それは何かひどく強力で醜悪なものにー邪悪
     な力が襲いかかってくるところのように見えた。単に私の精神状態が反
     映しているだけかも知れないが、その絵の暗さは、つまるところ死の究
     極的な暗さであるように思われるのである。』

    そのあと、アーチャーは絵を写真に撮っておくことを思いつき、カメラを取
     りに車に戻ります。

     『縞模様の霊柩車は私の車の横にとまっていた。中には誰もいない。空
      はすでに晴れあがり、日光浴の人達が何人か、まるで大惨事のあとの
      死体のように砂に寝そべっていた。波うち際の近くでは波乗りの連中が
      6人勢ぞろいし、お祈りをするような恰好で、板にしがみつき、波を待っ
      ている。』

     絵を撮影したアーチャーは次に航空会社に行き、クインシー・ラルフ・シ
      ンプスンなる人物が乗った飛行機にはハリエット・ブラックウェルは乗っ
      ていたが、バーク・デイスミスの名前はないことを確認します。さらにそ
      のあとはお馴染みの地方検事局のピーター・コルトンを訪れます。ブラ
      ックウェル大佐にアーチャーを推薦したのは彼だったのです。軍隊にい
      た二人は戦後ヨーロッパで一緒に仕事をしたことがある仲だったのです。
     アーチャーは事情を説明し、コルトンに協力を求めます。その結果、ア
      ーチャーはシンプソンが行方不明者のリストにあり、届けたのは奥さん
     で、住所はサンフランシスコ近辺だと教えてもらいます。

      ここからアーチャーの右往左往が始ります。まず、サンフランシスコへ行
      き、その近辺を歩き回り、ロスに戻ったと思うと、メキシコヘ飛びます。こ
      の作品ではこれまでにない位に飛行機を駆使し、幅広く動き回るアーチ
      ャーを見せてくれます。サンフランシスコからメキシコまでという行動半
      径の広さがそのままプロットの複雑さに繋がり、この作品を支えていま
      す。ミステリに娯楽性を求める読者にも充分楽しめる出来に仕上ってい
      て、私には最後まで楽しめました。

     ラストシーンはメキシコの小さな村の教会です。何故、犯人がそこにいる
      のが分ったかは書いていません。アーチャーは探した挙句に見付けたと
      なっています。教会の外に一人の女の乞食がいるだけの静かな教会で
     す。犯人はもう望みはなく、ただ神の声を聞きたくてここにいるとアーチャ
      ーに訴えます。
      殺人のことを話せとアーチャーが迫ると、犯人はその必要はないと拒否
      します。すると、アーチャーは話したいからここに来た筈だと訴えます。
      犯人はそんな自分の気持を認めます。牧師に話そうと思ったが、自分の
      スペイン語が下手で出来なかったと語ります。それを聞いたアーチャー
      は自分は牧師ではない、ただの人間だと言いながらも話しを聞く態度を
      示します。そのあと、犯人は何故殺したかを告白します。

    告白を終えた犯人は興奮のあまり身体を震わせ始めます。アーチャー
    はそんな犯人を抱かかえるようにして、教会の外に出ます。

     『ドアを開けると、真赤な日没だった。その赤い光に包まれて、火の中の
     燃殻のように、女乞食の黒服が浮び上がっていた。・・・
     私達が通り過ぎる時、女乞食が手を差出した。私はもう一度金を恵んで
     やった。だが、犯人に恵んでやれるものは何一つ持ち合わせがない。
      私達は刻々と変る日没の光を浴びながら、水の涸れた河床のような道
      を歩き出した。』

     これがラストシーンです。逆光の中を沈む太陽の方へ歩いて行く二人の
     姿がイメージとして浮んで来ます。まるで映画のラストシーンのようです。
   一般受けを狙ったのでしょう。前作「ウィチャリー家の女」のラストでは自
    殺させて欲しいと訴える犯人に自白が先だと冷たいアーチャーでしたが、
      この作品では話したいからここに来たのだろうと気持を楽にさせて、牧
      師の替りに告白を聞いてやるアーチャーです。ラストも助けてはやれな
      いが死ぬなと言っているようです。

   [深読みコーナー]

     前にも取上げましたが、海野弘氏は「LAハードボイルド」(グリーンアロ
      ー出版社)の中で、主人公のバーク・デイスミスの絵は「いわゆる抽象
      表現主義に属する絵のようである」と述べた後で、こう続けます。

    『抽象表現主義は40年代のニューヨークを中心に活動した画家達、ジャ
    クソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、クリフォード・ステイル、バー
     ネット・ニューマン、マーク・ロスコなどの作品を指している。
   抽象表現主義によってアメリカは第2次大戦後の現代美術の先端に踊り
   出た。抽象絵画の出現により、現代美術は難解なものと見られるようにな
     った。花や風景を描くのではなく、抽象物、観念的な色と形を表現するよ
    うになり、現実世界から切離されたのである。同時にそれを描く画家もま
    た、非合理で不可解な人間と見なされるようになった。アーティストは現実
   からドロップアウトしたアウトサイダーとしてあらわれる。バーク・デイスミス
    もそのようなアーティストである。社会的秩序、体制に反抗する。彼は富豪
    のブラックウェルの娘ハリエットと婚約し、ブラックウェルはあらゆる手を使
    って彼を追出そうとする。老人と若者の間にまったく会話が成立しない。
   マクドナルドが若いアーティストを登場させたことは二つの意味がある。一
    つは一般社会とアート、旧世代と新世代の間に亀裂が生じ、話しが通じな
    くなったことである。バークは殺人事件に巻き込まれていくが、人々は彼
    の行動を理解できず、彼も自分を説明しようとしない。マクドナルドは共通
    の言葉が失われている時代を予告している。わけのわからないアートが、
    社会的に無視できないものとなってきているのだ。ミステリー小説に登場
    したことは現代のアート、アーティストが社会的現象となり、一般の読者の
    興味をひくものとなっていることを示している。』

