『海外ミステリを読む』(9)
<ロサンゼルスの探偵達>(その2)
ロス・マクドナルド編@
[最初にー新しく読者になった方々へ]
このマガジンでは取上げる作品のストーリーを詳しく説明することはあり
ません。まして犯人が誰であるかなどは決して触れません。特にミステ
リにおける犯人指摘はどんな高級な探偵小説論を展開しているとしても、
してはいけないことだと私が考えているからです。
それは作者に対する冒涜だと思っています。評論というものは作品が存
在して初めて出来ることなのです。自らの論理を展開する為にーミステリ
を通してアメリカの変遷を描いている人もいますし、都市にテーマを絞っ
ての論理を展開している人もいますが、いかなる評論であってもミステリ
小説の内容を暴露することはルール違反だというのが私の考えです。
ですから、手っ取り早く作品内容と犯人だけでも知っておこうと思って購
読を始めた方にはご期待には添えないと思いますので、予め申しあげて
おきます。
このマガジンの主旨はすでに一度読んだ方やこれから読もうと思ってい
る方に作品をより楽しく、より深く理解して頂けるような情報を提供するこ
となのです。ここでの「読む」という意味は作者が書かなかったこと、書け
なかったことを文章の背後に「読取る」という意味なのです。
あるいは作者自身が理解していなかった時代背景(我々は遠く離れた土
地で、その時代が過去ったあとで、その作品を読んでいるわけですから
それが出来るわけです)、あるいは舞台となった街や村の変遷も「読める」
筈です。
作者が意図して書かなかったことの一例としてチャンドラーの場合ではこ
ういうことがあります。彼は大手の石油会社にいて、放り出される形で辞
めさせられたのですから会社を恨んでいる筈なのに、この業界の内幕を
書かなかったのは何故でしょうか。当時のカリフォルニアの石油会社など
は相当あくどいことをしていたし、チャンドラーはそのことを知る地位にい
た筈です。少なくても1編の小説が書ける位のネタはあったと思います。
ですが、彼は書きませんでした。生命の危険があるから書けなかったの
か、それとも飯を食わせてもらった恩義があるから書かなかったのかは
知りませんが、いずれにせよ、そのこと、つまり書かなかったということで
チャンドラーという人間の一つの面が浮び上がって来るのではないでしょ
うか。最近の日本の新人作家が自分が飯を食っていた業界(検事、弁護
士、医師、テレビ脚本家、作詞家等)のことを書いて、作家になる現象と
比較するのも面白いでしょう。
あるいはポーの「盗まれた手紙」のように誰でも見つけられるような場所、
つまり文章の中にあるメッセイジを作者自身が「読取れるなら読んでみろ」
と読者に挑戦するように並べていることもあるでしょう。あるいは作者が意
図しないでも、結果としてそうなっている例もあるでしょう。
そういうことも「読み取って」行きたいと思っています。
[ロス・マクドナルドについて]
ロス・マクドナルドに対する評価は「レイモンド・チャンドラーの後継者」とい
うのが一般的ですが、「アメリカの家庭悲劇の冷徹な観察者」という言い方
もされています。主人公はどちらも私立探偵ですが、
チャンドラーが創り出
したフィリップ・マーロウは「離婚問題は扱い
ません」(「長いお別れ」)と客
に断言しますが、、ロス・マクドナ
ルドの主人公リュー・アーチャーは「私の
仕事は離婚事件がほとんど
です」(「動く標的」)と言っておいて、最後に「い
わば、犬も食わ
ない事件を食いものにする山犬ですね」と自嘲して見せま
す。この最
後の一言があるかないかがマーロウとアーチャーの違いだと言
っても
過言ではないでしょう。
前置きはこれ位にして、本論に入ります。今回はリュー・アーチャー
が登場
する最初の作品「動く標的」を取上げます。ロス・マクドナル
ドは全部で18
作(長編だけで)のアーチャー・シリーズを書いています。
初期のチャンドラ
ーの影響が濃い作品から、次第に彼独自の作風を確
立して行くわけですが、
その作風の変遷を辿りながら全18作を読んで行きたいと思っています。
「動く標的」1949年(井上一夫訳。創元推理文庫)
[概略]
テキサスの石油王ラルフ・サンプスンが失踪した。まもなく、10万ドルの現金
を内密に用意しておくようにとの、本人の署名入りの速達が届いた。どうやら
誘拐のようだ。しかし、夫人から調査を依頼された私立探偵リュー・アーチャ
ーは眉をひそめた。金を渡したからと言って本人が生還する確証はないし、
それにこの手紙にはうさんくさい点が多すぎる。
こうしてアーチャーは複雑に絡みあう事件のなかに、四つの殺人事件へと足
を踏み入れて行く。ハメット、チャンドラーと並ぶ正当派ハードボイルドの第一
人者マクドナルドの輝かしい出世作!