   『カリフォルニアの現代美術を概観すると、40年代、50年代は北カリフォ
    ルニアのサンフランシスコが中心であった。60年代に入ると、南カリフォ
    ルニアのロスが中心となってくる。その移動は抽象表現主義からポップ・
    アートへの転換を示していた。陰鬱で曖昧な北カリフォルニアのアートに
    対して、原色の明るい南カリフォルニアのアートが出現する。』

    カリフォルニアに住んだことのない私には、ノルウェーの暗さとイタリアの
    明るさなら分るのですが、カリフォルニアの北と南の違いはよく分 りませ
    ん。大した変りはないだろうと思うのですが、専門家の海野氏が言うのだ
    からそうなのでしょう。

    『そして、霊柩車を縞模様に塗るという無意味さは60年代のポップ・アー
     トのものだ。』

    実は私も題名からの連想もあり、最初の部分を読んだ時には今回は趣
     向を変えて、画家、それもポップ・アートの画家が主人公なのだなと思い
    ました。しかし、読み進むにつれて、どうも様子が違うのです。ここに引用
     した海野氏のような解釈も出来るでしょうが、私には題名と作品内容が
     一致しないような気がしてなりません。
     私の解釈はこうです。まず、最初にロス・マクドナルドは根底にチャンドラ
     ーへの対抗意識からアーチャーをマーロウの二番煎じにはしないという
     決意があると思うのです。だから、アーチャーは自分のことは話さないの
     です。我々がアーチャーの趣味も好みの酒も煙草も知らないのは作者が
     わざと伏せているからです。しかし、これは大きな失敗だったと思います。
     ロス・マクドナルドは自分の首を自分で絞めたようなものだと私には思え
     ます。まあ、これはこのあとの作品を読む時に触れることにします。
    そうなると、テーマとプロットで勝負するしかないわけです。ロス・マクドナ
     ルドには書きたいことがあります。それがテーマになるのです。そのテー
     マをミステリという娯楽作品の形で発表しなければいけないという枠が
     決められています。実際、今日までそれで作家という地位を得て来てい
     るわけです。

    今回はテーマではなく、プロットに重点を置こうとしたらしく、練りに練っ
     ています。しかし、練りすぎて、最初に決めた「霊柩車を縞模様に塗っ
     てしまうような若者達」を描く余裕がなくなったのだと思います。彼らは
     プロットの中に収まり切れなかったような印象がします。ポップ・アート
     の若者達と老人達などという大きなテーマを持ち込めば、「運命」の二
     の舞になると直感したロス・マクドナルドは題名が中途半端になってし
     まうのが分っていて、プロットを選んだのだと思います。だから、バーク・
     デイスミスは最初で消えてしまっているのです。彼が出てくれば「現代
     の絵画とは何か」を話したくなるのが分っていたと思うのです。作者は
     それを避けて、ブラックウェル家の悲劇に的を絞ったと思います。しか
   し、皮肉なことに練りに練ったプロットの為に作品そのものが硬直化し
     ているような気がします。娯楽性を失わない作品であり、最後まで楽し
     めることは間違いありませんが、私個人としてはたとえ「運命」の二の
     舞だと酷評されても、最初に意図したであろう霊柩車を縞模様に塗っ
     てしまうような若者達を描いて欲しかったと思います。
    それは同時にヴェトナム戦争前夜のアメリカ社会を描くことにもなった
    筈です。ヴェトナムで死んだ若者達こそがこの時、縞模様の霊柩車に
     乗っていた若者達だったのです。

    最後に、もう一度、海野弘氏の著書から引用させて頂きます。この文章
    を読むまでこの作品の舞台となったマリブ海岸がサーフィンの名所だっ
    たことを忘れていました。あの映画を見てからもう大分経っていますので。

    『60年代のはじめにはマリブにはミッキー・ダラという伝説的なサーファ
     ーがいた。ジョン・ミリアスが1978年に作った「ビッグ・ウェンズデー」は
    1961年のマリブから始る。ミリアス自身が60年代の初めにマリブで波
    に乗っていたというから、マクドナルドの小説に出てくる、縞模様の霊柩
    車に乗っていたボーイズの一人であったかも知れないのだ。1962年の
    この小説ではサーファーは浜辺をうろつく不良少年少女として書かれて
    いるが、1978年のミリアスの映画では青春のヒーローとなっている。』

    「ビッグ・ウェンズデー」は水曜日にやってくると言われている世界最大の
    波を待っている若いサーファー達の青春物語です。いつまでも来ないそ
    の波より先に彼らはヴェトナム戦争という大きな波に飲み込まれてしまい
    ます。戦争を忌避する者、逃げずに徴兵に従う者、それぞれの戦いがあ
    り、 やがて戦争は終結し、彼らは海岸に戻り、水曜日の大波に挑戦する
    という ストーリーです。ジョン・ミリアスが自分で脚本を書き、監督もしてい
    ます。ここには60年代のアメリカが描かれています。レンタル・ビデオの
    店には今でもありますから、興味のある方はご覧下さい。
    又、この時代を 知るのに手頃の本としては『アメリカ「60年代」への旅』
    (越智道雄著。 朝日選書350・朝日新聞社)があります。

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