(同書より)
[リュー・アーチャーの経歴]
(最初ですので、彼の経歴に関する部分をこの作品から拾ってみます。)
「1935年に初めて警察に入った時・・・」とサンプスンの一人娘のミランダに
話しています。これは車で移動中のやりとりで、さらに会話は続きます。
「それで、あなた自身で人を判断するの?」
「会った人間は誰でもね。警察学校を出ると科学的捜査法はかなり習ったこ
とになるし、それが身についてるんだね。しかし、私の仕事の大部分は、人
間を観察し、判断することだ」
ここでの「人間を観察し、判断するのが私の仕事だ」という台詞はシリーズ
全体を通して、リュー・アーチャーの基本姿勢になっています。
「1940年と41年に、あの人の下で働いたことがあります。あれ以来会って
いないんです」
あの人とは当時の地方検事で、今はラルフ・サンプスンの顧問弁護士をし
ているアルバート・グレイヴスのことです。そのグレイヴスがサンプスン夫人
にアーチャーを紹介したという設定です。
「所で君はなんでロング・ビーチの警察を辞めたんだ?」と聞かれ
たアー
チャーはこう答えます。
「主な理由は金ではなかった。警察の馴合いが我慢出来なかったし、腐った
やりかたがいやになってね。とにかく、辞めたんじゃなくて、追い出されたん
だ」
これはグレイヴスとの会話の中の1節ですが、別の場所ではこんなやりとり
もあります。
「奥さんは元気かね?」と彼に訊ねられたアーチャーはこう答えます。
「向うの弁
護士に聞いて下さい。私と一緒にいるのがいやになったんですよ」
つまり、リュー・アーチャーは離婚して、独身だということです。
「彼は情報部にいた時、私達の部隊長だった男だ」と言っていますからアーチ
ャーは戦争中は情報部にいたということなのでしょう。
[ストーリー]
『車は101国道から海の方に曲った。道は茶色の丘の裾をぐるりとまわって、
小さな樫がずらりと植えてある渓谷に向っている。
「ここがカブリロ渓谷ですよ」と運転手が言った。見渡したところ、家らしいもの
はない。
「ここの人達は、洞穴にでも住んでるのかね?」
「まさか。お屋敷は下の海岸ですよ」
1分後、私は海の匂いに気がついた。もう一つカーブをまわって、涼しい海岸
に出た。道端に看板が出ている。
「私有地。通り抜けをお断りすることがあります」
(中略)
車は番兵のような水松の間のドライヴ・ウェイに入って行き、しばらく網の目の
ような自家用高速道路を走りまわると、広々とハワイまで続く深い海の真上に
出た。家は断崖をちょっと下った所に、峡谷に背を向けて建っていた。屋根の
低い長い家だった。』
これがこの作品の冒頭の1節です。主人公の私立探偵リュー・アーチャーが依
頼人に呼ばれて、その邸宅へ向う描写から始っています。この屋敷の主は石
油で儲けた、大金持のラルフ・サンプスンで、依頼人は夫人(後妻)のイレイン
です。
夫人の依頼はいなくなった夫を見つけて欲しいということでした。
ラス・ヴェガスから自家用飛行機でロサンゼルスに飛んだあと、おかかえ飛行
士のアランをまいて一人でどこかに行ってしまったのだ
というのです。
そのあと、その家の住人-おかかえの飛行士のアラン・タガートとジ
ン・ビタース。
そして、前妻の子のミランダに紹介してもらいます。
3人から話を聞いたアーチ
ャーは早速仕事にとりかかるために、タガ
ートに飛行機でロサンゼルスまで送
って貰うことになり、途中の街の
サンタ・テレサでラルフ・サンプスンの顧問弁護
士のアルバート・グ
レイヴスの事務所に立ち寄ります。
このサンタ・テレサと言う
街はチャンドラーのベイ・シテイと同じよ
うな、ロス・マクドナルドの創作した架空
の街で、彼が住んでいたサ
ンタ・バーバラをモデルにしています。
「ロサンゼルスからサンタ・テレサまでは時速60マイル(約100キロ)で2時間の
行程だった」
そのあと、アーチャーはミランダと一緒にアラン・タガートの運転する飛行機にの
り、バーバンクまで行き、あとはタクシーでラルフ・サ
ンプスンが向ったのが分っ
ているヴァレリオ・ホテルに行きます。
その部屋でフェイと署名入りの女の写真
を見つけたアーチャーは早速
その写真から仕事にかかります。
その写真の女性はフェイ・イスタブルークという往年の女優です。アーチャーは
彼女を捜して、ユニヴァーサル・シテイへ行きます。パラ
マウントの撮影所を登
場させたチャンドラーに対抗して、ユニヴァー
サルを使ったのかも知れません。
撮影所から帰るフェイ・イスタブルークを尾行したアーチャーは彼女の自宅を突
きとめます。
夜になってハリウッドの酒場に入った彼女のあとについてアーチャーもその店
に入り、人に紹介して貰い、彼女と
一緒に酒を飲み、酔わせて家まで送って行
きます。
彼女が酔いつぶれて寝てしまってからアーチャーは家捜しをしますが、
その途中に電話がかかります。
かけてきたのは女で、ベテイと名乗り、こう言い
ます。ヴァリオとい
うのは酒場の名前です。
「ねえ、トロイさん。一時間ばかり前、フェイがヴァリオに飛込んで来たのよ。一
緒にいた男は、私服かもしれないわ」
その電話のすぐあとに男が帰り、夫だと言ってアーチャーを追い帰し
ます。タ
クシーを呼んで乗込んだアーチャーは運転手に聞いて、電話で女が言ってい
たピアノという店は西ハリウッドにある「ワイルド・
ピアノ」という店だと知って、
そこに行きます。
アーチャーはその店でベテイというホステスを捜したのですが、ホス
テスでは
なく、ベテイ・フレリーという歌手だったのです。そして、トロイはその店の経営
者で、警察からも目をつけられているギャング
で「足元が危なくなると、すぐ仕
事を変えてほかの仕事に移ってしま
う。30年代の初期には酒をバヤ・カルフ
ォルニアから密輸して、元を絶たれるまではかなり盛大にやってたんだ」と言わ
れている男で
す。
このほかにはサンプスンから山を貰い、お寺を建てたクロードという
いかさま
師、それとベテイの兄のエデイが主な登場人物です。
金持の一人娘を巡る男達。落目の女優。売れない歌手。戦争から帰っ
若い男
の虚無。ギャング。彼らが織成す事件の根底にあるのは結局、お金です。
トロイの犯罪とサンプスンの誘拐が交差する地点にアーチ
ャーは立ち、事件の
真相を突き止めるという物語です。
[時代を写す言葉]
アラン・タガートの部屋をアーチャーが調べる場面ではこんな描写があります。
『卓上の雑誌は「ジャズ・レコード誌」と「ダウン・ビート誌」だった。私はレコード
とレコード・アルバムに一つずつ目を通して行った。デッカとブルーバード、ア
ッシ、それに12インチ盤のコマドーやブルーノートなどのレコードだった。聞い
たことのある名前がずいぶんあった。ファッツ・ウォラー、レッド・ニコルズ、ラッ
クス・ルイス、メアリ・ルー・ウイリアムズ・・・』
なつかしいレーベルが並んでいます。これらのレーベルをすべてご存知の方
は相当のジャズ・ファンと言えるでしょう。演奏家ではレッド・ニコルズが懐かし
いですね。「5つの銅貨」での、レッド・ニコルズに扮するダニー・ケイとルイ・ア
ームストロングが掛合いで歌う「聖者の行進」は今でも脳裏に残っています。
あの映画の時代はこの小説に描かれた時代なのです。この映画をまだ見て
いない方は是非ご覧下さい。レンタルの店には大抵置いてあります。それに
家族愛を絡ませてありますから、家族皆で見ても大丈夫です。
それからもう一つ、こんな文章があります。ある酒場までフェイ・イ
スタブルー
クを尾行して行ったアーチャーはたまたまその店に来てい
た、知合いの男に
紹介してもらう時の台詞です。
『フェイ、こいつはリュー・アーチャーという男だ。エイジェントでね。国際共産党
の手先だ。昔からの君の熱烈なファンだった男だ。』
こういう冗談が出てくる背景は当時のハリウッドが「赤狩り」の真直中にあった
からです。6月のハヤカワ文庫の新刊に丁度、この赤狩り旋風が吹荒れるハ
リウッドを舞台にしたミステリが出ましたので紹介しておきます。実は私も買っ
たのですが、仕事に追われてまだ読んでいません。しかし、これは自信を持っ
てお薦め出来る作品です。
「キル・ミー・アゲイン」(テレンス・ファハテイ作。三川基好訳)
最後に人種問題に触れてみたいと思います。
『「そうだ。トロイは見損なってたよ。紳士面した悪党にしては、メキシコ人をトラッ
クで運送するような仕事は、ずいぶん程度の低い仕事だ。・・・」
「でも、いいお金になったのよ。二重取りしてたのよ。貧乏人の貯めた金を運
賃として巻上げて、農園に一人頭いくらという約束で送り込んでるのよ。メキシ
コ人たちは何も知らないけど、ストライキ破りに使われているのよ。そんなこと
をしているから、トロイは地方警察からは守って貰っているのよ」
「サンプスンもスト破りをトロイから買ってたのかね?」』
この頃からロサンゼルスには有色人種が次々に入り込んでくるようになった
のです。南の国境からはメキシコ人が、北や東からは黒人が、海を渡って東
洋人たちが合法や非合法の移民として押寄せて来たのです。
現在のロサンゼルスでは黒人よりヒスパニック系やアジア系の人口の方が
多いそうです。前にもロサンゼルスに関する本を紹介しましたが、今回は人
種問題からロサンゼルスを考える本を紹介したいと思います。
村上由見子さんの「アジア系アメリカ人」(中公新書1368)という新書です。
今や大統領でさえその票を欲しがる程に増えつつあるというアジア系アメリ
カ人がどんな立場にあるのか考えてみてはいかがですか。
[深読みコーナー]
最初にサンプスン邸を訪れた時に、出迎えに出た家政婦に連れられて、サン
プスン夫人を捜して屋敷の中を歩く場面でこんな描写があります。
『エレベーターを廊下の向う側のドアをノックした。返事はない。もう一度ノックす
ると、彼女はドアを開けて覗き込んだ。女性の部屋としては大きすぎるし、飾り
気のない、天井の高い白い部屋だった。
大きなベッドの上に、絵がかかっていた。時計と地図と女ものの帽子が衣装テ
ーブルの上に並べてある絵だ。時間と空間と性だ。国吉の描いた絵らしかった。』
さりげない文章ですが、大きな意味を持たせているような気がします。
ここでの
「国吉」というのは日本生まれのアメリカ人画家・国吉康雄です。
まず、第一に石油で儲けた成金の奥さんのベットルームに飾る絵
としてはあま
りふさわしくない絵ではないでしょうか?
当時、国吉康雄はアメリカですでに画家として名をなしていたことは事実ですが、
コレクターでもない女性が寝室に飾るのなら、もっと別の絵を飾るのではないで
しょうか。
ここはそんなことを無視しても作者が国吉康雄の絵を飾りたかったの
ではないかと私は思っています。
ロス・マクドナルドは絵が好きだっ
たのではないかと思います。このシリーズで
も画家を登場させることが何回かあります。
国吉康雄は岡山県の生まれで、17才の時に単身渡米したのです。まず、カナ
ダのバンクーバーに上陸し、色々な仕事で苦労しながらシアトルを経て、ロスア
ンゼルスで美術学校に入り、絵の勉強を始めます。その後、ニューヨークに出
て、やっと画家として成功した人です。
ロス・マクドナルドも少年時代にバンクーバーに住んでいたことがあり、父親の
家出の為に生活の苦労を散々味わったようです。絵が好きな彼はそんな国吉
康雄の過去を知っていたのだと思います。時代的には少
しずれますが、同じ
ようにカナダで苦労した時期を持ち、ロスアンゼルスで修行していた国吉康雄
と今そのロスアンゼルスを舞台に小説を書いている自分とは何かを共有して
いるような親密感があったので、自分の作品の中にわざわざ登場させたので
はないかと私には思えるのです。
ロス・マクドナルドが住んでいたサンタ・バーバラの美術館は「風見
とソファ」
(Weathervane
and Sofa)という作品を所蔵していますので、
あるいはこれがヒン
トになっているのかも知れません。子育てに疲れ
た作家同士の夫婦ロス・マク
ドナルドとマーガレット・ミラーが肩を
並べ、手を握り合って美術館の中をゆっく
りと歩いている姿が浮んで
来るようです。お互いの作品のことは批評しない約
束の二人だったそうですが、絵のことは話し合ったのではないでしょうか。ある
いは黙
って絵の前に立ち尽していたのでしょうか。
もう一つの意味はリュー・アーチャーという男が一目見て、その絵が国吉康雄
の絵だと分る人物だと読者に告げているのです。この場面では彼は部屋の中
には入っていません。従って、サインを読めなかった
筈です。国吉康雄の絵は
女性像ならすぐ分りますが、静物画を絵柄だ
けで判断出来るようになるには
かなりの数を見ていないとむずかしい
でしょう。リュー・アーチャーはそれが出
来る人物と設定しているのです。
国吉康雄の伝記は小澤義雄さんが書いています。新潮社版と福武文庫版が
ありますが、どちらも絶版でしょう。
「評伝 国吉康雄」小澤義雄著 (新潮社。昭和49年) (福武文庫。1991年)